日本流デジタルデトックス:「何もない時間」と「アナログ遊び」が、我が家の絆を深めてくれた話

「スマホ、本当に必要?」リビングに流れる”サイレント”な時間への違和感

海外で暮らしていると、情報収集も、日本の家族との連絡も、スマホやPCが欠かせないですよね。日本に住んでいる私も、それはもう痛いほど分かります。というか、私も立派な「スマホ依存」の一人でした(今も、気を抜くとすぐですが!)。

我が家は、夫と、小学生の子どもが二人の4人家族。

ある日の夜、食事が終わって片付けも一段落したときのことです。

ふと顔を上げると、リビングには家族全員がいるのに、誰も言葉を発していないことに気づきました。

夫はソファで、スマホ片手にニュースサイトか何かを熱心に見ています。

子どもたちは、二人並んでリビングの端っこで、タブレット端末で動画を見たり、ゲームをしたり。

そして、何を隠そう、私自身も。

キッチンのカウンターに寄りかかりながら、スマホで明日の特売情報をチェックしたり、SNSをぼーっと眺めたりしていました。

「……静かだね」

思わずポツリと漏れた私の言葉に、誰も反応しません。

みんな、それぞれの「画面」に夢中だからです。

聞こえるのは、夫がスマホをスワイプする音と、子どもたちが見ている動画のかすかな笑い声だけ。

私たちは、確かに同じ空間に「いる」。でも、心は全員バラバラの場所に行っている。

物理的には「密」なのに、精神的には「疎」。

その光景に、私は何とも言えない「違和感」と、ほんの少しの「寂しさ」を覚えました。

もちろん、デジタル機器が悪いわけじゃない。

私も料理のレシピはスマホで検索するし、子どもたちが動画で新しいダンスを覚えるのを見ると「すごい時代だなぁ」と感心します。夫だって、仕事で疲れて帰ってきて、一人でリラックスしたい時間も必要でしょう。

でも、この「便利さ」と引き換えに、私たちは何かとても大切なものを手放してしまっているんじゃないか?

そんなモヤモヤが、その日を境に私の中でどんどん大きくなっていったんです。

私自身の子ども時代を思い返してみると、確かに「退屈」な時間はたくさんありました。

テレビ番組が終わったら、あとはもう砂嵐(笑)。やることがなくて、仕方なく兄とトランプをしたり、意味もなく外を走り回ったり、ただ縁側でぼーっと空を眺めたり。

でも、今思えば、その「何もない時間」に、私たちは色々なことを考えていた気がします。

「明日は何して遊ぼう」「どうやったらあの木に登れるか」

くだらないことばかりですが、自分で「楽しみ」を見つける力、想像力を働かせる時間だったんじゃないかと。

今の日本の子どもたちは、習い事や塾で本当に忙しい。

そして、その「スキマ時間」は、スマホやゲームが完璧に埋めてくれる。

「退屈だなぁ」と感じるヒマすらないんです。

これって、一見すると「効率的」で「充実している」ように見えるけど、本当にそうでしょうか?

「退屈」を経験しないまま大人になるって、どういうことなんだろう?

このままだと、私たち家族は、便利なガジェットに囲まれながら、お互いの顔も見ずに、大事な時間を見過ごしてしまうんじゃないか。

そんな焦りに似た気持ちが湧いてきました。

「このままじゃ、ダメだ」

そう思った私は、まず、自分からスマホを置いてみることにしました。

そして、夫と子どもたちを巻き込んで、あえて「不便」で「アナログ」な遊びを生活に取り入れてみることにしたんです。

それは、大げさに言えば「我が家の小さな革命」の始まりでした。

最初は「えー、ゲームしたい」「ママ、スマホ貸して」とブーブー言っていた子どもたち。

「今、大事なニュース見てるんだけど」と怪訝な顔をしていた夫。

そんな家族が、どうやって「アナログな遊び」の面白さに目覚めていったのか。

そして、その経験が、私たちの「家族のあり方」や「人生観」にどんな変化をもたらしたのか。

次の「承」では、私たちが押入れの奥から引っ張り出してきた「あるモノ」をきっかけに始まった、ドタバタだけど楽しい「アナログ・チャレンジ」の具体的なエピソードをお話ししたいと思います。

