それって「放置」じゃないの? 「スローペアレンティング」という新しい羅針盤
こんにちは! 日本の片隅で、毎日「今日の晩ごはん、何にしよう?」と考えながら、二人の子どもと奮闘中の主婦、[あなたの名前や愛称]です。
海外で生活されている皆さん、特にお子さんをお持ちの皆さん。毎日、お疲れ様です!
慣れない土地での子育ては、日本で子育てするのとはまた違ったプレッシャーやタスクの嵐ですよね。言葉の壁、文化の違い、そして「現地の子どもたちに引けを取らないように」という見えない焦り…。
でもね、これって多分、世界共通の悩みだと思うんです。
何を隠そう、ここ日本でも「完璧な親」でいなきゃいけないプレッシャーは、それはもう凄まじいものがあります。
「ワンオペ育児」という言葉が流行語になるくらい、お母さん(たまにお父さん)が一人で家事も育児も仕事も全部回さなきゃいけない。
書店に行けば「時短」「効率化」「〇歳までに絶対させたい〇〇」なんていう見出しが踊っていて、SNSを開けば、完璧に整えられたお部屋で、栄養バランスばっちりの手作りおやつを子どもに食べさせている「キラキラママ」の投稿が溢れています。
日本には昔から「世間体(せけんてい)」という独特の感覚があります。
これは、「他人が自分(たち)をどう見ているか」をすごく気にする文化。
「〇〇さんのところのお子さん、もう英語習ってるんですって」
「うちの子だけ、まだ〇〇ができないなんて…」
集団の和を重んじる文化(これは日本の良いところでもあるんですが!)が、時として「みんなと同じじゃなきゃ」「平均より下回っちゃいけいない」という強烈なプレッシャーになるんです。
私もそうでした。
長男が生まれた時、「ちゃんとしなきゃ!」の呪縛にがんじがらめでした。
月齢に合わせた知育玩具を買いそろえ、スケジュール通りに離乳食を進め、泣けば即座に抱き上げ、「良い母親」のロールプレイングに必死でした。
でも、現実は?
寝不足でイライラし、スケジュール通りにいかない子どもに焦り、ふと鏡を見れば、そこにいたのは「幸せな母親」ではなく、「タスクに追われて疲弊した女」でした。
「私、何のためにこんなに頑張ってるんだっけ…?」
そんな風に、育児書と現実のギャップに溺れかけていた時、ふと目にしたのが**「スローペアレンティング(Slow Parenting)」**という言葉でした。
正直、最初の印象は最悪でした。
「スロー…? ゆっくり?」
「え、それって“放置”ってことじゃないの?」
「ただの“手抜き”を、それっぽい言葉で言い換えてるだけじゃない?」
だって、日本では「ゆっくり」とか「のんびり」って、子育てにおいてはあまりポジティブな言葉として使われないことが多いんです。「テキパキ」「しっかり」「効率よく」が正義、みたいな。
だから、この「スローペアレンティング」という言葉に、最初はものすごく抵抗を感じました。真面目な日本人(自分で言うのもなんですが。笑)として、「怠惰」のレッテルを貼られるのが怖かったのかもしれません。
でも、気になって調べていくうちに、私の抱いていたイメージが180度変わったんです。
「スローペアレンティング」は、「何もしない」ことじゃなかった。
むしろ、これまでの私とは比べ物にならないくらい、「大切なこと」に意識を集中させることでした。
この考え方に出会って、私は「ちゃんとしなきゃ」という日本の「世間体」の呪縛から、少しだけ自由になれた気がします。
今日は、この「スローペアレンティング」という考え方が、いったいどういうものなのか。そして、それがなぜ、私たち現代の「全部やらなきゃ」プレッシャーに苦しむ親たちにとって、救いになるのか。
私が日本で生活する中で感じている「あるある」なプレッシャーと対比させながら、解き明かしていきたいと思います。
哲学①:「モノ(Presents)」より「今、ここにいる(Presence)」
まず、スローペアレンティングが教えてくれた一番大きなことは、**「量より質」という考え方です。
特に、「プレゼント(モノ)」より「プレゼンス(存在、今ここにいること)」**が大事だ、ということ。
日本は幸いなことに経済的に豊かで、子ども向けのモノで溢れています。
高価な知育玩具、ブランド物の子供服、何種類もの習い事…。
私も、子どもに「何かを与えなきゃ」と必死でした。
「これをやらせれば頭が良くなるかも」
「あれを持っていれば、周りから“ちゃんとした家庭”だと思われるかも」
今思えば、それって全部、親である私自身の不安や見栄を満たすためのものだったんですよね。
でも、スローペアレンティングの哲学は真逆。
高価なおもちゃを買い与えることよりも、ただ、子どもの隣に座って、その子が今、夢中になっていること(それがたとえ、ただの石ころ集めでも!)に、親も一緒に心を寄せること。
実体験として、こんなことがありました。
息子の誕生日に、当時大流行していた知育ブロックの豪華セットを買い与えたんです。私は「これで息子の創造力が爆発だ!」なんて息巻いていました。
でも、息子が一番喜んだのは、そのブロックが入っていた「巨大な段ボール箱」でした。
彼はその箱に入ったり、上に乗ったり、クレヨンで絵を描いたり…半日以上、その「ただの箱」で遊び倒していました。
その時、ハッとしたんです。
子どもが必要としていたのは、高価な完成されたオモチャじゃなくて、「自分で工夫できる余地(=余白)」と、「それを見て一緒に笑ってくれるお母さん」だったんだな、と。
日本の生活の知恵には、「もったいない(Mottainai)」という素晴らしい言葉がありますよね。これは単なる節約じゃなく、モノに宿る命や背景を大切にする心。
