平凡な日常に訪れた転機。「大人の部活動」への招待状と、日本人が習い事を愛する理由。
海外のみなさん、こんにちは!日本の地方都市で、夫と二人の子供と暮らしている普通の主婦です。
そちらの季節はいかがですか?日本は今、ちょうど季節の変わり目で、空気が澄んで気持ちの良い時期を迎えています。
今日は、私が最近ハマっている、ある「秘密の活動」についてお話ししたいと思います。秘密といっても、怪しいものではありませんよ(笑)。それは、日本独自の文化とも言える「大人の部活動(Otona no Bukatsu)」についてです。
みなさんは、毎日どんなふうに過ごしていますか?
正直に言うと、私は少し前まで、日々の生活にちょっとした「虚しさ」を感じていました。朝起きてお弁当を作り、洗濯機を回し、掃除機をかけ、スーパーで買い物をして、夕食を作る……。もちろん、家族のことは愛していますし、主婦という仕事に誇りも持っています。でも、ふとした瞬間に思うことがあったんです。「あれ? 私自身の人生ってどこにあるんだろう?」って。
毎日が同じことの繰り返し。まるで自分が「家事をするロボット」になってしまったような感覚。海外に住む主婦のみなさんも、もしかしたら同じようなモヤモヤを感じたことがあるのではないでしょうか?
そんなある日、近所の掲示板で一枚のポスターを見つけました。
そこには「公民館(Community Center)サークル会員募集」の文字。生け花、和太鼓、茶道……。色とりどりの写真と共に、楽しそうに活動する地元の人たちの姿がありました。
日本では、学生時代にスポーツや文化活動に打ち込む「部活動(Club Activities)」が非常に盛んです。放課後の時間はすべて部活に捧げる、なんていうのも珍しくありません。青春のすべてをかける場所、それが部活なんです。
でも面白いことに、私たち日本人は大人になっても、またおじいちゃんおばあちゃんになっても、何かを「習う」ことが大好きなんです。「生涯学習(Lifelong Learning)」という言葉が定着しているくらい、死ぬまで何かを学び続けたいという欲求が強い国民性なのかもしれません。
なぜだと思いますか?
それはきっと、日本人が単なるスキルアップや娯楽以上のものを、その活動に求めているからだと思います。
日本語には**「道(Do / The Way)」**という概念があります。柔道(Judo)、剣道(Kendo)、書道(Shodo)、華道(Kado / Ikebana)、茶道(Sado)。すべての芸事や武道には「道」という字がつきます。
これは、「技術を習得すること」がゴールではなく、「その稽古を通じて人格を磨き、人生の真理に近づくこと」が目的であるという考え方です。つまり、お花を活けることも、お茶を点てることも、太鼓を叩くことも、すべては「自分自身と向き合うための修行」なんですね。
「修行」なんて言うと、なんだか滝に打たれるような厳しいものを想像するかもしれませんね(笑)。でも、現代の私たち主婦にとっての「道」は、もっと生活に寄り添った、心のデトックスのようなものです。
忙しい日常から離れて、ほんの数時間だけ、妻でもなく、母でもない、「ただの自分」に戻る時間。スマホの通知も気にせず、目の前のことに没頭する時間。
私はそのポスターを見て、直感的に「これだ!」と思いました。私が求めていたのは、新しい趣味ではなく、心が整う「聖域(Sanctuary)」だったのかもしれません。
そこで私は思い切って、全く異なる3つの「伝統文化クラブ」の体験入会に申し込んでみることにしました。
一つ目は、静寂の中で草花と向き合う「生け花(Ikebana)」。
二つ目は、全身を使ってリズムを刻む「和太鼓(Taiko)」。
そして三つ目は、究極のおもてなしと精神統一を学ぶ「茶道(Tea Ceremony)」。
正直、最初は不安でした。「伝統文化なんて敷居が高そう」「作法を知らないと怒られるんじゃないか」「そもそも、家事や育児の合間に続けられるのかしら?」そんな心配が頭をよぎりました。
でも、実際に足を踏み入れてみると、そこには私の予想を遥かに超える、奥深くて温かい世界が広がっていたんです。
まず驚いたのは、そこに集まっている人たちの「目」の輝きでした。
私よりもずっと年上の70代、80代の女性たちが、背筋をピンと伸ばして、真剣な眼差しでお稽古に励んでいるんです。その姿のなんと美しいこと!