これは、日本に住む一人の主婦が、デジタル社会の中で「本当の豊かさ」とは何かを模索した、等身大の記録です。

海外で暮らす皆さんにとっても、家族との時間を考える「ヒント」になれば嬉しいです。

押入れの奥からこんにちは!「退屈」が「最高」に変わった、我が家のアナログ革命

さて、前回の「起」で、リビングに流れる「サイレントな時間」に違和感を覚え、「このままじゃダメだ!」と一念発起した私。

(前回のあらすじはこちら→リンク)

とはいえ、いきなり「今日からスマホ禁止!」なんて言っても、家族から大ブーイングが起きるのは目に見えています。夫も私も仕事で使うし、子どもたちだって友達との連絡はデジタル機器が中心の時代です。

大事なのは「禁止」することじゃなくて、「スマホより楽しい時間」を作ること。

そう思った私が目をつけたのが……そう、押入れの天袋(てんぶくろ=一番上の棚のことです)で、もう何年も眠っていた「あの箱」でした。

ガサゴソと音を立てて引っ張り出してきたのは、少しホコリをかぶった色あせた箱の山。

そう、**「ボードゲーム」**たちです!

日本で育った方ならお馴染みの「人生ゲーム」や「オセロ」。それに、私が子どもの頃に遊んだ、ルールも忘れかけたようなカードゲーム。

「うわ、懐かしい!これ、まだあったんだ!」

「ママ、これ何?絵が古い(笑)」

モノ珍しそうに寄ってくる子どもたち。夫も「ああ、こんなのあったな」と少し面倒くさそうな、でもちょっと懐かしそうな顔をしています。

「よし!今夜は『第一回・家族ボードゲーム大会』を開催します!」

私が高らかに宣言すると、案の定、子どもたちからは「えー…」「YouTube見たい」「ゲーム(デジタルのほう)やりたい」と不満の声が。

「まぁまぁ、一回だけ!一回やったら、あとは好きにしていいから!」

半ば強引に家族をリビングのローテーブルに集め、一番とっつきやすそうな「人生ゲーム」の箱を開けました。

プラスチックのお金、カラフルなコマ、小さなルーレット。

最初は「やり方わかんない」と面倒くさそうにしていた子どもたちですが、いざゲームが始まると、その場の空気が一変しました。

「やった!給料日だ!お金ちょうだい!」

「げっ、火事にあった…最悪だ…」

「パパ、ピンクの車に乗りたい!」

ルーレットを回す「カチカチカチ…」という音。

コマを一つひとつ手で動かす、あの感触。

紙でできたお札を数える、ザラザラとした手触り。

デジタルゲームの「ボタンを押したら自動で結果が出る」のとは、まったく違う「面倒くささ」が、そこにはありました。

でも、その「面倒くささ」こそが、コミュニケーションを生むんですよね。

「パパ、ずるい!お金ごまかしてない?」

「ママ、また借金してるよ!」

「あー!もう一回やらせて!」

スマホを眺めていた時には、絶対に生まれなかった「会話」と「本気の笑い声」が、リビングに響き渡りました。

特に驚いたのが、夫の変わりようです。

いつもはソファで難しい顔をしてニュースを見ていた夫が、誰よりも大人気なく「よっしゃー!トップでゴール!」とガッツポーズをしているんですから(笑)。

結局、その日は「一回だけ」の約束だったのに、気づけば3回もぶっ通しで遊んでいました。

「あー、面白かった!」「明日もやろうよ!」

寝る時間になって、そう言ってくれた子どもたちの顔は、動画を見ていた時よりもずっとイキイキしているように見えました。

この「ボードゲーム大会」の成功に、私はすっかり味をしめました。

「これは、いける!」

そう確信した私は、次に「週末アナログ・チャレンジ」と名付けた、いくつかの「不便な遊び」を企画してみたんです。

まず試したのが、「紙の地図で、近所を探検ごっこ」

今は、どこへ行くにもスマホの地図アプリですよね。音声で「次の角を右です」と案内してくれる。本当に便利。

でも、それって「自分で道を探す」楽しさを奪っているんじゃないか?と思ったんです。

そこで、本屋さんで近所の詳細な「紙の地図」を買ってきました。

そして、子どもたちに「今日は、この地図だけを使って、〇〇公園の先にある『秘密の広場』(←私が勝手につけた名前です)を探しに行きます!」と宣言。

