「あれ、私たち、いつ会話した?」— リビングに響く“無音”の警告音
皆さんのご家庭では、夕食の時間ってどんな感じですか?
そりゃあもう、学校であった面白い話、仕事の愚痴、週末の予定なんかで、ワイワイガヤガヤ…「ちょっと静かに食べなさーい!」なんて怒っちゃうくらい、賑やかなイメージですよね。
少し前のわが家も、そうでした。
「今日、給食でさー!」「パパ、聞いてよ、今日部長がさー」「へえ、それで?(笑)」
そんな、他愛も無いけれど、一日が終わったことを実感できる、大切な時間。
それが、いつからでしょう。
ある日の夕食。いつものように「いただきます」は言ったものの…。
シーン…。
リビングに響くのは、カチャカチャというお皿とフォークがぶつかる音。それと、ピー、ピコーン、ブブッ…という、微かな電子音だけ。
ふと顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていました。
食卓を囲む4人家族。
夫は、仕事のメールチェックとニュース速報が気になるのか、スマホ(しかも2台持ち!)をテーブルの端に置き、チラチラと視線を送っています。
小学5年生の息子は、左手で箸を持ちながら(行儀が悪い!)、右手はテーブルの下。何をしているかと思えば、こっそりポータブルゲーム機でレベル上げの真っ最中。
小学3年生の娘は、タブレットを食卓に持ち込み、動画サイトでお気に入りの「踊ってみた」動画をエンドレスリピート。時々、小さな声で「…フフッ」と笑っていますが、目は画面に釘付けです。
そして、私。
私ですか? 偉そうなことは言えません。
その時、私はスマホで「今夜の献立、みんなの反応イマイチだったかな…」「明日の特売、何だっけ?」と、レシピサイトとスーパーのチラシアプリを交互に見ていました。
…家族全員、下を向いている。
カチャカチャ、ピコーン、カチャカチャ、フフッ…。
「あれ…? 私たち、最後にちゃんと顔を見て話したの、いつだっけ?」
背筋がゾッとするような、冷たい感覚。
誰も喋らない、誰も目を見ない。同じ空間にいるのに、全員が違う世界(それも、手のひらサイズの四角い画面の中)にいる。
これは、家族なのか?
海外で暮らす皆さんも「あー、うちもかも!」って思われたかもしれません。
そう、これって今や世界共通の「家庭あるある」なのかもしれませんよね。日本だからとか、海外だからとか、そういう問題じゃなく。
でもね、日本、特に私の住んでいるような東京近郊の住宅地って、良くも悪くも「ご近所付き合い」や「世間の目」みたいなものが、まだうっすら残っているんです。
だから、例えば外食先で子供が騒いだりすると、静かにさせるために「最終手段」としてスマホを渡しちゃう…なんてこと、正直、私もよくやりました。
周りの「静かにしてくれないかしら」という無言のプレッシャーに耐えきれなくて。
それが、いつの間にか「外食の時だけ」だったはずのルールが、「電車の中も」「病院の待合室も」「ママが忙しい時も」…と、どんどんエスカレートしていったんです。
特に、数年前に日本の小学校で「一人一台タブレット」が配布されるようになってから、わが家のデジタル化(というか、依存?)は一気に加速しました。
最初は、子供たちがタブレットで漢字の書き順を練習したり、プログラミングの基礎を学んだりしているのを見て、「すごい時代だねぇ」「これで勉強が好きになってくれたら」なんて、夫と呑気に構えていたんです。
「勉強えらいね!」「さすが!」なんて褒めちぎって。
でも、子供って賢いですよね。
「勉強」という大義名分で手に入れたデバイスが、どれだけ「楽しい」世界に繋がっているか、あっという間に気づいちゃう。
学校の課題が終わった途端、画面はYouTubeやゲームアプリに切り替わります。
最初は「1日30分だけ」と決めたルールも、
「あと5分だけ!」
「今、キリが悪いから!」
という子供たち得意の交渉術に、私が根負けする日々。
その「あと5分」が、気づけば30分、1時間と伸びていく。
「もう、やめなさい!」
私が声を荒げると、子供たちから返ってくるのは、生返事か、イライラした反撃。
「わかってるって!」
「今、いいところだったのに! ママのせいで負けた!」
親子の会話が、「スマホ(ゲーム)やめなさい」「もうちょっと」の、不毛な応酬だけになっていきました。
あんなに「ママ、あのね!」って、目をキラキラさせながら学校であったことを話してくれた息子が。
あんなに「ママ、これ一緒に作ろ!」って、折り紙を持ってきてくれた娘が。
画面の向こう側に行ってしまったような、途方もない寂しさ。
でも、先ほども言った通り、子供たちだけを責めるなんて、私にはできませんでした。
だって、私自身が、一番の「スマホ依存症」だったんですから。
朝、目覚ましを止めるためにスマホを手に取った瞬間から、私の一日は始まります。
…いえ、始まってしまう、と言うべきでしょうか。
まずは寝室で、寝ぼけ眼のままSNSをチェック。
友人たちの「キラキラした朝食」や「家族旅行の写真」。
海外で暮らす皆さんのような、「素敵な異文化ライフ」の投稿。
それを見ながら、私は何をしているか?