「ああ、歳を重ねるって、こういうことなんだ」と、私は感動すら覚えました。
そして、それぞれのクラブ活動には、単なる「習い事」では片付けられない、日本独自の社会の考え方や、人生を豊かに生きるためのヒントがたくさん詰まっていました。
例えば、集団の中での自分の役割を知ること、言葉に頼らずに相手の心を察すること、そして、不完全なものの中に美しさを見出すこと……。
これらはすべて、私が毎日の生活の中で抱えていたストレスや悩みを解決してくれる、魔法の鍵のようなものでした。
これから続く記事では、私が実際に体験したこれら3つのクラブ活動の様子を、そこでの失敗談や笑い話を交えながら、詳しくお話ししていきたいと思います。
静けさの中に身を置くことの心地よさ、仲間と息を合わせる時の一体感、そして、一杯のお茶に込められた宇宙のような広がり。
もしあなたが今、「毎日が退屈だ」とか「自分を変えたい」と思っているなら、ぜひこの旅に付き合ってください。
日本の片田舎にある小さな公民館で起きた、一人の主婦のささやかな、でも確実な「心の変化」の物語。
読み終わる頃には、きっとあなたも、自分の生活の中に「道」を見つけたくなるはずです。
準備はいいですか?
それでは、まずは凛とした空気の漂う「生け花」の教室と、情熱的な「和太鼓」のスタジオの扉を、一緒に開けてみましょう。そこには、言葉では伝えきれないほどの「美」と「エネルギー」が待っていました。
静寂の「引き算」と、魂を震わす「鼓動」。対照的な二つの世界で知った、自分を整えるスイッチ。
公民館の古い木の扉を開けた瞬間、ふわりと香ったのは、湿った畳と青々とした草木の匂いでした。
まず私が足を踏み入れたのは、**「生け花(Ikebana)」**の教室です。
そこは、先ほどまでのスーパーマーケットの喧騒や、道路の車の音が嘘のように遮断された、静寂の世界でした。先生は着物をビシッと着こなした70代の女性。「先生」というより「師匠」と呼びたくなるような、凛としたオーラを纏っています。
「さあ、お座りなさい」
促されるまま、私は小さな花器と剣山(Kenzan:針山のような道具)の前に座りました。
正直に白状しますね。私は最初、生け花を甘く見ていました。「花瓶に綺麗にお花を飾るだけでしょ? 私は家のリビングに飾るのが好きだし、センスには自信があるわ」なんて思っていたんです。
でも、その自信は開始5分で粉々に打ち砕かれました(笑)。
目の前には、季節の枝物と、数本の菊、そして小花が用意されています。私は欧米風のフラワーアレンジメントのように、隙間なく豪華に、色とりどりに埋め尽くそうとしました。たくさん挿せば挿すほど、豪華で素敵になると思っていたからです。
すると、先生が私の手元をじっと見て、静かに、しかし断固とした口調でおっしゃいました。
「あなた、欲張りね」
「えっ?」
「あれもこれもと詰め込みすぎです。生け花は『足し算』ではありません。『引き算』の芸術なのですよ」
先生は私が苦労して挿した花を、容赦なく引き抜いていきました。「ええっ、もったいない!」と心の中で叫びましたが、先生はハサミを手に取り、「パチン、パチン」と小気味よい音を立てて、枝や葉を大胆に切り落としていきます。
残ったのは、たった3本の線。
一本の長く伸びた枝、中心に座る花、そして足元を支える小さな緑。それだけです。
ところが、どうでしょう。
さっきまでゴチャゴチャとしていた花器の上が、急に広々とした「宇宙」のように見えてきたのです。枝の曲線が作り出す何もない空間(Space)が、逆に風の流れを感じさせ、一輪の花の存在感を際立たせていました。
「日本には**『空間の美(The beauty of empty space)』**という考え方があります。何もない場所は、ただの空っぽではありません。そこには『余白(Yohaku)』があり、見る人の想像力が入り込む余地があるのです」
その言葉を聞いた時、私は頭をガツンと殴られたような衝撃を受けました。
これって、私たちの生活そのものではないでしょうか?