もちろん、最初は「えー、スマホで調べれば一瞬じゃん」と不満げな子どもたち。

でも、地図を渡して「リーダーは君たちだ」と任命すると、途端に目が輝きだしました。

「こっちの道だと思う!」「あ、見て!地図にこのお寺、載ってるよ!」

「ママ、このマークは何?」

スマホの画面(=正解)を見るのではなく、自分たちの「目」で周りの景色と地図を見比べ、ああでもない、こうでもないと議論する。

道を間違えたら、また戻って、地図を見直す。

そのプロセスで、子どもたちが「自分で考えて、決断する」姿を目の当たりにしました。

普段、車で通り過ぎるだけだった道端に咲いている小さな花に気づいたり、見たことのない形のマンホールを見つけて大騒ぎしたり。

「目的地に着くこと」だけが目的じゃない、「道中そのものを楽しむ」という、すごく当たり前で、すごく大切なことを思い出させてもらいました。

そして、もう一つ、我が家に大きな変化をもたらしたのが、**「寝る前の10分間の儀式」**です。

今までは、寝る直前まで、家族それぞれがベッドでスマホを見ていました。

その時間を、「たった10分」だけ、アナログな時間に変えてみることにしたんです。

それは、「読み聞かせ」

「もう小学生なのに、読み聞かせ?」と、最初は子どもたちも照れくさそうでした。

でも、部屋の明かりを少し暗くして、私が昔読んでいた古い児童文学(日本には、世代を超えて読まれる名作がたくさんあるんです)を読み始めると、二人とも静かに耳を傾け始めました。

デジタルな音声ではなく、私自身の「声」で語られる物語。

電子書籍の均一な光ではなく、スタンドライトの温かい光に照らされる、少し黄ばんだ紙のページ。

私がページをめくる、「サラリ」という小さな音。

その空間には、何とも言えない「安心感」がありました。

物語の世界に浸りながら、いつの間にかウトウトと眠りにつく子どもたち。

これがいつしか、我が家の新しい「家族の儀式(ファミリー・リチュアル)」になりました。

今では、夫と私で交代で読んでいます。夫が読む日は、なぜか登場人物全員が低い声になるので、子どもたちとクスクス笑ったりしています(笑)。

ボードゲーム、アナログな探検、そして読み聞かせ。

私たちが始めたのは、そんな些細なことばかりです。

でも、これらの「アナログな遊び」を取り戻したことで、我が家には確実に「会話」と「笑顔」が戻ってきました。

スマホやタブレットが提供してくれる「受動的な楽しみ」もいいけれど、自分たちで工夫して、手と体と頭を使って生み出す「能動的な楽しみ」は、満足感がまったく違う。

そして、このアナログ・チャレンジを続けるうちに、私は「楽しかった」という感想以上に、もっと大きな「気づき」を得ることになったんです。

それは、子どもたちの「ある言葉」の変化でした。

以前は、ちょっとでも手持ち無沙汰になると「ヒマだー!」「ママ、スマホ貸して!」と言っていた子どもたちが、ある時から、その言葉を口にしなくなりました。

代わりに、「ねぇ、あの粘土どこだっけ?」「この段ボールで秘密基地作っていい?」と、自分たちで「退屈」を「遊び」に変えようとし始めたんです。

もしかして、私たちが躍起になって「楽しいこと」を与えなくても、子どもたちには元々「自分で楽しくする力」が備わっているんじゃないか?

そして、その力を発揮するために必要なのが、デジタル機器が埋めてくれていた、あの「退屈な時間」=「余白」だったんじゃないか?

この「退屈(Boredom)は、実は良いことなんだ」という発見。

次の「転」では、この「退屈がもたらす力」と、それが実は日本古来の文化や考え方にも通じているんじゃないか、という、ちょっと深い(?)人生観について、私なりに考えてみたことをお話ししたいと思います。

「何もしない」が最強の知恵?日本文化に眠る「余白」の力と、子どもの自立

前回の「承」で、我が家の「アナログ革命」が意外な成功をおさめたお話をしました。

(「承」をまだ読んでいない方はこちら→リンク)

あれだけ「ヒマだー!」「スマホ貸して!」と呪文のように唱えていた子どもたちが、自分から押入れをあさって粘土を探したり、いらない段ボールで秘密基地を作ったりと、自ら「楽しみ」を創造し始めたんです。