スローペアレンティングは、この「もったいない」精神に似ている気がします。
モノをたくさん消費すること(量)で満足するんじゃなくて、今あるモノや、今ある時間、目の前にいる存在(質)を、とことん味わい尽くす。
子どもと過ごす「今」という時間を、他の何にも代えがたい「ギフト」として受け取る。それが第一歩なんだと気づかされました。
哲学②:「競争(Competition)」より「つながり(Connection)」
次によくある誤解が、「スロー」=「子どもの成長に無関心」というもの。
これも大きな間違いです。
スローペアレンティングは、「競争」から「つながり」へと、親の視点をシフトさせることを意味します。
先ほども話した「世間体」ですが、日本では「平均」とか「普通」という物差しが、とても強い力を持っています。
母子手帳にある「成長曲線」から少しでも外れれば不安になり、
「〇〇ちゃんはもうオムツが取れたのに」
「うちの子だけ、まだ字が書けない」
公園デビュー、ママ友ランチ、習い事…あらゆる場所で、私たちは無意識に「競争」の土俵に立たされています。
この「比較」のプレッシャー、海外にお住まいの皆さんも、日本人コミュニティや現地のスクールで感じたことはありませんか?
スローペアレンティングは、その「競争のレール」から、あえて降りることを推奨します。
それは、子どもの成長を諦めることじゃありません。
「よその子」と比べる物差しを捨てて、「その子自身」のペースという、たった一つの物差しを信じることです。
うちの娘は、言葉が出るのが少しゆっくりでした。
周りの同じ月齢の子たちが「ママ、ブーブー」と話し始める中、娘はずっと「あー」「うー」。
正直、焦りました。
「もしかして、私の育て方が悪いの?」
「検診で何か言われたらどうしよう…」
ここでも「ちゃんとしなきゃ」プレッシャーが私を襲います。
でも、スローペアレンティングの考え方に触れて、「比べるのをやめてみよう」と決めました。
その代わり、娘が「あー」と言ったら、私も「あー」と返してみる。
娘が指差すものを、一緒にじーっと見つめてみる。
言葉(=競争の指標)ではなく、表情や仕草、目線(=つながり)に集中してみたんです。
そうしたら、見えてきたんです。
娘は言葉にはしないけれど、「あの花、きれいだね」「このご飯、おいしいね」って、全身で「対話」しようとしてくれていたことに。
言葉が遅いんじゃなくて、言葉よりもっと深いところで「つながり」を求めていたのかもしれない。
そう思えた時、他人と比べる焦りから解放され、娘との「今」が、とても愛おしくなりました。
哲学③:「Do it all(全部やる)」からの卒業
そして、これが現代の母親(もちろん父親も!)にとって一番の「福音」かもしれません。
スローペアレンティングは、**「全部やらなきゃ」という完璧主義の呪いへの、強力なカウンター(対抗策)**になります。
日本人は(そして、海外で頑張る皆さんもきっと)、「完璧主義」に陥りやすい傾向があると思います。
仕事も完璧に、家事も完璧に、育児も完璧に。
でも、そんなの、無理じゃないですか?(笑)
スローペアレンティングは、「あれもこれも」と子どものスケジュールを習い事や予定で埋め尽くすことを良しとしません。
それは、親の不安を解消するためでしかなく、子どもの「今」を奪っているかもしれないから。
それよりも、あえて**「何もしない時間」**をスケジュールに組み込むことを推奨します。
子どもがただ、ぼーっと空を眺めている時間。
親が、家事をそっちのけで、子どもと一緒にお昼寝してしまう時間。
これって、日本の伝統的な美意識である**「余白(よはく)の美」**に通じると思うんです。
日本画や生け花、和室の空間がそうであるように、すべてをギチギチに埋め尽くすのではなく、あえて何もない空間(余白)を残すことで、全体の豊かさや奥行きが生まれる。
子育ても同じじゃないでしょうか。
スケジュールで埋め尽くされた「完璧な一日」よりも、
親子の間に「余白」があることで、
子どもは自分で考える時間を持てるし、
親は子どもの小さな変化に気づく余裕が生まれる。
「全部やる」のをやめる。
「デキる親」を演じるのをやめる。
それは「手抜き」や「放置」ではなく、
**本当に大切なこと(子どもの目を見て話を聞くこと、一緒にご飯を食べて「美味しいね」と言うこと)にエネルギーを注ぐための、勇気ある「選択」**なんです。
…と、ここまで「スローペアレンティング」の哲学について熱く語ってきましたが、いかがでしたでしょうか。
「起」のまとめとして言いたいのは、
スローペアレンティングは、親が楽をするための「手抜き育児」の言い訳ではありません。
むしろ、情報やモノ、プレッシャーに流されず、**「我が家にとって、本当に大切なものは何か」**を常に考え、選び取っていくという、とても能動的で、勇気がいる「人生術」なんだと思います。
それは、日本の「世間体」や「完璧主義」という分厚い壁に、真っ向から立ち向かうことでもあります。
「じゃあ、具体的にどうやって日本の生活の中で実践してるの?」
「“ゆっくり”なんて言ってたら、日本じゃ置いていかれない?」
そんな声が聞こえてきそうです。
次回の「承」では、理想と現実のギャップに悩みながらも、私が日本の日常で試行錯誤している、超具体的な「日本的スロー育児」の実践例(失敗談多め!)をご紹介したいと思います。
日本の「べき」を手放す勇気。我が家の「スロー」実践(失敗)記
皆さん、こんにちは!
