もう「ちゃんとママ」やめません?― 走り続ける日本のママたちが失う、本当に大切なもの

「あれ、私、いつ笑ったっけ?」――“完璧なママ”という名の呪い

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やっほー!こんにちは。日本で二人のチビ怪獣(と、たまに大きな怪獣になる夫)と暮らしている主婦の(あなたのブログ名や名前)です。

突然だけど、そっち(海外)で暮らしてるみんな、息してる?(笑)

いや、物理的な呼吸じゃなくて、心の呼吸。なんか、「プハーッ!」って、心の底から息を吐いて、「私、今、生きてるわー!」って感じる瞬間、最近あった?

日本で暮らしているとね、特に「ママ」っていう生き物になると、これがまぁ、難しい。

最近、ふと鏡を見たときに、「あれ、私、最後に心の底から笑ったのいつだっけ?」って真顔で考えちゃったのよ。

いや、笑ってるよ? 子供が可愛いことしたら「フフッ」ってなるし、ママ友とのランチで「わかるー!」って愛想笑いもする。

でも、なんていうか、「もう、今日最高!幸せ!」みたいな、腹の底からの大爆笑みたいなやつ。

それが、ない。

それどころか、毎日が「やることリスト」の消化試合。

朝、目覚ましより先に「ママ、お腹すいたー!」で叩き起こされ、半分寝ながら朝ごはんとお弁当(もちろん栄養バランスを考えた彩り豊かなやつ…を目指した結果の茶色いやつ)を作り、子供を保育園や学校に送り出す。

そこからが本番。掃除、洗濯(×2回)、買い物、夕飯の下ごしらえ、パート先からの鬼電(ウソウソ)、そして気づけばもうお迎えの時間。

帰ってきたら、そこからは戦場。

「宿題やったの!?」「手洗いうがい!」「テレビ消して!」「お風呂入って!」「早く寝なさーい!」

…私、今日、何回「早く」って言ったっか。ガミガミ怒るためにママになったんじゃないのになぁ、なんて落ち込む暇もなく、子供が寝た後のぐちゃぐちゃのリビングを見て、第二ラウンド(お皿洗いと明日の準備)開始のゴングが鳴る。

で、やっと一息ついてソファに座ったら、夜中の1時。

スマホを開けば、インスタにはキラッキラの「#丁寧な暮らし」が溢れてる。

手作りのシフォンケーキ、完璧に片付いた北欧風のインテリア、子供の知育に良さそうな手作りおもちゃ…。

「はぁ……。私、何やってんだろ。」

これ、たぶん、日本だけじゃないと思う。きっと世界中のママたちが、同じように「見えない何か」に追われて、必死に走ってるんじゃないかな。

英語だと「Hustle Culture(ハッスル・カルチャー)」って言うんだってね。「とにかく頑張れ!」「休むな、働け!」「もっと上を目指せ!」みたいな考え方。

これがね、日本の「ママ界隈」だと、ちょっと形を変えて襲ってくるの。

「完璧なママでいなきゃ」っていう呪いとして。

例えば、私の近所のママ友(Aさん、仮名ね)。

彼女のスケジュール帳、見たことある? もう、パズルゲームなのよ。

月曜:長男くん、スイミング(選手コース)

火曜:長女ちゃん、ピアノ(コンクール目指してる)

水曜:長男くん、公文式。長女ちゃん、英語。

木曜:二人とも、プログラミング教室。

金曜:長男くん、サッカー。長女ちゃん、バレエ。

土日:どっちかの試合か発表会。

もうね、彼女、ほぼマネージャー。運転手兼、栄養士兼、メンタルコーチ。

ランチに誘っても、「ごめん! 今日、○○(長男)のスイミングのタイム測りに行かなきゃ!」って。

その顔、めちゃくちゃ疲れてるの。

「Aさん、大変すぎない? ちょっと休んだら?」

って言うとね、彼女、決まってこう言うの。

子供のためだから。今が一番大事な時期だから。

わかる。わかるよ、その気持ち。

子供にいろんな可能性をあげたい。将来困らないようにしてあげたい。その「愛」は、本物。

でもね、私、思っちゃうんだ。

その「子供のため」って、本当に「子供」が望んでる?

