完璧主義という名の鎖と、不完全さを愛する「侘び寂び」との出会い
海の向こうで暮らす皆さん、こんにちは!日本の片隅で、今日もバタバタと家事や仕事に追われている一人の主婦です。
そちらの今の季節はどんな感じですか?日本は四季の移ろいがはっきりしていて、今の時期は空気の中にふと、懐かしいような切ないような香りが混じり始めています。そんな風を感じながら、今日はずっと皆さんとシェアしたかった、ある大切な日本の心についてお話ししようと思います。
突然ですが、皆さんは朝起きて鏡を見たとき、あるいは夜寝る前に散らかったリビングを見渡したとき、どんなため息をついていますか?
「あぁ、また今日も完璧にできなかった」
「もっと素敵なママでいなきゃいけないのに」
「インスタグラムで見るあの子の家は、どうしてあんなにモデルルームみたいなの?」
そんな風に、自分を責めてしまうことってありませんか?私はあります。それも、しょっちゅう。
日本には「良妻賢母(りょうさいけんぼ)」なんていう、ちょっと古風でプレッシャーの強い言葉が歴史的にあったりして、私たち日本の主婦もまた、見えない「完璧」の呪縛と戦っているんです。キャラ弁(キャラクターの形をしたお弁当)を作らなきゃいけないとか、家の中は常に整頓されていなきゃいけないとか。SNSを開けば、世界中のキラキラした生活が洪水のように流れ込んできて、自分の現実とのギャップにクラクラしてしまう。これって、日本だけじゃなくて世界共通の悩みですよね。
でもね、そんな私を、そしてきっと皆さんを救ってくれる魔法のような考え方が、日本には古くからあるんです。それが、今日のテーマである**「Wabi-Sabi(侘び寂び)」**です。
海外の方とお話ししていると、「Wabi-Sabiって、あの苔(コケ)が生えた石とか、質素な茶室のことでしょ?」とか「ミニマリズムの一種?」と聞かれることがよくあります。もちろん、それも間違いではありません。デザインやインテリアの文脈で語られるとき、それは「ラスティックな美しさ」や「簡素な美」として紹介されることが多いですよね。
でも、私たち日本人が生活の中で肌感覚として持っている「侘び寂び」は、単なるデザインのスタイルのことではないんです。もっと深い、心のあり方。もっと言えば、**「不完全な自分や世界を、丸ごと抱きしめるための優しさ」**なんです。
私がこの「侘び寂び」の本当の意味に気づかされたのは、ある失敗がきっかけでした。
それは数年前の、ある曇りの日のことです。私はその頃、少し心が疲れていました。子育ての正解が見えなくて、家事は終わりのない賽の河原の石積みのようで、鏡を見れば目尻のシワが増えている。自分がどんどん「劣化」していくような、そんな焦燥感に駆られていました。
そんな気分のまま、食器を洗っていたときのことです。手が滑って、大切にしていた焼き物のお皿をシンクに落としてしまったんです。
「ガシャン!」という音と共に、お皿の縁が欠けてしまいました。それは、私が独身時代に一人旅をした先で一目惚れして買った、土の温かみを感じる作家もののお皿でした。
「あぁ、やってしまった……」
ただでさえ落ち込んでいた心に、追い討ちをかけるような出来事。普通なら、ここで「もうダメだ、捨てよう」と思いますよね。欠けた食器なんて縁起が悪いし、危ないし、何より「完全」ではなくなってしまったから。
でも、その時の私はなぜか、その欠けた部分をじっと見つめてしまったんです。素焼きのザラザラした断面が露わになり、そこだけ色が違っていました。その断面を見たとき、ふと、ある記憶が蘇りました。それは私の祖母の家の記憶です。
祖母の家には、古くてあちこち傷だらけの柱や、何度も修理して使い続けている家具がたくさんありました。子供の頃の私は「新しいものを買えばいいのに」と思っていましたが、祖母はいつもこう言っていました。
「モノはね、時間が経って、使われて、傷がついたり色が褪せたりして、やっと『景色』ができるんだよ。ピカピカの新品にはない、味わいが出てくるんだ」
その言葉が、欠けたお皿を見た瞬間にフラッシュバックしたんです。
私はそのお皿を捨てずに、棚に戻しました。後日、私はその欠けた部分を自分で直してみようと思い立ちました。「金継ぎ(Kintsugi)」という言葉を聞いたことはありますか? 割れたり欠けたりした陶磁器を漆(うるし)で接着し、その継ぎ目を金粉で装飾して仕上げる、日本の伝統的な修復技法です。