パジャマのまま、子供たちに「早く起きなさい!」と怒鳴り、朝食のトーストを焦がしそうになっている。
(あぁ、なんで私はこんなにバタバタなんだろう…)
料理の合間にレシピを検索。
洗濯物を干しながら、ポッドキャストで「時短術」をインプット。
掃除機をかけながら、イヤホンで「子育てセミナー」を聴く。
一見、すごく「効率的」で「勉強熱心」な主婦に見えるかもしれません。
でも、実態は違いました。
「ちょっと一息」とコーヒーを淹れて座ったつもりが、スマホを見ているうちに1時間が経過。
SNSで誰かの華やかな生活を覗き見ては、「それに比べて私は…」と、勝手に落ち込む。
「いいね!」の数に一喜一憂し、コメント返信に追われる。
ふと気づくと、コーヒーはすっかり冷めきって、やり残した家事が山積み。
そして、心の奥底には、なんだかよくわからない「焦り」と「疲労感」だけが溜まっていく。
夫も夫で、会社から支給されたスマホに、休日だろうが夜だろうが、ひっきりなしに仕事の通知が来る。
家でもパソコンを開いてカチカチ…。
「ごめん、ちょっと急ぎのメールが」が口癖で、心はいつも会社にあるみたい。
そう。
家族全員が、便利さの代償に、「今、ここ」にいる時間を失っていたんです。
みんな、物理的には同じリビングにいる。
でも、心はバラバラ。
夫は仕事のトラブル対応、息子はゲームのギルド仲間、娘はお気に入りのインフルエンサー、そして私はSNSの向こう側の「誰か」と繋がっている。
一番近くにいるはずの家族の顔を見ずに。
冒頭の「無音の夕食」は、そんなわが家の状態を象徴する、決定的な瞬間でした。
「このままじゃ、ダメだ」
便利だけど、怖い。
楽しいけど、虚しい。
このテクノロジーという名の「魔法の板」に、私たちは「使われている」んじゃないか?
日本の昔からの言葉に「もったいない」というのがあります。モノを大切にする精神ですが、それって「時間」や「関係性」にも言えるんじゃないか?
家族が顔を合わせ、くだらないことで笑い合える「時間」。
子供の成長を、画面越しじゃなく、この目で見つめられる「瞬間」。
そういう、お金では買えない、人生で一番「もったいない」ことを見過ごしているんじゃないか?
フック(きっかけ)の言葉にあった、「デジタル的に責任感のある子供を育てる」なんて、立派なビジョンを語る前に、まず親である私たちが、この「スマホの海」で溺れかけている。
「よし、決めた」
私は、冷めたコーヒーを飲み干し、静かに立ち上がりました。
「わが家、今日からちょっと、変わります」
これは、そんな崖っぷちの日本の主婦(=私)が、家族を巻き込んで始めた、ちょっと不便で、でもすごく人間らしい「デジタルデトックス」という名の旅の、始まりの記録です。
「魔法の箱」と、気まずすぎる沈黙の食卓
さて、「このままじゃダメだ!」と、一人で勝手に崖っぷちから這い上がる決意をした私。
とはいえ、相手は手強い「デジタル依存」という名の現代病。しかも、敵は私自身の中にも、そして愛する家族全員の中に、がっつり巣食っているわけです。
いきなり「今日からスマホもゲームも全部禁止!」なんて、北風みたいな独裁政権を発足させたら、どうなるか?