それとも、「周りがやってるから」「やらせない親はダメだと思われるから」っていう、「親の不安」を子供に押し付けてない?

(これは、もちろんAさんを責めてるんじゃなくて、私自身へのブーメランでもあるんだけどね。)

日本にはね、「みんなと一緒」を良しとする空気があるの。

「周りに合わせなきゃ」っていう、見えないプレッシャー。

子供が公園で泥んこになって遊ぶより、3歳から英語教室に通ってる方が「ちゃんとしてる」って見られるような、そんな空気。

だから、本当は「今日はもう疲れたから、夕飯はデリバリーでいっか」って思っても、「いや、ダメだ。子供の栄養が…」って、フラフラになりながらキッチンに立っちゃう。

本当は、子供と一緒にお昼寝したいのに、「この間に部屋を片付けなきゃ」って、自分を休ませることを「サボり」みたいに感じちゃう。

私たちママは、いつの間にか「子供の幸せ」と「子供の過密スケジュール」をイコールで結びつけちゃってないかな。

「家族の笑顔」と「完璧に片付いた部屋」を混同してないかな。

その結果、何が起きてるか。

フック(英語のフックのことね)にもあったけど、まさに「burnout, stress, and diminished joy」。

そう、燃え尽き症候群と、ストレスと、失われた喜び。

頑張ってるはずなのに、なぜかイライラが止まらない。

子供がジュースをこぼしただけで、火山みたいにブチ切れちゃう。

そして、寝顔を見ながら「あんなに怒るつもりじゃなかったのに…」って、毎晩、自己嫌悪。

ねえ、私たち、こんな母親になりたかったんだっけ?

「ちゃんとママ」になろうと必死にもがけばもがくほど、子供との「本当のつながり(genuine connection)」を自ら断ち切っちゃってるんじゃないか。

「ママ、あのね、今日学校でね…」

「ごめん! 今、夕飯作ってるから後にして!」

あぁ、またやっちゃった。

子供が本当に求めてたのは、栄養満点の夕飯じゃなくて、たった5分、目を合わせて「うんうん、それで?」って話を聞いてくれるママだったかもしれないのに。

この「頑張りすぎちゃう病」、この「完璧なママ」っていう呪い。

これって一体、どこから来てるんだろうね。

日本特有の「世間体」? それとも、SNSが作り出した幻想?

なぜ私たちは走り続けるのか? 日本社会と「ママのハッスル」

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「起」では、「私、いつ笑ったっけ?」状態の、日本の「ちゃんとママ」たちの燃え尽き寸前な日常をぶっちゃけたけど、どうだった?

「わかるー!こっちも同じ!」って人もいれば、「え、日本ってそんなに大変なの!?」って思った人もいるかもしれないね。

でね、ここからが本題。

「承」のパートでは、じゃあ、**「なんで、私たちはこんなに必死に走り続けちゃうの?」**っていう、その根っこにある「呪いの正体」について、日本で暮らす主婦のリアルな視点で掘り下げてみたいと思う。

覚悟はいい?(笑)結構ドロっとした話も出てくるかも。


呪いの正体①:「世間体」という名の透明な檻

まず、日本で暮らす上で絶対に避けられないラスボス。それが「世間体(せけんてい)」と「同調圧力(どうちょうあつりょく)」。

海外に住んでるみんなには、この感覚、どこまで伝わるかなぁ。

もちろん、どこの国にも「人からどう見られるか」を気にする文化はあると思う。でも、日本のそれは、ちょっと独特かもしれない。

なんていうか、**「みんなと一緒=正しい・安心」「みんなと違う=間違い・不安」**っていう空気が、水や空気みたいに当たり前に存在してるのよ。

これが「ママ界隈」になると、どうなるか。

例えば、「持ち物」。

子供が保育園や小学校に入るとね、まぁ、いろんなものを準備させられるわけ。

で、その「お知らせ」のプリントに、こう書いてあるの。

「手さげ袋は、お子様が自分のものとわかるように、できるだけ手作りのものをご用意ください」

キターーー!!(笑)

この、「できるだけ」っていう日本語の絶妙なニュアンス、わかる?