本格的な金継ぎは難しいけれど、簡易的なキットを使って、私はその欠けを埋め、上から金を乗せました。
すると、どうでしょう。
ただの「欠けた失敗作」だったお皿が、金のラインが入ったことで、新品の時よりもずっと個性的で、力強い美しさを放ち始めたんです。その金の継ぎ目は、まるでそのお皿が生きてきた歴史を誇らしげに語っているようでした。
「傷があるからこそ、美しい」
そのお皿でお茶を飲んだとき、張り詰めていた私の心の糸が、プツンと音を立てて緩みました。
私が恐れていた「老い」も「失敗」も「完璧にできない家事」も、すべてはこのお皿の「欠け」と同じなんじゃないか。それは隠すべき恥ずかしい傷ではなく、私の人生という物語が刻まれた「景色」なんじゃないか。そう思えたんです。
これが、私にとっての「Wabi-Sabi」の実体験としての入り口でした。
Wabi-Sabiとは、豪華絢爛なものを否定することではありません。でも、すべてのものが永遠に完璧であり続けることを求める「パーフェクショニズム(完璧主義)」とは、対極にある考え方です。
「Wabi(侘び)」は、不足していること、思い通りにならないことの中に、心の充足を見出すこと。
「Sabi(寂び)」は、時間の経過とともに劣化していく様子や、静寂の中に美しさを感じること。
これらを合わせると、現代の私たち主婦にこんなメッセージを投げかけてくれているように思えませんか?
「家が散らかっていても、それは家族がそこで生きている証拠。今日できなかったことがあっても、それは明日の楽しみにとっておいたということ。目尻のシワは、たくさん笑ってきた証(あかし)。完璧じゃなくていい、未完成のままで、あなたは十分に美しい」と。
海外で生活されている皆さんの中には、もしかしたら言葉の壁や文化の違いで、日本にいる私以上に「ちゃんとやらなきゃ」と気を張っている方がいるかもしれません。あるいは、SNS上のスーパーママたちと自分を比べて、落ち込んでいるかもしれません。
でも、ちょっと立ち止まって、深呼吸してみませんか?
日本という極東の島国で育まれたこの「Wabi-Sabi」というレンズを通して世界を見てみると、今まで「欠点」や「汚れ」や「失敗」に見えていたものが、急に愛おしい「アート」に見えてくるかもしれません。
今回は、この「Wabi-Sabi」の世界を、難しい哲学としてではなく、明日の朝から使える「心の処方箋」として、私の実体験や具体的なエピソードを交えながら深く掘り下げていきたいと思います。
錆びたナイフを捨てる前に、枯れた花を片付ける前に、そして何より、鏡の中の自分を否定する前に。
一緒に、不完全さの中にある「本当の豊かさ」を探す旅に出かけましょう。
次の章では、もう少し具体的に「Wabi」と「Sabi」を分解して、私たちの日常にある具体的なシーン——たとえば、古びたマグカップや、予期せぬ雨の日——にどう当てはめていくかをお話しします。これを読めば、きっと皆さんの「失敗」の捉え方が、180度変わるはずですよ。
「Wabi」と「Sabi」を解剖する〜古びたマグカップと私のシワが愛おしくなる理由〜
さて、ここからは少しだけ「言葉の探検」に出かけましょう。
「Wabi-Sabi」とひとくくりにされがちですが、これを分解してみると、私たちが日々感じているモヤモヤを晴らすヒントが見えてきます。
まずは、**「Sabi(寂び)」**の方からお話ししましょうか。こちらの方が、目に見える変化なので分かりやすいかもしれません。
「Sabi」という言葉の語源は、「錆びる(さびる)」から来ていると言われています。そう、あの鉄が酸化して赤くなる、あの錆(サビ)です。英語で言えば「Rust」や「Patina」に近いでしょうか。
普通に考えたら、自転車が錆びたり、ナイフが錆びたりするのは「劣化」であり「悪いこと」ですよね。西洋的な価値観、あるいは現代の消費社会では、モノは「新品(Brand New)」の状態が最高であり、そこから時間が経つにつれて価値が下がっていくと考えられがちです。
でも、日本の「Sabi」の感覚は違います。
「時間が経過することによって現れる、独特の深みや美しさ」。これをポジティブに捉えるのが「Sabi」なんです。
皆さんの食器棚には、どうしても手放せない「古びたマグカップ」はありませんか?
