【日本からの便り】不完全なままで、美しい。「侘び寂び」が息づく、私の小さな聖域へようこそ

静寂への入り口:モノがあふれる世界から、心の余白へ

海外で暮らしていると、「Wabi-Sabi」って言葉、意外と耳にしませんか?

インテリア雑誌や、ちょっとおしゃれなカフェのコンセプトなんかで。

「不完全の美」とか「質素な豊かさ」なんて翻訳されているけれど、私たち日本人からすると、言葉で説明するよりも「肌で感じる」感覚に近いものがありますよね。

今日は、そんな「侘び寂び」が息づく、とある日本の家――私の心をリセットしてくれる、大切な「聖域」の扉を一緒に開けてみましょう。

私の住む場所は、決して豪華な邸宅でもなければ、最新鋭のスマートホームでもありません。

でもね、ここには確かに「時間」が住んでいるんです。

皆さんも、日々の生活で疲れを感じることはありませんか?

海外での子育て、言葉の壁、文化の違いへの適応……。

「ちゃんとしなきゃ」「完璧にしなきゃ」って、知らず知らずのうちに肩に力が入っていること、あると思うんです。

私も日本にいて、周りの早すぎる情報の流れや、SNSで見かけるキラキラした生活に、「自分はこれでいいのかな」って焦ることがあります。

そんな時、私はこの家の玄関に立ちます。

ガラガラ……

少し重たい引き戸を開ける音。

今の日本の住宅はほとんどがスムーズなドアだけど、この木の引き戸は、開けるのに少しだけコツがいります。

「よいしょ」って、ちょっと力を込めて、自分の手で開ける。

この「ちょっとした手間」が、外の世界と内の世界を切り替えるスイッチになるんです。

一歩足を踏み入れると、まず出迎えてくれるのは「香り」です。

何の香りだと思いますか?

アロマオイルやルームフレグランスのような、はっきりした香りじゃありません。

古い木材が呼吸している匂い。

畳の井草が乾燥した、あの日向のような匂い。

そして、土壁が湿気を吸ったり吐いたりしているような、そんな懐かしくて静かな匂いです。

海外に長く住んでいる友人が帰国した時、「日本の空港に降り立つと、醤油と出汁の匂いがする」なんて冗談を言っていたけれど、この家に入った瞬間の匂いは、もっと根源的な、私たちが子供の頃におばあちゃんの家で嗅いだような、記憶の奥底をくすぐる香りなんです。

玄関(Genkan)は、単なる靴を脱ぐ場所ではありません。

ここは「結界」なんですよね。

外で身につけてしまった「社会的な顔」や「誰かのためのお母さん」「良き妻」という役割を、靴と一緒に脱ぎ捨てる場所。

三和土(たたき)には、あえて少し大きめの自然石が埋め込まれています。

表面はデコボコしていて、決して平らじゃない。

ハイヒールだと歩きにくいかもしれないけれど、裸足や靴下で降り立つと、その石の冷たさと硬さが、足の裏から「大地」を感じさせてくれます。

ピカピカの大理石や、隙間なく敷き詰められたカーペットも素敵だけれど、この「自然のままの不揃いさ」が、なんだかホッとするんです。

「揃ってなくていいんだよ」

「そのままでいいんだよ」

石たちが、そう語りかけてくれている気がして。

廊下へと進みましょうか。

床は、もう何十年も使われている無垢の木です。

色は深い飴色に変わっていて、所々に傷があります。

子供がおもちゃを落とした跡、重い家具を引きずってしまった線、水拭きを繰り返して木目が浮き上がった場所。

新品のフローリングなら、傷がついたら「あーあ、やっちゃった」ってショックを受けるところですよね。

修理しなきゃ、隠さなきゃって。

でも、この家では違うんです。

その傷の一つ一つが「家族が生きてきた証」として、愛おしく見える。

これこそが、侘び寂びの入り口。

「経年変化(Aging)」を劣化と捉えるのではなく、深みと捉える心です。

新築の時がピークで、あとは古びていくだけ……という価値観ではなく、時を重ねるごとに味わいが増していく。

これって、私たち人間も同じだと思いませんか?

