「ぺこり」と「ナマステ」のご近所さん。挨拶ひとつで世界が広がる!日本在住主婦の異文化コミュニケーション体験記

混乱だらけの初対面!「お辞儀」と「ナマステ」が交差した日

こんにちは!日本でごくごく普通の主婦をしているミキです。

海外で暮らしている皆さん、その国の「挨拶(あいさつ)」にはもう慣れましたか?

握手だったり、ハグだったり、頬と頬を合わせる「ビズー」だったり。国によって本当に様々ですよね。日本に興味を持ってくださっている皆さんも、きっと日本の「お辞儀(おじぎ)」についてはご存知だと思います。

私たち日本人にとって、お辞儀はもう「呼吸」と同じレベル。生活に染み込みすぎて、自分がいつ、どの角度でお辞儀をしているかなんて、普段は全く意識していません。

例えば、朝。ゴミ出しの時に、収集車の作業員さんに「おはようございます」と声をかける時。この時は、自然と頭が「ぺこり」と下がります。角度にして15度くらいでしょうか。これは「会釈(えしゃく)」と呼ばれるもので、親しみを込めた軽い挨拶ですね。

もう少し丁寧な場面、例えば子供の学校のPTAの集まりで、先生や他の保護者の方に挨拶する時は、もう少し深く、30度くらいの「敬礼(けいれい)」になります。背筋を伸ばして、相手の目を一度見てから、すっと頭を下げる。この「間(ま)」が大事だったりします。

そして、何かミスをしてしまったり、深く感謝を伝えたりする時は、45度、時にはそれ以上深く頭を下げる「最敬礼(さいけいれい)」を使います。

面白いのは、これ、電話でもやっちゃうんですよね(笑)。

相手には見えていないのに、取引先との電話を切る時、無意識に受話器に向かって深々とお辞儀をしている自分に気づいて、一人で苦笑いすることもしばしば。

それくらい、私たちにとって「敬意=頭を下げること」という図式が、体に染み付いているんです。相手の目を見て話すのが「誠意」とされる文化圏の方からすると、お辞儀は「目をそらす行為」に見えて、ちょっと不思議に思われるかもしれませんね。

私たち日本人にとってお辞儀は、「私はあなたに敵意がありません」「あなたを尊重しています」というサイン。自分の急所である「頭」を相手に差し出すことで、敬意と信頼を示す、ある種の「非武装宣言」みたいなものなのかもしれません。

そんな「お辞儀」が常識の世界で生きてきた私にとって、数年前に体験した「ご近所トラブル(?)」ならぬ「ご近所カルチャーショック」は、本当に強烈な出来事でした。

うちのマンションの隣の部屋に、新しいご家族が引っ越してきたんです。どうやらインドからいらっしゃったご家族らしい、と夫から聞きました。

「海外から来たばかりできっと不安だろうな」

「日本へようこそ、って気持ちを伝えたいな」

そう思って、私は日本式の「引っ越しの挨拶」の準備をしました。といっても、大したものではありません。近所のデパートで、日持ちのするクッキーの詰め合わせと、日本らしい「ご挨拶」と書かれた「のし紙」を用意しただけです。

「はじめまして、隣に越してきました〇〇です」

このセリフと共に、例の「30度のお辞儀(敬礼)」で、完璧にご挨拶するぞ!と、インターホンを押す前から頭の中でシミュレーションしていました。

そして、その時が来ました。

「ピンポーン」

ドキドキしながら待っていると、ドアがゆっくりと開きました。

中から現れたのは、サリーを美しく着こなした、笑顔がとても素敵な女性でした。私と同い年くらいでしょうか。彼女の後ろから、小さな女の子が恥ずかしそうにこちらを見ています。