これ、ストレートに訳すと「市販品でもいいけど、手作りの方が愛情こもっててイイよね? みんな作ってくるよ? あなた、作らないの?」っていう、無言の圧力なのよ。

もちろん、裁縫が得意で、作るのが大好きなママもいるよ。それは本当に素敵だし、尊敬する。

でもね、私みたいな不器用オブ不器用(ミシンの糸通しで半日かかるレベル)にとっては、地獄の宣告(笑)。

「いやいや、今は可愛い市販品いっぱいあるじゃん! 〇〇(子供)もアンパンマンのバッグの方が喜ぶんじゃ…」

なーんて言い訳は通用しない。

入園式の日、ズラーーーッと並んだママたちの手には、見事な刺繍やアップリケが施された、温かみあふれる手作りバッグたち。

その中で、デパートで買ったピカピカのバッグを持たせる勇気、私には、なかった……。

(結局、徹夜で指に針刺しながら作ったよね。いびつなウサギの顔したバッグ…)

これって、バッグだけの話じゃない。

「キャラ弁」もそう。

「子供が喜ぶから」っていう愛情から始まってるはずなのに、いつの間にか「他のママが作ってるから、私も作らなきゃ」「あそこのお弁当よりショボいと思われたくない」っていう、「世間体」のための作業になってない?

「習い事」もそうだよね。

「起」で出てきたAさんみたいに、「周りがやってるから」っていう不安から、子供のスケジュールを埋めちゃう。

本当は、その子が公園で泥だらけになって遊ぶのが一番の「学び」かもしれないのに、「みんなが英語やプログラミングをやってるのに、うちの子だけ何もさせないのは、親として無責任じゃないか?」っていう不安。

この「世間体」っていう透明な檻の中で、私たちは「ダメな親」「ズボラな親」「意識の低い親」っていうレッテルを貼られるのを極度に恐れてる。

だから、走り続けるしかないの。


呪いの正体②:「母はかくあるべし」という古いOS

次にヤバいのが、これ。

日本社会に(というか、たぶん世界中にも)根強く残る、「母性神話」っていう名の、超〜〜〜古いOS。

バージョンアップ? 何それ美味しいの? ってくらい、アップデートされてないのよ。

このOSにインストールされてるアプリ(価値観)は、だいたいこんな感じ。

  • 「母たるもの、子供のために自己犠牲は当たり前」
  • 「母の愛情は無限大。24時間365日、笑顔で対応すべし」
  • 「子育ては母親の仕事。夫(父親)は『手伝う』側」
  • 「子供が小さいうちに母親が働く(外に出る)なんて、可哀想」
  • 「母親が自分のために時間を使う(例:美容院、ランチ、趣味)のは、贅沢であり、罪である」

…書いてるだけで、息苦しくなってきた(笑)。

いや、もちろん、頭ではわかってるんだよ。

「そんなわけない」「今は時代が違う」って。

でもね、これが「実体験」として襲ってくるのが、**「祖父母世代(特に義理の)」**からの言葉。

私ね、下の子が1歳くらいの時、あまりの寝不足とワンオペ育児で、マジでノイローゼ寸前だったことがあって。

夫に「お願いだから、半日だけ、一人でカフェでぼーっとさせてくれ」って泣きついて、なんとか時間をもらったの。

で、その話を、何の気なしに義理のお母さん(夫の母ね)にしちゃったんだよね。

「この前、久しぶりに一人の時間もらって、リフレッシュできました〜」って。

そしたら、彼女、なんて言ったと思う?