…目に見えてますよね。
「ママ、意味わかんない!」「うちはうち、よそはよそって言ったじゃん!」「仕事に支障が出たらどうするんだ!」と、家族全員から袋叩きにあい、クーデター勃発、3分で政権崩壊です(笑)
日本の家庭、特に私のような(良くも悪くも)平和主義の主婦は、「対立」を極端に恐れるきらいがあるかもしれません。
「みんな仲良く」「波風立てずに」が、幼い頃からの刷り込みとして、どこかにあるんです。
だから、私は「北風」ではなく、「太陽」作戦…いや、太陽なんて格好いいものじゃなく、もっとこう、ジメジメと説得する「梅雨」作戦?(笑)
とにかく、「話し合い」という名の、家族会議を開くことにしました。
ある週末の土曜日、みんながリビングでゴロゴロしている(もちろん、各自、それぞれの画面を見つめながら)タイミングを見計らって、私は宣言しました。
「えー、みなさん。ちょっと、わが家の未来に関わる、大事な、大事な、お話があります!」
テレビの音量を下げる私。
夫は「ん?(スマホから目を離さず)」
息子は「(ゲームを一時停止し、怪訝な顔で)なに、どうしたの急に」
娘は「(動画を止め、不安そうに)ママ、怒ってる?」
おっと、いきなり重苦しい雰囲気(笑)
私は慌てて笑顔を作り、「怒ってない、怒ってないよ! ただの『提案』!」と強調しました。
「あのさ、最近、みんなでご飯食べてる時、シーンとしてない?」
「…してるね(夫)」
「…別に(息子)」
「…(コクリと頷く娘)」
「ママね、それが、すごく寂しいなって」
「みんな、同じおうちにいるのに、違う世界にいるみたいで」
「だからさ、ちょっとだけ、スマホやゲームと『距離』を置く時間を作ってみない?」
さあ、来た! 家族の反応は…
「えー! 無理! 絶対無理!」
案の定、一番に叫んだのは息子のS(小5)でした。
「今、友達とチーム組んでて、俺だけログインしないとか裏切りじゃん! 仲間外れにされる!」
おお、出た。「友達」と「仲間外れ」。これは子供にとって最強の交渉カードです。
「パパは、仕事だから」
次に口を開いたのは夫。
「これ(スマホ)がないと、緊急の連絡も取れないし、メールも見られない。社会人として無理だよ」
はい、出ました。「仕事」と「社会人」。大人の最強の免罪符ですね。
娘のM(小3)は、不安そうに私と兄、父の顔を交互に見ているだけ。彼女は、まだ自分の意見を強く言うより、周りの空気を読むタイプ。
わかっていた。わかっていましたとも。
だから、私もちゃんと「妥協案」を用意していたんです。
「わかってる! 全部やめろなんて、ママも言わない!」
「仕事が大事なのも、お友達が大事なのも、よーくわかってる!」
「だから、本当に『ちょっとだけ』のルール。たった二つだけ、守ってみない?」
私は、この日のために100円ショップで買ってきた、ちょっと可愛いフタ付きのプラスチックの箱を取り出しました。
「名付けて、『魔法の箱』です!」
(家族、ポカーン)
「ルールその①! 『いただきます』から『ごちそうさま』を言うまで、夕食の間だけ! スマホも、ゲームも、タブレットも、全部この『魔法の箱』に入れて、フタをします!」
「えー、ご飯の時だけ?(息子)」
「それなら…(夫)」
お、思ったより、食いつきがいい?
