【日本の心】完璧じゃないから、美しい。「詫び寂び(Wabi-Sabi)」が教えてくれる、疲れない生き方

静寂の中で見つける、古びたものの温もり

〜ひび割れた茶碗が教えてくれた、完璧を目指さないという選択〜

皆さん、お元気ですか?

日本は今、季節の移ろいを感じる時期です。私が暮らす街でも、ふとした瞬間に風の匂いが変わったり、夕暮れの空の色が少しずつ深みを増していくのを感じます。

海外で暮らしていると、ふと日本の「静けさ」が恋しくなることはありませんか?

煌びやかなパーティーや、エネルギッシュな街の雰囲気も素敵だけれど、時々無性に、雨音を聞きながら畳の上でぼーっとしたくなる。そんな感覚です。

最近、海外のインテリア雑誌やライフスタイルブログを見ていると、「Wabi-Sabi(ワビサビ)」という言葉をよく見かけるようになりました。

「Wabi-Sabi Style」と銘打たれた、コンクリート打ちっぱなしの壁や、あえて塗装を剥がしたような家具。とてもお洒落ですよね。

でも、日本に住む私たちが肌で感じている「詫び寂び」は、そういったデザインのトレンドだけではない、もっと心の奥底にある「生きる姿勢」のようなものなんです。

今日は、そんな「詫び寂び」について、少し私の個人的な体験をお話しさせてください。

お気に入りの「欠けた」マグカップの話

実は私、捨てられないものがあるんです。

それは、もう10年以上も使っている、益子焼(ましこやき)のマグカップ。

ぽってりとした厚みがあって、手に持った時にじんわりと温かさが伝わってくる、私の一番のお気に入りです。色は深みのある藍色で、ところどころ釉薬(ゆうやく)が垂れたような跡があり、一つとして同じ表情がない手仕事の器です。

でも、このカップ、実は飲み口のところが少しだけ欠けているんです。

数年前、慌ただしい朝に食器を洗っていて、カチッと蛇口にぶつけてしまいました。「あっ!」と思った時にはもう遅く、小さな破片がシンクに落ちていました。

普通なら、欠けた食器は縁起が悪いとか、危ないからといって捨てるのが一般的かもしれません。

実際、私もその時は「やってしまった…」と落ち込み、新しいものを買おうか悩みました。

現代の私たちの生活は、「完璧であること」や「新しいこと」が良いことだとされがちです。お店に行けば、傷ひとつないピカピカの商品が並んでいますし、少しでも不具合があればすぐに交換してもらえます。インスタグラムを開けば、完璧に整えられた朝食や、塵ひとつ落ちていないリビングの写真が溢れていますよね。

でも、なぜかその時の私は、その欠けたマグカップを捨てることができませんでした。

改めてそのカップを手に取ってみると、欠けた部分から覗く土の色が、妙に愛おしく感じられたのです。

その小さな傷は、私がこのカップと過ごしてきた「時間の証(あかし)」のようにも見えました。毎朝のコーヒー、風邪を引いた時に飲んだ生姜湯、悩み事をしながら深夜に飲んだハーブティー。

その「欠け」を見た瞬間、このカップと共に過ごした10年間の日常が、走馬灯のように蘇ってきたのです。

「完璧じゃなくなったけれど、これはこれで、なんだか味がある」

そう思った瞬間、肩の力がふっと抜けた気がしました。

これが、私にとっての「詫び寂び」の入り口だったのかもしれません。

西洋の美、日本の美

海外の友人(私の住む地域にいる外国の方たちも含め)と話していると、美しさの基準の違いにハッとさせられることがあります。

西洋的な美しさ、特に現代のデザインにおいては、「シンメトリー(左右対称)」や「黄金比」、「永遠の若さ」、「汚れのない白さ」といったものが好まれる傾向にありますよね。古代ギリシャの彫刻のように、均整が取れていて、論理的に「正しい」美しさ。それは圧倒的で、人を魅了する力があります。

一方で、私たち日本人が古くから大切にしてきた美意識は、少し違います。

あえて中心をずらす「非対称(アシンメトリー)」の面白さ。

古びて色が褪せていく様子に感じる「枯れた」美しさ。

何もない空間(余白)に感じる、想像の広がり。

「Wabi-Sabi」は、まさにこの「不完全なもの」「未完成なもの」「移ろいゆくもの」の中に美しさを見出す心です。

ピカピカのダイヤモンドも美しいけれど、海岸で波に洗われて丸くなった曇りガラス(シーグラス)にも、また違った美しさがある。

満開の桜も素晴らしいけれど、散り際の桜吹雪や、花が散った後の葉桜にも、また別の情趣がある。

そう考えると、私たちが日々感じている「老い」や「失敗」、「後悔」といったネガティブに捉えられがちなことも、実は美しい物語の一部なのかもしれないと思えてきませんか?