私たち主婦は、常に何かを「足そう」としています。子供のために習い事を増やし、便利グッズを買い込み、予定を詰め込み……。スケジュール帳が埋まっていることが充実だと思い込み、隙間ができると不安になってスマホを見てしまう。
でも、本当に大切なのは、その隙間、つまり「余白」を作ることだったんです。
不要な枝を切り落とすという行為は、心の中の執着や、余計な心配事を断ち切る作業と似ていました。
「この枝は本当に必要か? どの向きが一番美しく見えるか?」
一本一本と真剣に向き合う時間は、まるで瞑想(Meditation)のよう。稽古が終わる頃には、私の頭の中は不思議なほどクリアになっていました。部屋を片付けた後のような爽快感。「Less is More(少ないことは豊かである)」という言葉は知っていましたが、それを体感として理解できた瞬間でした。
さて、静寂の生け花教室で心を整えた数日後、私は真逆の世界に飛び込みました。
今度の会場は、公民館の地下にある防音スタジオ。扉に近づくだけで、床から「ドドン、ドドン」という地響きが伝わってきます。
**「和太鼓(Taiko)」**のクラブです。
中にいたのは、主婦仲間や定年退職したおじさまたち。みんなTシャツにハチマキ姿で、汗だくになっています。
「さあ、あなたもバチを持って!」
渡されたのは、太くて重い木のバチ。目の前には、私の胴体よりも大きな太鼓が鎮座しています。
「太鼓は腕で叩くんじゃありません。お腹の下、丹田(Tanden)で叩くんです!」
リーダーの男性が叫びます。
丹田とは、おへその数センチ下にあるとされる、エネルギーの源のような場所。日本武道ではここを非常に重要視します。
足を大きく開き、腰を落とし、重心を低く保つ。これがもう、キツイのなんの! スクワットをしたまま静止しているような状態です。太ももがプルプルと震え、「明日は間違いなく筋肉痛だわ」と後悔し始めた頃、演奏が始まりました。
「セイヤッ! ハッ!」
掛け声と共に、全員が一斉にバチを振り下ろします。
ドーン!
空気が破裂したかのような爆音。でも、それは耳障りな音ではなく、心臓の鼓動と直接リンクするような、深く重い響きでした。
太鼓の面白さは、一人では成立しないところにあります。
リズムが少しでもズレると、音が濁って聞こえるのです。言葉を交わすわけではありません。隣の人の息遣いを感じ、目配せをし、全員の「気」を一つに合わせる。
日本語には**「阿吽の呼吸(Ah-Un no Kokyu)」**という言葉があります。お寺の入り口にある狛犬(Komainu)の「阿(口を開けた像)」と「吽(口を閉じた像)」のように、言葉にしなくても完全に息が合っている状態を指します。
太鼓を叩いている間、私たちはまさにこの「阿吽の呼吸」の中にいました。
普段、家では「お皿洗ってよ!」「宿題やったの?」と、口うるさく言葉で指示ばかりしている私。でもここでは、言葉は不要です。ただ音を感じ、相手を感じ、一つの大きなうねりを作る。
その一体感(Unity)と言ったら!
そして何より、思い切り太鼓を叩くことの爽快感!
