朝の味噌汁と、スマホの中の未読件数 〜「生きがい」って、もっと地味で愛おしいもの〜
日本の朝、皆さんはどんな風景を思い浮かべますか?
ここ日本の私の自宅では、朝6時、まだ薄暗いキッチンに立つことから一日が始まります。
冷蔵庫から豆腐を取り出し、トントンと包丁で刻む音。鍋にお湯を沸かし、出汁の香りがふわりと立ち上る瞬間。味噌を溶き入れる時の、あの何とも言えない懐かしい香り。
炊きたてのご飯の湯気が、朝の光に透けて白く揺らぐのを見ていると、「ああ、今日も生きてるなあ」と、身体の奥底から静かな安堵感が湧いてくるんです。
最近、海外のSNSや書店で「IKIGAI」という言葉をよく見かけますよね。
欧米の方々の間で、日本の「生きがい」という概念が、長寿や幸福の秘訣として、あるいはビジネスの成功哲学として、とてもクールなものとして捉えられているのを知った時、正直なところ、私は少し面食らってしまいました。
有名なベン図(Venn diagram)を見たことがありますか?
「好きなこと」「得意なこと」「世界が必要としていること」「稼げること」。この4つが重なる中心点こそがIKIGAIだ、というあの図です。
もちろん、それはそれで素晴らしい考え方です。人生の目的を見つけるための、とても論理的で完璧な地図のように見えます。
でもね、日本で生まれ育ち、毎日スーパーで特売の野菜を選び、家族のために洗濯物を干している一人の主婦として、あえて言わせてください。
「うーん……本当のIKIGAIって、そんなに大それたものだったっけ?」
私たち日本人にとっての「生きがい」は、もっともっと小さくて、個人的で、肌触りのあるものなんです。
世界を救うミッションや、高収入を得られるキャリアだけが生きがいではありません。
例えば、近所の人と立ち話をして大笑いした瞬間。
庭の植木鉢に、新しい蕾がついているのを見つけた朝。
お気に入りの湯呑みでお茶を飲む時間。
あるいは、子供のお弁当の卵焼きが、今までで一番きれいに焼けた!という小さな達成感。
そんな「日常の些細な喜び」の積み重ねこそが、私たちが古くから大切にしてきたIKIGAIの正体なんじゃないかと思うのです。
日本語の「生きがい」を分解すると、「生き(Life)」+「甲斐(Worth/Value)」となります。つまり、「生きていく上での張り合い」や「今日一日を生きるための小さな燃料」のようなものです。
明治時代の有名な精神科医であり、「生きがいについて」という名著を残した神谷美恵子さんは、生きがいを「生存目標」のような硬いものではなく、もっと心の奥底から湧き上がる「生きていることの喜びそのもの」に近いニュアンスで語っていました。
それは誰かに評価されるものでも、SNSで「いいね」をもらうためのものでもなく、自分自身の心の中にだけ静かに灯る、小さなろうそくの火のようなもの。
ところがです。
そんな「小さなろうそくの火」を、最近どうも感じにくくなっている自分がいることに気がつきました。
朝、あんなに幸せな味噌汁の香りを感じていたはずなのに。
ふとリビングのテーブルに目をやると、そこには昨夜充電したままのスマートフォンが鎮座しています。
黒い画面をタップした瞬間、私の平穏な朝は、一瞬にして騒がしい戦場へと変わります。
画面に並ぶ、無機質な通知の数々。
友人からのメッセージ、学校からの連絡アプリの通知、ニュース速報、そして何よりも気が重くなるのが、未読のまま溜まっていく「メールの受信トレイ(Inbox)」です。
「新着メール:50件」
その数字を見た瞬間、さっきまでの「出汁の香り」や「ご飯の湯気」がもたらしてくれた幸福感は、どこかへ吹き飛んでしまいます。
頭の中は一気に、「あれもやらなきゃ」「これにも返信しなきゃ」「あの件はどうなったっけ?」というタスクの山で埋め尽くされます。
皆さんも、経験がありませんか?