「日常」という名の修行の中で

主婦として毎日を送っていると、本当にいろいろなことがあります。

思い通りにいかない子育て、予定通りに進まない家事、人間関係の小さなすれ違い。

「理想の母親」「理想の妻」「理想の自分」になろうとすればするほど、現実の自分とのギャップに苦しくなることがあります。

「もっとうまくやらなきゃ」「もっと完璧にこなさなきゃ」と、自分で自分を追い込んでしまう。

そんな時、ふとあの欠けたマグカップでお茶を飲むと、こう語りかけられているような気がするんです。

「そのままでいいんだよ。傷があったって、古くなったって、それがあなたの味なんだから」と。

「詫び寂び」という言葉を分解すると、「詫び(Wabi)」と「寂び(Sabi)」になります。

詳しくは次の章でお話ししようと思いますが、簡単に言うと、「詫び」は思い通りにならない不足のなかで心を満たそうとする内面的な豊かさ。「寂び」は時間の経過とともに現れる外見的な変化や寂寥(せきりょう)感のことです。

この二つが合わさった時、それは単なる「古いもの好き」や「ヴィンテージ趣味」を超えた、強力な人生哲学になります。

それは、「不完全であることを許す」という優しさです。

海外で生活されている皆さんは、言葉の壁や文化の違い、そして「外国人」として見られることのプレッシャーなど、日本にいる時以上のストレスを感じる場面も多いことでしょう。

「うまく馴染めない」「思ったように伝えられない」。そんな「欠け」を感じる瞬間があるかもしれません。

でも、その「うまくいかないこと」こそが、あなたという人間の深みを作り、他の誰にも出せない「味わい」になっているとしたら?

そう考えると、ちょっと気持ちが楽になりませんか。

これから続く記事では、この「詫び寂び」の世界をもっと深く、そして歴史的な背景も交えながら紐解いていきたいと思います。

千利休がお茶の中に見た宇宙、そして現代の私たちが、どうやってこの古い知恵を今の生活に取り入れ、心を軽くしていけるのか。

量産された完璧なプラスチック製品よりも、ひび割れた土の器がなぜ私たちの心を揺さぶるのか。

どうぞ、お気に入りの飲み物を片手に(欠けていてもいなくても!)、ゆったりとした気持ちでお付き合いください。

次は、この美しい哲学がどこから生まれたのか、そのルーツを探る旅に出かけましょう。

茶室から始まった革命

〜千利休が愛した「黒い茶碗」と、大量生産社会への問いかけ〜

黄金の茶室 vs 土壁の小屋

さて、ここからは少し時計の針を巻き戻して、昔々の日本へタイムスリップしてみましょう。

「Wabi-Sabi」という言葉を聞くと、なんとなく「昔から日本人はみんな地味で静かなものが好きだったんでしょ?」と思われるかもしれません。

でも実は、かつての日本(特に安土桃山時代あたり)の権力者たちは、現代の私たち以上に「派手好き」で「完璧主義」だったんです。

当時の武将たちにとって、自分を大きく見せることは死活問題。彼らが愛したのは、中国から輸入された「唐物(からもの)」と呼ばれる、一点の曇りもない完璧な磁器や、金銀財宝で飾られた道具たちでした。

その象徴が、天下人・豊臣秀吉が作った「黄金の茶室」です。

壁も天井も、茶碗もすべて金ピカ。今の感覚で見ると「うわぁ、成金趣味…」と思ってしまうかもしれませんが(笑)、それが当時の「美」の最先端であり、権力の証だったんですね。

そんな「豪華絢爛こそが正義」という時代に、真っ向から喧嘩を売った(というか、全く別の価値観を提示した)パンクロッカーのようなおじさんがいました。

それが、皆さんも名前は聞いたことがあるであろう、茶聖・**千利休(せんのりきゅう)**です。

利休さんは、秀吉のような権力者が好む高価で完璧な茶碗ではなく、道端に転がっているような、歪んだ黒い茶碗(楽茶碗)を「これこそが美しいのだ」と言ってのけました。

それは、地元の職人が手でこねて作った、ごつごつとした土の塊のような器。

ピカピカのブランド品が崇められている時代に、「いや、名もなき職人が作った、この歪みの中にこそ宇宙があるんだ」と説いたのです。

これ、現代に置き換えるとすごいことだと思いませんか?