私の家にはあります。もう10年以上使っている、何の変哲もない白いマグカップ。
飲み口のところには、コーヒーや紅茶の渋(シブ)がうっすらと染み込んでいて、漂白しても完全には落ちません。底の裏側は少し欠けているし、表面のツヤも消えて、なんだかマットな質感になっています。
お客様が来た時に出すには、ちょっと恥ずかしい代物です。素敵なゲスト用の、ピカピカのボーンチャイナのカップは別にあるんです。
でも、私が一人の朝、ホッと一息つく時に無意識に手に取るのは、決まってその古びたマグカップなんです。
なぜだと思いますか?
それは、そのカップに私の生活の「時間」が宿っているからだと思うんです。
新品のカップは、まだ「よそよそしい」んですよね。誰のものでもない、工場から出荷されたままの顔をしている。
でも、10年使ったカップには、私の手が覚えている「馴染み」があります。独身時代の不安な夜にココアを飲んだ温かさも、子供が熱を出して看病した夜に啜った白湯の味も、そのカップのちょっとしたシミや傷一つひとつに染み込んでいる。
この、「物質的な劣化」を超えて滲み出てくる「気配」や「趣(おもむき)」。これこそが「Sabi」の正体です。
この感覚を持つようになると、家の中の「傷」が愛おしくなってきます。
例えば、我が家のダイニングテーブル。子供たちが小さい頃につけたフォークの傷や、油性ペンで落書きしてしまった跡(あれは消すのに苦労しました…完全には消えなかったけれど)が残っています。
以前の私なら、「あーあ、資産価値が下がった」と嘆いていたでしょう。
でも「Sabi」のレンズを通してみると、それは**「家族の歴史が刻まれた年輪」**に見えてくるんです。ピカピカの新品のテーブルにはない、私たち家族だけの物語。そう思うと、その傷跡を指でなぞった時、不思議な温かみを感じるようになります。
海外に住んでいると、アンティーク家具やヴィンテージデニムを愛する文化に触れることも多いと思います。あれも「Sabi」に近い感覚ですが、日本の「Sabi」はもっと静かで、もっと質素なもの——例えば、秋になって枯れていくススキや、苔むした庭石——に対しても向けられる、静寂を愛する心なんです。
次に、**「Wabi(侘び)」**について。
こちらは、もう少し内面的で、心のあり方に関わる言葉です。
語源は「侘びしい(わびしい)」。「心細い」「もの悲しい」といった意味ですね。
えっ、やっぱりネガティブじゃない? と思われるかもしれません。
でも、千利休をはじめとする昔の茶人たちは、この「満たされない状態」「不足している状態」の中にこそ、精神的な豊かさがあることを発見しました。
豪華なシャンデリアの下で、山盛りのご馳走を食べるのも、もちろん楽しい。
でも、薄暗い小さな部屋で、一輪の花だけを飾り、一杯のお茶を丁寧にいただく。
モノは少ない。派手さもない。
けれど、「何もない」からこそ、私たちは想像力を働かせることができます。
お茶の香り、お湯が沸く音、窓の外の風の音。普段なら見過ごしてしまうような微細な美しさに、心が研ぎ澄まされる感覚。
これが「Wabi」の精神です。つまり、**「不足の中に充足を見出す心」**のこと。
これを私たち主婦の日常に置き換えてみましょう。
「Wabi」とは、「完璧なママでなくていい」という免罪符ではなく、「足りないままで、十分に豊かである」と知ることです。
例えば、今日の夕食。
食材が足りなくて、冷蔵庫にあるのは大根と油揚げだけ。
「あぁ、買い物に行けなかった。ご馳走が作れない」と嘆くのが、これまでの私でした。
でも、「Wabi」の心を持てば、こう考えられます。
「今日はこの大根と油揚げだけで、最高に美味しいお味噌汁を作ろう。具材が少ない分、出汁をいつもより丁寧に引いてみよう」
派手なメインディッシュがなくても、湯気の向こうにある素朴な一杯のお味噌汁が、心まで染み渡るほど美味しい。そう感じられた時、私たちはキッチンで「Wabi」を実践していることになるんです。
「あれもない、これもない」と無いものを数えるのではなく、今あるわずかなものの中に、深い味わいを見つける。これは、海外生活で「日本の食材が手に入らない!」と嘆きがちな時にも、すごく役立つマインドセットだと思いませんか?