若さだけが価値じゃない。

歳を重ねて、笑いジワが増えて、経験という傷も増えて。

でも、その分だけ人としての「艶」が出てくる。

この床板を見ていると、「ああ、私もこうやって歳を取りたいな」って思えるんです。

アンチエイジングもいいけれど、ナイスエイジングを目指したいな、なんて。

廊下の壁は、昔ながらの漆喰(しっくい)です。

真っ白で均一なクロス張りではなく、職人さんのコテの跡がうっすらと残る、少しクリーム色がかった壁。

所々、角が少し欠けていたり、ひび割れのような模様が入っていたりします。

でも、誰もそれを直そうとはしません。

その「欠け」こそが、完璧じゃない自然界の一部を切り取ったようで、見ていて飽きないんです。

そして、この廊下を抜けた先にあるリビングルーム。

ここが、今回のツアーのメインステージです。

ドアを開けた瞬間、皆さんが驚くのはきっと「暗さ」かもしれません。

海外の住宅、特に欧米の家は、大きな窓から光をたっぷり取り込んだり、間接照明でムーディーにしたり、あるいは蛍光灯で隅々まで明るくしたりしますよね。

でも、この部屋は違うんです。

「陰影礼賛(いんえいらいさん)」という言葉、聞いたことありますか?

谷崎潤一郎のエッセイに出てくる言葉ですが、日本人は昔から「影」の中に美を見出してきました。

明るすぎないこと。

すべてを白日の下に晒さないこと。

部屋の隅には、あえて光の届かない「闇」を残しておく。

そうすることで、差し込むわずかな光が、より一層美しく、尊く感じられるんです。

障子(Shoji)を通した光を見てください。

直射日光のような鋭さはなく、一度紙というフィルターを通すことで、光が柔らかく拡散しています。

まるで、真綿で包み込んだような光。

この光の中にいると、不思議と声のトーンも自然と下がって、穏やかな気持ちになっていくのが分かります。

部屋の中は、驚くほどモノが少ないです。

でも、それは最近流行りの「ミニマリスト」とは少し違います。

ただモノを捨ててスッキリさせるのが目的ではなく、「余白(Ma)」を作るための意図的な空虚さ。

何もない空間があるからこそ、そこに置かれた一輪の花が引き立つ。

音が無い時間があるからこそ、風鈴の音が心に響く。

モノで埋め尽くされた生活に慣れていると、最初は「なんだか寂しい」と感じるかもしれません。

でも、その「寂しい」という感情こそが、「Sabi(寂び)」の語源でもあるんです。

孤独や欠落ではなく、静寂の中で自分自身と向き合うための、豊かな孤独。

これから、この部屋にある具体的な「モノ」たち――

欠けた器、使い込まれた鉄瓶、そして庭から切り取ったばかりの野草。

それらがどう配置され、どんな物語を語っているのか。

そして、それが私たちの「人生観」にどう繋がっていくのか。

次の章(承)では、もっと具体的に、この空間のディテールに迫っていきたいと思います。

自然素材たちが教えてくれる、私たち主婦が一番知りたい「頑張りすぎない生き方」のヒントが、そこに隠されているんです。

準備はいいですか?

靴下を脱いで、この床の感触を一緒に楽しみましょう。

不揃いの調和:傷だらけの柱と、継ぎ接ぎの器が教えてくれる「肯定」の哲学

さあ、どうぞ、座布団に座ってください。

海外ではソファや椅子での生活が中心だと思いますが、ここでは「床座(Yuka-za)」、つまり床に近い低い位置で過ごすのが基本です。

視線が低くなると、世界が変わって見えるのを感じませんか?

天井が高く感じられ、窓から見える空の面積が広くなる。

そして何より、足元の素材の表情が、手に取るように近く感じられるようになります。

ここで、皆さんに見ていただきたい「3つの主役」がいます。

それは、豪華なシャンデリアでも最新の4Kテレビでもありません。

「経年変化した木」「呼吸する布」、そして「修復された器」です。

1. 傷を受け入れる強さ:あえて隠さない「木」の履歴書

まず、背中を預けているその大きな柱を見てください。

これは「大黒柱(Daikokubashira)」と言って、家全体を支える一番太い柱なんですが、よく見ると縦に長いひび割れが入っているでしょう?