朝起きて一番にスマホを見てしまい、まだベッドから出てもいないのに、世界中の情報や他人の生活、そして「やるべきこと」の波に飲み込まれてしまう感覚。
私たちは今、歴史上かつてないほど「接続(Connected)」された世界に生きています。
日本の裏側にいる友人とリアルタイムで話せるし、お気に入りのレシピも指一本で検索できる。それは確かに素晴らしいことです。
でも、その便利さと引き換えに、私たちは何かとても大切なものを失いつつあるような気がしてなりません。
それは、「今、ここ」にある自分の感覚を味わう余裕です。
本来、IKIGAIとは「感覚」の話です。
風の心地よさを感じる感覚。食事を美味しいと思う感覚。誰かといて楽しいと感じる感覚。
そういった五感をフルに使って、今の瞬間を味わうことでしか、IKIGAIは感じられないはずなんです。
しかし、私たちのポケットに入っている小さなデバイスは、常に私たちの意識を「今、ここ」から引き剥がそうとします。
受信トレイに溜まる未読メールの山は、単なるデジタルデータではありません。それは、「あなたがまだ完了していない義務」のリストであり、「誰かがあなたに求めている要求」の塊です。
「早く返信しないと失礼になるかも」
「お得な情報のメールを見逃したくない」
「あのニュースを知らないと話題に遅れる」
そんな焦燥感(FOMO: Fear Of Missing Out)が、知らず知らずのうちに私たちの心を蝕んでいきます。
これを私は「心の帯域幅が奪われている状態」と呼んでいます。
インターネットの回線と同じで、私たちの心にも容量があります。常に「受信中」の状態では、目の前の美しい景色を処理するだけの容量が残っていないのです。
先日、こんなことがありました。
久しぶりに家族で公園にピクニックに行った時のことです。
秋晴れの素晴らしい天気で、紅葉がとてもきれいでした。
子供たちは落ち葉を拾って大はしゃぎし、夫はサンドイッチを頬張っています。
まさに「IKIGAI」を感じるべき、幸せな光景です。
でも、私の手にはスマホがありました。
「仕事のメール、緊急のが来てないかな?」
気になってチラチラと画面を確認し、ついでにSNSを開いて、他人の投稿をスクロールし始める私。
ふと顔を上げると、娘が私に何か話しかけていたようですが、私は全く聞いていませんでした。
「ママ、聞いてる?」
娘の少し寂しそうな顔を見て、ハッとしました。
私は今、ここに体はあるけれど、心はここにいない。
私の心は、デジタルの海の中、誰が送ったかもわからない「受信トレイ」の中に閉じ込められている。
この時、強烈な違和感を覚えました。
私たちは「生きがい」を求めて、必死に情報を集め、効率よくタスクをこなし、何かを成し遂げようとしています。
でも、そのために使っているツール(スマホやメール)が、皮肉にも、私たちが本来持っていた「生きがいを感じるセンサー」を鈍らせているとしたら?
「IKIGAI」という言葉が世界中でバズワードとして流行している今だからこそ、私は立ち止まって考えたいのです。
きらびやかな成功や、完璧なライフスタイルの追求ではなく。
もっと泥臭くて、でも切実な、現代人のための「生きる知恵」について。
散らかった部屋にいると落ち着かないように、散らかった受信トレイ(Inbox)は、私たちの心の「目的」や「静寂」を乱雑に埋め尽くしてしまいます。
デジタルなノイズにまみれた生活の中で、私たちはどうすればもう一度、あの「味噌汁の香り」に心からの幸せを感じられる感受性を取り戻せるのでしょうか?