みんながエルメスやルイ・ヴィトンを持って「どうだ!」とやっているパーティー会場に、着古した木綿のシャツと、お祖父ちゃんが使っていたような古い湯呑みを持って現れて、「この糸のほつれ具合、最高にクールでしょう?」と言うようなものです。

利休さんが伝えたかったのは、「お金を出して買う豪華さ」ではなく、「心の目で見つける美しさ」でした。

足りないこと、古びていること、孤独であること。

それらを否定するのではなく、「その不足の中にこそ、想像力を働かせる豊かさがある」と気づかせた。これが「詫び寂び」革命の始まりなんです。

「朝顔」が教えてくれた引き算の美学

私が大好きな、利休さんにまつわる有名なエピソードを一つ紹介させてください。

ある夏のこと。利休さんの家の庭に、見事な朝顔が咲き乱れていました。その噂を聞きつけた秀吉が「そんなに綺麗なら、茶会で見せてくれ」とやってきます。

秀吉はワクワクしながら庭に入りました。

ところが、庭を見て愕然とします。そこにあるはずの朝顔が、一輪残らず全て切り取られていたからです。

「なんだこれは!利休のやつ、嫌がらせか!」

怒り心頭で茶室に入った秀吉。

しかし、薄暗い茶室の床の間に目をやった瞬間、彼は言葉を失います。

そこには、古い花入れに生けられた、たった一輪の朝顔が、朝の光を浴びて凛と咲いていたのです。

庭一面に咲く何百もの朝顔よりも、その生命を凝縮したかのような「たった一輪」。

他のすべてを捨て去る(引き算する)ことで、残された一つの命の輝きを極限まで引き立てる。

これこそが「Wabi-Sabi」の真髄だと私は思います。

私たちは普段、何かを足すことばかり考えてしまいますよね。

もっと広い部屋、もっと多い服、もっと便利な家電。

でも、利休さんの朝顔は教えてくれます。「本当に大切なもの以外は、なくてもいい。むしろ、ない方が大切なものが見えてくる」と。

海外で暮らす主婦の皆さんは、引越しのたびに荷物を整理したり、限られたスーツケースでやりくりしたりする中で、この「引き算の感覚」を肌で感じることも多いのではないでしょうか?

「これさえあれば、私は私でいられる」。そんな厳選されたものだけに囲まれる心地よさは、まさにこの茶の湯の心に通じている気がします。

傷を金で飾る「金継ぎ」の魔法

もう一つ、「Wabi-Sabi」を語る上で欠かせないのが、最近海外でも大ブームの**「金継ぎ(Kintsugi)」**です。

割れてしまったお皿や茶碗を漆(うるし)で繋ぎ合わせ、その継ぎ目を金粉で装飾する、日本独自の修復技法です。

普通、お皿が割れたら「ゴミ」ですよね。

でも金継ぎは、その「割れた傷跡」を隠そうとするのではなく、あえて金で目立たせます。

「ここで割れましたよ!ここが傷つきましたよ!」と主張させるのです。

なぜか?

それは、「傷ついたこと」を「恥」や「劣化」と捉えるのではなく、「その器が辿ってきた歴史」として称えるからです。

割れて修復された器は、新品の時よりも景色(見た目の味わい)が増し、時には新品以上の価値がつくとさえ言われます。

これ、人間にも当てはまりませんか?

