胸のざわめきはただの緊張じゃない — 「青春」という名のEQ実践コース
海外のみなさん、こんにちは。
今日、窓の外を見たら、近所の高校生たちが自転車で楽しそうに走っていくのが見えました。日本の制服、みなさんもアニメやドラマで見たことがあるかもしれませんね。あの一見窮屈そうに見える制服に身を包んだ彼らの背中を見ていたら、ふと、甘酸っぱい記憶が蘇ってきたんです。
英語では、好きな人ができた時のあの胸の高鳴りを “Butterflies in the stomach”(お腹の中に蝶がいる)って表現しますよね。とても可愛らしくて、くすぐったい表現で私は大好きです。
日本語では、これを**「胸がキュンとする」とか「胸が張り裂けそう」**と言います。お腹ではなく、心臓に近い「胸」に痛みを伴う感覚として捉えるのが、なんとなく日本的で面白いと思いませんか?
今日は、そんな「胸の痛み」を覚えた最初の頃の話をしましょう。
それは単なる若気の至りや、ホルモンのいたずら……で片付けるにはもったいない、私たち日本人が人生の初期段階で受ける、**「感情の英才教育」**の始まりだったんです。
日本の学校への入り口:「下駄箱」という聖域
みなさんの国の学校には、校舎に入る時に靴を履き替える習慣はありますか?
日本の学校生活を語る上で欠かせないのが、玄関にある**「下駄箱(Shoe locker)」**の存在です。
私たちは学校に着くと、外履きの靴を脱ぎ、校内専用の「上履き(Uwabaki)」に履き替えます。これは単に衛生面だけの話ではありません。
外の世界(Public)から、学校という内なる社会(Community)へ足を踏み入れる、心のスイッチを切り替える場所なんです。
そして、この「下駄箱」こそが、多くの日本人にとって**「初恋のドラマ」が生まれる聖地**でもあります。
朝、登校して自分の下駄箱を開ける瞬間。
「もしかして、手紙が入っているんじゃないか?」
そんな淡い期待を抱いた経験が、私にもあります。そう、昔の日本(インターネットが普及する前)では、好きな人への想いを伝えるために、こっそり相手の下駄箱に手紙(ラブレター)を入れるというのが、一つの「様式美」でした。
想像してみてください。
朝の昇降口は生徒たちでごった返しています。先生の視線もあります。そんな中、誰にも見つからないように、一瞬の隙をついて手紙を入れるスリル。そして、手紙を受け取る側も、周囲に悟られないようにそれを回収する演技力。
これって、ものすごい**「状況判断能力」と「非言語コミュニケーション能力」**を必要とする行為だと思いませんか?
もし誰かに見つかったら、翌日にはクラス中の噂になってしまう。日本の学校社会は「村社会」の縮図ですから、噂の広まるスピードは光の速さです。
だからこそ、私たちは恋をするだけで、周囲の気配を察知するレーダーのような能力を、知らず知らずのうちに鍛え上げていたのです。
「告白(Kokuhaku)」という高いハードル
そしてもう一つ、海外の方によく驚かれるのが、日本独自の**「告白(Kokuhaku)」**という文化です。
欧米の映画を見ていると、自然にデートを重ね、いつの間にか「私たち、付き合ってるのよね?」と確認し合う……という流れが多いように感じます(私の勝手なイメージだったらごめんなさい!)。
でも、日本では違います。
関係をスタートさせるには、明確な契約のような儀式、「告白」が必要不可欠とされることが多いのです。
「好きです。付き合ってください!」
この言葉を相手に伝え、相手が「はい」か「いいえ」で答える。
まるで就職面接か、ビジネスの契約交渉のようでしょう? でも、10代の私たちにとって、これは人生をかけた大勝負なんです。
なぜここまで形式を重んじるのか。それは日本人が**「曖昧さ」を愛する一方で、人間関係の枠組み(Frame)をはっきりさせないと不安になる**という、矛盾した国民性を持っているからかもしれません。
この「告白」に至るまでのプロセスこそが、実は最高のEQ(心の知能指数)トレーニングでした。
いきなり告白して玉砕(振られること)するのは怖い。だから、私たちは徹底的にリサーチをします。
- 相手と目が合う回数は増えたか?