「あ、はじめまして!隣の部屋に住んでおります、サトウと申します。どうぞ、よろしくお願いします」

私は練習通り、完璧なタイミングで「30度のお辞儀」をしながら、用意したクッキーの箱を両手で差し出しました。

「さあ、どうぞ!」

……しかし。

数秒経っても、彼女はクッキーを受け取ってくれません。

あれ?と思い、お辞儀をしながらそっと視線だけ上げると、彼女は私を「きょとん」とした顔で見つめていました。

そして、次の瞬間。

彼女は、私がお辞儀をしている目の前で、お辞儀を返すのではなく、胸の前で両手をピタリと合わせ、指先を上に向けたのです。

そして、にっこりと、それはそれは美しい笑顔でこう言いました。

「ナマステ」

私は、頭を下げてクッキーを差し出したまま、完全にフリーズしてしまいました。

(え?え?なますて??)

(あ、これ、テレビで見たことある!)

(でも、なんで今? え、私、お辞儀したよね?)

(もしかして、私、何か失礼なことした!?)

(ていうか、このクッキーは受け取ってもらえないの!?)

わずか2秒ほどの間に、頭の中はパニックです。

私にとって「お辞儀をしたら、相手も会釈くらいは返してくれる」のが常識でした。そして「贈り物を差し出したら、受け取ってもらう」のが当たり前でした。

でも、目の前の彼女は、お辞儀を返さず、手も合わせたままで物を受け取る気配もありません。

この時の私の「やらかし」は、**「自分(日本)の常識が、世界の常識だと思い込んでいたこと」**です。

彼女は、お辞儀という習慣がない文化で生きてきたのです。いきなり日本人が目の前で深々と頭を下げたものだから、きっと彼女もびっくりしたでしょう。「どうしてこの人は頭を下げているの?」「何か悪いことでもしたの?」と。

そして、彼女は彼女の文化で「最大限の敬意」を示してくれました。それが「ナマステ」だったのです。胸の前で手を合わせる(合掌する)ことで、贈り物を受け取る「手」がふさがってしまっていたんですね。

私の「お辞儀(敬意)」と、彼女の「ナマステ(敬意)」。

どちらも相手を心からリスペクトしているのに、その「形」が違うだけで、初対面の私たちは、玄関先でクッキーの箱を挟んで、見事にすれ違ってしまったのです。

この「ナマステ」との出会いが、私が「当たり前」だと思っていた日本の習慣や、その裏にある考え方を、もう一度見つめ直すきっかけになりました。

挨拶ひとつ取っても、こんなに奥深い。

次回は、この「お辞儀」という習慣を、私たち日本人がどう捉えているのか、その「深イイ話」を掘り下げてみたいと思います。

「お辞儀」の深イイ話。私たちは何に頭を下げている?

こんにちは!ミキです。

前回の【起】では、引っ越してこられたインド人のお隣さんに、日本式の「お辞儀」でご挨拶を試みた結果、相手の「ナマステ」と見事にすれ違ってしまったお話をしました。

(ちなみに、あの後どうなったか、気になります?(笑))

私がクッキーを差し出したままフリーズしていると、私の「お辞儀」と彼女の「ナマステ」という、お互いの敬意が空中衝突したあの瞬間。

一瞬の静寂の後、彼女の後ろに隠れていた小さな女の子が、私の持っていたクッキーの箱を指差して、お母さんに何か(たぶんヒンディー語で)話しかけたんです。

それを聞いた彼女は「あ!」という顔をして、慌てて合わせいていた手をほどき、

「Oh, sorry! Thank you!」

と、今度は英語で、にこやかにクッキーを受け取ってくれました。

どうやら、私が「贈り物」を渡そうとしていたことに、その時やっと気づいたみたいです。

お互いに「???」だらけの初対面。

でも、彼女の笑顔と、クッキーを受け取った時の嬉しそうな顔を見て、「あぁ、よかった。とりあえず『敵』だとは思われてないな」と、心底ホッとしたのを覚えています。

この一件以来、私はすっかり「挨拶(あいさつ)」というものの奥深さに魅了されてしまいました。

そして、何より思ったんです。

「私たち日本人って、一体なんでこんなにペコペコ頭を下げるんだろう?」

「起」でも書きましたが、電話ですらお辞儀しちゃうんですよ。冷静に考えたら、かなり滑稽ですよね。

でも、私たちはそれをやめられない。だって、それが一番「しっくりくる」から。

今日は、海外の皆さんから見たらちょっと不思議かもしれない、この日本の「お辞儀(おじぎ)」について、私なりに「深イイ話」を掘り下げてみたいと思います。

そもそも、なぜ「頭」を下げるのか?