私たちも生きていれば、心に傷を負ったり、失敗して挫折したり、身体に手術の痕ができたりします。

私たちはそれをファンデーションで隠したり、なかったことにしようとしがちです。

でも、金継ぎの精神で考えれば、その傷跡こそが「あなたが懸命に生きてきた証」であり、あなたを他の誰とも違うユニークな存在にしてくれる「黄金の模様」なんです。

「私は一度壊れたけれど、こうしてまた繋がって、前よりも強くて美しい姿になった」

金継ぎされた器を見るたびに、私はそんな勇気をもらえる気がします。

大量生産された、取り替えのきく綺麗なマグカップにはない、「壊れることの強さ」がそこにはあります。

なぜ、大量生産品は「冷たい」のか

ここで現代の私たちの生活に目を向けてみましょう。

私たちは今、安くて・便利で・壊れにくいプラスチック製品や、大量生産された家具に囲まれて暮らしています。

もちろん、それが悪いわけではありません。100円ショップやIKEAは、主婦の強い味方です(私も大好きです!)。

でも、ふと思うことはありませんか?

「部屋は物で溢れているのに、なんだか心が満たされない」

「買ったばかりの時は嬉しいけれど、すぐに飽きてしまう」

それはきっと、それらの製品に「時間」や「物語」が刻まれていないからかもしれません。

工場で機械が作った完璧なコピー品には、作る人の指紋もなければ、素材の個体差もありません。

それは「死んでいる」素材と言えるかもしれません。だから、傷がつけばただの「劣化」になり、古くなれば「ゴミ」になります。

一方で、Wabi-Sabiを感じる素材——例えば、使い込むほどに色が変わる革の財布、洗うたびに肌に馴染むリネンのシャツ、そして手作りの陶器。

これらは、私たちが使うことで育っていきます。

時間が経つことが「劣化」ではなく「深化」になる。

そこには「私とこのモノとの対話」があります。

海外の生活の中で、ふと入ったアンティークショップやフリーマーケットで、誰が使っていたかもわからない古い木の椅子に心惹かれた経験はありませんか?

その椅子についた小さな凹みや、塗装の剥げた背もたれを見たとき、そこに誰かの生活の温もりを感じて、愛おしくなる。

その感覚こそが、利休さんが黒い茶碗に見出した「寂び」の心そのものです。

完璧で無機質なものに囲まれた現代社会で、私たちが無意識に求めているのは、こうした「体温のある不完全さ」なのかもしれません。

便利さを手に入れた代償に、私たちが置き去りにしてきてしまった「心の置き場所」。

それを思い出させてくれるのが、Wabi-Sabiという哲学なのです。

さて、ここまで歴史とモノを通してWabi-Sabiの世界を旅してきました。

「なるほど、古いものや不完全なものの良さはわかった。でも、それをどうやって現代の、しかも忙しい毎日に取り入れればいいの?」

「わざわざ骨董品を買えってこと?」

いいえ、違います。

Wabi-Sabiは、高い茶道具を買うことではなく、心のレンズを変えること。

次の章(転)では、いよいよこの哲学を、私たちの日々の暮らしや人間関係、そして自分自身への向き合い方にどう応用できるのか。

もっと具体的で、明日からすぐに実践できる「心の整理術」として展開していきたいと思います。

実は、Wabi-Sabiの考え方を取り入れると、家事がちょっと楽になったり、人間関係のイライラが減ったりするんですよ。

その秘密を、次回たっぷりとシェアさせてくださいね。

人生を「減らす」勇気

〜Wabi-Sabi式・心の断捨離術と、自分を許す魔法〜

茶室を出て、キッチンへ

ここまで、千利休や金継ぎの話をしてきましたが、「へぇ、日本文化って奥深いわね」で終わらせてしまってはもったいない!

実はこのWabi-Sabiという哲学、美術館のガラスケースの中に飾っておくものではなく、私たちのキッチンやリビング、そして人間関係の中にこそ、その真価を発揮するツールなんです。

特に、海外で生活していると、日本では当たり前だったことがスムーズにいかず、知らず知らずのうちにストレスが溜まってしまうこと、ありますよね。

言葉の壁、文化の違い、子供の学校の手続き、そして日本にいる家族への心配…。

私たちは無意識のうちに、「ちゃんとしなきゃ」「適応しなきゃ」と、完璧を目指して走り続けてしまいがちです。

ここで、Wabi-Sabiという眼鏡をかけて、私たちの日常を見つめ直してみましょう。

そうすると、今まで「欠点」や「恥」だと思っていたことが、まったく違った景色に見えてくるから不思議です。

1. 「散らかった部屋」は「生活の息吹」である

まずは、家事の話から。

皆さんは、急な来客がある時、慌てて部屋を片付けながら「ああ、こんな散らかった家、見られたくない!」と思ったことはありませんか?