日頃のストレス、言いたくても言えない不満、将来への漠然とした不安。それら全てのモヤモヤした感情を、バチの先に込めて「ドーン!」と打ち放つのです。
叩くたびに、自分の中に眠っていた野生のようなエネルギーが目覚めていくのがわかりました。汗が目に入っても気になりません。むしろ、自分が生きていることを実感できる、熱い汗です。
練習が終わった後、スタジオの床に大の字になって寝転がりました。身体はクタクタに疲れているのに、心は驚くほど軽くてエネルギッシュ。
「あー、私、久しぶりに『大声』を出した気がする」
隣にいた先輩主婦の方が、タオルで汗を拭きながら笑いかけてくれました。
「そうでしょ? お母さんやってると、自分の感情を抑えることが上手になっちゃうからね。ここはそれを全部出していい場所なのよ」
静寂の中で「削ぎ落とす」ことを学ぶ生け花。
爆音の中で「解放する」ことを学ぶ和太鼓。
一見すると正反対の二つですが、私にはどちらも、日常生活で失われがちなバランスを取り戻すために必要な儀式のように思えました。
私たちは日々、たくさんの情報や物に埋もれながら(足し算の過剰)、同時に社会のルールや役割の中で自分を抑え込んでいます(感情の抑制)。
生け花で余白を作り、和太鼓で情熱を解放する。この「静」と「動」の往復こそが、心の健康を保つための最高のエクササイズなのかもしれません。
しかし、私の「大人の部活動」体験は、これで終わりではありませんでした。
静と動、その両方を体験した私を待っていたのは、さらに奥深い、日本文化の真髄とも言える「茶道」の世界。
そこには、単なるリラックスやストレス発散の次元を超えた、もっと厳しく、それでいて限りなく優しい、ある「哲学」が隠されていたのです。
次回、最終章へ向かう架け橋となる「転」では、正座の痛みに耐えながら(笑)私が覗き見た、茶道の「おもてなし(Omotenashi)」の深淵についてお話しします。それは、人間関係に悩むすべての人に贈りたい、究極のコミュニケーション術でもありました。
究極の「型」の中で見つけた自由。茶室という小宇宙で知る「一期一会」と、今この瞬間を味わう奇跡。
生け花で引き算の美学を知り、和太鼓で魂を解放した私が、最後に辿り着いた場所。それは、日本文化の最高峰とも言われる**「茶道(Tea Ceremony / Sado)」**の教室でした。
正直に言います。私はここに来るのを一番躊躇していました。
だって、イメージしてみてください。「茶道」と聞いて思い浮かぶのは、重苦しい静けさ、難しい作法、そして何より……長時間正座をしなくてはならないという、あの拷問のような苦行(笑)。
「足が痺れて立てなくなったらどうしよう?」「作法を間違えて、先生に扇子で叩かれたりしないかしら?」
そんなステレオタイプな恐怖心と戦いながら、私は茶室のある日本庭園へと向かいました。
茶室への入り口は、驚くほど小さな扉でした。**「躙口(Nijiriguchi)」**と呼ばれるその扉は、大人が身をかがめ、頭を低くしてやっと通れるほどのサイズしかありません。
「どうしてこんなに狭いの?」
疑問に思いながら這うようにして中に入ると、先生が微笑みながら教えてくれました。
「茶室の中では、すべての人が平等なのです。昔、侍(Samurai)が刀を持っていた時代でも、ここでは刀を外し、身分の高い人も頭を下げて入らなければなりませんでした。ここは、世俗の地位や肩書きを捨てて、一人の人間として向き合う場所なんですよ」
その言葉を聞いて、私はハッとしました。
主婦である私、母である私、誰かの妻である私。外の世界では常に何かの「役割」を背負って生きています。でも、この小さな扉をくぐった瞬間、私はただの「私」になる。薄暗く、お香の香りが漂う四畳半(Yojohan:4.5 tatami mats)の空間は、まるで母の胎内のような、不思議な安心感に包まれていました。
しかし!
そんな感傷に浸っていられたのは最初の数分だけです。
稽古が始まると、そこは予想通りの、いえ、予想以上の「ルールの迷宮」でした。
「歩くときは畳の縁(ヘリ)を踏まないで」
「お菓子をいただくときは、『お先に』と隣の方に挨拶をして」
「お茶碗は時計回りに二回まわして」
「飲み終わったら指で飲み口を清めて、その指を懐紙(Kaishi)で拭いて……」
もう、パニックです!
お茶を一杯飲むだけなのに、どうしてこんなに複雑な手順が必要なのでしょうか?