さて、この「Wabi(不足の美)」と「Sabi(時間の美)」を合わせた「Wabi-Sabi」。
これを最も強烈に、そして優しく教えてくれるのが、私たち自身の「老い」との向き合い方です。
ここからは少し、女性同士のナイショ話のようなトーンになりますが…皆さん、鏡を見るのは好きですか?
私は30代後半から40代にかけて、鏡を見るのが怖くなった時期がありました。
目尻のシワ、ほうれい線、髪に混じる白いもの。
西洋的な「美」の基準——とりわけハリウッド映画や広告が発信する美——は、若さ(Youth)、シンメトリー(左右対称)、フローレス(欠点なし)を至高とします。そこでは「老い」は「戦うべき敵」であり、アンチエイジングは「戦争」です。
でも、Wabi-Sabiの世界観では、**老いは「劣化」ではなく「成熟」**です。
先ほどのマグカップの話を思い出してください。
ピカピカの新品よりも、使い込まれたカップに魅力を感じるように、私たちの顔に刻まれたシワもまた、人生を真剣に生きてきた証(あかし)であり、美しい「景色」なんです。
目尻のシワは、あなたがこれまでの人生でたくさん笑ってきた証拠です。
眉間のシワでさえ、あなたが家族のために真剣に悩み、考えてきた歴史です。
白髪は、冬の枯れ野に降りる霜のように、静かで厳かな美しさを湛えています。
ドライフラワーを想像してみてください。
瑞々しい生花も美しいけれど、水分が抜けて色が褪せたドライフラワーには、生花にはないアンティークな美しさ、時間の経過が生んだドラマがありますよね。
造花(プラスチックの花)は、いつまでも枯れません。ずっとピカピカで、完璧な色をしています。でも、私たちは造花よりも、いつか枯れていく本物の花に心を動かされます。
なぜなら、そこには「命」があるからです。
人間も同じです。
不老不死で、いつまでもツルツルのプラスチックのような顔をしていたら、そこに「人生の深み」は宿るでしょうか?
Wabi-Sabiは私たちに教えてくれます。
「隠さなくていい。抗わなくていい。その変化こそが、あなたが生きているというアートなのだから」と。
私がこの考え方を本当に腹落ちさせた時、高い美容液を必死に塗り込むのをやめました。(もちろん、保湿はしますけどね!笑)
代わりに、鏡の中の自分に向かって「うん、なかなかいい味が出てきたじゃない」と微笑みかけられるようになりました。
「完璧な美魔女」を目指すのではなく、**「味わい深いおばあちゃん」**を目指す。そう目標をシフトした瞬間、肩の荷がどっと降りたんです。
海外の方と接していると、「なぜ日本人は散りゆく桜(Cherry Blossoms)をそんなに愛でるのか?」と不思議がられることがあります。
満開の時だけでなく、花びらが風に舞い、地面に落ちて踏まれていく様子にまで美を見出す。
それは私たちが無意識のうちに、**「終わりがあるからこそ、今この瞬間が美しい」**という無常観(Impermanence)を知っているからです。
私たち自身も、いつか散りゆく存在です。
家事も、育児も、完璧にはできない。
体も、少しずつ思うように動かなくなっていく。
でも、その「不完全さ」と「はかなさ」があるからこそ、今日、子供と手を繋いだその温もりが、泣きたくなるほど愛おしい。
Wabi-Sabiとは、諦めではありません。
それは、**「不完全な世界を、肯定する力」**です。
完璧主義という重たい鎧(よろい)を脱ぎ捨てて、風雨にさらされた自分の素肌を「これも悪くない」と愛でる。
そんな風に視点を変えるだけで、日々のストレスが、ふっと軽い蒸気になって空へ消えていくような気がしませんか?
ここまで読んで、「なるほど、概念はわかった。でも、実際に散らかったリビングを前にして、どうやって心を落ち着ければいいの?」と思っている方もいるかもしれません。
頭では分かっていても、レゴブロックが散乱した床を見て「これもWabi-Sabi…」と悟りを開くのは、なかなかの修行ですよね(笑)。
そこで次の「転」の章では、このWabi-Sabiの哲学を、もっと具体的で実践的な「生活の知恵」として落とし込んでみたいと思います。
心の持ちよう一つで、散らかった部屋が「不快なノイズ」から「生活のBGM」に変わる、そんな魔法のような視点の転換術。
そして、完璧主義を手放した先に手に入る、驚くほど自由な時間と心の余白についてお話しします。
準備はいいですか?