私たち日本人がお辞儀をする理由。

色々な説があるみたいですが、私が一番「なるほど!」と思ったのは、やっぱり「起」でも触れた**「非武装宣言」説**です。

昔々、武士がいた時代。相手に会った時、一番大事な「頭(首)」を差し出すことで、「私はあなたに敵意を持っていません」「あなたを攻撃するつもりはありませんよ」という意思表示をしたのが始まりだとか。

これ、なんだか動物が、自分より強い相手にお腹を見せて「降参!」ってするのに似てませんか?(笑)

自分の最も弱い部分をさらけ出すことで、「私はあなたを信頼しています」というメッセージを送る。すごく原始的だけど、すごくストレートな敬意の表し方だなって思うんです。

海外、特に欧米では、挨拶といえば「握手」や「アイコンタクト」が主流ですよね。

握手は、元々「お互いに武器を持っていないこと」を確認するための行為だったと聞いたことがあります。そして、相手の目をしっかり見ることは「私は誠実ですよ」「嘘はついていませんよ」というサイン。

これって、文化の出発点が面白いなと思って。

握手やアイコンタクトが「対等な立場」で「お互いを確認し合う」行為だとすれば、日本のお辞儀は、まず「自分がへりくだる」ことからスタートする。

「私(ガ)」をいったん低くして、相手を立てる(尊重する)。

ここには、日本の「和を以て貴しとなす」という、聖徳太子の時代から続く(と言われる)精神が流れている気がします。

とにかく「争いごと」を好まない。波風を立てることを嫌う。

そのためには、まず自分が一歩下がる。「どうぞどうぞ」と相手を優先する。

お辞儀は、その「一歩下がる精神」の、目に見える「形」なのかもしれません。

日本人の「ぺこり」は、便利すぎる多機能ツール

そして、日本で暮らしていると気づくんですが、私たち、本当にありとあらゆる場面でお辞儀をします。

もはや、お辞儀は「多機能ツール」なんです。

  1. 挨拶(おはよう・こんにちは・さようなら)ご近所さんや職場で会った時。これは基本ですね。軽い会釈(15度)。
  2. 感謝(ありがとう)お店で商品を受け取る時、道を譲ってもらった時。敬礼(30度)。
  3. 謝罪(ごめんなさい)人にぶつかってしまった時、ミスをした時。最敬礼(45度)。
  4. お願い(よろしくお願いします)何かを頼む時。敬礼(30度)。