優しい笑顔で、こう言ったの。

「あら、そうなの。でもねぇ、(私の名前)さん。子供が一番可愛い時期なんて、あっという間よ。そんな時期に、子供を預けてまでお茶するなんて…。〇〇(子供の名前)が可哀想じゃない。お母さんなんだから、今は我慢しなきゃ

……チーン。

頭をガツンと殴られたような衝撃。

悪気がないのはわかってる。彼女も、そういう時代を「我慢」して生きてきた「先輩ママ」だから。

でも、その言葉が、どれだけ私を追い詰めたか。

「あぁ、私は母親失格だ」「子供を可哀想な目にあわせてるダメな母親だ」って、せっかくリフレッシュした心が、一瞬でマイナス100まで落ちたよね。

これが、「母性神話」の呪い。

「お母さんが笑顔でいることが、子供にとって一番」なんて、キレイゴト。

現実は、「お母さんは、自分のすべてを犠牲にして、子供に尽くすべき」っていう古いOSが、まだまだ日本社会のメインストリームだったりする。

だから、自分が熱で40度あっても、フラフラでキッチンに立っちゃうの。

「私が倒れたら、この家は回らない」って。

本当は夫もできるはずなのに、「私じゃなきゃダメ」っていう自己犠牲に、どこか酔ってさえいるのかもしれない。


呪いの正体③:SNSが加速させる「見せかけのハッスル」

そして、トドメがこれ。現代の病。

「SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)」よ。

昔はね、この「世間体」とか「同調圧力」の比較対象って、せいぜい「お隣の奥さん」とか「幼稚園のママ友」とか、半径5メートルくらいの世界だった。

でも、今はどう?

スマホを開けば、日本中、いや、世界中の「キラキラママ」たちが、こっちに微笑みかけてくる。

  • 朝日に照らされた、完璧に片付いたリビング。
  • 栄養バランスも彩りも満点な、カフェみたいな朝ごはん。
  • 「子供と早朝ヨガ。心豊かな一日の始まり」
  • 「#ワーママの休日 #手作りおやつ #丁寧な暮らし」

もう、まぶしい! まぶしすぎて、目がぁぁぁ!

彼女たちが、その「キラキラ」を維持するために、どれだけの努力(ハッスル)をしてるか、それは本当にすごいと思う。

でも、問題は、それを受け取る「私」の心。

彼女たちの「切り取られた一瞬の輝き」が、いつの間にか「世の中のスタンダード」みたいに思えちゃうのよ。

「え、みんな、こんなにちゃんとしてるの?」

「朝からヨガ? 私なんて、まだパジャマでゾンビみたいに徘徊してるのに…」

で、どうなるか。

「私も、やらなきゃ」ってなる。

「見せかけのハッスル」が、リアルな「ハッスル」を強制してくる。

子供の誕生日会なんて、その最たるもの。

一昔前なら、三角帽かぶって、市販のケーキにロウソク立てて、「ハッピーバースデー♪」で、もう最高にハッピーだった。

今は?

テーマカラーを決めたバルーンの装飾。

アイシングクッキーが乗ったオーダーメイドのケーキ。

手作りのガーランド(飾り付け)。

「スマッシュケーキ(1歳の子にケーキを手づかみで食べさせるやつ)」用の、豆乳クリームの手作りケーキ。

その「インスタ映え」する一瞬のために、ママたちはどれだけ前から準備し、どれだけのお金と時間を使ってるか。

もちろん、「子供の笑顔のため」っていうのは本当。

でも、どこかで「あそこのママより、ちゃんとした写真を撮らなきゃ」「SNSにアップした時、『すごいね!』って言われたい」っていう、「承認欲求」や「世間体」が顔を覗かせてない?

その準備で疲れ果てて、当日子どもがグズった瞬間に、「ママ、こんなに頑張ったのに、なんで泣くの!」って、キレちゃったりして。

本末転倒だよね。


「世間体」という名の同調圧力。

「母性神話」という名の古い価値観。

そして、SNSがそれを増幅させる「見せかけのハッスル」。

この**「恐怖の三位一体」**こそが、私たち日本のママたちを「完璧なママ」という名の終わりのないレースへと駆り立てる、呪いの正体なんじゃないかと思う。

私たちは、「子供のため」って言いながら、実は「ダメな母親だと思われることへの不安」から逃げるために、必死で走ってる。

「ちゃんとしてる私」でいるために、子供との時間や、自分の心の余裕を、知らず知らずのうちに犠牲にしてる。

じゃあ、このレース、いつまで走ればゴールなの?