前回の「起」の記事では、「スローペアレンティング」という考え方が、「放置」や「手抜き」とは似て非なるもので、むしろ「モノより存在(Presence)」「競争よりつながり」「量より質」を大切にする、とっても能動的な人生術なんだ!というお話をさせていただきました。
…と、理想を語るのは簡単なんですよね。
わかります。
「理屈はわかった。でも、それを『日本』で(あるいは『日本人』として)実践できると本気で思ってる?」
「周りがみんな“早期教育”に走ってるのに、うちだけ『ぼーっとさせましょう』なんて、不安でしかない!」
「『競争しない』とか言って、将来子どもが苦労したらどうするの?」
そうですよね! まさに、その「理想と現実のギャップ」こそが、私たちが一番苦しむところ。
「スロー」なんて悠長なことを言って、日本社会のレールから脱落していくんじゃないか、という「恐怖」。
海外にいても、現地のスクールや日本人コミュニティの中で、同じようなプレッシャーを感じている方は多いんじゃないでしょうか。
「べき」:「普通」はこうあるべき。「母親」はこうあるべき。「〇歳」ならこれができるべき。
この、目に見えないけれど強烈な日本の「べき」プレッシャーの中で、私自身がどうやって「スローペアレンティング」を(壮大に失敗しながら)実践しようとしているのか。
今日は、我が家の超・具体的な「実践(という名の七転八倒)記」をお話ししたいと思います。
これはもう、成功例というより「あ、こんな風に悩んで、もがいて、手放していいんだ」という共感記として読んでいただけると嬉しいです(笑)
実践①:恐怖の「習い事」問題。「余白」という名の最強の知育
まず立ちはだかるのが、子どもの「スケジュール」問題。
特に、日本では「習い事(ならいごと)」が本当に盛んです。
スイミング、ピアノ、英会話、公文式、最近ではプログラミング教室まで…!
長男が3歳になった頃、来ましたよ、第一波が。
公園で会うママ友さんたちから、「〇〇くん、スイミング始めたんだって」「△△ちゃんは英語の体験レッスン行くらしいよ」という情報が飛び交い始めます。
もう、焦る、焦る。
「うち、何もやってない…! ヤバい!」
「このままじゃ、この子の可能性を私が潰してしまうんじゃ…?」
完全に「競争」の土俵に上がっていました。
そこで、私も例に漏れず、「ちゃんとしなきゃ」を発動。
近所の英会話教室、リトミック、スイミングの体験をハシゴして、息子を(半ば無理やり)週3で通わせることにしたんです。
「これで私も“ちゃんと”してる母親だ」と。
結果、どうなったか。
もう、最悪でした(苦笑)。
まず、私がしんどい。
レッスンの時間に合わせて、お昼寝を調整し、軽食を持たせ、雨の日も風の日も自転車をかっ飛ばして送迎。
息子は息子で、場所見知り&人見知りなのに、毎週違う環境に放り込まれ、最初の10分は必ず泣いている。
家に帰れば、親子ともどもヘトヘト。
夕飯の準備をする気力もなく、イライラしながら「早く食べて!」「お風呂入るよ!」と、子どもを「タスク」として処理する日々。
英会話を習わせているのに、家で親子でゆっくり「対話」する時間がない。
子どもの「可能性」を広げたいはずなのに、子どもの「今、遊びたい」という気持ちを犠牲にしている。
これ、何かが根本的に間違ってる。
そこで、勇気を出しました。
英会話とリトミック、スパッと辞めました。
(スイミングだけは、命に関わるかなと思って残しましたが…笑)
もちろん、怖くなかったかと言えば、嘘になります。
「辞めて、本当に大丈夫?」
「周りの子はどんどん賢くなってるのに」
「お金の無駄だったかな…」
いろんな雑念が頭をよぎりました。
でも、週2日の「予定」を手放したことで、我が家に何が戻ってきたか。
それは、**「何もしない時間(余白)」**でした。
夕方、習い事に行かなくてよくなった日。
息子と二人で、ただただ、意味もなく公園を散歩しました。
息子は、いつもは通り過ぎるだけだった道端のアリの行列を、15分間、ずーっとしゃがみ込んで見ていました。
「ママ、アリさん、おうち帰るのかな」「これ、運んでるの、なにかな」
普段、せかされてばかりの息子から、こんなに「問い」が出てくることに驚きました。
私も、「早くしなさい!」というセリフを言わなくていい。ただ、隣で「そうだねぇ、重そうだねぇ」と相槌を打つ。
これだ、と思いました。
「スローペアレンティング」が言う「Presence(今、ここにいる)」って、このことだったんだな、と。
高額な教材やレッスンが「知育」なんじゃなくて、子どもが自分の興味で立ち止まった時、親がその時間を「無駄」だと切り捨てず、一緒に付き合ってあげられること。