その姿を見て、私はただ「アナログ遊びって、やっぱり良いな」と思うだけではなく、もっと根本的なことに気づかされました。

それは、**「もしかして、私が一番『退屈』を恐れていたんじゃないか?」**ということです。

考えてみれば、私はずっと「子どもの時間をいかに埋めるか」ばかり考えていた気がします。

「退屈させちゃいけない」「何か有意義なことをさせなきゃ」

そんな強迫観念に、知らず知らずのうちに囚われていたんです。

子どもが「ヒマだ」と言う。

それは、親である私に対する「何か楽しいことを提供して!」という要求であり、それにすぐ応えられない自分は「親として不十分だ」と、どこかで感じていたんですね。

だから、その「退屈」という名の「穴」を埋めるために、一番手っ取り早いデジタル機器、つまりスマホやタブレットを「はい、どうぞ」と与えてしまっていた。

それは、子どもを静かにさせるためであると同時に、私自身が「ちゃんとお世話をしている」という安心感を得るためでもあったんだと思います。

でも、今回のアナログ・チャレンジを通じて、私はまったく逆の結論に達しました。

「退屈」は、敵じゃない。むしろ、子どもが成長するために絶対に必要な「栄養」なんだ、と。

「ヒマだなぁ」「何しようかなぁ」

この、何とも言えない手持ち無沙汰な時間。

これこそが、子ども(いや、大人もですが)の脳が、自分自身の力で動き出すための「助走期間」なんです。

デジタル機器が与えてくれる楽しみは、とても刺激的ですが、「受動的」です。

次から次へと、完成された面白いものが画面に現れる。自分で考える「スキ」がありません。

でも、「退屈」という状態に置かれると、人間は本能的にその「空白」を自分で埋めようとします。

「あ、あの段ボールで家が作れるかも」

「この粘土と、あそこに落ちてる枝を組み合わせたら、恐竜が作れるんじゃないか」

これが**「想像力」であり、「自立心」**の芽生えなんだと、私は確信しました。

そして、この「退屈」や「空白」をあえて大切にする考え方って、実はとても日本的なんじゃないか?と、ふと思ったんです。

海外に住んでいる皆さんも、日本の文化に触れる中で「余白(よはく)」や「間(ま)」という言葉を聞いたことがありませんか?