海外の方が一番混乱するのは、たぶん**「感謝」と「謝罪」のお辞儀が、ほぼ同じ形**であることじゃないでしょうか。

しかも、私たちは「ありがとう」の意味で「すみません」と言うことがよくあります。

例えば、電車で席を譲ってもらった時。

多くの日本人は「ありがとうございます」と言うと同時に、軽くお辞儀をします。

でも、中には「あ、すみません…」と言いながら、申し訳なさそうにお辞儀をして座る人も多いんです。

これ、「席を譲らせてしまって、なんだか申し訳ない」という謙遜(けんそん)の気持ちが、「ありがとう」という感謝の気持ちと同時に湧き上がってくるからなんですね。

「あなたに手間をかけさせてしまった」という謝罪と、「あなたの親切が嬉しい」という感謝。この二つが「すみません」+「お辞儀」というワンセットに凝縮されている。

いやー、我ながら複雑です(笑)。

でも、この「相手に手間をかけさせたことへの配慮」こそが、日本的な人生観の「キモ」なのかもしれません。

日常に溢れる「無意識のお辞儀」

主婦である私の日常も、もちろん「お辞儀」だらけです。

スーパーのレジ。

私が商品をカゴから出すと、レジの店員さんが「失礼します」とぺこり。

お会計が終わって、私が「ありがとう」と商品を受け取ると、店員さんは「ありがとうございました」と深々とぺこり。

それを見て、私も「どうも」とぺこり。

もう、お互いペコペコし合ってます。

車の運転中。

狭い道で対向車に道を譲ってもらうと、私は軽く頭を下げながら(あるいは手を挙げて)「ありがとう」の意を示します。相手もすれ違い様に軽くぺこり。バックミラー越しに、相手が「ぺこり」としてくれたのが見えたりすると、なんだか心が温かくなります。

マンションのエレベーター。

誰かが降りる時、「開」ボタンを押して待っててあげる。

降りる人は、こちらに振り返って「どうも」とぺこり。

待っていた私も、軽く会釈で返す。

これら一つ一つは、本当に小さな、儀礼的なものかもしれません。

でも、この「小さな敬意のキャッチボール」が、社会の潤滑油になっていることは間違いないんです。

もしこれが全部なかったら?

もしスーパーの店員さんが無言で商品を突き出し、道を譲ってもらったのに相手が知らんぷりだったら?

…想像しただけで、なんだかギスギスして、とても暮らしにくいですよね。

「お辞儀の角度」を練習する日本人

そういえば、日本(特にビジネスの世界)では、新入社員研修で「お辞儀の角度」をみっちり練習することがあります。

「会釈は15度!」「敬礼は30度!」「最敬礼は45度!」「背筋を曲げずに股関節から折る!」

みたいな感じです。

海外の友人からは「クレイジーだ」と笑われたこともあります。

「気持ちがこもってれば、角度なんてどうでもいいじゃない?」と。

全くその通り!

私も、気持ちがこもってない、形だけの丁寧すぎるお辞儀をされると、逆に「マニュアル通りだな…」と冷めた気持ちになることもあります。

でも、この「角度」を練習することにも、やっぱり日本的な「知恵」が隠れていると思うんです。

それは、**「気持ちを可視化(見える化)する」**ということ。

「本当に申し訳ない」と思っている時、人間の体は自然と深く折れ曲がるはずです。

「本当にありがたい」と思っている時も同じ。

その「自然な形」を、あえて「型(かた)」として共有することで、「私は今、これくらい深く感謝(反省)していますよ」というメッセージを、言葉にしなくても相手に伝えることができる。

言葉で「ありがとう」と言うのは簡単です。でも、その「ありがとう」が、社交辞令レベルなのか、心の底からなのか。それを「お辞儀の深さ」という「形」で補足する。

いちいち「あなたの親切に、私は心の底から感謝しています」なんてクドクド説明しなくても、深々と頭を下げる姿ひとつで、その「本気度」が伝わる。

これは、直接的な言葉を避けて「空気を読む」ことを重視する、日本独特のコミュニケーション術なのかもしれません。

お辞儀とは「私(ガ)」を消す行為

長々と語ってきましたが、結局、お辞儀の核心って何だろうと考えてみました。

それはたぶん、**「相手への敬意」と「自分を(一時的に)無にすること」**なんじゃないかと。

頭を下げているあのコンマ数秒、私たちは「私(ガ)」を消しているのかもしれません。

「私が」「私が」という自己主張(エゴ)をいったん脇に置いて、相手の存在を100%受け入れ、尊重する。

日本には「おかげさまで」とか「お互い様」という言葉が日常的に使われます。

これは、「私が一人で頑張ったからできた」のではなく、「あなたや、周りの環境や、目に見えない色々なもののおかげで、今の私がある」という考え方が根底にあるからです。

お辞儀は、その「おかげさま」の精神の象徴。

「あなたのおかげです」という感謝。

「あなたを尊重します」という社会的な約束。

だから、電話の向こうの見えない相手にも、頭を下げてしまう。

それは、目の前の受話器に頭を下げているんじゃなくて、その向こうにいる「相手」や、その「相手とのご縁」そのものに対して、敬意を払っているのかもしれないな…なんて、思ったりします。