その「余白」こそが、子どもの好奇心や思考力を育む、最強の「知育」なんじゃないか。
今でも、魅力的な習い事のチラシを見ると心は揺れます(笑)。
でもその度に、あのアリの行列を思い出すんです。
「この子のスケジュール、埋めすぎてない?」
「“私”の不安を解消するために、この子の“余白”を奪ってない?」
そう自問自答することが、我が家の「スロー」な実践です。
実践②:「お手伝い」という名の罠。「効率」より「一緒」を選ぶ
二つ目の実践は、日常生活の「家事」です。
海外にいると、日本ほど便利じゃないことも多くて、家事に時間が取られることもありますよね。
日本にいても、主婦の家事タスクは無限です。
子どもが「やりたい!」と言い出す、魔の2~3歳期。
「お手伝い」は子どもの成長に良い、なんて言われますが、皆さん、本音はどうですか?
(……自分でやった方が、100倍早いですよね!?)
洗濯物をたたむ、と言ってはぐちゃぐちゃにされ、
料理を手伝う、と言っては床中に小麦粉をぶちまけられ、
掃除機をかける、と言っては家具にガンガンぶつける…。
「あー! もう! どいてて!」
「効率」を求める私と、「やりたい」子どものせめぎ合い。
ここでも「ちゃんとしなきゃ」の呪いが発動します。
「効率よく家事を終わらせて、栄養満点のゴハンを作って、ピカピカの部屋で、ニコニコしていなきゃ」
これが日本の「デキる主婦」像。
でも、「効率」と「育児(スローな)」は、水と油くらい相性が悪いんです。
ある日、私が夕飯の餃子を必死で包んでいた時のこと。
娘が「わたしも!」とやってきました。
(うわぁ…一番面倒なタイミングで…)
というのが、私の正直な心の声です。
「今日はママが急いでるから、あっちで遊んでて」
そう言いかけた時、ふと「起」で書いた「競争よりつながり(Connection)」という言葉を思い出しました。
今、私は「餃子をキレイに時間通りに完成させること(=競争?成果?)」を優先しようとしている。
でも、娘は「ママと“一緒”に何かをすること(=つながり)」を求めている。
どっちが大事だっけ?
私は、深呼吸して、答えました。
「いいね! じゃあ、こっちの皮に“魔法のお水”(※ただの水)を塗るお仕事、お願いできる?」
そこからの30分は、カオスでした(笑)。
皮はフニャフニャ、餡ははみ出し、娘の手はベトベト。
出来上がったのは、餃子と呼ぶのもおこがましい、「何か」。
「効率」はマイナス100点です。
でも、娘は、自分が「役に立った」こと、ママと「一緒」に作れたことが、本当に嬉しそうでした。
そして、その不格好な「何か」を、「わたしがつくったの!」と、人生で一番美味しそうに食べたんです。
その時、悟りました。
「お手伝い」って、家事を「分担」させることじゃない。
子どもを「労働力」として見ることじゃない。
生活(=生きること)の作業を、面倒なことも含めて「一緒」に体験すること。
それ自体が「つながり」を深める時間だったんだ、と。
「スローペアレンティング」は、「家事が遅れること」を許容すること。
「効率」を手放す代わりに、子どもが「自分は家族の一員として価値がある」と感じられる「つながり」を選ぶこと。
時間がかかる。イライラもする。でも、その価値は、ピカピカの床や完璧な餃子より、ずっと上にある。
そう信じて、今日も床にこぼれた小麦粉を(ため息混じりに)片付けています。
実践③:「完璧な母」の仮面を脱ぐ。「レトルト」がくれた心の余白
最後の実践は、何より「自分自身」に対してです。
日本で(きっと海外でも)、母親は「完璧」を求められがち。
「母の味」という言葉に象徴されるように、手作りのバランスが取れた食事(一汁三菜とか!)。
清潔な服、整頓された家。
そして、何より「いつも笑顔で、穏やかな母」。
…無理じゃないですか?(大声)
私は、無理でした。
特に、寝不足とホルモンバランスの嵐だった、産後。
「完璧な母」になれない自分を、毎日責めていました。
部屋が散らかっている。ゴハンが手抜きだ。子どもにイライラしてしまった。
私って、母親失格だ…。
そんな時、スローペアレンティングの哲学は、私に「それでいい」と言ってくれた気がしました。
「Do it all(全部やる)」のを、やめていいんだよ、と。
「スロー」とは、「完璧」の対極にある概念。
子どもを「完璧なスケジュール」で管理するのをやめるように、
「完璧な母親」を演じるのも、やめてみる。
私が具体的に手放したのは、「毎日、すべて手作り」という呪縛です。
日本は、本当に便利で美味しい「中食(なかしょく)」(お惣菜やレトルト)が充実しています。