誰が「はい、あなた、完璧なママね」って、金メダルをくれるの?

…誰も、くれないよね。

それどころか、気づいた時には、子供はもう「ママ、あのね」って話しかけてくれなくなってるかもしれない。

「どうせママは、忙しいから」。

“しない”を選ぶ勇気。私が見つけた「ゆる育児」の知恵

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「承」では、私たち日本のママたちが「世間体」「母性神話」「SNS」っていう、見えない呪いにがんじがらめになってるって話をしたよね。

で、何を隠そう、この私自身が、その「呪いの見本市」みたいな女だったわけよ。

長男が生まれた時なんて、もう、ひどかった。

「完璧なママにならなきゃ!」って、全身に力入りまくり。

布おむつ(すぐ挫折したけど)、毎日の手作りおやつ(ベビー用クッキー焼いてみたけど、石みたいに固いやつが完成)、子供が寝てる間に家中の床をピカピカに磨き上げ、夫が帰ってくる頃には品数豊富な夕飯(もちろん栄養バランス完璧)を並べる…。

やってやったよ。

やってやった結果、どうなったと思う?

…ある日、プツンと、何かが切れた。

夫が脱ぎっぱなしにした靴下。

ただ、それだけ。

いつもなら「もー!また脱ぎっぱなし!」って、イラっとしながら拾う、日常の風景。

それが、その日は違った。

その靴下を見た瞬間、涙がボロッボロ出てきて、止まらなくなっちゃったの。

「私、こんなに頑張ってるのに。誰も見てくれない。私、なんのために生きてるの」

って、床に転がった靴下握りしめて、ガチで号泣した(今思うとホラー)。

夫、ドン引き。子供、ポカーン。

その時、わかったの。

あ、私、このままじゃ壊れる。

私が守りたかったのは、ピカピカの床でも、栄養満点の食卓でもなかったはず。

家族の「笑顔」だったはず。

なのに、当の私自身が、笑顔どころか真顔(むしろ般若)で、家族をビクビクさせてる。本末転倒もいいとこ。

もう、やめよう。

「ちゃんとママ」になるの、やめよう。

「完璧なママ」を目指すんじゃなくて、「ご機嫌な私」でいることを、人生の最優先事項にしよう。

そう決めた日から、私の「“しない”を選ぶ」っていう、地味だけど壮大な戦いが始まったのよ。


実践①:「世間体」より「私の機嫌」

まず、手放したのは「手作り神話」。

「承」で話した、あの呪いの「手作りバッグ」事件ね。

下の子の入園の時、私、どうしたと思う?

…買ったよ。

ネットで、ポチッたよ。

子供が一番好きな、某電車のキャラクターがデカデカとプリントされた、それはもう立派な「市販品」を(笑)。

入園式、もちろん周りは相変わらずの手作りバッグのオンパレード。

一瞬、「うわ、浮いてる?」って心がザワついたよ。

でもね、隣でそのバッグを嬉しそうに振り回してる息子の顔見たら、どうでもよくなった。

「この子の笑顔より、他のママからの『あそこの奥さん、手抜きね』っていう視線の方が大事か?」

いや、断じてノーだ。

徹夜して作った「いびつなウサギ(長男の時)」より、プロが作った「完璧な電車のプリント(次男)」。

どっちが息子のテンション上げたかって、そりゃもう、後者よ。

私がミシンと格闘してイライラしてるより、その時間、息子と一緒におやつ食べてゲラゲラ笑ってる方が、よっぽど「愛情」じゃない?