「次は右手? 左手? ああ、足が痺れてきた……感覚がない……」
頭の中は大混乱、足は悲鳴を上げています。優雅さのかけらもありません。私は心の中で叫んでいました。「こんなにカチカチに型にハマっていて、何が楽しいの? これじゃあ、お茶の味なんてわからないわ!」
私の困惑を察したのか、先生が静かにおっしゃいました。
「難しく考えすぎていますね。手順を覚えようとするのではなく、目の前の動作一つ一つに心を込めなさい。**『型(Kata)』**があるのは、あなたを縛るためではありません。あなたを自由にするためなのです」
「型が、私を自由にする?」
先生の言葉は、まるで禅問答(Zen riddle)のようで、すぐには理解できませんでした。
しかし、数ヶ月通い続け、何度も何度も同じ動作を繰り返すうちに、ある日突然、その意味が身体にストンと落ちてくる瞬間が訪れたのです。
それは、雨の降る静かな午後のことでした。
いつものように釜の湯が沸く「シュンシュン」という音(これを日本では「松風(Matsukaze:wind in the pines)」と呼びます)を聞きながら、お茶を点てていた時です。
身体が勝手に動いたのです。
あれほど必死に覚えようとしていた手順が、まるで呼吸をするかのように自然に、流れるように繰り出されました。
「次はどうするんだっけ?」と考える思考のノイズが消えました。
すると、どうでしょう。急に五感が研ぎ澄まされ、世界が鮮やかに色づき始めたのです。
柄杓(Hishaku)からお湯が注がれる、トトト……という水の音。
竹の茶筅(Chasen)が抹茶を泡立てる、サッサッという軽快なリズム。
ふわりと立ち上る、若草のような抹茶の香り。
手の中にある楽茶碗(Raku bowl)の、土の温もりとざらついた感触。
「ああ、今、私はここにいる」
過去の失敗を悔やむこともなく、未来の夕飯の献立を心配することもなく。ただひたすらに、目の前の一杯のお茶と、お湯の温かさだけを感じている。
これが、世界中で注目されている**「マインドフルネス(Mindfulness)」**の正体だったのです。
「型」というレールに身を委ねることで、脳の「何かしなきゃ」という司令塔を休ませ、心だけを自由に遊ばせる。
不自由だと思っていた厳格なルールは、実は雑念というノイズを遮断し、純粋な感覚の世界へ没入するための、最強のセーフティネットだったのです。
これこそが、茶道が数百年もの間、戦国武将や経営者たちに愛され続けてきた理由なのでしょう。極度のプレッシャーの中に生きる人ほど、この「脳の空白」を求めたのだと理解できました。
そしてもう一つ、茶道が私に教えてくれた人生最大の教訓があります。
それが**「一期一会(Ichigo Ichie)」**という言葉です。
有名な言葉なので聞いたことがある方もいるかもしれません。「One time, one meeting」と訳されますが、その真意はもっと切実で、美しいものです。
ある日の稽古で、床の間に飾られている掛け軸(Scroll)と花が、前回とは違っていることに気づきました。
「先生、今日のお花、素敵ですね」
「ええ。これは今朝、庭で摘んできたばかりの椿ですよ。来週にはもう散っているでしょう。そして、今日集まった私たちと同じメンバーで、同じ天気で、同じ気持ちでお茶を飲むことは、二度とありません。一生に一度きりのこの瞬間を、大切に思いなさいということなのです」
私はハッとさせられました。
毎日繰り返される家事。毎日顔を合わせる家族。
「また今日も同じ一日か」と思っていました。昨日の続きの今日があり、今日の続きの明日が来ると、当たり前のように信じていました。
でも、それは傲慢な錯覚だったのです。
今日、夫と交わした「おはよう」は、今日だけのもの。
子供が学校から帰ってきて話してくれる些細な出来事も、その年齢の、その瞬間の彼らにしか感じられないこと。
もし明日、何かが起きて会えなくなってしまったら?