でも、どこか「手抜き」「罪悪感」というイメージがつきまといますよね。
ある日、本当に疲れ果てて、晩ごはんを作る気力がゼロになった日がありました。
以前の私なら、それでも無理やりキッチンに立っていたでしょう。
でも、その日の私は、夫に「ごめん、今日はレトルトカレーでいい?」とLINEしました。
そして、子どもたちにも「今日はママ、疲れちゃったから、カレー屋さんごっこしよ!」と宣言。
お皿にご飯をよそって、レトルトカレーをかけただけ。
サラダも、副菜も、ない。
でも、どうでしょう。
子どもたちは「わーい!カレーだ!」と大喜び。
私も、キッチンでイライラ格闘する30分が浮いたおかげで、子どもたちと「どの福神漬けがいい?」なんて笑いながら食卓を囲めたんです。
食事は、栄養を摂るためだけじゃなく、「家族のつながり」の時間でもある。
栄養バランスが完璧でも、母親がイライラして「早く食べなさい!」と怒鳴っている食卓と、
レトルトカレーでも、家族が「美味しいね」「楽しいね」と笑い合える食卓。
「スローペアレンティング」が目指すのは、間違いなく後者です。
「完璧な食事」より、「穏やかな母親(の心の余白)」。
「全部やる」のをやめて、「一番大事なこと(=心のつながり)」を選ぶ。
日本の美味しい冷凍餃子やレトルト食品は、私たち主婦が「スロー」になるための、最強の味方なんです。
…と、我が家の「スロー」実践(失敗)記、いかがでしたでしょうか。
「習い事」「お手伝い」「毎日のごはん」。
どれも、日本の「べき」というプレッシャーが強くかかる場面です。
スローペアレンティングの実践は、この「べき」に一つひとつ立ち向かい、
「周り」の正解じゃなく、「我が家」の心地よいペースを探していく、地道な作業なんだと思います。
それは、周りから見たら「手抜き」「適当」と見られる「恐怖」との戦いでもあります。
じゃあ、そんな風に「我が家のペース」を貫こうとした時、
外の世界…例えば、日本の「学校」や「義理の親」といった、もっと大きな「べき」と衝突したら、どうなるのか?
次回の「転」では、この「スロー」な我が家が、日本の「集団主義」とぶつかった時の大事件(笑)について、お話ししたいと思います。
激突!「みんなと一緒」の壁。運動会で、私は“ダメな母親”の烙印を押された
こんにちは!
「レトルトカレー万歳!」と、肩の力を抜くことを覚え始めた[あなたの名前や愛称]です。
前回の「承」の記事では、習い事、お手伝い、毎日のご飯といった「家庭内」での実践(と、私の見事な失敗の数々…)をお話ししました。
家の中という「守られた聖域」でなら、スローペアレンteralィングは、まあ何とか実践できるんです。
「効率」より「つながり」を。
「完璧」より「心の余白」を。
そう自分に言い聞かせながら、「我が家のペース」という、小さくて心地よい流れを、確かに作り出せていた…
そう、あの日までは。
そう。家庭という「内側」で築き上げた私たちの「スロー」な価値観が、
日本の「外側」…つまり、「世間」や「社会」という、強大な「べき」の塊と、真正面からぶつかる日がやってきたんです。
海外にお住まいの皆さんも、一度は「洗礼」を受けたことがあるかもしれません。
日本の「集団主義(しゅうだんしゅぎ)」という、巨大な壁。
それは、「和を以て貴しとなす」という美しい文化であると同時に、「みんなと違うこと」を許さない、強烈な同調圧力(どうちょうあつりょく)でもあります。
そして、その「集団主義の祭典」と呼んでも過言ではない、一大イベントが、息子の幼稚園で開かれました。
そう、「運動会(うんどうかい)」です。
日本の運動会って、ちょっと特殊ですよね。
海外(特に欧米)の「Sports Day」が、個人の記録や「楽しむこと」に重きを置くことが多いのに対し、日本の運動会は、まさに「集団行動の発表会」。
寸分の狂いもなく行進し、全員で声を合わせ、ピシッと揃ったダンス(お遊戯)を披露する。
そこでは、「個人の輝き」よりも「集団としての完成度」が何よりも評価されます。
正直、私はこの運動会というものが、昔から少し苦手でした。
そして、「スロー」に育ってきた(というか、私が「スロー」に育ててしまった)息子が、この集団行動の祭典で、ちゃんと「みんなと一緒」にできるのか…
不安しかありませんでした。
案の定、練習の段階から、雲行きは怪しかった。
先生からは、連絡帳にやんわりとこう書かれていました。
「〇〇くんは、お遊戯の時間、お友達と列を揃えることよりも、グラウンドの隅で見つけたダンゴムシに夢中になってしまうことが多いです(笑)」
(笑)、じゃないんですよ、先生…!