あのお隣さんとの「ナマステ事件」で、私は「お辞儀」という「形」に、無意識にこだわりすぎていたことに気づかされました。

大切なのは、お辞儀という「形」そのものではなく、その「形」に込めようとしていた「心(あなたと仲良くなりたい、という敬意)」だったんですよね。

では、私がすれ違ってしまった、あの「ナマステ」。

胸の前で手を合わせる、あの美しいポーズには、一体どんな意味が込められていたんでしょう?

次回は、後日、あのインド人の彼女(すっかり仲良くなりました!)が教えてくれた、「ナマステ」の、目からウロコの深い意味と、そこから見えた人生観についてお話ししたいと思います。

お楽しみに!

合掌の意味。インドの友人が教えてくれた「あなたの中の神様」

こんにちは!ミキです。

「お辞儀」という、私たち日本人が無意識にやっている行為の裏には、「相手を立てる」「和を尊ぶ」という、なんとも日本らしい精神が隠れている…というお話を、前回はさせていただきました。

さて、あの「ナマステ事件」から数ヶ月。

引っ越してきた当初は、お互いに「???」だらけだったお隣の奥さん(プリーヤさんとおっしゃいます)とは、今ではすっかり仲良し。片言の英語と、覚えたての日本語、そして大量のジェスチャーを駆使して(笑)、お互いの家でお茶をする仲になりました。

彼女が淹れてくれる、スパイスが効いた甘くて濃い「チャイ」は絶品。

私はお返しに、うちで「抹茶」を点(た)てて、和菓子と一緒にお出ししたりしています。プリーヤさんは、抹茶の苦味と和菓子の繊細な甘さの組み合わせに「アメージング!」と感動していました。

そんなある日の午後。

いつものようにチャイをご馳走になりながら、私はずっと気になっていたことを、ついに尋ねてみることにしたんです。

「ねえ、プリーヤさん。今更なんだけど、あの、引っ越しの日のこと覚えてる?」

「Oh, of course!(もちろんよ!)ミキがクッキーを持ってきてくれた日ね」

「そう!あの時、私、日本式にお辞儀したでしょ? そしたらプリーヤさん、胸の前でこう、手を合わせて…」

私がそう言って胸の前で手を合わせてみせると、彼女は「あぁ!」と声をあげて、嬉しそうに笑いました。

「Namaste!(ナマステ!)ね」

「そう、それ! あの『ナマステ』って、どういう意味なの? なんとなく『こんにちは』みたいな挨拶なんだろうなって思ってたんだけど、あの時、プリーヤさん、すごく……なんというか、神聖な顔をしてたから」

私は、あの時の彼女の、きょとんとはしつつも、スッと目を伏せて手を合わせた瞬間の、凛とした空気を思い出していました。

プリーヤさんは、チャイのカップをソーサーに置くと、少し背筋を伸ばしました。

そして、あの日のように、ゆっくりと胸の前で両手を合わせ、指先をピンと上に向けました。

「ナマステ、はね…ミキの言う通り、Hello(こんにちは)やGoodbye(さようなら)みたいに、挨拶として使うわ。でも、本当の意味は、もっと深いの」

彼女は、合わせた手を軽く私の方に向けながら、続けました。

「語源を説明すると、『ナマ』は『お辞儀』、『アズ』は『私』、『テ』は『あなたに』。だから、直訳すると『私はあなたにお辞儀します』っていう意味。ほら、ミキのお辞儀と、ちょっと似てるでしょ?」