「お母さんの愛情は、ミシンの縫い目の数では決まらない」

これが、私が見つけた一つ目の知恵。

キャラ弁もやめた。

朝、5分でも長く寝たいから。

「緑(ブロッコリー)、赤(プチトマト)、黄色(卵焼き)」っていう呪文を唱えるのをやめて、前日の残りの「茶色い煮物」をドーンと入れた。

子供? 「昨日も食べたやつだー!」って喜んでたよ(笑)。


実践②:「母性」より「人間」であれ

次にぶっ壊したのは、「母性神話」っていう名の、あの古いOS。

義母の「子供が可哀想。お母さんは我慢しなきゃ」っていう、あの言葉の呪いね。

あれ、ずっと私の中にトゲみたいに残ってた。

自分が楽しようとすると、「あぁ、私、子供を可哀想な目にあわせてる…」って、罪悪感がチクチクするの。

でも、あの号泣事件(靴下事件ね)の後、夫とガチで話し合った。

「私はロボットじゃない。人間だ」と。

「私だって、疲れる。サボりたい。一人になりたい」と。

「私が倒れたら、あなた(夫)が全部やるんだよ? それでいいの?」と。

そこから、我が家では「ママの機嫌は、家族の平和」っていうスローガンが掲げられた(私が勝手に掲げた)。

具体的に何をしたか。

「家事と育児の『見える化』と『外注』」よ。

それまで「名もなき家事」として私が一人で抱え込んでた雑務(トイレットペーパーの補充とか、子供のプリントの管理とか)を全部書き出して、夫と「強制シェア」。

そして、これが一番の「転」だったんだけど、

「お金で時間を買う」ことに、罪悪感を持つのをやめた。

食洗機、導入した。

お掃除ロボット、買った。

疲れた日の夕飯は、堂々とデリバリーや総菜を「主役」に据える。

シッターさんや家事代行サービスも、「贅沢品」じゃなくて「インフラ」として考えるようにした。

もちろん、お金はかかるよ。

でもね、そのお金って、何と比べてる?

私がイライラしながら家事をして、家族に当たり散らして、自己嫌悪に陥る…その「心のコスト」と比べて、どう?

義母世代は言うよ。「昔はそんな便利なものなくても、みんな我慢してやったのよ」って。

でもね、私はこう思うことにしたの。

「**お義母さん、我慢は美徳かもしれないけど、私は『工夫』で乗り切る世代なんで。**その工夫の一つが、文明の利器(食洗機)です」って。

「母」である前に、「私」っていう一人の人間。

私が笑顔でいるために、使えるもんは全部使う。

それが、結果的に子供の笑顔につながる。

「自己犠牲」より「自己充足」。まずママが、自分の心のコップを幸せで満タンにしなきゃ。カラッポのコップから、誰かに何かを注いであげることなんて、できっこないんだから。