もしこれが、ツルツルの新建材の家だったら、「欠陥だ!」「クレームだ!」と騒ぎになるところかもしれません。

でも、この家ではこの割れ目を「背割り」といって、木が乾燥して反り返らないように、あえて最初に切り込みを入れたり、あるいは自然に割れるに任せたりしています。

木は切られた後も、数百年生き続けると言われています。

湿気を吸っては膨らみ、乾燥しては縮む。その呼吸の中でできたひび割れは、言わば木が一生懸命この家を支えながら生きてきた「深呼吸の跡」なんです。

私は子育てで悩んだ時、よくこの柱に背中を預けて座ります。

背中に伝わるゴツゴツとした感触と、木の体温。

すると、ふと思うんです。

「傷ひとつないツルツルの人生なんて、本当にあるのかな?」って。

私たちは、子供が失敗したり、自分が家事や仕事でミスをしたりすると、すぐに落ち込んで「完璧じゃなかった」と自分を責めてしまいがちです。

でも、この柱のように、大きな重圧を支えながら生きていれば、ひび割れのひとつやふたつ、できて当たり前なんですよね。

そのひび割れをパテで埋めて隠すのではなく、「これも私の一部」として堂々と見せてしまえばいい。

この柱の逞しさは、その傷を隠していないからこそ生まれているような気がします。

床に置かれた低いテーブル(ちゃぶ台)もそうです。

表面はウレタン塗装のようなピカピカのコーティングはされていません。

植物性のオイルを染み込ませただけの、素っ気ない仕上げです。

だから、お醤油をこぼせばシミになるし、熱い湯呑みを置けば輪ジミができる。

最初は「ああ、汚しちゃった!」って焦るんです。私もそうでした。

でも、使い込んで10年、20年と経つうちに、そのシミたちが重なり合って、独特の濃淡(グラデーション)になり、なんとも言えない深い色味に育っていくんです。

これを日本では「味わい(Aji)」と呼びます。

汚れ=汚い、ではないんです。

汚れが時間と共に馴染んで、そのモノの個性になる。

これって、私たち人間関係にも言える知恵だと思いませんか?