「へええ! 『お辞儀』って意味が入ってるんだ! 知らなかった…」

私がお辞儀に「敬意」を込めていたように、彼女も「ナマステ」に「敬意」を込めてくれていた。形は違えど、根本は同じだったんだ!と、まずそこで感動しました。

でも、彼女の説明は、そこでは終わりませんでした。

ここからが、私にとって「目からウロコ」というか、頭をガツンと殴られたような衝撃の「人生観」だったんです。

「でもね、ミキ。私たちが『お辞儀します』って言ってる相手は、目の前の『その人』だけじゃないの」

「え? どういうこと?」

「私たちがこうやって手を合わせる時、私たちは『私の中にある神聖なものが、あなたの中にある神聖なものに、敬意を表します』って言ってるのよ」

……か、神聖なもの?

……あなたの中の、神様?

一瞬、何を言われたのか分かりませんでした。

私がポカンとしていると、プリーヤさんは優しく笑って説明してくれました。

「インドの考え方ではね、全ての人の心の中には、神様(あるいは『神聖な光』とか『魂』って言ってもいいわ)が宿っている、と考えるの。私の中にも、ミキの中にも、あの可愛い娘さんの中にも、みんな平等に、尊い光がある」

「ふむふむ…」

「だから、ナマステをする時は、『あなたのその素晴らしい光(魂)に、私の光(魂)が気づいていますよ』『あなたの神様を、私は尊敬します』っていう気持ちを込めるの。それは、相手の年齢や、性別や、お金持ちかどうか、そういう『外側のこと』は一切関係ない。ただ、その人の『内側』にある、尊いものに対して挨拶するのよ」

……衝撃でした。

私たち日本のお辞儀。

前回、あれは「和」を尊び、相手を立てる「社会的な」行為だとお話ししましたよね。

だから、相手が社長なのか、友人なのか、店員さんなのかで、お辞儀の「角度(深さ)」が変わる。それは、相手の「社会的立場」を尊重している証拠でもあります。

でも、彼女の「ナマステ」は、違った。

もちろん、インドにもカーストという複雑な社会制度があった(今もある)ことは知っています。でも、少なくとも彼女が今説明してくれた「ナマステ」の根底にある思想は、「社会的な立場」を飛び越えた、もっと根本的な「魂レベル」での平等と尊敬だったんです。

お辞儀が、「私(ガ)」を低くして相手を立てる「引き算」の敬意だとしたら。

ナマステは、相手の中にある「神聖さ」を見出し、それと自分の「神聖さ」を繋げる、「足し算」…いや、「掛け算」の敬意、とでも言うんでしょうか。

「だからね」とプリーヤさんは続けます。

「ヨガのレッスンの最後にも、みんなで『ナマステ』って言うでしょ? あれは、『一緒に練習してくれてありがとう』だけじゃなくて、『お互いの中に宿る神聖なエネルギーに感謝します』っていう意味なのよ」

「じゃあさ」と私は尋ねました。

「ナマステに『間違ったやり方』ってあるの? 例えば、私たちがお辞儀の角度を気にするみたいに、手の位置とか、目の動かし方とか…」

「うーん」と彼女は少し考えて、「もちろん、形は大事よ」と言いました。

「この『合掌(がっしょう)』(アンジャリ・ムドラーって言うんだけど)は、胸の、ちょうど心臓がある位置(ハートチャクラって言うわ)の前で合わせるのが基本。そうすることで、心がこもるから。そして、少し頭を下げて、目を閉じるか、相手の心のあたりを見ると、より丁寧ね」

「なるほど…」

「でもね」と彼女は付け加えました。

「一番の『間違い』は、そこに『心(リスペクト)』がないこと。形だけ真似して、心の中で相手を見下していたら、それはナマ

ステじゃない。ただの手の運動よ(笑)。日本の『お辞儀』だって、きっとそうでしょ?」

その言葉に、私はドキッとしました。

確かに…。

いくら美しい45度のお辞儀をしても、心がこもっていなければ、それは相手に伝わってしまう。「型(かた)」を重んじるあまり、いつの間にか「心」がお留守になっていることって、私にもあるかもしれない…。