私は焦りました。
「スローペアレンティング」は? 「競争よりつながり」は?
そんな高尚な哲学は、この「運動会」という巨大な「べき」の前では、一瞬で吹き飛びました。
「お願いだから、今日だけは『普通』にやって!」
「なんでみんなと同じことができないの!」
家で、必死にダンスの練習をさせようとする私。
「競争」の土俵に、私自身が息子を無理やり引きずり上げていました。
そして、運命の当日。
朝4時起きで場所取りをする夫。
重箱に詰め込んだ、見栄えだけは完璧な(でも、昨晩から仕込んでヘトヘトな)お弁当。
ビデオカメラを回す、じいじとばあば(義理の両親です、ええ)。
「世間体」のフルコース。もう、プレッシャーで吐きそうでした。
事件は、息子の「かけっこ」で起こりました。
「よーい、ドン!」
ピストルの音で、5人の子どもたちが一斉にスタートしました。
息子も、練習不足の割には、まずまずのスタート。
(よし、このまま! このまま「普通」に走り切ってくれ…!)
私がカメラを握りしめ、そう祈った、次の瞬間でした。
隣のレーンを走っていたお友達が、派手に転んでしまったのです。
「あ!」
その瞬間、なんと、息子は、ピタッと足を止めたんです。
ゴールは、目の前。
他の子たちは、脇目もふらずゴールテープに向かって突進していく。
観客席の親たち(私も含めて)は、
「いけー! 走れー!」
「〇〇ちゃん、抜かせー!」
と、大絶叫。
そんな中、息子は、たった一人、逆走…とまではいきませんが、歩み寄るようにして、転んだお友達の前にしゃがみ込みました。
そして、泣いているその子の手を、引こうとしたんです。
「…………え?」
会場の「ゴー!」という熱狂から、一瞬、私だけが切り離されたようでした。
「何やってんの!?」
「ゴールはそっちじゃない!」
口から出かかったその言葉を、私は飲み込みました。
結局、二人は、先生に促されるまで、そこでお互い顔を見合わせていました。
もちろん、結果は、ビリ。ダントツの最下位です。
息子のとった行動。
それは、私が「スローペアレンティング」の本を読んで、
「競争より、つながりが大事よね」
「他人の痛みに共感できる子に」
なんて、理想として語っていた、まさに「それ」でした。
でも。
でも、です。
その「理想」が、日本の「現実」のど真ん中で起きた時、
私が感じたのは、「誇らしさ」なんかじゃありませんでした。
強烈な「恥ずかしさ」と、「焦り」でした。
レースの後、私は色々な「視線」に晒されることになります。
まず、周りのママ友さんたちの、哀れむような、でもどこか「うちは違ってよかった」というような、複雑な視線。
「〇〇くん、優しいねぇ〜(でも、ちょっと、ねぇ?)」
という、括弧の中の言葉が聞こえてくるようでした。
そして、極め付けは、先生からの「お言葉」。
レースが終わった後、わざわざ私のところにやってきた担任の先生は、満面の笑顔で、こう言いました。
「お母さん。〇〇くん、本当に心が優しいですね」
「でも、運動会は『ルール』を学ぶ場でもありますから」
「『最後まで諦めずに、自分の力を出し切ること』も、集団生活ではとっても大切なことなんですよ、と、おうちでもお話ししてあげてくださいね」
…皆さん、これ、わかりますか?