古くから日本人が大切にしてきた「足るを知る」精神や「余白の美学」。
これらは、決して古臭い道徳の授業ではありません。
実は、この情報過多のデジタル社会をサバイブし、自分自身の人生を取り戻すための、最強のライフハックなのかもしれません。
これから始まるこの連載では、私自身の失敗談や、日本の生活に根付く小さな習慣を通して、
「散らかった受信トレイを整理し、人生の目的(IKIGAI)を取り戻す旅」
を、皆さんと一緒に歩んでいきたいと思います。
まずは、スマホを置いて、深呼吸をひとつ。
次回からは、なぜ私たちがこんなにもデジタルな数字に支配されてしまうのか、そのメカニズムと、日本古来の知恵との意外な接点について、少し掘り下げてお話ししていきましょう。
静寂を恐れる現代病と、「間(Ma)」という処方箋
前回の記事で、私は「朝の味噌汁の香り」よりも「スマホの未読件数」に心を奪われてしまっている、という恥ずかしい告白をしました。
でも、コメント欄やSNSでの反響を見て、「私だけじゃなかったんだ!」と少しホッとしています。(もちろん、良いことではないのですが……苦笑)
さて、今回は少し意地悪な質問から始めさせてください。
皆さんは、**「何もしない時間」**に耐えられますか?
バスや電車を待っている3分間。
電子レンジが「チン」と鳴るまでの1分間。
友人がトイレに立った時の、カフェでの数分間。
手持ち無沙汰になった瞬間、無意識にバッグからスマートフォンを取り出し、画面をスワイプしていませんか?
特に目的があるわけじゃない。ただ、インスタグラムのフィードを眺めたり、ニュースのヘッドラインを目で追ったり。
まるで、「空白」の時間が訪れるのが怖いかのように、私たちは隙間時間をデジタルの情報で埋め尽くそうとします。
日本には、非常にユニークで、そして現代人が最も必要としている概念があります。
それは**「間(Ma)」**です。
■ 日本人が大切にする「空白」の美学
「間(Ma)」とは、単なる「Empty space(空っぽの空間)」ではありません。
それは、「何もないことによって、豊かな意味が生まれる空間」のことです。
例えば、日本の「生け花(Ikebana)」を見たことがありますか?
西洋のフラワーアレンジメントが、隙間なく豪華に花を配置して「足し算の美」を表現するのに対し、日本の生け花は、あえて花と花の間を大きく空けます。
その「何もない空間」があるからこそ、一輪の花の生命力が際立ち、見る人の想像力が入り込む余地が生まれるのです。
書道(Calligraphy)もそうです。
黒い墨で書かれた文字そのものと同じくらい、あるいはそれ以上に、「書かれていない白い部分(余白)」のバランスが重要視されます。
私たちの人生における「IKIGAI」も、実はこの「間」がないと育ちません。
IKIGAIとは、自分の心の内側から湧き上がってくるものです。
「私は何が好きなんだろう?」「今日、何をしたら心が躍るだろう?」
そうやって自分自身に問いかけるためには、心の静寂、つまり「精神的な余白(Mental space)」が必要です。
しかし、現代の私たちの生活はどうでしょうか。
朝起きてから寝る瞬間まで、情報はひっきりなしに流れ込んできます。
スマホの通知音、バイブレーション、未読バッジの赤い丸……。
これらは、「間」を容赦なく破壊するマシンガンのようなものです。
私たちは常に「誰かの声」「誰かの意見」「誰かの生活」を受信し続けています。
入力(Input)ばかりで、心の中に「余白」がない状態。
そんな状態で、「さあ、あなたのIKIGAIを見つけなさい!」と言われても、無理な話だと思いませんか?