次は、いよいよ実践編です。
視点を変える実践術〜散らかったリビングを「風景」として味わう心のレッスン〜
さて、ここまで「Wabi-Sabiは心の持ちようだ」「シワも美しい景色だ」というお話をしてきました。皆さんの心の中に、少しずつ優しい風が吹き始めていると嬉しいです。
でも、ここで一度、現実世界に戻りましょうか。
パソコンやスマホの画面から目を上げて、今のあなたの部屋を見渡してみてください。
そこにあるのは、静寂に包まれた茶室……ではなく、洗濯物の山や、子供が脱ぎ捨てた靴下、あるいは昨日の夜に力尽きて洗えなかったお皿かもしれませんね(笑)。
「Wabi-Sabiが素敵なのはわかる。でも、この散らかった部屋のどこに美があるの? これは単なる『Mess(混乱)』よ!」
そんな声が聞こえてきそうです。
その気持ち、痛いほどわかります。哲学で腹は満たせないし、悟りを開いても洗濯物は勝手に畳まれませんからね。
でも、ここからが「転」。Wabi-Sabiの魔法が本当に力を発揮するのは、静かな美術館の中ではなく、まさにこの「カオスな日常」のど真ん中なんです。
私はこれを**「生活の景色化(Scenery of Life)」**と呼んでいます。
どういうことか、3つのステップでお話ししますね。
1. 「床の間(Tokonoma)」理論で、カオスの中に聖域を作る
日本家屋には伝統的に「床の間」というスペースがあります。掛け軸をかけたり、花を一輪生けたりする、少し床が上がった特別な空間です。
部屋全体が何もない空間でなくても、この「床の間」さえ整っていれば、その部屋には不思議と凛とした空気が流れます。
これは、**「一点の美が、全体の空気を支配する」**という日本の空間演出のマジックです。
これを、私たちの忙しいリビングに応用してみましょう。
部屋全体を完璧に片付けるのは、正直無理です。子供がいればなおさら。全体を綺麗にしようとすると、「片付けなさい!」と怒鳴り続ける鬼ババになってしまいます(経験者は語る)。
だから、私は諦めました。その代わり、部屋の中に一箇所だけ、**「聖域(Sanctuary)」**を作ることにしたんです。
我が家では、リビングのチェストの上だけがその「聖域」です。
床におもちゃが散らばっていても、ソファに洗濯物があっても、そのチェストの上だけは何も置かない。そして、小さなお気に入りの花瓶に、庭で摘んだ野花(あるいは道端の雑草でも!)を一輪だけ挿す。
不思議なことに、視線というのは「ごちゃごちゃしたもの」よりも「整った美しいもの」に自然と吸い寄せられる習性があります。
部屋に入った瞬間、散らかった床よりも、その一輪の花に目がいく。すると、脳が勝手に「あ、この部屋は整っている」「美しい暮らしがある」と錯覚してくれるんです。
これは、Wabi-Sabiにおける「余白(Ma)」のテクニックです。
全てを完璧にするのではなく、「ノイズ」の中に「静寂」の点を一つ打つ。
たったそれだけで、カオスだったリビングが、その一輪の花を引き立てるための「背景」に変わります。
「散らかっている」のではなく、「生活の活気がある背景の中に、静けさが存在している」。そう捉え直すだけで、不思議と心がざわつかなくなるんです。
2. 家事を「儀式(Ritual)」に見立てる
次に、「やらなければならないタスク」の捉え方を変えるお話です。
Wabi-Sabiの精神の根底には、茶道があります。茶道では、お湯を汲む、茶碗を拭くといった単純な動作一つひとつに、深い意味と美しさを見出します。
これを**「見立て(Mitate)」**と言ったりもしますが、日常の雑事を、何か神聖なものとして捉え直す遊び心です。
私は以前、洗濯物を畳むのが大嫌いでした。「これは生産性のないルーチンワークだ」と思っていたからです。
でも、ある日、Wabi-Sabiの本を読んでいて「手触りを楽しむ」という一節に出会いました。
そこで、洗濯物を畳む時間を、ただの作業ではなく、**「布と対話する瞑想時間」**だと決めてみたんです。
乾燥機から出したばかりの温かいタオル。その温もりを手のひらで感じる。
「あぁ、今日も家族を包んでくれてありがとう」と思いながら、繊維の感触を味わい、ゆっくりと端を合わせて畳む。
Tシャツのくたっとした柔らかさに、何度も洗われた時間の経過(Sabi)を感じる。
そうやって「感覚」に意識を向けると、不思議なことに、あの退屈だった時間が、とても豊かなリラックスタイムに変わったんです。
「早く終わらせなきゃ」と先を急ぐ(=結果を求める)のではなく、今この瞬間の手のひらの感覚(=プロセス)を味わう。