そう考えた時、退屈だと思っていた日常のすべてが、急に愛おしく、輝いて見え始めました。
茶道のお手前では、お茶碗を客に出すとき、絵柄が一番美しい正面を相手に向けて出します。そして客は、その心遣いに感謝して、正面を避けて遠慮して飲みます。
言葉にしなくても、「あなたを大切に思っていますよ」「あなたの心遣いを受け取りましたよ」というメッセージを交換し合う。
そこには、究極のコミュニケーションがありました。
スマホを見ながら適当に返事をし、テレビを見ながら食事をしていた自分を、私は深く恥じました。
「お茶を点てる」という行為は、単なる水分補給ではありません。
それは、「私は今、あなたの目の前にいます。私の心は、すべてあなたに向いています」という、愛の表明だったのです。
お茶室での時間は、逆説的(Paradoxical)な発見の連続でした。
狭い空間だからこそ、無限の宇宙を感じられる。
厳しいルールがあるからこそ、精神の自由が得られる。
一杯のお茶という消えてなくなるものだからこそ、永遠の絆を感じられる。
私の足は相変わらず痺れて、立ち上がるときには毎回生まれたての子鹿のようにプルプル震えていましたが(笑)、心の中には一本の太い柱が立ったような気がしました。
それは、「今、ここ(Here and Now)」を生きるという覚悟です。
生け花で空間を整え、和太鼓でエネルギーを循環させ、そして茶道で瞬間を愛する心を学ぶ。
これら3つの体験は、バラバラだった私のパズルのピースを埋めてくれました。
私は、何か新しい「スキル」を身につけたのではありません。
私は、「生きる姿勢(Stance of Life)」を学んだのです。
そして、この学びは、道場や教室の中だけで終わるものではありませんでした。
ふと気づいたのです。
「あれ? これって、毎日の台所仕事や、家族との時間にも、そのまま使えるんじゃない?」
最終章となる次回「結」では、私がこの特別な体験を、どのようにして「普通の主婦の日常」に落とし込んでいったのかをお話しします。
公民館を出て、スーパーの袋を下げて家に帰った私が見た景色は、以前とは全く違った色をしていました。
みなさんの毎日の暮らしにも、きっと小さな「道」は隠れています。
さあ、最後のお話の準備はいいですか?
台所こそが私の道場。日々の家事を「Kaji-Do(家事道)」に変えたら、退屈な毎日がアートになった話。
公民館の重い扉を開けて、夕暮れの街へと出た時、私の手にはスーパーの袋、頭の中には「今日の夕飯は何にしよう?」といういつもの悩みがありました。
でも、以前と決定的に違っていたのは、私の心持ちでした。
生け花で学んだ「引き算の美学」。
和太鼓で体感した「リズムとエネルギー」。
そして茶道で悟った「一期一会の心」。
これらは決して、教室の中だけで使う特別なスキルではありませんでした。家に帰り、散らかったリビングを見た瞬間、私の中でパチンとスイッチが入ったのです。
「あ、ここだ。ここが私の本当の道場(Dojo)なんだ」と。
かつて私は、家事を「終わらせなければならない義務(Duty)」だと思っていました。誰からも褒められず、給料も出ず、やって当たり前。それが「名もなき家事」の辛さだと、世界中の主婦のみなさんも共感してくれると思います。
でも、その日の私は違いました。
まず、キッチンのカウンター。
以前なら、郵便物や子供のお菓子、飲みかけのコップで溢れかえっていた場所です。
私はそこで、**「生け花モード」**を発動させました。
「これは本当に今、ここに必要?」
心の中でそう問いかけながら、不要なものをバサバサと片付けていきます(生け花で枝を切り落とすように!)。そして、一輪挿しに庭の小さな花を飾り、余白を作る。
するとどうでしょう。ただのキッチンカウンターが、まるで美術館のディスプレイのような「聖域」に変わったのです。
空間が整うと、不思議と呼吸が深くなり、イライラが鎮まるのを感じました。これが、生活の中に「道」を持ち込むということです。
次に、野菜を切る時。
これまでは「面倒くさいなあ」と思いながらダラダラと切っていました。
でも今は違います。**「和太鼓モード」**です(笑)。
包丁がまな板を叩く「トントン、トントン」という音を、音楽として楽しむのです。