- 掃除の時間に、なんとなく近くに寄ってくるか?
- 友達づてに聞いた評判はどうか?
これら、相手が発する**「言葉以外のシグナル(Non-verbal cues)」**を必死で読み取ろうとするのです。
相手のちょっとした声のトーンの変化、視線の動き、LINE(メッセージアプリ)の返信速度……。
「脈あり(可能性がある)」なのか「脈なし(可能性がない)」なのか。
この分析作業は、相手の気持ちを想像し、共感しようとする力の源泉です。
「今、話しかけたら迷惑かな?」「この話題は彼が興味ないかな?」
自分の「好き」という感情を押し付けるだけでなく、「相手がどう感じているか」を常にシミュレーションする習慣。
これこそが、大人の社会で必要とされる「気配り」や「根回し(Nemawashi)」の原点になっている気がしてなりません。
教室という「密室」でのサバイバル
日本の学校では、基本的に1年間、同じメンバー、同じ教室で過ごします。
クラス替えがあるまで、逃げ場はありません。
その閉鎖的な空間の中で、特定の誰かを好きになること。それは、クラス内のパワーバランスや人間関係の図式(Social dynamics)を揺るがすリスクを背負うことでもあります。
もし、クラスの人気者の男の子を好きになってしまったら?
もし、親友と同じ人を好きになってしまったら?
ここで私たちは、「自分の感情」と「集団の和(Harmony)」のバランスを取るという、非常に高度な政治的判断を迫られます。
「抜け駆け(一人だけ利益を得ようとすること)」は嫌われます。でも、恋心は止められない。
例えば、私の友人にこんな子がいました。
彼女は好きな男の子がいたけれど、クラスの雰囲気や他の女子の視線を気にして、あえてその男の子に冷たく接していました。いわゆる「好き避け(Suki-yoke)」という行動です。
心の中では「大好き!」と叫んでいるのに、表面上は無関心を装う。
これは、自分の心を守ると同時に、教室というコミュニティでの自分の立ち位置を守るための、彼女なりの生存戦略でした。
このように、日本の学校生活における「初恋」は、単なるロマンスではありません。
それは、他者の視線を意識し、集団の中での振る舞いを学び、相手の心情を深く推察するという、**「社会性」を身につけるためのクラッシュコース(短期集中講座)**だったのです。
あの頃感じた「胸の痛み」。
それは、未知の他者と深く関わることへの恐怖であり、同時に、自分以外の誰かを大切にしたいと願う、人間としての成長痛だったのかもしれません。
さて、そんなドキドキの「起」の部分から、物語は少しほろ苦い「承」へと進んでいきます。
次は、さらに複雑な教室内の人間関係、「空気を読む」という日本独特のスキルが、私たちの恋や友情にどう影響していたのか。その深層心理に迫ってみたいと思います。
教室という社会の縮図 — 「空気を読む」ことと、自分らしくあることの葛藤
下駄箱で靴を履き替え、教室のドアを開ける。
その瞬間、私たちは無意識のうちに**「自分」という個人のスイッチを少し弱め、「集団の一員」というモードに切り替えます。**
海外のドラマ、例えば『Glee』や『ハイスクール・ミュージカル』を見ていると、学校の廊下で歌ったり踊ったり、自分の個性を爆発させているシーンがありますよね。
正直に言います。日本の学校でそれをやったら、おそらく一瞬で「変な人」認定されて、浮いてしまうでしょう(笑)。
日本の教室は、一つの巨大な生き物のようなものです。
そこで生き抜くために、私たちは教科書からは学べない、でも人生において最強の武器となるスキルを磨くことになります。
それが、世界でも類を見ない特殊能力、**「空気を読む(Reading the air)」**という技術です。
姿なき支配者、「空気」との戦い
「空気を読む」— これを英語で説明するのはとても難しいのですが、あえて言うなら “Sensing the unspoken vibe and adjusting yourself accordingly”(言葉にされない雰囲気を察知し、それに合わせて自分を調整する) といったところでしょうか。