これ、日本語の「翻訳」が必要です。
100点満点の、**「あなたの家庭教育は、間違っていますよ」**という、通告です。
「優しい」という言葉で包んでいますが、要するに、
「あなたの子どもは、集団のルールを乱しました」
「競争の場で『優しさ』を出すなんて、TPOが分かっていません」
「(あなたが『スロー』とか甘っちょろいこと言ってるから)子どもが『普通』に育たないんですよ」
という、強烈なダメ出しです。
私は、もう、顔から火が出る思いでした。
「はい…すみません…」「家でもよく言っておきます…」
そう言って、頭を下げることしかできませんでした。
そして、トドメの一撃。
帰宅後、一緒に観戦してくれた義理の母が、重い口を開きました。
「ねえ、[私の名前]さん」
「あなたの教育方針は、立派だと思うわ」
「でもね、あの子が可哀想よ」
「あの子は、これからずっと、日本で生きていくのよ」
「『普通』じゃない子は、『変わってる子』は、この国では本当に苦労するの」
「今、あなたが『競争』から守ってあげているつもりでも、それは、あの子が将来もっと大きな競争に負けるように、弱くしているだけじゃないかしら」
………。
完敗でした。
ママ友の視線。
先生(=学校・社会)からの「指導」。
義母(=身内・伝統)からの「忠告」。
私が「内側」で大切に育ててきた「スロー」という小さな苗は、
日本の「外側」から浴びせられた「集団主義」と「世間体」という名の嵐によって、
根こそぎ引き抜かれそうになっていました。
「スローペアレンティング」なんて、ただの自己満足だったんじゃないか。
所詮、日本という「競争社会」「同調圧力社会」では通用しない、夢物語だったんじゃないか。
私は、「普通」の幸せ(=みんなと同じであること)から、息子を遠ざけている、
誰よりも「ダメな母親」なんじゃないか…?
私の信念は、グラウンドの真ん中で立ち尽くした息子のように、
ゴールを見失い、完全に崩壊寸前でした。
物差しは、自分で作る。私の「スロー」は、日本(ここ)で息をする
皆さん、こんにちは。
あの「衝撃の運動会」から数週間。なんとか正気を取り戻した[あなたの名前や愛称]です。
前回の「転」の記事。読んでくださった方から、
「わかる、分かりすぎる…!」
「私も同じことで義母と戦いました(泣)」
「海外の日本人コミュニティも、全く同じ圧があります」
と、たくさんの共感の声をいただきました。
そう、私たちはみんな、見えない「普通」という名の化物(ばけもの)と、日々戦っているんですよね。
あの運動会の日。
先生からの「ご指導」、ママ友たちの「視線」、そして義母からの「あの子が可哀想」という、愛あるが故の、最も重いパンチ。
私は、完全にノックアウトされました。
家に帰って、空っぽの重箱を洗いながら、涙が止まりませんでした。
「スローペアレンティング」なんて、私のエゴだった。
日本という社会で生きていくには、甘すぎる理想論だった。
私が「余白」なんて与えたせいで、息子は「競争」のルールも、「集団」の空気も読めない子になってしまった。
あの子が将来「普通」になれなくて苦労するとしたら、それは全部、私のせいだ…。
私は、やっぱり「ダメな母親」だ。
「ちゃんとしなきゃ」の呪縛から卒業したはずだったのに、気づけば、もっと強力な「“普通”にしなきゃ」という呪縛に、がんじがらめになっていました。
その夜。
私は、すっかり自信をなくして、運動会のビデオカメラを再生する気力もありませんでした。
でも、夫は違った。
「まあ、見てみようよ。あいつ、すごかったじゃん」
「どこがよ! ビリだったじゃない!」と八つ当たりする私をよそに、夫はテレビの電源を入れました。
そこに映っていたのは…。
確かに、ピストルの音に驚き、キョロキョロし、途中で立ち止まる、締まらない息子の姿。
でも、そこには、私が「恥ずかしい」と目を背けた、もう一つの「真実」も映っていました。
転んだお友達の前に、ためらいなく駆け寄る姿。
ビリになるとか、怒られるとか、そんな計算は一切ない顔で、
ただ、泣いている友達を、困ったように、でも真っ直ぐに見つめている、息子の「目」。
そして、助け起こそうと、小さな手を、必死に差し出している姿。
その時、夫がポツリと言いました。
「俺さ、あいつが1位取るより、こっちの方が100倍嬉しいけどな」
「だって、転んだヤツを笑うでもなく、無視するのでもなく、助けに行けるって、最強じゃない?」
「『ルール』とか『普通』とか、そんなもんより、大事なことじゃん、これ」
………。
私は、何も言えませんでした。
「競争」という土俵で、「世間体」という物差しでしか、息子の行動を測れなくなっていたのは、誰?