例えば、日本の水墨画(すいぼくが)。

西洋の油絵がキャンバスを隅々まで色で埋め尽くすことが多いのに対して、水墨画は、あえて何も描かない「白い部分(=余白)」をたくさん残します。

でも、その「余白」があるからこそ、私たちはそこに描かれていない風や空気、無限の広がりを「想像」することができますよね。

例えば、華道(かどう)や茶道(さどう)。

花瓶にギチギチに花を詰め込むのではなく、たった一輪の花と、その周りにある「空間」とのバランスを大切にします。

茶室も、ガランとしているように見えて、その「何もない空間」にこそ、お茶を飲むという行為に集中するための精神性が宿っています。

音楽や会話でも、そうです。

矢継ぎ早に言葉を続けるより、ふっと訪れる「間(ま)」があるからこそ、次の言葉が重みを持ったり、相手の真意を感じ取ったりできる。

日本文化は、古くから「何もないこと」を「無価値」とは考えませんでした。

むしろ、「あえて埋めない空間(=余白)」こそが、受け取る側の想像力をかき立て、物事の本質を豊かにする、という哲学を持っていたんだと思います。

これを、私の子育てに当てはめてみると……

私は、良かれと思って、子どもたちの時間を「習い事」や「デジタル機器」でギチギチに埋め尽くす、西洋の油絵のような子育てをしていたんじゃないか。

子どもたちが本来持っている「想像力」や「自分で考える力」を発揮するための「余白」を、親である私が奪ってしまっていたんじゃないか。

そう気づいた時、なんだか頭をガツンと殴られたような衝撃を受けました。

デジタルデトックス、アナログな遊び。

私たちが始めたことは、流行りのライフスタイルを試したかったわけじゃありません。

それは、日本文化が古来から大切にしてきた「余白の力」を、現代の家庭に取り戻すための、ささやかな挑戦だったんだと思います。

「何もしない時間」を、親が恐れないこと。

「退屈」を、子どもが自分で乗り越えるチャンスだと信じて、じっと待つこと。

これが、デジタル社会の真ん中で、子どもが「自分で考える力(=自立心)」を育むために、親ができる一番の「人生術」なんじゃないか。

スマホやタブレットは、もちろん便利な道具です。

私たち家族も、完全に手放したわけではありません。今も動画も見るし、ゲームもします。海外に住む皆さんにとっても、日本と繋がる大切なライフラインですよね。

でも、私たちは、意識的に「余白」を作ることに決めました。

「何もない、退屈な時間」を、家族のスケジュールの中に「あえて」組み込むことにしたんです。

それは、例えば「夕食後の30分は、全員デジタル機器をカゴに入れる」という単純なルールだったり、「日曜の午後は、あえて何も予定を入れない」というだけのことだったり。

その「余白」の時間に、何が生まれるか。

最初は、みんなソワソワしていました(笑)。

でも、その「何もない時間」が、私たち家族に「本当の豊かさ」とは何かを、静かに、でも確かに教えてくれることになったんです。

次の「結」では、この「余白」を手に入れた私たち家族が、最終的にどんな「幸せの形」を見つけたのか。

そして、この日本的な「余白の知恵」が、遠く離れた海外で頑張る皆さんの生活に、どう役立つのか。

私なりの「結論」をお話ししたいと思います。

画面の向こうより、目の前の君と。私たちが見つけた「本当の豊かさ」

「余白」を意識的に作り始めてから、数ヶ月が経ちました。

我が家のリビングは、どうなったか。

正直に言います。相変わらず、スマホもタブレットも、リビングのど真ん中にあります(笑)。

夫はニュースを見るし、私もレシピを検索するし、子どもたちだって友達とオンラインゲームをします。

私たちは、デジタル機器を「悪者」にして、家から追い出すことにはしませんでした。

だって、それはあまりにも不自然だし、無理がある。海外と日本を繋いでくれる大切な道具であることも、重々承知していますから。

でも、確実に変わったことがあります。

それは、リビングの「空気感」と「時間の流れ方」です。

以前は、押入れの天袋に追いやられていたボードゲームたちは、今やリビングの棚の、一番取り出しやすい場所に陣取っています。

「ママ、今日あれやらない?」

夕食後、私や夫にそう声をかけてくるのは、子どもたちの方になりました。

あれだけ嫌がっていた「寝る前の読み聞かせ」も、今では「今日は僕が読む番!」「昨日はパパだったから、今日はママ!」と、ちょっとした「儀式」の担当の取り合いになるほどです。

そして、何より大きな変化は、**「デジタル機器との付き合い方」**そのものに現れました。

以前は、子どもたちにとってスマホやタブレットは「退屈を埋めてくれる、魔法の箱」でした。

ただ、受動的に、次から次へと流れてくる動画やゲームを消費するだけ。

でも、「退屈な時間(=余白)」をたっぷり経験した彼らは、今、デジタル機器を「道具」として使い始めたんです。

この間、こんなことがありました。

「何もない日曜日」の午後、下の子が、例の段ボール秘密基地で一人、ブツブツと何か言っています。

「ここをこうして…あ、でも倒れる…」

どうやら、基地の「二階建て」に挑戦しているようですが、うまくいかない。

以前なら、そこでイライラして「あーもう!つまんない!ゲームする!」となっていたかもしれません。

でも、その日、彼はしばらくウーンと唸った後、私のところへ来てこう言いました。

「ママ、タブレット貸して。『段ボール 丈夫にする方法』って調べたい」

私は、心の中でガッツポーズをしました(笑)。

これです!

「退屈(=余白)」の中で、「二階建ての基地を作りたい」という**「自分発の目的」**が先に生まれた。

その目的を達成するための「手段」として、彼は「デジタル(情報)」を使おうとしている。

これは、ただ流れてくる動画を眺めているのとは、まったく質の違う「能動的な行動」です。

「余白」があったからこそ、「自分で考える力」が育ち、その力をサポートする「道具」として、デジタルが初めて意味を持った瞬間でした。

そして、この変化は、実は私自身に一番大きく起きたのかもしれません。

私は、親として「子どもの時間を有意義なもので埋めなくては」という強迫観念から、ようやく解放されました。

子どもが、ただ窓の外をぼーっと眺めていても、「あ、今、大事な『余白』の時間なんだな」と、安心して見守れるようになったんです。

それは、私に「退屈していい」という許可を出すことでもありました。

子どもたちが自分たちで遊び始めたことで、私にも「自分の時間」という「余白」が生まれました。

その時間、私はスマホでSNSをチェックする代わりに、何年も読んでいなかった小説を本棚から引っ張り出してきたり、ベランダで土いじりを始めたり、ただ熱いお茶を淹れて、その湯気をぼーっと眺めたり。