パートナーとの喧嘩やすれ違い、子供との衝突。

その時は「最悪なシミ」に見える出来事も、長い時間をかけて丁寧に向き合い(拭き込み)続ければ、家族だけの「味わい」に変わっていく。

ピカピカの新品のテーブルには出せない、深みのある家族になれる。

そう思うと、日々のトラブルも少しだけ愛おしく思えてくるから不思議です。

2. 時間を受け止める優しさ:退色する「布」と光の演出

次に、窓辺にかかっている布を見てください。

これは麻(リネン)を藍で染めたものですが、買った当初の鮮烈なネイビーブルーは影を潜め、今は淡く優しい空色のような色に変化しています。

海外のインテリアでは、日焼けや色落ちは「劣化(Deterioration)」として嫌われ、遮光カーテンで厳重にガードすることもありますよね。

でも、侘び寂びの世界では、この「退色」こそがご馳走なんです。

「移ろい(Utsuroi)」という言葉があります。

季節が移り変わるように、すべてのものは留まることなく変化していく。

その儚さを愛でる心です。

強い色が、時間と共に角が取れて、周りの風景に馴染んでいく。

それはまるで、若い頃の尖っていた私たちが、様々な経験を経て、少し丸くなっていく様子に似ています。

若い頃のハッキリとした美しさも素敵だけど、色が抜けて繊維がくったりと柔らかくなった布が持つ、あの「包容力」のような美しさ。

肌に触れた時の吸い付くような優しさ。

部屋に差し込む光も、この布を通すことで「許しの光」に変わります。

直射日光は、部屋の隅々のホコリまで暴き立てますが、使い古された麻を通した光は、輪郭を曖昧にしてくれます。

部屋の隅に少しホコリが残っていても、畳が少し擦り切れていても、その淡い光の中ではすべてが「風景の一部」として調和してしまう。

私たち主婦は、つい「あれもできてない、これもできてない」と自分を減点法で見てしまいがちです。

でも、この部屋の光の中にいると、「まあ、今日はこれでいいか」と思える。

全てを白黒はっきりつけなくてもいい。

グレーゾーン(曖昧さ)の中にこそ、心の安らぎがあるのだと、この柔らかな光が教えてくれているようです。

3. 不完全を愛でる儀式:欠けた器と一輪の花

さて、少し喉が渇きましたね。お茶を淹れましょう。

ここで登場するのが、私が一番大切にしている「欠けた茶碗」です。

見てください、この縁(ふち)のところ。

一度割れてしまったのを、漆(うるし)と金粉で繋ぎ合わせているんです。

これをご存じの方も多いと思いますが、「金継ぎ(Kintsugi)」と言います。

普通なら、割れたお皿はゴミ箱行きですよね。

「形あるものはいつか壊れる」の言葉通り、終わりを迎えます。

でも、金継ぎは「壊れたこと」をなかったことにするのではなく、その傷跡をあえて「金」という一番目立つ色で飾り、新しい景色として蘇らせる技法です。

この茶碗でお茶を飲むとき、私は必ずこの金のラインに指を添えます。

指先に伝わる、わずかな段差。

それが、「一度壊れても、また繋がれるんだよ」「傷ついた場所こそが、一番美しい景色になるんだよ」と語りかけてくるようです。

人生も同じですよね。

挫折したり、病気をしたり、大切な人を失ったり。

私たちの心は何度もひび割れます。

でも、そのひび割れを隠そうと無理に笑顔を作るのではなく、悲しみや痛みを自分の一部として受け入れ、時間をかけて修復していく。

そうやって立ち直った人の言葉には、傷ついたことのない人には出せない、金のような輝きと深みが宿ります。

そして、この茶碗の横、床の間(Tokonoma)に飾られた花を見てください。

豪華な花束ではありません。

庭の隅でひっそりと咲いていた、名前も知らない野花が一輪だけ、古びた花器に「投げ入れ(Nageire)」られています。

「投げ入れ」とは、計算し尽くして飾るのではなく、花が自然に咲いていた姿そのままに、無造作に生けるスタイルのこと。

ここにあるのは「引き算の美学」です。

たくさん飾れば豪華に見えるけれど、一輪だけ飾ることで、その花の命の強さ、茎の曲線の美しさ、そして周りの「何もない空間(余白)」の静けさが際立ちます。

私たちは、生活をつい「足し算」で考えがちです。

もっと便利な家電、もっと広い家、もっとたくさんの習い事、もっと……。

でも、この一輪の花を見ていると、「足りない」のではなく「これだけで十分満ちている」ということに気づかされます。

「足るを知る(Chisoku)」という禅の言葉がありますが、本当に大切なものが一つあれば、心は豊かになれるんです。

モノに溢れた部屋では、思考も散漫になります。

でも、意図的に作られたこの「余白」の前に座ると、不思議と自分の内側の声が聞こえてくるようになります。

「今、私は何を感じているの?」

「本当はどうしたいの?」

普段は忙しさにかき消されてしまう心の声に、耳を澄ませる時間。

それが、この侘び寂びの空間がくれる一番のギフトかもしれません。


いかがでしたか?

傷だらけの柱、色あせた布、継ぎ接ぎの茶碗、そして一輪の花。

これらは単なる「古いモノ」ではありません。

「完璧じゃなくていい」「そのままでいい」と、私たちを肯定してくれる優しいルームメイトたちなんです。

さて、すっかり日が傾いてきました。

部屋の中に落ちる影が長くなり、また違った表情を見せ始めています。

次の【転】では、この静寂の空間が、夜の帳(とばり)とともにどのように変化し、私たちの心のさらに深い部分――「孤独」や「静寂」への恐れをどう変えていくのか。

そして、この侘び寂びの哲学を、海外のモダンな生活の中にどう取り入れていけばいいのか、具体的なアイデアへと話を展開していきたいと思います。

少し肌寒くなってきたので、ブランケットを持ってきますね。

もう少しだけ、この薄明かりの時間を一緒に楽しみましょう。

闇を飼い慣らす:孤独が「豊かなソロタイム」に変わる魔法と、潔い諦め

日が沈むと、海外の多くの家ではどうするでしょうか?