「そう!ご飯の時だけ! たった30分か40分くらい!」
「その代わり、パパは『緊急の電話』だけは例外ね。バイブにして、本当に緊急だったら、席を外して出てもOK」
「S(息子)も、友達には『うちは夜7時からご飯だから、その時間は抜けさせて』って、ちゃんと事情を話して! それで仲間外れにするような友達なら、ママはちょっと心配になっちゃうな」
(と、ちょっとだけ釘を刺すのも忘れません)
「じゃあ、ルールその②!」
「夜9時になったら、子供たちはスマホとタブレット、ゲーム機は、この『魔法の箱』に入れて、リビングで充電します! 寝室には持っていかないこと!」
「はぁ!? 9時!? 早すぎ!」
これは、息子からも娘からも、大ブーイング。
「友達はみんな10時までやってる!」
「動画の続き、気になるのに!」
「ダメ。日本の小学生は、9時に寝るのがお仕事です(キリッ)」
「夜、暗いところであの画面を見てると、目が悪くなるだけじゃなくて、頭が興奮しちゃって、いい夢が見られないんだよ。朝、スッキリ起きられないでしょ?」
「それに、ママもパパも、夜9時以降はなるべく仕事のスマホは見ないように努力するから! ね?(夫に強めの視線を送る)」
夫は「…お、おう(努力する)」と、曖眛な返事をしましたが、私はそれを見逃しませんでした。
「はい、決定ー!」
こうして、わが家の「デジタルデトックス」に関する、非常に日本的な(?)「落としどころ」を見つけたルールが、半ば強引に、でも一応「家族会議」という体裁を整えて、スタートすることになったのです。
そして、運命の、ルール適用初日の夜。
夕食のハンバーグ(子供たちの好物で機嫌を取る、という主婦の知恵です)が並ぶ食卓。
「はーい、じゃあ『魔法の箱』、お願いしまーす」
私が箱を差し出すと、4台のスマホ(夫は2台持ち)と、ゲーム機、タブレットが、次々と箱に収められていきます。
なんだか、神聖な儀式のよう(笑)
カチッ、と私がフタを閉める。
リビングのテーブルの上から、あの四角い「板」が、すべて消えました。
「…じゃ、食べよっか。いただきます」
「「いただきます」」
カチャ…カチャ…(食器の音)
シーン…。
あれ?
おかしいぞ。
「起」の日のブログで書いた、「無音の夕食」と、何も変わらないじゃないか!
いや、むしろ、前よりひどい。
前は、みんなそれぞれ「画面」という自分の世界に夢中になっていたからこその「無音」でした。
でも、今夜は違う。
手持ち無沙汰な4人が、何をしたらいいかわからず、ただ黙々とハンバーグを口に運んでいる。
息子は、そわそわして、指でテーブルをトントン、トントン叩いています。明らかに「ゲームの続き」を考えている顔。
娘は、フォークでハンバーグを突き刺したまま、ぼーっと宙を見ています。
夫は、時折、幻のバイブレーションでも感じているのか、ポケットのあたりを無意識に触っては、ハッとして私と目を合わせ、気まずそうに咳払いをしています。
そして、私!
私自身も、いつものクセで「あ、マヨネーズ切らしてたの思い出した。後でネットスーパーで…」と、スマホに手を伸ばしかけ、空を切る。
(あ、そっか、箱の中か…)
気まずい。
気まずい。
気まずすぎる…!
家族4人が食卓を囲んでいるのに、会話が、ない。
スマホがないだけで、こんなにも「間(ま)」が持たないなんて。
誰かが、何かを言わなきゃ。
私が、この重苦しい空気を作った張本人なんだから。
「…あ、あのさ」
私が口火を切ると、3人が一斉に私を見ました。(ビクッとした顔で)
「きょ、今日、学校どうだった?」
…出た。
世の中の親が子供にかける質問、ワースト3(私調べ)に入る、「中身のない質問」をしてしまった!
案の定、息子は「…別に」と一言。
娘は「…楽しかった」と一言。
会話、終了。
(うわぁぁぁぁぁ、どうしよう!)
スマホを排除したら、家族の団らんが戻ってくる…なんて、甘い夢を見ていた自分を殴りたい。
私たちは、スマホやタブレットという「便利な道具」に、時間を奪われていただけじゃなかった。
それ以前に、家族同士で「何を話していいか分からない」という、もっと根本的な問題を抱えていたのかもしれない。
ただ、これまでは、その「気まずさ」や「退屈」を、スマホやゲームが、いとも簡単に、巧妙に、覆い隠してくれていただけ。
私たちは、会話が弾まない気まずい沈黙を埋めるために、一番手っ取り早い「逃げ場所」として、あの四角い画面に吸い込まれていたんじゃないか?
日本には「沈黙は金」なんていう、古いことわざがあります。
でも、わが家のこの食卓に流れているのは、「金」なんかじゃ到底ない。
ただの、「どうしていいか分からない、気まずい空気」です。
でもね。
その時、ふと思ったんです。
この「気まずさ」こそが、わが家のスタートラインなんだ、と。
今まで、見て見ぬふりをしてきた、家族の「隙間」であり「余白」。
この「余白」を、どうやって「言葉」や「笑顔」で埋めていくか。
それこそが、私がやりたかった「デジタルデトックス」の、本当の目的なんじゃないか?