「じゃあ…」と、私はあの日のことをもう一度、確かめるように聞きました。

「あの引っ越しの日、私がクッキー持って、深々とお辞儀してた時…プリーヤさんは、私の中に『神様』を見てくれてたの?」

すると彼女は、それまで真剣だった顔をくしゃっとさせて、大声で笑いだしました。

「アハハ! 正直に言うとね、ミキ!」

「正直に言うと?」

「あの瞬間は、**『なんてこった!日本の人は、クッキーを渡す時に、こんなに深く頭を下げるの!? 私、何か失礼なことした!?』**って、私もパニックだったわよ!」

二人で、あの日の「すれ違い」を思い出して、涙が出るほど笑いました。

お互い、相手を心からリスペクトしていたのに。

お辞儀とナマステ。

その「形」に込められた人生観が、あまりにも違っていた。

「あなたを立てます」という敬意と、「あなたの中の神様を尊敬します」という敬意。

どちらが上で、どちらが下かなんてない。

ただ、こんなにも違う「敬意」の表し方が、すぐ隣の部屋にあったなんて。

私の日常は、あの日を境に、間違いなく「転」換しました。

お辞儀を返すお辞儀。

ナマステを返すナマステ。

そして、お辞儀に対して、ナマステで応えてくれる友人。

次回は、この「お辞儀」と「ナマステ」の出会いから、私たちが学べる「人生術」って何だろう?という、このお話の「結び」を書いてみたいと思います。

形は違えど心はひとつ。挨拶から学ぶ「敬意」という名の人生術

こんにちは!ミキです。

長々と「お辞儀」と「ナマステ」について語ってきましたが、ついに最終回となる【結】です。

振り返れば、あの日の玄関先での「クッキーを挟んだ無言の攻防」が、私にとってはまさに人生の転機でした。

「私の中の当たり前は、世界の当たり前じゃない」と頭で理解しているつもりでも、いざ目の前で別の文化の「敬意の形」に遭遇すると、人間ってこんなにもパニックになるんだ、と(笑)。