パチッ、パチッ。

スイッチを入れて、部屋を昼間と同じ明るさに戻そうとしますよね。

暗いことは不便だし、何より少し怖い。

「闇」は排除すべきものとして、LEDの白い光で隅々まで照らし出します。

でも、この「侘び寂びハウス」の夜は違います。

私はあえて、天井の照明をつけません。

代わりに、部屋の隅にある小さな行灯(あんどん)のようなフロアランプと、いくつかの蝋燭に火を灯します。

1. 「見えない」からこそ、見えてくるもの

ゆらゆらと揺れる炎の光。

それによって生まれる、長く伸びた影。

昼間はあんなに親しみやすかった柱や、優しかった土壁が、夜になると少し神秘的で、厳かな表情に変わります。

日本の美意識には「幽玄(Yugen)」という言葉があります。

これは、はっきりと見えすぎないことの中に、言葉にできない深い趣(おもむき)や余韻を感じる心です。

すべてを明るく照らして説明し尽くすのではなく、「見えない部分」を想像力で補う。

現代社会は「高解像度」の世界ですよね。

スマホの画面も、人間関係も、仕事の成果も、すべてがクリアで、白黒はっきりさせることが求められます。

「分からない」ことは悪で、「見えない」ことは不安。

だから私たちは必死に情報を検索し、メッセージを送り合い、常にオンラインで繋がろうとします。

でも、この薄暗い部屋に一人で座っていると、ふと肩の荷が降りるんです。

「見えなくていいんだ」

「分からなくていいんだ」

闇が、私の輪郭を曖昧にして、世界と溶け合わせてくれるような感覚。

昼間、家事や仕事で張り詰めていた神経が、蝋燭の灯りの中でほどけていく。

ここでは、自分を「高解像度」に保つ必要がないんです。

ボヤッとしたまま、曖昧なままの自分でいることが許される。

これって、究極のデジタルデトックスだと思いませんか?

2. 「Sabi(寂び)」の正体:孤独は敵じゃない

さて、ここで少し核心に触れましょう。

「Wabi-Sabi」の「Sabi(寂び)」という言葉。

先ほど少し触れましたが、これはもともと「寂しい」とか「古びて寂れた様子」を表す言葉でした。

海外で暮らしていると、ふとした瞬間に強烈な孤独感に襲われること、ありませんか?

言葉が完全に通じないもどかしさ。

自分が異邦人であるという疎外感。

広い家に一人でいる時の、シーンとした静けさが怖くて、ついテレビをつけたり、SNSをスクロールし続けたりしてしまう。

私たちは「孤独(Loneliness)」を、何か悪い病気のように恐れています。

でも、この家が教えてくれるのは、「孤独」と「孤高(Solitude)」の違いです。

何もない空間、静まり返った部屋、古びた道具たち。

一見すると、とても寂しい光景です。

でも、その寂しさの中には、凛とした美しさがある。

私が日本に帰ってきて、この古い家に住み始めた頃、最初は夜の静けさが怖くて仕方ありませんでした。

虫の声、風が木々を揺らす音、家がきしむ音。

自然の音が大きすぎて、自分の存在がちっぽけに思えたからです。

でも、ある夜、欠けた茶碗でお茶を飲みながら、庭の闇を見つめていた時、ふと気づいたんです。

「ああ、私は一人じゃないんだ」と。

この家を支え続けてきた傷だらけの柱も、使い込まれた器も、庭の草木も、みんな静かに呼吸している。

自分もその「自然のサイクル」の一部なんだと感じた瞬間、恐怖がスッと消えて、代わりに温かい充足感が胸に広がりました。

侘び寂びの世界では、孤独は「惨めな状態」ではありません。

自分自身と深く対話するための、贅沢な「ソロタイム」なんです。

誰かの評価も、社会の雑音も届かない場所で、ただ自分の鼓動を感じる時間。

それは、自分を回復させるための聖なる儀式のようなものです。

もし皆さんが、海外の生活で孤独を感じたら、無理に誰かと繋がろうとしてスマホを握りしめる代わりに、部屋の電気を消して、キャンドルを一本灯してみてください。

そして、その揺れる炎を見つめてみる。

その時、皆さんは「孤独(Lonely)」なのではなく、「静寂を楽しんでいる(Enjoying Solitude)」のです。

その視点の転換こそが、侘び寂びの精神なのです。

3. 潔い諦め:「無常」という最強のライフハック

そしてもう一つ、この空間が突きつけてくる厳しい、でも優しい真実があります。

それは「諦め」です。

「諦める」というと、ネガティブな言葉に聞こえますか?