自分の心の声を聞こうにも、デジタルのノイズがあまりにも大きすぎるのです。
■ 「一期一会」を忘れたデジタル・ライフ
もう一つ、日本の茶道(Tea Ceremony)から学べる大切な知恵があります。
それは**「一期一会(Ichigo Ichie)」**という言葉です。
直訳すれば「One time, one meeting」。
「この瞬間、この出会いは、一生に一度きりのもの。二度と同じ時間は巡ってこないのだから、今この瞬間に全神経を集中して大切にしなさい」という教えです。
先日、京都にある古いお寺の庭園を訪れた時のことです。
そこは、枯山水(Karesansui)と呼ばれる、石と砂だけで表現された素晴らしい庭でした。
静寂に包まれ、時が止まったような空間。
本来なら、ただ黙ってそこに座り、風の音や光の移ろいを感じるべき場所です。
ところが、私の周りにいた観光客(日本人を含め)の多くは、庭を見ているようで、実は見ていませんでした。
彼らが見ていたのは、スマホの画面越しのお寺でした。
「ここから撮ると映えるかな?」
「動画でストーリーにアップしなきゃ」
「あ、さっきの投稿にいいねがついた!」
目の前に「一生に一度」の美しい風景があるのに、意識は「未来のフォロワーの反応」や「過去の投稿」に向いている。
これこそが、「一期一会」の対極にある態度です。
写真を撮ることが悪いわけではありません。私も写真は大好きです。
でも、私たちはあまりにも「記録すること」や「共有すること」に忙しすぎて、「体験すること」そのものを疎かにしていないでしょうか。
IKIGAIを感じる瞬間というのは、必ず「今、ここ(Here and Now)」にあります。
美味しいお茶を飲んで「はぁ〜」と息をつく瞬間。
子供の柔らかい頬に触れる瞬間。
風の匂いで季節の変わり目を感じる瞬間。
これらは全て、デジタル化できない、身体的な感覚です。
スマホの画面をスクロールしている時、私たちの身体はここにありますが、魂はどこか別の場所(インターネット上のどこか)を彷徨っています。
つまり、**「不在(Absent)」**の状態なのです。
自分が不在の人生に、IKIGAIは宿りません。
IKIGAIとは、自分の人生のハンドルを自分で握っている感覚のことだからです。
通知に反応して生きるということは、人生のハンドルを「他人の都合」や「アルゴリズム」に明け渡しているのと同じことなのです。
■ 「ながら作業」という幻想と、職人魂
「でも、忙しい主婦には時間がないのよ!」
そんな声が聞こえてきそうです。私もそうです。
だからこそ、私たちは「マルチタスク(Multitasking)」という幻想にすがろうとします。
料理をしながら、YouTubeでニュースを聞く。
子供の宿題を見ながら、LINEの返信をする。
テレビを見ながら、洗濯物を畳む。
一見、効率的に時間を使い、多くのことをこなしているように見えます。
でも、日本には**「職人(Shokunin)」**という素晴らしい精神があります。
寿司職人が、ただひたすらに魚と向き合うように。
刀鍛冶が、鉄を打つその一瞬に魂を込めるように。
一つのことに集中し、丁寧に仕上げることに喜びを見出す姿勢です。
ある日、私は実験をしてみました。
いつものようにテレビを見ながら機械的に洗濯物を畳むのではなく、テレビを消し、スマホを別室に置き、ただ「洗濯物を畳む」ことだけに集中してみたのです。
タオルの感触。洗い立ての洗剤の香り。シワを伸ばす時の布の音。
一枚一枚、丁寧に畳んでいく単純作業。
すると不思議なことに、心がシーンと静まり返り、まるで瞑想をしているような穏やかな気持ちになっていきました。
そして畳み終えた時、いつもより美しく整ったタオルの山を見て、小さな達成感、つまり小さなIKIGAIを感じたのです。
これを、禅の言葉で**「洗心(Senshin)」**と言ったりします。
目の前の作業に心を込めることで、心の汚れも一緒に洗い流すという意味です。
デジタル社会は私たちに、「同時にたくさんのことをしろ」「もっと速く」「もっと多く」と急かしてきます。
でも、日本の古来の知恵は逆を教えてくれます。
「一度に一つのことを」「ゆっくりと」「丁寧に」。
通知に追われ、心が散漫になった「マルチタスク脳」では、どんなに素晴らしいIKIGAIに出会っても、それに気づくことができません。
逆に、たとえ平凡な家事であっても、そこに「間」を持ち、「一期一会」の心で向き合い、「職人」のように丁寧に行えば、それは立派なIKIGAIになり得るのです。
私たちが失いかけているのは、時間ではありません。
**「質(Quality)」**です。
時間の質、注意力の質、そして心の質。
受信トレイを空にすることに必死で、自分の心のタンクが空っぽになっていませんか?