ルールを作って、スマホを箱に入れた。
でも、それは「始まりの合図」に過ぎなかった。
本当の戦い(いや、戦いじゃなくて「旅」ですね)は、この気まずい「承」の瞬間から始まるんだ。
「…あのさ、パパ」
私が、向かいに座る夫に声をかけました。
「ハンバーグ、ちょっと味、濃かった?」
「我慢」が「楽しみ」に化けた夜。—アナログの逆襲—
「ハンバーグ、味濃かった?」
私の、あの渾身の一球。
向かいに座る夫からの返事は、「…いや、普通」。
はい、チーン。会話終了(涙)。
「承」のブログでお話しした、あの「気まずすぎる沈慢」。
スマホやゲーム機を「魔法の箱」に入れたことで、わが家の食卓から消えたのは「電子音」だけではありませんでした。
それまで、電子音が巧妙に隠してくれていた「会話のなさ」と「手持ち無沙汰」という、なんとも居心地の悪い「真実」が、丸裸になってしまったんです。
ルールを始めた最初の1週間は、地獄でした。
私は、この「気まずさ」をなんとかしなきゃ! と、良かれと思って「インタビュアー」と化しました。
「S(息子)は、今日学校で何が流行ったの?」
「M(娘)は、給食、全部食べられた?」
「パパは、次の出張、いつから?」
でも、返ってくるのは、
「…別に(息子)」
「…うん(娘)」
「…まだ未定(夫)」
という、単語の羅列だけ。
これ、会話じゃない。尋問です。
私が一方的に質問し、家族が(面倒くさそうに)答える。
そのうち、私もイライラしてきて、
「ねえ、ママ話してるんだけど!?」「『別に』って何!?」
と、せっかくの夕食の時間が、逆にピリピリした「説教タイム」になりかけてしまったんです。
これじゃ、本末転倒!
デトックスどころか、家族の間に新たなストレスを生み出しているだけ。
さらに、子供たちは子供たちで、この「苦行」の時間をどう乗り切るか、別の知恵をつけていました。
「超・早食い」です。
まるで競争でもしているかのように、すごい勢いでご飯をかき込む二人。
そして、
「「ごちそうさまでした!!」」
と、まだ私が(気まずさで)半分しか食べ終わっていないうちから席を立ち、リビングに置いてある「魔法の箱」へダッシュ!
カチャッ(箱のフタが開く音)
ピコーン!(ゲームの起動音)
…あぁ、戻ってしまった。あの世界へ。
夫も夫で、「お、俺もちょっと仕事の電話…」と、私に気まずそうに会釈し、箱からスマホを取り出してベランダへ。
食卓に残される、私一人。
冷めていくハンバーグの最後のひとかけらと、大量の洗い物。
「…これ、何のためにやってるんだっけ」
ルール(魔法の箱)は、守られている。物理的には。
でも、誰も、ハッピーになっていない。
むしろ、夕食の時間が「スマホやゲームを我慢するだけの、退屈で気まずい時間」になってしまい、一刻も早くそこから「解放」されたい、というオーラが家族全員から溢れている。
これじゃダメだ。
「ルールを守らせること」が目的になってる。
私が取り戻したかったのは、「家族の笑顔」や「くだらないおしゃべり」だったはずなのに。
私は、作戦を根本から変えることにしました。
「空白(余白)の時間」を、私が「質問」で無理やり埋めようとするから、みんな苦しくなるんだ。
空白は、空白のままでもいい。
その代わり、私が、私が一番おしゃべりになろう、と。
「質問」するのをやめて、ひたすら「私自身の、今日あったこと」を、ラジオのDJみたいに一方的に話し続けることにしたんです。
「あのさー、聞いてくれる? 今日スーパー行ったらさ…」
翌日の夕食。
早食いモードに入っている子供たちと、相変わらず気まずそうにしている夫に向かって、私は一人、マシンガントークを始めました。
「レジがすっごい混んでて! そしたら、私の前のおばあちゃんが、1円玉を1枚ずつ、ゆーっくり数えだしてさ」
息子、無言でご飯をかき込む。(聞いてない)
娘、ぼーっと宙を見ている。(聞いてない)
夫、お茶をすする。(聞いてない)
心が折れそう。
でも、続けます。
「そしたら、レジの店員さん、新人さんだったみたいで、すっごい焦っちゃって! おばあちゃんはマイペースだし、後ろの列はイライラしてるし…」
「…で?(ボソッ)」
え?
今、誰か言った?