「何もしない」ことを、自分に許す。

スケジュールを詰め込むこと(=足し算)で安心するのではなく、あえて「何もしない」という「引き算」をすることで、心のスペースを取り戻す。

これこそが、日本の「禅」や「ミニマリズム」にも通じる、とてもシンプルで、とても強力な「人生術」なんだと気づきました。

さて。

この日本に住む一主婦の、小さな「アナログ革命」のお話。

これを読んで、今、海外の地で頑張っている皆さんは、どう感じられたでしょうか。

皆さんがいる場所は、日本よりもっと進んだデジタル社会かもしれません。

あるいは、言葉や文化の壁の中で、日本にいる時以上に、スマホが「命綱」になっているかもしれません。日本の家族や友人と繋がるために、SNSやビデオ通話は、絶対に手放せない大切な道具ですよね。

だからこそ、あえて提案したいんです。

その「繋がり」がデジタルだからこそ、**「目の前の、触れられる繋がり」**を、意識的に大切にしてみませんか?と。

海外での生活は、刺激的であると同時に、常に「緊張」と隣り合わせだと思います。

現地の文化に早く馴染まないと。

子どもの教育で、遅れをとってはいけない。

日本の親として、恥ずかしくないようにしないと。

そうやって、心も時間も「ギチギチ」になりがちです。

そんな時こそ、この日本的な「余白の知恵」を、お守りのように持っていてほしいんです。

完璧なスケジュールをこなせなくてもいい。

有意義な体験を、毎日子どもに与えられなくてもいい。

あえて、何もしない週末を作る。

あえて、スマホを全員カゴに入れて、「ヒマだねえ」と言い合いながら、どうでもいい話をする。

その「何もない時間」こそが、新しい土地で必死に根を張ろうとしている皆さんや、新しい環境で戦っている子どもたちにとって、息を整え、自分自身を取り戻すための「安全基地」=「余白」になるのではないでしょうか。

デジタルデトックスという、流行りの言葉で終わらせたくありません。

私たちが今回見つけた「本当の豊かさ」とは、そういうことでした。

それは、ピカピカの画面の中に流れる、誰かが作った「完璧なエンターテイメント」ではありませんでした。

それは、

何度も使って角が丸くなった、ボードゲームのお札の手触り。

「あーでもない、こーでもない」と言いながら、紙の地図につけた、たくさんの指紋。

寝る前に読み聞かせをする、私のちょっとかすれた「生の声」。

そして、それを聞いている子どもたちの、規則正しい「寝息」。

効率的じゃないし、スマートでもない。

ちょっと面倒くさくて、アナログで、不格好。

でも、その「手触り」と「温度」があるものの中にこそ、私たちが本当に求めていた「家族の絆」はあったんです。

画面の向こうにある「いいね!」の数や、誰かのキラキラした日常を追いかけること。

それも、一つの楽しみではあります。

でも、それよりもっと大切なのは、

画面から顔を上げた時、目の前にいる、一番大切な人の「今の表情」を見逃さないこと。

私たち家族は、この「アナログ革命」ごっこを通じて、便利さと引き換えに失いかけていた、その当たり前の真実に、もう一度気づくことができました。

海外で暮らす皆さんの毎日にも、きっとたくさんの「便利さ」と、たくさんの「忙しさ」があると思います。

でも、もし少しだけ疲れたな、と感じたら。

今夜、ほんの10分でいい。

スマホをそっと伏せて、目の前にいるご家族や、パートナーや、あるいは自分自身の「心」と、アナログな時間を過ごしてみてください。

その「何もない」けれど「温かい」余白の中に、皆さんの日常を支えてくれる「本当の豊かさ」のヒントが、きっと隠されているはずです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

また、日本の片隅から、主婦のリアルな「気づき」をお届けしますね。

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