デジタルの波に飲み込まれずに、自分自身の軸(Axis)を取り戻す。
そのためには、まず私たちの生活を占拠している「デジタルのガラクタ」を片付ける必要があります。
でも、いきなりスマホを捨てて山ごもりをする必要はありません(できませんよね!笑)。
次回は、いよいよ実践編です。
デジタルで溢れかえった私たちの日常に、どうやって日本的な「間」を取り戻し、IKIGAIが入り込むスペースを作るのか。
私の失敗談も含めた「デジタル断捨離」の具体的なステップについて、お話ししていこうと思います。
散らかった部屋の片付けと同じで、まずは「現状を直視する」ことから始まります。
皆さんのスマホの「スクリーンタイム」、今日はいったい何時間でしたか?
その数字の向こう側に、本来過ごせたはずの「豊かな時間」が隠れているかもしれませんよ。
「もったいない」のはメールじゃない、私の人生だった
「家の中が散らかっていると、心も散らかる」
これは、日本で昔からよく言われる言葉です。
世界中でこんまり(Marie Kondo)さんの「Spark Joy(ときめき)」という片付けメソッドがブームになりましたよね。
不要なモノに感謝して手放し、本当に大切なモノだけに囲まれて暮らす。そのシンプルさが、多くの人の心を掴みました。
私もご多分に漏れず、週末を使ってクローゼットの整理をしました。
着ない服を捨て、スッキリした部屋に満足した……はずでした。
けれど、ソファに座って一息ついた瞬間、ポケットからスマホを取り出すと、そこには相変わらず「散らかり放題のゴミ屋敷」が広がっていたのです。
未読メールの山、読みかけのニュース記事、整理されていない写真フォルダ、そして次々と流れてくるSNSのタイムライン。
物理的な部屋は綺麗になったのに、私の頭の中は、デジタルのガラクタで足の踏み場もありませんでした。
そこで私は決心しました。
「部屋の断捨離(Danshari)をするように、デジタルライフの断捨離もしなければ!」と。
■ 恐怖の「全削除」と、日本流のミニマリズム
日本には**「断捨離(Danshari)」**という言葉があります。
これは単なる「片付け」ではありません。ヨガの行法哲学に由来する言葉で、
「断」=入ってくる不要なものを断つ
「捨」=家にずっとある不要なものを捨てる
「離」=モノへの執着から離れる
という、生き方のトレーニングそのものです。
私はまず、一番のストレス源だった「メールの受信トレイ」に着手しました。
そこには、何年も前のショッピングサイトのメルマガや、もう興味のないサービスの通知が何千通と溜まっていました。
「いつか読むかもしれない(Just in case)」
そう思って残していたメールたち。
日本には**「もったいない(Mottainai)」**という素晴らしい言葉がありますが、この時ばかりは、その精神が裏目に出ていました。
「情報を捨てるのはもったいない」と思っていたのです。
でも、ハッと気づきました。
本当に「もったいない」のは、このメールではありません。
毎日この大量の件数を目にして、「ああ、まだ処理できていない……」と無意識にストレスを感じ、エネルギーを奪われている**「私の今の時間」こそが、何よりも「もったいない」のではないか?**と。
私は震える指で、思い切った行動に出ました。
一つ一つ確認するのをやめ、過去のメールを一括選択し、「削除」ボタンを押したのです。
さらに、1時間かけて、届くメールの9割を「配信停止(Unsubscribe)」にしました。
「断」の実践です。
蛇口を閉めなければ、バケツの水は溢れ続けるだけですから。
■ 「つながっていない」という贅沢な不安
次に私が試みたのは、「デジタル・サバト(Digital Sabbath)」、つまりデジタル安息日です。
週末の土曜日、朝から晩までスマホの電源を切って、引き出しの奥にしまい込みました。
正直に告白します。