雑誌に出てくるような、生活感のないスッキリとした部屋こそが「正解」で、物が出しっぱなしの我が家は「不正解」。そう思い込んでいないでしょうか。

でも、Wabi-Sabiの視点では、「生活感(生活の痕跡)」を否定しません。

茶道では、あまりにもピカピカに磨き上げられた道具よりも、使い込まれて少し角が取れた道具の方が「景色が良い」と喜ばれます。

これを家庭に置き換えてみましょう。

リビングに散らばった子供のおもちゃ。読みかけで置かれた本。ソファの上のくしゃくしゃのブランケット。

これらは「乱雑」なのではなく、そこで愛する家族が生きているという「温かい痕跡」なんです。

モデルルームのように完璧で冷たい部屋よりも、誰かの体温を感じる部屋の方が、実は居心地が良いもの。

「今日は片付けられなかった」と自分を責める代わりに、

「今日も我が家は、家族が元気に暴れ回った『景色』で溢れているわ」

と、ちょっとニヤリとしてみる。

完璧を目指さない「未完成の美」を許容することは、主婦にとって最強の精神安定剤になります。

「今日は7割できれば上出来」。その余白(手抜きの部分)こそが、あなたの心の余裕(Wabi)を生むのです。

2. 「孤独」を楽しむ力 〜Solo Time is Luxury〜

海外生活で避けて通れないのが、「孤独感」ではないでしょうか。

パートナーが仕事に行き、子供が学校に行っている間、広い家にポツンと一人。

あるいは、パーティーの中で周りの会話についていけず、大勢の中にいるのに一人ぼっちに感じる瞬間。

「寂しい」「惨めだ」と感じてしまうかもしれません。

でも、思い出してください。「詫び(Wabi)」という言葉の語源は、「わびしい(寂しい・不足している)」という状態を、あえて「精神的に豊かだ」と捉え直す心の動きでしたよね。

日本では昔から、独りで自然と向き合ったり、静かに自分を見つめる時間を「贅沢」として愛してきました。

孤独は「孤立」ではありません。それは、誰にも邪魔されずに自分自身と対話できる「自由な時間」です。

海外の社交文化は、とにかく賑やかで、常に誰かと繋がっていることを良しとする傾向があるかもしれません。

でも、私たちは日本人です。「あえて、一人になる」というWabiの達人になれるDNAを持っています。

無理をして予定を詰め込んだり、SNSでキラキラした投稿を追いかけて寂しさを埋めようとする必要はありません。

静かな雨の日に、一人でお気に入りの紅茶を淹れて、窓の外を眺める。

その「何もしない時間」「誰とも話さない時間」に罪悪感を持つのではなく、

「今、私は最高にWabiな時間を過ごしているわ」と誇りに思うこと。

孤独を味方につけた人は、どこに住んでいても強く、しなやかでいられます。

3. アンチエイジングより「ナイス・エイジング」

そして、女性としてどうしても気になってしまうのが「老い」についてです。

海外(特に欧米)のビューティー業界は、「アンチエイジング(抗老化)」への情熱が凄まじいですよね。

シワは敵、シミは悪、白髪は隠すべきもの。

「いつまでも若々しくあること」が至上の価値とされ、私たちはそれに抗おうと必死に高いクリームを塗りたくります。

でも、Wabi-Sabiの世界観は真逆です。

「寂び(Sabi)」とは、時間の経過によって現れる変化のこと。

新品の畳が黄金色に変わっていくように、銀色の金具が酸化して渋い色になるように、時間だけが作り出せる美しさを称賛します。

私たち自身の顔や体も同じです。

目尻のシワは、あなたがこれまでたくさん笑ってきた証拠。

手に浮き出た血管は、家族のためにたくさん働いてきた歴史。

白髪は、冬の雪景色のような、静かで知的な美しさの始まり。

これを「劣化」と呼ぶのか、「成熟」と呼ぶのか。それは私たちの心の決め方次第です。

もちろん、美容を楽しむのは素敵なことです。でも、「若く見えない自分はダメだ」と否定するのは、もう終わりにしませんか?