顔を上げると、息子(S)が、口にご飯を詰め込んだまま、私を見ていました。
「…で、どうなったの? その店員」
き、聞いたーーー!!
息子の口から「別に」以外の言葉が出たーーー!
私は、内心の興奮を抑え、努めて冷静に(いや、かなり嬉しそうに)続けました。
「そしたらね! 私のさらに後ろに並んでた、すっごい強面(こわもて)の、トラックの運転手さんみたいなオジサンが、『姉ちゃん、焦んな! 俺がカゴ運んどくから、ゆっくりやれ!』って、手伝い始めたのよ!」
「「へぇー!」」
今度は、娘(M)と夫の声が、きれいにハモりました。
「そうなの! その一言で、レジのピリピリしてた空気が、一気にフワッてなってさ。新人さんも『ありがとうございます!』って。いやー、日本もまだ捨てたもんじゃないなって、ママ、一人で感動しちゃった」
「(フフッ)…ママ、見てただけじゃん」
息子が、ご飯を吹き出しそうになりながら、茶化してきました。
「見てただけじゃないわよ! 心の中で『がんばれ!』って、めっちゃ応援してたんだから!」
「あはは! それ、応援になってないし!」
カチャカチャ…
シーン… だった食卓に、
「あはは!」という笑い声と、「いや、だからさ!」という会話が生まれた瞬間でした。
たった、5分の出来事。
でも、私には、とんでもない「奇跡」に思えました。
スマホがない「気まずい」時間。
その「余白」を埋めるのは、「質問」や「ルール」じゃなかった。
「共感」できる「物語(エピソード)」だったんだ、と。
「今日はどうだった?」と「外」に答えを求めるんじゃなくて、
「私は今日こうだった」と「内」をさらけ出すこと。
この日を境に、わが家の夕食は少しずつ変わっていきました。
「今日は、パパの会社であった、ちょっとムカつく話、していい?」
「今日は、Mが学校で、図工の時間にやらかした話、してあげる!」
「Sの『今日のゲームあるある』、聞きたい人ー?」
「魔法の箱」は相変わらず食卓の横に鎮座していますが、今では誰も「早く開けたい」とソワソワしなくなりました。
(あ、いや、息子はまだちょっとソワソワしてるかも(笑))
そして、もう一つの「転機」は、「夜9時以降」のルールから生まれました。
「魔法の箱」にデバイスをしまった後。
子供たち、特に息子は、エネルギーが有り余っています。
「ねー、暇(ひま)。つまんない」
「寝るまで、まだ時間あるじゃん」
そう。
スマホやゲームは、子供たちの「暇」を埋める、最高のおもちゃでした。
それを取り上げられた彼らは、まさに「退屈」のど真ん中。
その「退屈」を持て余した息子が、ある夜、物置をごソゴソと漁って、ホコリまみれの「あるモノ」を引っ張り出してきたんです。
それは、**「UNO(ウノ)」**でした。
「うわ、懐かしい! これ、パパとママが結婚する前に買ったやつかも!」
「なにこれ? どうやってやるの?(娘)」
「フッ、教えてやろう。これはな…(と、なぜか得意げな息子)」
その夜。
わが家のリビングには、平成初期…いや、もしかしたら昭和の終わり頃(?)のような光景が広がっていました。
電気カーペットの上で、家族4人が車座になって、「UNO!」だの「ドローフォー!」だの、大騒ぎしている。
負けた夫が、罰ゲームで「変顔」をさせられ、それを見て娘がヒーヒー言いながら床を転げ回る。
デジタルデトックス。
「我慢」だと思ってた。
「不便」になることだと思ってた。
でも、違った。
スマホやタブレットが作り出す「完成された楽しさ」を手放した時、そこには「退屈」という名の「余白」が生まれる。
そして、その「余白」を、家族が「自分たちの力で」埋めようとした時、
そこには、デジタルな楽しさとは比べ物にならない、「手触り感」のある、温かい時間が生まれる。
「魔法の箱」は、スマホを封印する「我慢の箱」じゃなかった。