日本の教室には、校則とは別の「見えないルール」が存在します。
誰がクラスのリーダー格(Boss)なのか、今はふざけていいタイミングなのか、それとも真面目にするべきなのか。
先生が怒る0.5秒前に静まり返るあの連携プレー。あれこそが「空気を読んだ」結果です。
この能力が欠けていると、**「KY(Kuuki Yomenai = Cannot read the air)」**というレッテルを貼られ、集団から疎外されてしまう恐怖が常にありました。
だから私たちは、黒板を見ているようでいて、実はクラス全体の感情の波長を、まるで高性能なアンテナのように受信し続けていたのです。
恋愛においても、この「空気」は絶対的な権力を持ちます。
例えば、クラスの誰もが認めるお似合いのカップルができそうな時、周りは「付き合っちゃえよ!」という空気を作ります(「はやし立てる」と言います)。この応援ムードに乗れば、恋はスムーズに進みます。
逆に、クラスの和を乱すような恋愛、例えば「親友の元カレを好きになる」とか「グループ内のバランスを崩すようなアプローチ」は、この「空気」によって無言の圧力を受け、押しつぶされてしまうのです。
「出る杭は打たれる」の中で、どう花を咲かせるか
日本には**「出る杭は打たれる(The nail that sticks out gets hammered down)」**という有名なことわざがあります。
集団の中で一人だけ目立ったり、違う行動をとったりすると、叩かれて直される(あるいは排除される)、という意味です。
これは、個性を大切にする欧米の教育観とは正反対かもしれませんね。
でも、誤解しないでほしいのは、これが必ずしも「悪」ではないということです。この文化のおかげで、日本社会の規律や治安、チームワークの良さが保たれている側面もあるからです。
ただ、思春期の「恋」という、強烈に個人的(Personal)な感情を抱えた時、この文化は大きな壁となって立ちはだかります。
「あの子のこと、好きだな」
そう思っても、素直に行動に移せません。
「もしアプローチして、周りに冷やかされたらどうしよう?」
「自分だけ目立って、調子に乗ってるって思われないかな?」
ここで私たちは、高度な**「カモフラージュ技術」**を習得します。
好きな人が近くにいても、あえて興味のないふりをする。
みんなで話している時は目を合わせないけれど、誰も見ていない一瞬だけ視線を送る。
掃除の時間や移動教室の廊下で、偶然を装ってすれ違うタイミングを計算する。
言葉で愛を叫ぶ代わりに、私たちは**「偶然」や「雰囲気」を演出する演出家**にならざるを得ないのです。
これは、相手に負担をかけず、周囲の調和も乱さず、それでも自分の想いを遂げようとする、日本流の奥ゆかしくも計算高い(!)恋愛戦略の第一歩でした。
女子トイレという名の「情報作戦会議室」
特に女子生徒にとって、人間関係の最前線は「休み時間の女子トイレ」や「教室の隅」で行われるヒソヒソ話(Secret talks)にありました。
ここで繰り広げられるのは、「誰が誰を好きか」という情報の共有と調整です。
これを**「恋バナ(Koi-bana = Love talk)」**と言います。
一見、楽しくキャピキャピしているように見えますが、これは高度な政治的駆け引きの場でもあります。
「ねえ、〇〇ちゃんって好きな人いるの?」
この質問は、単なる好奇心ではありません。
「私はあなたの敵じゃないよね?」「私たちのグループ内で、好きな人が被っていないか確認しましょう」という、安全確認の儀式なのです。
もし、グループのリーダー格の子と同じ人を好きになってしまったら……それは悲劇の始まりです。多くの日本人は、友情と平和を守るために、自分の恋心を墓場まで持っていく(諦める)ことを選びます。
ここで学んだのは、**「根回し(Nemawashi)」**の重要性です。
本格的に動き出す前に、信頼できる友人にだけ相談し、味方につけておく。外堀から埋めていく。
大人になってビジネスの世界に入った時、日本の組織では会議の前に「根回し」をして合意形成をしておくことが非常に重要ですが、私たちはその予行演習を、14歳の教室ですでに完了していたのです(笑)。