これを日本人は**「丁寧な暮らし」と呼びますが、それは高い道具を揃えることではなく、「雑用の中に尊さを見出す視点」**のことなんです。
もし、あなたがシンクに溜まったお皿洗いにうんざりしていたら、こう考えてみてください。
「これは、お皿を洗っているのではない。水の流れとお皿の音で、私の心の澱(おり)を洗い流しているのだ」と。
水の冷たさ、泡の感触、お皿がキュッとなる音。それら五感をフル活用して「今」に集中する。それはもはや家事ではなく、キッチンで行うマインドフルネス(禅)です。
Wabi-Sabiは、もっともつまらない日常の中にこそ、もっとも深い安らぎが隠れていると教えてくれます。
3. 完璧主義を手放した先にあった、本当の「おもてなし」
そして、私にとって最大の「転機」となった出来事をお話しします。
それは、ある海外の友人が急に我が家を訪ねてきた時のことでした。
当時の私はまだ「日本の主婦として恥ずかしくないように」と、完璧主義の鎧を着ていました。お客様が来る前日は大掃除、料理は何品も作り、完璧なテーブルセッティングでお迎えするのが当たり前だと思っていました。
でも、その日は本当に時間がなくて、部屋は普段通りの散らかりよう。料理も凝ったものは作れず、肉じゃがとおにぎりくらいしか用意できませんでした。
「あぁ、なんて失礼なことをしてしまったんだろう。日本人の面汚しだわ」
私は招き入れた瞬間から、ずっと心の中で言い訳をしていました。「ごめんなさい、散らかってて」「粗食でごめんなさい」と。
ところが、その友人はソファに深々と腰掛け、散らかった部屋を見渡して、心からリラックスした表情でこう言ったのです。
「あなたの家に来ると、なんだかすごく落ち着くわ。モデルルームみたいに完璧な家に行くと、私も完璧でいなきゃいけない気がして緊張するの。でも、ここは『生活(Life)』がある。あなたがここで笑ったり、困ったりしながら生きている体温を感じるのよ」
そして、不揃いなおにぎりを頬張りながら、「これが一番のご馳走だわ」と笑ってくれました。
その時、ハッとしました。
私は何を恐れていたんだろう?
完璧に整えられた空間は、確かに美しいけれど、時に人を拒絶します。隙がないからです。
一方で、Wabi-Sabiが愛する「不完全さ」には、**「隙(すき)」**があります。
その隙間があるからこそ、人はそこに入り込み、くつろぐことができるんです。
「完璧主義は壁を作り、不完全さは橋をかける」
これが、私がWabi-Sabiから学んだ最大のレッスンです。
部屋が少し散らかっていることは、恥ずかしいことではなく、「私は家事よりも、家族との時間を優先しました」という愛の証かもしれない。
あるいは、「私は今、少し疲れています」という正直な心の表現かもしれない。
その正直さ(Authenticity)こそが、相手の心を解きほぐす最高のおもてなしになるんです。
それ以来、私は友人が来るときも、必死で隠すのをやめました。
もちろん最低限の掃除はしますが(笑)、取り繕わない「普段の私」でお迎えする。
「ちょっと散らかってるけど、どうぞ! その代わり、美味しいお茶はあるわよ」
そう言えるようになってから、私の家には以前よりもずっと多くの笑い声が響くようになりました。
いかがでしょうか。
Wabi-Sabiの実践とは、インテリアを和風に変えることではありません。
それは、**「自分と世界に対して、ジャッジ(審判)を下すのをやめること」**です。
「散らかっている=ダメ」ではなく、「散らかっている=生活のエネルギーが溢れている」。
「家事が終わらない=能力不足」ではなく、「家事が終わらない=それだけ今日を夢中で生きた」。
物事の見方(Perspective)を、ほんの少し「不完全さを愛する角度」にずらすだけ。
カメラのレンズのピントを、あえて少しぼかすような感じです。
すると、今まで「汚いもの」「ダメなもの」として背景から消そうとしていたものが、急に愛すべき「人生のテクスチャー」として浮かび上がってきます。
この「転」の思考法を身につけると、不思議なことに、人生のあらゆる場面で応用が効くようになります。
例えば、予定通りにいかなかった旅行、失敗して焦げたクッキー、思い通りに育たない子供(笑)。
「Oh, This is Wabi-Sabi!」
そう呟いて肩をすくめることができれば、その失敗さえも、笑い話という「美味しいエンターテイメント」に変わります。
完璧な人生なんて、きっと退屈です。映画だって、トラブルやハプニングがあるから面白いでしょう?