実践③:SNSは「窓」であって「鏡」じゃない

最後は、SNSとの付き合い方。

「承」で言った「キラキラママ」たちね。

これは、もう、シンプル。

「比較」するのをやめた。

だって、土俵が違うんだもん。

彼女たちの「インスタ映え」する一瞬は、彼女たちの努力の賜物。それは「すごいね!」って素直に拍手。

でも、それは「私のスタンダード」じゃない。

あっちが「劇場」なら、こっちは「日常のドキュメンタリー」。それでいいじゃん、って。

私がやったのは、フォローする人を変えること。

「#丁寧な暮らし」の人を見るのが辛くなったら、ミュート(表示しない設定)する。

代わりに、「#ズボラ主婦」「#手抜きごはん最高」「#ワンオペ育児の限界」みたいなタグで検索して、「だよねー!わかるー!」って共感できる「戦友」を見つける(笑)。

SNSは、「私、ダメだ…」って落ち込むための「鏡」じゃない。

「へぇ、世の中にはこんな暮らしもあるんだ」「この手抜きテク、賢い!」って、新しい世界を知るための「窓」として使う。

「いいね!」の数で、自分の価値を決めない。

私が「いいね!」って思える瞬間(子供がアホなことして大笑いした瞬間とか)を、大事にする。


「手作り」をやめた。

「我慢」をやめた。

「比較」をやめた。

“しない”ことを選んだ結果、どうなったか。

相変わらず、家は(ちょっと)散らかってる。

夕飯が茶色い日もある。

スケジュール帳は、真っ白(笑)。

でもね、確実に「増えた」ものがある。

それは、「心の余白」。

「起」で書いた、あの日々。

「ママ、あのね」

「ごめん、今忙しい!」

って、子供の言葉を遮ってた、あの私。

この前ね、同じシチュエーションがあったの。

私が夕飯の準備で、まさに野菜を切ってる瞬間に、息子が「ママ、あのね!」って来た。

手が止まった。

で、火を止めて、息子の目を見て、こう言えたの。

「うん、なあに?」

息子が話したのは、保育園で見つけたダンゴムシが、いかに丸かったかっていう、最高にどうでもいい話(笑)。

でも、その5分間、私はただ、息子の話を聞いた。

「へぇー!そんなに丸かったの!」って、心の底から(たぶん)笑った。

その時、思ったんだ。

これだ、って。

私が守りたかったのは、これだったんだ、って。

栄養満点の夕飯が5分遅れることと、子供の「今、聞いてほしい!」っていうキラキラした瞬間。

どっちが大事かなんて、もう、迷う必要もない。

「ちゃんとママ」を捨てたことで、私は「子供と本気で向き合えるママ」に、ほんの少しだけ、なれた気がした。

ハッスル(頑張る)場所を、間違えちゃいけない。

私たちが本当にハッスルすべきなのは、タスクの消化じゃない。

この、二度と戻らない「今、この瞬間」の子供の笑顔を、全力で守り抜くこと。

それこそが、一番大事な「人生術」なんじゃないかな。

「ちゃんと」じゃなくていい。「一緒に笑う」が最強の人生術

(ここから本文)

ここまで、本当に長ーい道のりだったけど(笑)、ついてきてくれてありがとう!

日本の片隅で「完璧なママ」という名の重い鎧をガチャガチャ言わせてた私が、それを脱ぎ捨てるまでの「恥と再生の物語(?)」、いかがだったでしょうか。

「起」では、「私、いつ笑ったっけ?」状態の、燃え尽き寸前の日本のママたちの姿を。

「承」では、私たちを縛る「世間体」「母性神話」「SNS」っていう、厄介な呪いの正体を。

そして「転」では、私が「もう、やーめた!」って、“しない”ことを選び始めたリアルな反乱(笑)と、それによって得られた「心の余白」について、ぶっちゃけてきたよね。

そう。「転」で書いた、あの瞬間。

夕飯の準備の手を止めて、息子の「ダンゴムシがいかに丸かったか」っていう、最高にどうでもいい(けど、彼にとっては世界一大事な)話を、「うん、なあに?」って聞けた、あの瞬間。

あの時、私は「完璧な家事」を手放して、代わりに「子供との本物のつながり(Genuine Connection)」を、確かにこの手で掴んだ気がしたの。


ハッスル・カルチャーの「本当のコスト」

この記事の元になったフック(英語のフックね)には、「The Hidden Costs of Hustle Culture for Moms(ママたちのハッスル・カルチャーがもたらす、隠れたコスト)」ってあったよね。

そのコストは、「燃え尽き(burnout)」であり、「ストレス(stress)」であり、「失われた喜び(diminished joy)」だって。

本当に、その通り。

でも、日本で「ちゃんとママ」をやろうともがいた実体験から言わせてもらうと、最大のコストは、もっともっと恐ろしいものだった。

それは、

「子供が『ママ、あのね』って、無防備に心を差し出してくれた、その手を、振り払ってしまうこと」

――つまり、「本物のつながりを失うこと」そのものだったんだよね。

私たちは、「子供のため」って言いながら、習い事のスケジュールを埋め、栄養バランス(という名の自己満)を整え、インスタ映えする誕生日会を開くことに「ハッスル(頑張る)」する。

でも、その結果、一番大切な「心の余白」を失って、子供が本当に求めてる「ただ、話を聞いてほしい」っていう瞬間を、ないがしろにしてる。

「ごめん、今忙しい!」

この言葉が、子供の心をどれだけ静かに傷つけ、「あ、ママは忙しい人なんだ」「僕(私)の話より、夕飯の準備の方が大事なんだ」って、小さなシャッターを下ろさせてしまうか。

その「失われた信頼」こそが、私たちが払ってた、一番高くて、取り返しのつかない「コスト」だったんじゃないかな。


日本の知恵、「足るを知る」と「余白の美」

じゃあ、どうすればいいの?