家族の「余白」を生み出し、私たちに「アナログの楽しさ」を思い出させてくれるための、本当の「魔法の箱」だったんだ。
日本には「足るを知る」という言葉があります。
(多くを求めず、今あるもので満足しなさい、みたいな意味ですね)
でも、私たちは「足」りすぎていたのかもしれません。
情報も、エンタメも、刺激も。
その「足」りすぎたものを、一度「箱」にしまってみたら、
本当に「足りていなかった」もの…家族の笑い声や、くだらないおしゃべり、一緒にUNOでムキになる時間…が、向こうからやってきてくれた。
これは、「我慢」の物語じゃない。
「失われたものを取り戻す」物語でもない。
「新しい楽しみを、家族で見つけ出す」旅。
わが家の「転」は、そんな、ちょっとワクワクする方向へと、ハンドルを切り始めたところです。
「余白」だらけの人生術。—完璧な地図は、ない。—
あの「UNOフィーバー」は、正直、3日くらいで一旦落ち着きました(笑)
そりゃそうです。毎晩UNOじゃ、いくらなんでも飽きますよね。
「転」で、私は「アナログの楽しさを見つけた!」なんて、ちょっと浮かれていました。
でも、大事なことを見落としていたんです。
子供たち、特に息子(小5)にとっては、「デジタル」なゲームで友達と繋がることだって、彼らの「今」を生きる上で、ものすごく大事な「社会」であり、「楽しみ」であること。
ある夜、夕食の時でした。
例の「DJ作戦」で、私が「今日、八百屋さんで見た、ものすごい太い大根」の話で盛り上げようとした時、息子がボソッと言ったんです。
「…今日、俺、学校でいやなことあったから、早くゲームしたい」
ドキッとしました。
私、また「自分の物差し」で家族を測ろうとしてなかったか? と。
「会話のある食卓=善」「スマホ=悪」みたいな、単純な二元論に陥っていなかったか?
息子の「早くゲームしたい」は、ただの「依存」や「現実逃避」だけじゃなく、彼なりの「ストレス発散」であり、友達との「繋がり」で安心したい、というサインだったのかもしれない。
「…そっか。なんか、あったんだ」
私は、DJトークをピタリとやめました。
「ご飯食べ終わったら、今日は早めにログインしな。友達、待ってるんでしょ?」
「…うん」
息子の顔が、少しだけ緩みました。
その日の夕食は、正直、あまり会話は弾みませんでした。
でも、「承」の頃の、あの「気まずい沈黙」とは、まったく違う。
お互いの「事情」や「気分」を、なんとなく察し合い、尊重する。
無理に「盛り上げよう」としない。
これも、一つの「家族の形」なんじゃないか、と思えたんです。
これが、わが家が見つけた「Flexibility and adaptation(柔軟性と適応)」の、第一歩でした。
フックの言葉にあったように、子供は成長し、テクノロジーは進化します。
今日決めたルールが、来月にはもう古くなっているかもしれない。
息子が中学生になったら? 娘が高学年になったら?
「夜9時」の門限は、短すぎるかもしれない。
でも、そのたびに、私たちは「家族会議」を開けばいい。
「最近、どう?」
「このルール、ちょっとキツくない?」
「パパこそ、最近スマホ持ち込みすぎじゃない?(笑)」
大事なのは、ルールを「守ること」じゃなく、ルールを通じて、家族が「今、お互いをどう大切にできるか」を話し合えること。
「魔法の箱」は、その「きっかけ」をくれる、ただの箱なんです。
そして、「Celebrating small wins(小さな勝利を祝うこと)」。
これも、この旅を続ける上で、ものすごく大事な「ガソリン」になりました。
最初の頃は、夕食時に息子が私に「で?」と相槌を打ってくれただけで、奇跡みたいに嬉しかった。
それが今では、
「ママ、今日の大根の話、オチは?」
なんて、普通にツッコミを入れてくるまでになりました。これは、大きな進歩です!