最初の数時間は、地獄でした(笑)。
ソワソワして落ち着かないのです。
「緊急の連絡が来たらどうしよう?」
「みんなが話題にしているニュースを知らなかったら?」
これはまさに、現代病とも言える「FOMO(Fear Of Missing Out:取り残される不安)」の発作でした。
まるで体の一部をもぎ取られたような欠落感。
私たちはこれほどまでに、デジタルデバイスに依存していたのかと愕然としました。
しかし、午後3時を過ぎた頃でしょうか。
不思議な変化が訪れました。
家の中が、急に静かになったのです。
もちろん、物理的な音量は変わりません。でも、頭の中で常に鳴り響いていた「誰かの声」や「情報のノイズ」が消え去ったのです。
私は久しぶりに、ただ窓辺に座って、庭の木々が風に揺れるのを眺めました。
すると、今まで気づかなかった発見がありました。
「ああ、今の季節の風は、こんな匂いがしたんだ」
「夕方の光って、こんなに柔らかい色をしていたんだ」
その時、私の心の中にぽっかりと**「余白(Yohaku)」**が生まれたのを感じました。
■ 「余白」こそが、Ikigaiの住処(すみか)だった
日本の美意識において、この「余白(Yohaku)」は非常に重要な意味を持ちます。
水墨画では、描かれていない白い部分が、描かれた対象以上の広がりを表現します。
日本家屋の和室もそうです。家具をほとんど置かず、ガランとした空間(余白)があるからこそ、そこは食事をする場所にも、寝室にも、客間にもなれるのです。
デジタル断捨離を通して私が手に入れたのは、時間効率ではありませんでした。
心の「余白」でした。
スマホというフィルターを通さずに世界を見たとき、世界は驚くほど解像度が高く、鮮やかでした。
夕食の支度をする時、レシピサイトを見ながら急いで作るのではなく、素材の色や匂いを楽しみながら野菜を切る。
子供が話しかけてきた時、スマホの画面から目を移すのではなく、最初から子供の目を見て話を聞く。
すると、どうでしょう。
今まで「タスク」でしかなかった日常の行為が、急に色づき始めたのです。
「今日のこの大根、すごく瑞々しいな」
「娘の笑顔、こんなに可愛かったっけ」
その瞬間、胸の奥からじわじわと温かいものが込み上げてきました。
これです。これこそが、私が探していた**「IKIGAI」の正体**だったのです。
私たちは、Ikigaiを「どこか遠くにある青い鳥」のように探し回っていました。
「もっと情報を集めれば見つかるはず」
「もっと新しいスキルを身につければ見つかるはず」
そうやってスマホにかじりつき、情報を詰め込めば詰め込むほど、心は窮屈になり、Ikigaiが入り込む隙間を失っていたのです。
Ikigaiは、探して見つけるものではありませんでした。
心のノイズを取り除き、余白を作った時に、**「向こうからやってくるもの」**だったのです。
■ JOMO:見逃すことの喜び
今、海外ではFOMO(取り残される不安)に対して、**JOMO(Joy Of Missing Out:見逃す喜び)**という言葉が注目され始めています。
これは、あえて情報の流れから距離を置き、自分の時間を楽しむことをポジティブに捉える考え方です。
これはまさに、日本の隠遁者や茶人たちが愛した**「わび・さび(Wabi-Sabi)」**の精神に通じます。
不完全であること、静寂であること、世俗から離れていることの中に、豊かさを見出す心です。
スマホの通知を切った私は、確かに多くのニュースやトレンドを「見逃し」ました。
友人のランチの写真も見逃したし、芸能人のゴシップも見逃しました。
でも、その代わりに私は、「今、ここにある自分の人生」を取り戻しました。
誰かの人生を覗き見して羨む時間ではなく、自分自身の人生を味わう時間を手に入れたのです。
「受信トレイ(Inbox)を空にする」という行為は、単なる事務作業ではありませんでした。