私たちの日常も同じ。不完全で、凸凹(でこぼこ)しているからこそ、そこに光と影が生まれ、奥行きが出るのです。
さて、長旅をしてきましたが、いよいよ次が最終章です。
「結」では、このWabi-Sabiの旅を締めくくり、これから先、私たちがどうやってこの「不完全な美」を胸に、しなやかに生きていくか。
未来への希望と、明日への小さな約束をお話ししたいと思います。
完璧じゃない私たちが、完璧じゃない世界で、最高に幸せに生きるために。
最後のメッセージを受け取ってください。
不完全なまま生きる、これからの私。心の余白が生む本当の豊かさ
長い手紙のようなこのブログも、いよいよ最後になりました。
ここまで読んでくださった皆さんの心の中に、今、どんな景色が広がっていますか?
もし、読み始める前よりも少しだけ肩の力が抜け、「まぁ、これでもいっか」と温かいお茶のような安らぎを感じていただけていたら、それだけで私はとても幸せです。
最後に皆さんと共有したいのは、**「Kintsugi of the Soul(心の金継ぎ)」**というお話です。
最初の「起」の章で、私が割ってしまったお皿を金継ぎで直した話をしましたよね。
実は、Wabi-Sabiの哲学が私たちにくれる最大のギフトは、お皿を直すことではなく、**「傷ついた私たち自身の心を、黄金で修復する力」**なんです。
私たちは生きていれば、必ず傷つきます。
海外での生活、言葉が通じない悔しさ、孤独感。
子育てで思い通りにいかず、自己嫌悪に陥る夜。
大切な人との別れや、人間関係のトラブル。
そんな時、私たちの心には、目には見えないけれど「ヒビ」が入ったり、「欠け」ができたりします。
完璧主義の世界では、この「心の傷」は隠すべきものです。「私は大丈夫」「私は強い」と笑顔の仮面で蓋をして、傷なんてなかったかのように振る舞うことが「良し」とされます。
でも、Wabi-Sabiの世界は違います。
「壊れたのなら、直せばいい。そして、直した跡は、隠さずに見せればいい」
金継ぎされた器が、新品よりも価値が高く、美しいとされるのと同じように。
私たちもまた、失敗や挫折、悲しみという「修復歴」があるからこそ、人の痛みがわかる、深みのある人間になれるのではないでしょうか。
私が日本で出会った、ある素敵なおばあちゃんの言葉を思い出します。彼女の手は節くれだっていて、顔には無数のシワがありましたが、その笑顔はどんな少女よりもチャーミングでした。
彼女はこう言いました。
「若い頃はね、ツルツルの真っ白な画用紙みたいになりたかったの。汚れひとつない、綺麗な人生を歩みたかった。でも、80年も生きてりゃ、泥もハネるし、紙も破れるわよ(笑)。
でもね、その破れたところをテープで貼ったり、泥汚れの上から絵を描き足したりしているうちに、なんだか面白い、私だけの絵本ができあがったの。今はね、この継ぎ接ぎだらけの人生が、愛おしくてたまらないのよ」
この言葉を聞いた時、私は涙が出そうになりました。
私たちは、無傷のままゴールテープを切るために生きているのではありません。
たくさん転んで、泥だらけになって、その度に立ち上がって、自分という器を「金(=経験と優しさ)」で継ぎながら、味わい深い「景色」を作っていくために生きているんです。
だから、もし今、あなたが何かに失敗して落ち込んでいるなら、どうか自分を責めないでください。
その失敗は、あなたの人生という器に刻まれる、新しい「金継ぎ」のラインです。
その傷跡は、いつか必ず、誰かを励ますための美しい模様になります。
「私もね、昔あそこで派手に転んだのよ」と笑って言える日が来るとき、その傷はあなたのチャームポイントに変わっているはずですから。
そしてもう一つ、Wabi-Sabiが教えてくれる未来への知恵。
それは**「一期一会(Ichigo Ichie)」**という言葉との深いつながりです。
これも有名な言葉なので、聞いたことがある方も多いかもしれません。「一生に一度の出会い」という意味ですね。
でも、なぜこの言葉がWabi-Sabiと関係があるのでしょうか?