金継ぎされた器が新品よりも価値を持つのと同じように、

様々な経験を重ね、喜びも悲しみも知った大人の女性の顔には、若い頃には絶対に出せない「深み」という美宿ります。

「Wabi-Sabi」は、私たちに「老いることへの恐怖」ではなく、「変化することへの好奇心」を与えてくれるのです。

4. 人間関係における「間(Ma)」の美学

最後に、人間関係について。

日本には「間(Ma)」という素晴らしい概念があります。

音楽でも、音と音の間の「無音」の部分を大切にしますし、会話でも沈黙を恐れません。

海外では、沈黙は「気まずいもの」とされ、マシンガントークで埋めようと必死になる場面も多いですよね。

でも、無理をして言葉を紡ぐ必要はないのかもしれません。

「言わぬが花」という言葉があるように、すべてを言葉で説明し尽くさない方が、相手への思いやりが伝わることもあります。

Wabi-Sabi的な人間関係とは、お互いの不完全さを認め合うこと。

相手が約束を忘れたり、期待通りの反応をしてくれなかったりしても、

「まあ、人間だもの。そんな日もあるよね(完璧じゃないしね)」

と、柳のように受け流す。

そして、自分自身も完璧な妻や母、完璧な友人を演じなくていい。

「ごめん、今日は疲れちゃって無理だわ」と素直に自分の「欠け(弱さ)」を見せる。

その弱さが、相手にとっては「入り込む隙(チャーミングな部分)」となり、かえって人間関係が深まることさえあるのです。

完璧な人間同士の付き合いは、緊張感があって疲れます。

でも、お互いに「ちょっと欠けた器」同士なら、その欠けた部分を補い合ったり、笑い合ったりできる。

そんな「ゆるい」関係性こそが、長く続く秘訣なのかもしれません。


さて、茶室から始まったWabi-Sabiの旅は、いつの間にか私たちの心の持ち方、生き方の話になってきました。

Wabi-Sabiとは、単なる美意識ではなく、

「今の自分、今の環境、今の人生を、そのまま丸ごと愛するための技術」

だと言えるのではないでしょうか。

「ないものねだり」をやめて、「あるもの探し」へ。

「完璧」を目指すのをやめて、「良い加減(Good enough)」へ。

ここまでくれば、最後の結論は見えてきましたね。

この長い旅の締めくくりとして、次回「結」では、明日から具体的にどう行動を変えれば、あなたの人生がもっとWabi-Sabiに、もっと心軽やかになるのか。

私からあなたへの、ささやかなエール(具体的なアクションプラン)をお届けして、この話を結びたいと思います。

不完全なままで、胸を張れ。

〜今日から始める、あなただけのWabi-Sabiライフ〜

答えは、もうあなたの手の中にある

長い旅にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

欠けたマグカップの話から始まり、千利休の黒い茶碗、金継ぎの哲学、そして日々の心の持ちようまで。

「Wabi-Sabi(詫び寂び)」という、一見難しそうで古めかしい日本の言葉が、実は現代を生きる私たちの、一番身近な救世主になり得るということを感じていただけたでしょうか。

私たちは、特に海外という慣れない環境に身を置くと、無意識のうちに「鎧(よろい)」を着込んでしまいます。

「日本人として恥ずかしくないように」

「現地のコミュニティに馴染めるように」

「良い母親、良い妻で見られるように」

その鎧は、確かにあなたを守ってくれるかもしれません。でも、重いですよね。

ずっと着ていると、息が詰まって、肩が凝って、本来のあなたの笑顔が見えなくなってしまいます。

Wabi-Sabiは、その重たい鎧を「もう脱いでもいいよ」と許してくれる魔法の言葉です。

ピカピカに磨き上げられた完璧な自分じゃなくていい。

ちょっと言葉がつたなくても、家事が完璧じゃなくても、時にはホームシックで泣いてしまっても。

その「ひび割れ」や「歪み」こそが、あなたという人間を魅力的に見せる「景色」なのだと、日本の古い知恵は教えてくれています。

明日からできる、3つの「Wabi-Sabi習慣」

では、この哲学を、明日からの生活にどう落とし込めばいいのでしょうか。

いきなり茶道を習う必要はありませんし、家中のプラスチック製品を捨てる必要もありません(笑)。

ほんの少し、意識のスイッチを切り替えるだけで、世界はWabi-Sabi色に染まります。

私が実践している、3つの小さな習慣をご紹介しますね。

1. 「花の命」を最後まで見届ける

リビングに花を飾る時、皆さんはいつ捨てますか?

花びらが少し茶色くなったり、首が垂れてきたら、「もう枯れたから」とすぐに捨てて新しい花に変えていませんか?