でも、日本語の「諦める」の語源は「明らめる(Akirameru)」、つまり「物事の理(ことわり)を明らかにする」という意味があると言われています。

この家のモノたちは、すべて「朽ちていく途中」です。

花は枯れ、木は腐り、鉄は錆びる。

どんなに足掻いても、時間は止められないし、永遠に続くものなんてない。

これを仏教用語で「諸行無常(Shogyo Mujo)」と言います。

私たちは普段、若さを保とうとしたり、壊れないように守ったり、変化を恐れて現状維持にしがみついたりします。

「老いたくない」「失いたくない」「変わってほしくない」。

その執着が、私たちの苦しみの原因なんですよね。

でも、この部屋にいると、その執着がバカらしくなってくるんです。

だって、目の前の美しい古木は、朽ちていくことを拒んでいないから。

枯れゆく花は、最後の瞬間まで精一杯美しいから。

「どうせ変わっていくんだから、流れに身を任せよう」

「コントロールできないことは、手放そう」

この「潔い諦め」こそが、実は最強のライフハック(生活の知恵)なんです。

明日どうなるか分からない不安も、過去への後悔も、すべて「移ろいゆくもの」として受け入れる。

コントロールできない未来を憂うより、今ここにある「お茶の温かさ」や「影の美しさ」だけを感じる。

これを、西洋的な価値観では「受動的(Passive)」と言うかもしれません。

でも、私はこれを、すごく「能動的(Active)」な心の平穏の保ち方だと思うんです。

嵐の中で、木のように硬く踏ん張れば折れてしまいますが、柳のように風を受け流せば折れません。

侘び寂びの精神は、この「柳の強さ」を私たちに教えてくれます。


暗がりの中で、少し深い話をしすぎてしまったでしょうか?

でも、この「影」と「静寂」と「諦め」の3つが揃った時、私たちの心には不思議な「余白」が生まれます。

それは、どんな高級なスパに行くよりも、深く心を癒やしてくれるデトックス効果があるんです。

さて、夜も更けてきました。

最後に、このバーチャルツアーの締めくくりとして、

「じゃあ、日本風の古い家がないと、侘び寂びは実践できないの?」

という疑問にお答えしなければなりませんね。

そんなことはありません。

ニューヨークのアパートでも、ロンドンのフラットでも、明日の朝からすぐに始められる「Wabi-Sabiライフ」のヒントがあります。

それは、インテリアを変えることではなく、私たちの「目(視点)」を変えること。

次の【結】では、皆さんの日常に「小さな聖域」を作るための、具体的なアクションプランをお渡しして、このツアーを終えたいと思います。

もう少しだけ、この蝋燭の火が燃え尽きるまで、お付き合いくださいね。

日常へ持ち帰る魔法:「Wabi-Sabi」は、あなたの心の中にこそある

「素敵な家だけど、うちは海外の賃貸アパートだし……」

「古い日本家屋なんて、手に入らないし……」

ここまで読んで、そんなふうに少し諦めの溜息をついている方はいませんか?

大丈夫です。安心してください。

「侘び寂び」とは、建築様式のことでも、高価な骨董品を揃えることでもありません。

それは、世界をどう見るかという「視点(Lens)」であり、心の「あり方(Mindset)」そのものだからです。

どんなにモダンなマンションに住んでいても、どんなに忙しい都会の真ん中で暮らしていても、皆さんの生活の中に「聖域」を作ることはできます。

最後に、明日からすぐに始められる、小さな「侘び寂びの実践(Wabi-Sabi Action)」をいくつか提案させてください。

1. 「買わない」豊かさ:ジャムの空き瓶と雑草の美学

まず、お花屋さんに行くのをやめてみましょう。

豪華なバラの花束や、完璧にアレンジメントされたブーケは、確かに美しいです。でも、それは「完成された美」であって、そこにあなたの入る隙間(想像の余地)はありません。