それは、他人の要求で埋め尽くされた人生から、自分自身の主導権を取り戻すための儀式だったのです。
静寂は、怖がるものではありませんでした。
それは、自分自身の心の声を聞くための、最高のラグジュアリー(贅沢)だったのです。
さて、デジタル断捨離によって心の「余白」を手に入れ、小さなIkigaiを感じるセンサーを取り戻した私。
でも、現代社会で生きていく以上、ずっとスマホを捨てて生活するわけにはいきませんよね。
大切なのは、デジタルを完全に排除することではなく、デジタルと「賢く、日本的に付き合う」ことです。
いよいよ次回の最終回では、この「余白」を保ちながら、デジタルツールを味方につけ、持続可能な形でIkigaiを育てていくための「新しい生活様式」について提案したいと思います。
今日からすぐに真似できる、ちょっとした「和の習慣」もご紹介しますよ。
デジタルとアナログの「中庸(Chuyo)」〜静かなる心で、騒がしい世界を生きる〜
デジタル断捨離をして、心の平穏を手に入れた私。
「これで私の人生はバラ色!もう二度とスマホの奴隷にはならないわ!」
……と、カッコよく締めくくりたいところですが、現実はそう甘くありません(笑)。
「デジタル・サバト」から明けた月曜日の朝、私のスマホには再び怒涛のように通知が押し寄せました。
学校の連絡網、ママ友のグループLINE、仕事のメール。
あっという間に、あの静寂な「余白」は埋め尽くされそうになります。
私たちは、仙人ではありません。
現代社会で生きていく以上、スマホを川に投げ捨てるわけにはいきませんし、Wi-Fiのない山奥に移住することも難しいでしょう。
大切なのは、「デジタルを完全に断つこと(All or Nothing)」ではなく、デジタルと「どう共存するか」というバランス感覚です。
ここで、最後にご紹介したい日本の知恵があります。
それは**「中庸(Chuyo)」**という概念です。
■ 「ほどほど」こそが、最強のバランス
「中庸」とは、儒教の影響を受けた言葉で、極端に偏らず、調和が取れている状態を指します。
現代風に言えば、「The Middle Way(中道)」や「Golden Mean(黄金の中庸)」に近いかもしれません。
デジタル中毒になるのも良くないけれど、テクノロジーを全否定して不便な生活をするのもまた、現代の「生きがい」を損なうことになりかねません。
デジタルの便利さは享受しつつ、それに心を支配されない。
この「絶妙なバランスポイント(Sweet Spot)」を見つけることこそが、令和の時代の新しいIKIGAIの形なのだと思います。
では、具体的にどうすれば、その「中庸」を保てるのでしょうか?
私が試行錯誤の末にたどり着いた、日本の生活様式をヒントにした**「3つの和の習慣」**をご紹介します。
習慣1:家の中に「結界(Kekkai)」を張る
日本には、神社や寺院など、聖なる場所と俗なる場所を分ける**「結界(Kekkai)」**という考え方があります。
鳥居をくぐると空気が変わるように、空間に境界線を引くのです。
私はこれを自宅に応用し、**「デジタル・フリー・ゾーン」**という結界を作りました。
- 寝室(Bedroom): ここは「眠り」と「夢」のための聖域です。スマホの持ち込みは厳禁。目覚まし時計は、昔ながらのアナログ時計に戻しました。
- 食卓(Dining Table): ここは「家族」と「食事(命)」のための聖域です。食べる時は、テレビもスマホも消します。
最初はついつい持ち込みたくなりましたが、「ここは結界だから」と自分に言い聞かせることで、物理的にスマホとの距離を置くことができました。
寝る前の15分、スマホのブルーライトを浴びる代わりに、読書をしたり、今日あった良かったことを3つ思い出したりする。
たったそれだけで、翌朝の目覚めの「幸福度」が劇的に変わります。
皆さんの家にも、小さな「結界」を作ってみませんか?