「ちゃんとママ」もやめたい。でも、じゃあ何をすれば?

私が見つけた答えは、すごくシンプルだった。

それは、「何かを“する”」ことじゃなくて、「“しない”勇気を持つ」こと。

そして、これはね、実はすごく「日本的」な人生の知恵なんじゃないか、って最近思うのよ。

海外に住むみんなは、**「足るを知る(たるをしる)」**って言葉、聞いたことあるかな?

もともとは中国の古い言葉だけど、日本でも「禅(Zen)」の精神なんかと一緒に、すごく大事にされてきた考え方。

「あれも足りない、これも足りない」って、完璧を求めてハッスルし続けるんじゃなくて、

「いや、もう十分持ってるよね。完璧じゃなくても、今ここで笑えてるんだから、最高じゃん?」

って、満足すること。

ピカピカの床じゃなくても、家族が靴下脱ぎっぱなしでリラックスしてるなら、それで「足る」じゃない?

手作りのキャラ弁じゃなくても、子供が「昨日の残りの煮物、好き!」って食べてくれるなら、それで「足る」じゃない?

もう一つ、日本には「余白(よはく)の美」っていう美意識がある。

書道や水墨画で、あえて何も描かない「白い空間」を残すことで、描かれたものがより一層引き立つ、っていうテクニック。

これって、育児や暮らしにも、そっくりそのまま当てはまると思うんだ。

スケジュール帳を習い事でギチギチに埋めるんじゃなくて、あえて「何もしない日」という「余白」を作る。

子供と公園で、ただただ空を見上げて、「あの雲、ソフトクリームみたいだね」なんて、どうでもいい話をする。

家事を完璧にこなすんじゃなくて、あえて「手抜き」をして、「ママがご機嫌でいられる時間」という「余白」を作る。

その「余白」があるからこそ、子供の小さな成長に気づけたり、家族の思いがけない本音が聞けたり、「描かれたもの(=日常の小さな幸せ)」が、くっきりと見えてくるんじゃないかな。

ハッスル・カルチャーが「詰め込む」文化だとしたら、私たちが今、日本のママとして(いや、世界中のママが)取り戻すべきなのは、この「手放す・満足する・余白を作る」っていう、人生の知恵なんじゃないかと思う。


「ちゃんと」じゃなくて、「一緒に笑う」

長々と語ってきちゃったけど、私が伝えたかったことは、結局たった一つ。

もう、「ちゃんとママ」やめません?

「世間体」なんていう、どこの誰かもわからないオバケに怯えるのは、もう終わり。

「母性」っていう名の、古い自己犠牲に酔うのも、もう終わり。

SNSの「いいね!」の数で、自分の価値を決めるのも、もう終わり。

「完璧なママ」の金メダルは、残念ながら、どこを探しても売ってない。

誰も、あなたに「はい、合格!」なんて言ってくれない。

でもね、

「ご機嫌なママ」の隣で、「最高に幸せそうな子供」がケラケラ笑ってるっていう、世界で一番あったかい「金メダル(という名の日常)」なら、今、この瞬間にも、手に入れられる。

必要なのは、ちょっとの勇気だけ。

「ちゃんと」の呪いを解いて、「ま、いっか」って笑い飛ばす勇気。

私たちが本当にハッスルすべき(頑張るべき)なのは、ただ一つ。

「今日も一日、この子と(そして、私自身が)心の底から笑えたか?」

ってことだけ。

「ちゃんと」じゃなくていい。

「一緒に笑う」。

これ以上シンプルで、これ以上パワフルな「人生術」を、私は他に知らない。

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