代わりに、近所を散歩してみてください。

公園の隅や、道端のコンクリートの隙間に、ひっそりと咲いている名もなき草花を見つけてみてください。

「あ、こんなところで頑張って咲いている」

そう心が動いたら、一輪だけ、少し分けてもらいましょう。

家に帰ったら、高い花瓶なんていりません。

使い終わったジャムの空き瓶や、少し欠けたマグカップで十分です。

そこに、その一輪を「ポン」と入れてみる。

これを私たちは「投げ入れ」と呼びますが、その飾らない姿こそが、最も侘び寂び的なんです。

背景の壁が真っ白なクロスでも構いません。

その小さな命がそこにあるだけで、周囲の空気がスッと澄んでいくのを感じるはずです。

「足りないからこそ、美しい」。

お金をかけずに、足元の自然に目を向けるだけで、日常はアートになります。

2. 「不便」を楽しむ:週に一度のキャンドル・ナイト

次に、照明のスイッチを「意識的に」オフにする時間を作ってみてください。

毎日とは言いません。週に一度、例えば金曜日の夜の30分だけでもいいんです。

テレビも消して、スマホも別の部屋に置いて、キャンドルや間接照明だけで過ごしてみる。

最初は「暗いな」「何しようかな」とソワソワするかもしれません。

でも、その「何もしない時間」こそが、現代人にとって最高の贅沢であり、「Ma(間)」の実践です。

薄暗がりの中では、散らかっている部屋の隅は見えなくなります。

見たくないものは闇に溶け、大切な人の表情や、手元のお茶の湯気だけが浮かび上がる。

「見えすぎるストレス」から脳を解放してあげること。

それは、高価なエステに行くよりも深く、疲れた心を修復(リペア)してくれるはずです。

3. 「慈しむ(Itsukushimu)」時間:モノの手入れを瞑想にする

そして、私が一番おすすめしたいのが「手入れ」の時間です。

海外での生活は忙しいですよね。モノが壊れたらすぐに買い換える方が効率的かもしれません。

でも、あえて「直す」「磨く」という手間をかけてみるんです。

例えば、週末に革靴を磨く。

お気に入りのシャツのほつれを縫う。

キッチンのシンクを無心で磨き上げる。

この単純作業の中に、禅(Zen)の精神が宿ります。

「面倒くさい」と思うことを、丁寧に、時間をかけて行う。

モノを慈しんでいるようで、実はその時間、自分自身の心を整えていることに気づくはずです。

古くなったモノを「汚い」と見るか、「私の歴史を共に歩んでくれた相棒」と見るか。

その視点の転換ができれば、傷や汚れさえも愛おしくなり、自己肯定感へとつながっていきます。

「古びていく自分」を許せるようになるための、一番の近道かもしれません。

4. 完璧主義という鎧を脱ぐ:「これでいい」の魔法

最後に、このブログを読んでくださっている、海外で奮闘する主婦の皆さんへ。

異国の地で、言葉や文化の壁にぶつかりながら生活を回している皆さんこそ、本当の意味での「Wabi-Sabiマスター」になれる素質があります。

なぜなら、海外生活は「思い通りにいかないこと」の連続だからです(笑)。

日本のように完璧なサービスはないし、予定通りに物事は進まないし、誤解やすれ違いも日常茶飯事。

そんな環境で「完璧」を目指そうとすると、心がポキっと折れてしまいます。

だからこそ、「Wabi-Sabi」の眼鏡をかけてほしいんです。

「今日の夕飯、予定通りの食材が手に入らなくて変なメニューになっちゃった。まあ、これも一期一会(Ichigo Ichie)の味だね」

「子供が壁に落書きしちゃった。うーん、これも我が家の歴史(History)の一部にしちゃおうか」

「今日は全然掃除できなかったけど、まあ、命に関わることじゃないし。不完全でよし!」

そうやって、不完全な現状を「味わい」として捉え直すこと。

自分に「及第点」をあげ続けること。

「足るを知る(Chisoku)」――今あるもので十分幸せだと知ること。

これが、私が日本の古い家から皆さんに送りたかった、最大のメッセージです。

侘び寂びは、インテリアのスタイルではありません。

自分自身を苦しめる「完璧主義」という呪縛から、心を解き放つための優しい哲学なんです。


さあ、バーチャルツアーもこれでおしまいです。

玄関までお見送りしますね。

ガラガラ……

重たい引き戸を開けると、外にはまた、いつもの日常が広がっています。

でも、ここへ来る前と、少しだけ世界が違って見えませんか?

道端の石ころが、古びたベンチが、あるいは鏡に映る自分のシワが、少しだけ愛おしく見えたら、それがお土産の「魔法のメガネ」が機能している証拠です。

皆さんの住む街で、どんな「Wabi-Sabi」を見つけましたか?

「割れたお皿を植木鉢にしてみたよ」

「夕暮れの光が綺麗だったよ」

そんな小さな発見があったら、ぜひコメント欄で教えてくださいね。

日本の片隅から、皆さんの「不完全で美しい毎日」を、心から応援しています。

それでは、また次回のブログでお会いしましょう。

気をつけて、いってらっしゃい!

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