それは、**「不完全だからこそ、二度と同じ瞬間はない」**からです。
もし世界が完璧で、デジタルデータのようにいつでも同じ状態で保存・再生できるなら、私たちは「今」を大切にしようとは思わないでしょう。「また後で再生すればいいや」と思うはずです。
でも、現実は違います。
花は枯れ、子供はあっという間に大きくなり、私たちも歳をとります。
今日の夕焼けは、昨日とは少し違う色をしているし、今日家族で囲む食卓の空気は、明日にはもう再現できません。
すべては移ろいゆく(Impermanence)。
だからこそ、その不完全で儚(はかな)い「今」という瞬間が、ダイヤモンドよりも貴重に輝くんです。
Wabi-Sabiの心を持つということは、この「二度と戻らない時間」に対する愛おしさを取り戻すことです。
忙しさに追われていると、私たちはつい「早く大きくなって」「早く週末になればいいのに」と先を急いでしまいます。
でも、少し立ち止まって、目の前の「不完全な景色」を見てみてください。
例えば、子供が牛乳をこぼして泣いている朝。
完璧主義の視点なら「なんてこと! 最悪!」というただのトラブルです。
でも、Wabi-Sabiと一期一会の視点なら、こう見えるかもしれません。
「牛乳を拭いているこの私の手も、泣いているこの子の顔も、10年後にはもうここにはない。このドタバタ劇さえも、二度と演じられない、かけがえのないワンシーンなんだ」と。
そう思えた瞬間、イライラしていた心が、ふっと静かな感謝に変わりませんか?
「トラブル」が「思い出」に変わる魔法。それがWabi-Sabiです。
私たちは、いつか必ず全てを失います。
だからこそ、今あるもの、今いる人、今感じている風の匂いを、心ゆくまで味わい尽くしたい。
完璧じゃなくていい。散らかっていても、喧嘩していても、泣いていてもいい。
そこに「命」がある限り、それは間違いなく美しい瞬間なのです。
最後に、海外で暮らす勇敢な主婦の皆さんへ。
日本から、心からのエールを送らせてください。
皆さんは、慣れない環境の中で、毎日本当によく頑張っています。
「現地の言葉が完璧に話せない」
「現地のママたちみたいに振る舞えない」
そんな風に、自分の「足りない部分(Lack)」を数えてしまう夜もあるでしょう。
でも、忘れないでください。
Wabi-Sabiの教えによれば、「不足」こそが「美」の源泉です。
完璧な英語じゃなくていい。あなたのその辿々(たどたど)しい言葉には、一生懸命伝えようとする温かい心が宿っています。それは流暢な言葉よりも、相手の胸を打つかもしれません。
現地のスタイルに完璧に馴染まなくていい。あなたが持つ「日本人としての視点」や「異邦人としての感性」は、そのコミュニティにとって新しい風であり、ユニークな彩りなんです。
あなたは、パズルのピースのように、周りの形に合わせて自分を削る必要はありません。
歪(いびつ)な形のままでいい。その凸凹が、誰かの凸凹とカチッとはまった時、そこに誰にも真似できない絆が生まれます。
「You are perfectly imperfect.(あなたは、不完全に完璧です)」
これからは、鏡を見るたびに、この言葉を魔法の呪文のように唱えてみてください。
そして、部屋の隅にホコリを見つけたら、「あら、ここにもWabi-Sabiが」とウインクしてみましょう。
完璧を目指してキリキリと弓を引くのをやめて、その弓を地面に置き、深呼吸をして空を見上げる。
そんな「余白」のある毎日は、きっと今までよりもずっと色鮮やかで、優しい味がするはずです。
日本には「足るを知る(Taru wo shiru)」という言葉もあります。
「今のままで、私は十分に持っている」と知ること。
Wabi-Sabiは、遠くにある幸せを追いかけるのではなく、足元に転がっている小さな幸せ——「欠けたお皿」や「シワ」や「雑草」——を拾い上げるためのレンズです。
このブログを通じて、皆さんのレンズが少しだけ曇りを晴らし、世界がより愛おしい場所に見えるようになっていれば幸いです。
さあ、パソコンを閉じて、不完全で美しい日常に戻りましょう。
今日のお茶は、あえてあの一番古い、欠けたマグカップで淹れてみませんか?
きっと、いつもより深い味わいがするはずですよ。
日本より、愛とWabi-Sabiを込めて。
また、どこかの記事でお会いしましょう。

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