それは、あなた自身の心を守るための、見えないバリアになります。
習慣2:デジタルな所作にも「丁寧さ」を持つ
「承」のパートで「ながらスマホ」の弊害について触れましたが、デジタルを使うこと自体が悪いわけではありません。
問題なのは、それを「雑に(Mindlessly)」使うことです。
日本には、物の扱い方一つにも心を込める文化があります。
お茶碗を両手で包み込むように持つ。ふすまを静かに閉める。
この**「丁寧な暮らし(Teinei-na-Kurashi)」**の精神を、スマホ操作にも取り入れてみるのです。
例えば、SNSを見る時。
暇つぶしに無意識にスクロールするのではなく、「今から15分間、友人の近況を見て楽しもう」と**意図(Intention)**を持ってアプリを開く。
そして、素敵な写真を見つけたら、ただ「いいね」をダブルタップするだけでなく、
「この景色、本当に綺麗だね。シェアしてくれてありがとう」
と、心を込めてコメントを書いてみる。
デジタルなコミュニケーションであっても、その向こう側にいるのは生身の人間です。
「雑な消費」から「丁寧な交流」へと意識を変えるだけで、それは時間の浪費ではなく、IKIGAIを感じる温かいつながりへと変わります。
デジタルの世界にも「一期一会」の心を持ち込むこと。それが、心の疲弊を防ぐフィルターになります。
習慣3:朝一番の「儀式」を取り戻す
そして何より大切なのが、一日の始まり方です。
冒頭でお話しした「朝の味噌汁」。
私はこれを、自分自身の**「アンカー(Anchor:碇)」**にすることに決めました。
朝起きて、スマホの画面を見る前に、まずキッチンへ行き、お湯を沸かす。
この一連の動作を、毎朝の神聖な儀式にするのです。
湯気が立ち上るのを眺めながら、「今日、私はどんな一日にしたい?」と自分に問いかける。
この数分間の「アナログな時間」が、その日一日の心のトーンを決定づけます。
もし、朝一番に他人のニュース(スマホ)を見てしまったら、その日は一日中「反応する(Reactive)」モードで過ごすことになります。
でも、朝一番に自分の感覚(五感)とつながれば、その日は「自ら創り出す(Proactive)」モードで始められます。
コーヒーを淹れる時間でも、ヨガをする時間でも、ペットを撫でる時間でも構いません。
「世界とつながる」前に、「自分自身とつながる」時間を、朝一番に確保してください。
それこそが、ブレないIKIGAIを支える土台となります。
■ IKIGAIは、目的地ではなく「旅の仕方」
さて、長い旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。
最後に、もう一度「IKIGAI」について考えてみたいと思います。
私たちはIKIGAIを、「いつか見つけるべき大きな宝物」や「人生の最終目的」だと思いがちです。
「私のIKIGAIは何だろう?」と悩み、見つからないことに焦りを感じることもあります。
でも、日本の日常を生きていて感じるのは、IKIGAIとは「名詞」ではなく、どちらかと言えば「動詞」に近い感覚だということです。
それは固定されたゴールではありません。
「今日の空が綺麗で嬉しい」
「家族が作ったご飯を美味しいと言ってくれた」
「久しぶりに会った友人と話が弾んだ」
そんな、日常の中に散りばめられた「小さな喜びの点」をつないでいくプロセスそのものが、生きがいなのだと思います。
デジタル社会は、私たちに「もっと遠くへ」「もっと大きく」と煽り立てます。
しかし、本当の豊かさは、もっと足元に、手の届く範囲に転がっています。
ただ、私たちがスマホに夢中で、下を向いて歩いているから気づかないだけなのかもしれません。
散らかった受信トレイを整理し、通知をオフにして、顔を上げてみてください。
そこには、デジタルの画面よりもずっと高解像度で、鮮やかな世界が広がっています。
不完全でもいい。
時々はデジタルに飲み込まれて、自己嫌悪に陥る日があってもいい(私だってそうです!)。
そんな時は、「ああ、ちょっとバランスが崩れたな。中庸に戻ろう」と、また深呼吸をして、スマホを置けばいいのです。
日本には**「七転び八起き(Nana-korobi Ya-oki)」**という言葉があります。
7回転んでも、8回起き上がればいい。
IKIGAIの探求も同じです。何度デジタルの波にのまれても、その度にまた、自分自身の感覚に戻ってくればいいのです。
このブログを読み終えたら、ぜひ一度、スマホを置いてみてください。
そして、窓の外を見て、深呼吸をひとつ。
今、あなたの目の前にある「色」や「音」や「匂い」を感じてみてください。
きっとそこには、あなただけの「IKIGAI」が、静かにあなたを待っているはずです。
遠い日本の空の下から、皆さんの毎日が、心地よい「余白」と、温かい「IKIGAI」で満たされることを心から願っています。
それでは、また次回の記事でお会いしましょう。
(でも、次回の更新通知を待つあまり、スマホを見過ぎないでくださいね!笑)
心を込めて。

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