Wabi-Sabiの実践として、あえて「枯れていく過程」を楽しんでみてください。

満開の時期が過ぎ、花びらが散り始め、色が褪せ、やがてドライフラワーのようになっていく。

その変化を「劣化」として排除するのではなく、「ああ、一生懸命咲ききったんだな」と敬意を持って眺めてみるのです。

これは、自分自身の「老い」や「衰え」を許す予行演習にもなります。

散りゆく花の美しさに気づける人は、自分自身の増えていくシワや白髪の中にも、きっと美しさを見出せるようになります。

「最期まで美しい」。そう思えるものが身近にあるだけで、心は驚くほど穏やかになります。

2. 「一期一会」を、トラブルの瞬間に唱える

海外生活は、予期せぬトラブルの連続です。

電車が来ない、予約が取れていない、お店の人の対応が冷たい…。

イライラして「どうしてちゃんとしてないの!」と怒りたくなる瞬間、心の中で魔法の呪文を唱えてください。

「これもまた、一期一会(Ichi-go Ichi-e)」

茶道から生まれたこの言葉は、「この瞬間は二度と巡ってこない」という意味ですが、私はこれを「ハプニングを楽しむ合言葉」として使っています。

完璧な旅行計画が雨で台無しになった時。「雨の古都もまた、一期一会の景色ね」と呟いてみる。

注文と違う料理が来た時。「これも何かの縁、一期一会の味だと思って食べてみよう」と笑ってみる。

思い通りにならない現実(不完全さ)を、怒るのではなく、「二度とないユニークな体験」として受け入れる。

それができれば、あなたはもうWabi-Sabiマスターです。

トラブルさえも、後になれば「あの時の失敗、面白かったよね」という、味わい深い「金継ぎされた思い出」になりますから。

3. 1日5分の「何もしない」空白(Ma)を作る

忙しい主婦の皆さんにお願いしたい、一番大切なことです。

1日のうちに5分だけでいいので、スマホも置かず、テレビも消して、家事の手も止めて、「ただ座っているだけの時間」を作ってください。

瞑想なんて高尚なものでなくて構いません。

ただ、窓の外の木を眺めるだけ。湯気立つお茶をふーふーするだけ。

この「空白(Ma)」の時間こそが、心の澱(おり)を沈殿させ、クリアにしてくれます。

私たちは「生産性」の呪いにかかっていて、何もしないことに罪悪感を覚えがちですが、

「余白」がなければ、美しい絵は描けません。

あなたの人生という絵画にも、描き込まない「余白」が必要です。

その5分間は、あなたが「誰かのための自分」から「ただの自分」に戻るための、神聖な儀式なのです。

あなたは、そのままで「名品」である

最後になりますが、海を越えて、異国の地で毎日を懸命に生きているあなたへ。

もしかしたらあなたは、現地の言葉を流暢に操る駐在妻の方を見て「私はダメだ」と落ち込んでいるかもしれません。

バリバリ働いている現地の女性を見て「私は家事しかしていない」と引け目を感じているかもしれません。

でも、どうか忘れないでください。

大量生産された、傷ひとつない均一なカップよりも、

職人の手跡が残り、歪みがあり、使い込まれて色が変わったカップの方が、見る人の心を震わせるということを。

あなたは、日本という故郷を離れ、慣れない環境で悩み、傷つきながらも、今日まで生きてきました。

その過程でできた心のかさぶたや、流した涙の跡、うまくいかなかった悔しさ。

それら全てが、あなたという器に刻まれた「景色」であり、世界に二つとない「味わい」です。

誰かと比べる必要なんてありません。

完璧になろうとする必要もありません。

あなたは今のまま、その不完全で、一生懸命で、ちょっと不器用な姿のままで、

とてつもなく美しい、唯一無二の「名品」なのですから。

利休さんがもし今のあなたを見たら、きっとこう言って微笑むでしょう。

「結構なお点前(人生)で」と。

日本は遠いですが、同じ空の下で繋がっています。

時々は、欠けたマグカップでお茶を飲んで、「まあ、これでいいか」と呟いてみてください。

その「良い加減」な呟きが、明日を生きる力に変わりますように。

長い間、お読みいただきありがとうございました。

あなたの海外生活が、Wabi-Sabiのように味わい深く、心穏やかなものでありますように。

日本より、愛を込めて。


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