先生でも、義母でもない。
この私自身でした。
私が、あの日息子に教えていたはずの「スロー」な哲学。
「競争より、つながりが大事」
「量(順位)より、質(優しさ)が大事」
息子は、あの土壇場で、私なんかが教えるよりずっと完璧に、それを「実践」して見せたんです。
なのに、当の私本人が、それを「間違いだ」と断罪しようとしていた。
なんと、恥ずかしい。
「ダメな母親」という意味合いが、180度変わりました。
息子の本質を信じてやれなかった、私が一番「ダメ」だった。
次の日。
私は、義母に(ちょっと勇気がいりましたが)電話しました。
「お義母さん、昨日はありがとうございました」
「あの…お義母さんの心配、よく分かります。私も、あの子が苦労するのは怖いです」
「でも、私、昨日、息子のことを、すごく誇りに思ったんです」
「あの子は、誰かに言われたからじゃなく、自分で『助ける』って選びました」
「もし、あの子が『普通』と違って『苦労』するとしても、私は、あの子のそういうところを『ダメだ』って言って消したくない。むしろ、そこを一緒に守ってあげたいんです」
「だから、もう少しだけ、うちの『スロー』なやり方を、見守ってもらえませんか」
電話の向こうで、義母は、ふかーいため息を一つついて、
「……本当に、あなたは頑固ねえ」
「まあ、いいわ。あの子は私にとっても可愛い孫だから。でも、何かあったら、すぐ言うのよ」
と、呆れたような、でも、少しだけ笑ったような声で言ってくれました。
私が、日本の「世間」と、初めて本気でぶつかって、勝ち取った(?)小さな「勝利」でした。
私たちの「スロー」は、日本で息をする
「スローペアレンティング」とは何だったのか。
あの運動会から、私なりの「結」が見えてきました。
これは、「社会のルールを無視していい」という話ではありません。
息子には、あの日、「かけっこは、最後まで走るのがルールなんだよ」と、ちゃんと教えました。
集団生活には集団のルールがある。それも生きていく上で大切な知恵です。
でも、「転」の記事で先生が言った、
「『最後まで諦めずに、自分の力を出し切ること』も、集団生活ではとっても大切なこと」
という言葉。
これ、本当でしょうか?
もちろん、それも大事。
でも、「集団」の中で、「自分の力(=競争力)」を出すこと「だけ」が、本当に一番「大切」なんでしょうか。
私は、息子があの日見せた、「集団」の中で、あえて「競争」を降りて、「つながり(優しさ)」を選んだ行動も、
それと同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に、「大切」なことだと、胸を張って言いたい。
日本の社会(学校や会社)は、確かに「前へならえ」で、「競争」に勝つことを求めます。
でも、私たちは、その物差し「だけ」で生きているわけじゃない。
「起」で触れた、日本の「余白の美」。
「承」で触れた、「効率」より「一緒」を選ぶ心の豊かさ。
日本には、「競争」や「効率」とは真逆の、美しい価値観も、ちゃんと息づいています。
「スローペアレンティング」とは、
「世間の物差し」を否定して、山にこもることじゃない。
「世間の物差し(=競争、普通、効率)」と、
「我が家の物差し(=つながり、余白、その子らしさ)」
その両方を、ちゃんと知ること。
そして、
「今は、どっちの物差しを使うのが、私たちは“幸せ”だっけ?」
と、その都度、面倒くさがらずに、家族で考え続ける「プロセス(過程)」そのものなんだと思います。
先生に「指導」されたら、へこむ。
義母に「忠告」されたら、グラつく。
それでいいんです。
完璧な親なんていない。完璧な「スロー」な親も、いない。
揺れながら、悩みながら、
「あ、今、私『世間の物差し』に毒されてたな」
「今、『ちゃんとしなきゃ』が発動してたな」
と、一歩下がって自分を客観視できること。
それこそが、「スローペアレンティング」が私にくれた、最強の「人生術」です。
海外で頑張る、あなたへ
今、これを読んでくださっている、海外で子育てを頑張る主婦の皆さん。
皆さんは、日本の「べき」と、現地の「べき」という、二つの大きな価値観の狭間で、私以上に揺れ動くことが多いかもしれません。
「日本人として、ちゃんとしなきゃ」
「現地の子に、遅れを取っちゃいけない」
二重のプレッシャーに、押しつぶされそうになることもあるでしょう。
でも、海外にいる皆さんだからこそ、気づけることがあるはずです。
「普通」なんて、国が変われば、いとも簡単にひっくり返る。
「常識」なんて、一歩外に出れば、「非常識」かもしれない。
絶対的な「普通」も「正解」も、この世にはない。
だとしたら。
私たち親がやるべきことは、「世間の正解」に子どもを当てはめることじゃなく、
子どもが、自分だけの「幸せの物差し」を、自分の手で作っていけるように、その土台を守ってあげることじゃないでしょうか。
そのためには、まず、私たち親自身が、
世間体(「ちゃんとした親」)の呪縛から、自由になること。
「モノ」を与えるより、ただ、子どもの「今」に寄り添うこと。
「競争」のレールから、時には降りる勇気を持つこと。
日本にいても、海外にいても。
「スローペアレンティング」は、完璧な育児法ではなく、
不完璧な私たちが、不完璧な子どもと、どうやったら「今、ここ」で笑い合えるかを考えるための、
**人生の「羅針盤」**なんだと、私は思います。
運動会のあの日、ビリでゴールした息子を、私は力いっぱい抱きしめました。
「ビリだったけど、ママ、〇〇のこと、世界で一番カッコいいと思ったよ」
息子は「ふーん?」と、よく分からない顔をしていましたが(笑)
相変わらず、彼はダンゴムシに夢中で、私をイライラさせる天才です。
でも、それでいい。
我が家の「スロー」は、日本のこの社会で、ちゃんと息をしています。
「べき」に揺らぎ、世間体に悩み、レトルトカレーに感謝しながら。
あなたの「スロー」は、今、どんな息をしていますか?

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