娘(M)は、夜9時にタブレットを箱にしまう時、「あーあ」と言いながらも、その足で私のところに走ってきて、「ママ、続き、読んで!」と絵本を持ってくるようになりました。
(動画サイトの代わりに、ママの「読み聞かせ」という、最高にアナログなエンタメを見つけたようです)
夫は…相変わらず仕事のスマホを手放せない日もありますが、「ごめん、今日は緊急」と、ちゃんと「宣言」してくれるようになりました。
以前は、無言で、こっそりチェックしていたのに(笑)。
これも、小さな、でも確実な「変化」です。
こういう、「昨日はできなかったけど、今日はできた」小さな小さな「できた!」を、私は見逃しません。
「今、Mが自分から本持ってきた! えらい!」
「S、今のツッコミ、面白いじゃん!」
「パパ、宣言ありがとう! 助かる!」
と、いちいち声に出して「祝う」ようにしました。(ちょっと大袈裟なくらいに)
そうすると、不思議なもので、家族もまんざらでもない顔をするんですよね。
ポジティブな習慣は、こうやって「小さな成功体験」を積み重ねて、強化されていくんだな、と実感しています。
そして、この「デジタルデトックス」という、長い長い旅の「The long-term vision(長期的なビジョン)」。
日本から遠く離れた海外で、子育てをされている皆さんも、きっと同じことを願っていると思うんです。
「子供たちに、たくましく生きてほしい」って。
私たちが生きるこれからの時代、もう「デジタル」と「無縁」でいることは不可能です。
スマホも、SNSも、AIも、当たり前にある。
それらを「禁止」するなんて、子供たちから「未来を生きる武器」を取り上げるようなものかもしれません。
私がこのデトックスで目指していたのは、子供たちを「無菌室」で育てることじゃなかった。
スマホやゲームを「悪」と決めつけて、彼らから遠ざけることでもない。
道具に「使われる」のではなく、道具を「使いこなす」人になってほしい。
もっと言えば、
「退屈」や「余白」を、自分の力で「楽しい」や「創造」に変えられる人になってほしい。
「起」で書いた、わが家は「便利さ」と引き換えに、「余白」を失っていました。
ちょっとした「暇(ひま)」ができると、すぐにスマホがその隙間を埋めてくれる。
退屈している暇(いとま)がない。
でも、人間って、
「あー、暇だなー」
「なんか、つまんないなー」
という「余白」があるからこそ、
「じゃあ、あれやってみようかな」
「こうしたら、面白いかも?」
という「創造力」や「工夫」が生まれるんじゃないでしょうか。
あの夜、息子がホコリまみれの「UNO」を見つけてきたみたいに。
娘が、動画の代わりに「ママの読み聞かせ」をねだってきたみたいに。
デジタル社会で本当に「たくましく」生きる力(=レジリエンス)って、
プログラミングの技術や、情報検索能力だけじゃない。
あえて「スマホを閉じる」勇気。
そして、目の前にある「余白」を、自分の頭と心と体を使って、面白がれる力。
それこそが、「デジタル的に責任感のある個人」の、本当の姿なんじゃないか、と私は思うんです。
このブログを書きながら、私は「日本にはこういう考え方や生活の知恵がある」なんて、偉そうに語るつもりでした。
でも、結局、私自身がこの数ヶ月、家族に教えられ、試行錯誤しながら、やっと一つの「知恵」らしきものを見つけた…という感じです。
それは、
「完璧なデトックス」なんて、目指さなくていい。
ということ。
海外での生活は、日本にいる私には想像もできないご苦労や、逆に素晴らしい発見がたくさんあると思います。
文化も、環境も、コミュニティも違う。
子育ての「正解」なんて、日本にだって、どこにもない。
だから、もし今、わが家と同じように「スマホと家族の距離感」に悩んでいる方がいたら。
どうか、完璧な「ルール」や「地図」を探さないでください。
まずは、家族で「気まずい」食卓を囲んでみること。
そして、その「余白」を、どうやったら「楽しい」に変えられるか、家族でドタバタしながら実験してみること。
失敗したっていい。
「ごめん、昨日のルール、やっぱナシ!」って、次の日には変えたっていい。
その「試行錯誤」のプロセス自体が、きっと、家族を新しい関係性へと導いてくれる「旅」なんだと思います。
わが家の「デジタルデトックス」という名の、不便で、気まずくて、でも最高に人間らしい「余白」を探す旅は、まだまだ始まったばかり。
これからも、きっと、新しいゲーム機に振り回されたり、娘の「スマホデビュー」で頭を抱えたり、いろんな「転」や「結」が待っていることでしょう。
でも、それでいい。
「ない」時間(スマホがない時間)に、「ある」もの(家族の会話、UNOの変顔、読み聞かせの声)の大切さに気づく。
それが、この変化の激しい時代を、家族で「たくましく」生きていくための、わが家なりの「人生術」なんだろうな、と思っています。
さて。
そろそろ、私もパソコンを閉じて、夕食の準備です。
今夜は、「魔法の箱」の横で、どんな「くだらない話」の花が咲くでしょうか。
日本より愛をこめて。
皆さんの今日一日も、素敵な「余白」に満ちたものでありますように。

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