前々回(承)で学んだのは、私たち日本の「お辞儀」は、

「私はあなたに敵意を持ちません。あなたの社会的な立場を尊重し、自分を低くします」という、『社会的な敬意』の表明でした。

そして前回(転)で、インドの友人プリーヤさんが教えてくれた「ナマステ」は、

「私の中に宿る神聖なものが、あなたの中に宿る神聖なものに、敬意を表します」という、『魂レベルの敬意』の表明でした。

この二つの挨拶を並べてみると、その哲学が、まるで月と太陽のように、対照的でありながら、どちらも美しい光を放っていることに気づかされます。

太陽のナマステと、月のぺこり

「ナマステ」は、まるで太陽の光のように、誰もが平等に、内側から輝く「神聖さ」を認め合う、明るく力強い挨拶です。

「あなたも私も尊い存在。あなたは私。私はあなた。」

そんな、壮大な宇宙の繋がりを感じさせる挨拶だと感じました。

一方、私たち日本の「お辞儀」は、静かに夜空を照らす月の光のようです。

「あなたが気持ちよく過ごせるよう、私が一歩引きます」「和を乱さないよう、私がへりくだります」という、相手への繊細な配慮から生まれています。

社会的な関係性や、その場の空気(空気を読むという日本独特の能力ですね)を最優先し、その時々で適切な角度に形を変える。

どちらが正しい、なんて議論はナンセンスです。

「社会の秩序と調和を最優先する」という日本の文化が、「お辞儀」という形を生んだ。

「すべての生命と魂の繋がりを尊ぶ」というインドの文化が、「ナマステ」という形を生んだ。

どちらも、その根底にあるのは、**「あなたを尊重したい」という、人間共通の、温かい『心』**なんですよね。

プリーヤさんが言った「心のないナマステは、ただの手の運動よ」という言葉は、私たち日本人にとっても、深く胸に刻むべき「人生の知恵」だと思いました。

マニュアル化された「敬意」の落とし穴

私たち日本は、世界に誇るべき「おもてなし」の文化を持っています。

空港でも、デパートでも、誰もが美しいお辞儀で迎えてくれますよね。

でも、最近、そのお辞儀が「マニュアル化」されすぎて、どこか冷たく感じられることはありませんか?

例えば、お店でマニュアル通りの「いらっしゃいませ!」と、決められた角度の「ぺこり」をされると、「あ、今のは心がこもってないな」と感じてしまうことがある。

これは、以前私がしていた「形さえ整えればOK」という考えと同じ落とし穴です。

お辞儀という「型」は、本来、「心」という水を注ぐための「器」です。

器が美しくても、中が空っぽでは、何の役にも立ちません。

私はこの学びを得てから、日常の「ぺこり」に、もう一度「心」を込めようと意識するようになりました。

スーパーの店員さんへの会釈には、「いつもありがとう。レジ打ち頑張ってね」という心を込める。

道を譲ってもらった時の会釈には、「あなたの親切、ちゃんと受け取りましたよ」という感謝の心を込める。

そうすると、不思議なことに、自分自身の気持ちも、すごく穏やかになるんです。

単なる「習慣」だったはずのお辞儀が、**自分自身を律し、心を整えるための「人生術」**に変わった。

これは、海外で暮らす読者の皆さんにも、きっと役立つ知恵だと思います。

現地の挨拶の「形」を学ぶのは、もちろん素晴らしいことです。

でも、その挨拶を交わす時、ほんの一瞬でいいから、「この挨拶には、この国の人がどんな『敬意』を込めてきたんだろう?」と考えてみてください。

相手が笑顔でハグをしてくれたなら、「対等な立場で、親愛の情を表しているんだな」と感じるかもしれません。

相手が「あなたの中の神聖さに敬意を表します」という意味を込めて握手をしてくれたら、それだけで、その人への見方がガラリと変わるはずです。

挨拶とは、その文化の最も美しい「人生観」を、凝縮して表現した「形」なのですから。

挨拶を交換し合うということ

私とプリーヤさんの友情は、あの「すれ違いの挨拶」から始まりました。

彼女は、私が緊張しながら差し出したクッキーを、最初は「合掌」で受け取ることができなかったけれど、最終的には満面の笑みで受け取ってくれました。

そして、今では、私の家に来た時には、日本式の「ぺこり」を交えながら、少しおかしなイントネーションで「オハヨウゴザイマス!」と言ってくれます。

彼女は、自分自身の「ナマステ」の精神を曲げずに、私の文化の「お辞儀」も受け入れて、取り入れようとしてくれている。

これこそが、私たちが「挨拶」から学ぶべき、最高の「人生術」かもしれません。

それは、**「自分の『心』は守りながら、相手の『形』を尊重する」**ということ。

海外で暮らす皆さんも、きっと日々、自分の常識と現地の常識の間で揺れ動いていると思います。

でも、怖がらなくて大丈夫。

私たちがすべきことは、どちらかの「形」を捨て去ることではなく、その「形」の裏にある**『相手への敬意という心』**を、見失わないこと。

その心を込めた挨拶であれば、「ぺこり」でも「ナマステ」でも、ハグでも握手でも、きっと世界は繋がります。

今日から、ご近所さんに「Hello」と言う時、あるいは、日本にいる家族と電話で話す時、その一瞬の挨拶に「あなたへの心からの敬意」を込めてみませんか?

その小さな行動が、あなたの世界を、そしてあなたの日常を、もっと豊かに、もっと穏やかにしてくれるはずです。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

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