「ハッ! セイヤッ!」
(心の中で)掛け声をかけながら、リズムに乗ってキャベツを刻む。姿勢を正し、丹田に力を入れて、無心になって刻む。
すると、ただの単純作業が、一種のエクササイズであり、瞑想の時間へと変わります。玉ねぎのみじん切りでさえ、リズムに乗ればエンターテインメントです。料理が終わる頃には、太鼓を叩き終わった後のような、心地よい疲労感と達成感がありました。
そして、夕食の時間。
仕事から帰って疲れた夫と、学校の話をしたくてたまらない子供たち。
以前の私なら、テレビをつけたまま「はいはい、早く食べてね」と流れ作業のように食事を済ませていたでしょう。
でも、ここには**「茶道モード」**があります。
食卓に並べるのは、高級な懐石料理ではありません。ごく普通のハンバーグや味噌汁です。
それでも、お茶碗の向きを丁寧に揃え、「どうぞ」と心を込めて出す。
「いただきます」と手を合わせるその一瞬、私は家族を「一生に一度しか会えない大切な客」として扱います。
「今日、このメンバーで、健康に食卓を囲めることは当たり前じゃない。奇跡なんだ」
そう思うと、子供がこぼしたご飯粒さえも、愛おしく見えてくるから不思議です(まあ、怒る時は怒りますけどね!笑)。
夫が「今日のご飯、なんか美味しいね」と言ってくれました。
味付けはいつもと同じです。変わったのは、作り手である私の「気(Qi / Energy)」と、食べる時の「場の空気」だけ。
「おもてなし」とは、相手のために高価なものを用意することではなく、相手のために自分の心のスペースを空け、その瞬間を共有することだと、茶室での体験が教えてくれました。
私はこれを勝手に**「家事道(Kaji-Do)」**と名付けました。
剣道や柔道と同じように、家事を通して精神を磨く道です。
洗濯物を畳むときは、布の感触を慈しむマインドフルネスの時間。
掃除機をかけるときは、部屋の邪気を払う清めの儀式。
お弁当を作ることは、食べる人の健康を願う祈りの芸術。
そう捉え直した瞬間、私の灰色のルーティンワークは、極彩色のクリエイティブな活動へと生まれ変わりました。
もちろん、毎日完璧にできるわけではありません。疲れてサボる日もあれば、イライラして「道」どころではない日もあります。人間だもの。
でも、「戻るべき場所」を知っているというのは、とても強いことです。
心が乱れたら、一度立ち止まって深呼吸し、「今はどのモードが必要かな?」と自分に問いかける。それだけで、生活のハンドルを自分自身の手で握り返すことができるのです。
海外に住む主婦のみなさん。
みなさんの住んでいる場所には、もしかしたら公民館も、和太鼓のスタジオもないかもしれません。
でも、大丈夫です。
あなたの家、あなたのキッチン、あなたのリビングルーム。そこがすでに、あなただけの素晴らしい「道場」なのです。
特別な道具も、高い月謝も必要ありません。
必要なのは、ほんの少しの「視点の転換」だけ。
日常の雑事の中に「美」を見つけ、単純作業の中に「リズム」を感じ、目の前の人との関わりに「一期一会」の感謝を持つこと。
それは、日本人が長い歴史の中で培ってきた、幸福に生きるための知恵であり、誰にでも実践できる魔法です。
私が日本の片田舎の「大人の部活動」で学んだことは、スキルの習得以上に、**「自分の人生を、自分で愛する方法」**でした。
何もないと思っていた日常が、実は宝の山だった。
そのことに気づけたことこそが、私にとっての最大の収穫です。
さあ、今日のブログはここでおしまいです。
長々とお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
私はこれから、愛用の急須でお茶を淹れて、窓から入ってくる秋の風を楽しもうと思います。これもまた、私にとっての大切な「茶会」ですから。
みなさんも、今日の夕飯の支度をする時、あるいは洗濯物を畳む時、ちょっとだけ「Kaji-Do」を意識してみてください。
きっと、いつもとは違う景色が見えてくるはずですよ。
それでは、また次の記事でお会いしましょう。
日本から、愛と感謝を込めて。
さようなら!

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