フィッティング・イン(適応)から学んだ「察する」知恵
こうして書くと、日本の学校生活がとても窮屈で息苦しいものに見えるかもしれませんね。
確かに、「自分らしくあること」と「みんなと同じであること」の板挟みで、多くの若者が葛藤します。
私自身も、「本当の自分はもっと自由なのに」と、制服のスカートの丈を数センチ変えることくらいでしか反抗できなかった時期がありました。
しかし、大人になった今、この経験が**「予期せぬ知恵(Unexpected wisdom)」**を与えてくれたことに気づきます。
それは、**「言葉に頼らずに、相手の背景や文脈を理解する力」**です。
私たちは、相手が「大丈夫」と言っても、その声のトーンやわずかな表情の曇りから「あ、本当は無理してるな」と察することができます。
集団の中で自分がどう動けば、全体がスムーズに回るかを瞬時に判断できます。
「空気を読む」ことは、単に同調することではありません。
それは、「他者への想像力」を極限まで高めることでもあります。
自分だけが良ければいいのではなく、周りも居心地が良く、その上で自分も幸せになる道を探す。
初恋のときめきの中で、私たちは無意識のうちに、
「自分の感情」と「他者の感情」、そして「その場の空気」という3つの変数を同時に処理する、超高度なエモーショナル・インテリジェンス(EQ)の方程式を解いていたのです。
さて、そんな息の詰まるような、でも繊細で美しい教室の人間関係。
直接言葉で伝えることが難しい環境だったからこそ、私たちは「ある秘密の道具」を使って想いを伝えようとしました。
次の「転」では、時代とともに移り変わるコミュニケーションツール——手書きのメモからポケベル、そしてスマホへ——と、そこに見る変わらない「日本人の心」についてお話しします。
下駄箱の手紙からLINEへ — 変化する伝達手段と、変わらない「察する」美学
前回の「承」では、教室で息を潜めるようにして「空気を読む」私たちの姿をお話ししました。でも、恋する心はいつまでも黙ってはいられません。
いつかは、その強固な空気の壁を破り、相手に「あなたが好き」という信号を送らなければならないのです。
ここで登場するのが、私たちの強い味方、コミュニケーションツールです。
私が学生だった頃から現在に至るまで、その手段は劇的に進化しました。しかし面白いことに、ツールがどれだけ便利になっても、私たちが抱える「悩み」の本質は驚くほど変わっていないのです。
むしろ、便利になったからこそ、日本特有の**「ハイコンテクスト(文脈依存)」な悩み**が深まっている気さえします。
アナログ時代のスパイ活動:「手紙」と「回し書き」
まだ携帯電話が中高生に普及していなかった頃。
私たちの最強の武器は、ルーズリーフ(ノートの紙)を複雑に折りたたんだ**「手紙」**でした。
授業中、先生が黒板に向いた一瞬の隙をついて、背中の後ろで手紙をパスする。
「これ、〇〇ちゃんに回して!」
まるでバケツリレーのように、手から手へと渡される小さな紙片。
これには、とてつもないリスクと信頼が詰まっていました。もし途中の誰かが中身を読んだら? もし先生に見つかって没収され、クラスの前で読み上げられたら?(これは実際に起こりうる最悪の悲劇です!)
当時の手紙は、ただの連絡手段ではありません。
「折り方」自体がメッセージでした。ハート型、シャツ型、複雑な多角形……。
「あなたのために、これだけ時間をかけて丁寧に折りました」という無言のアピールであり、指先から伝わる体温のようなものがあったのです。
そして、放課後の下駄箱や机の中に忍ばせるラブレター。
相手がそれをいつ読むのか、読んだ時の顔はどうだったか、返事はいつ来るのか。
すべてが「ブラックボックス」の中でした。
返事が来るまでの数日間、私たちは胃が痛くなるほどの不安と戦いながら、ひたすら**「待つ(Matsu)」という忍耐力**を鍛え上げられました。
この「不便な時間」こそが、相手への想いを熟成させ、想像力を育てる豊かな土壌だったと、今になって思います。
デジタル時代の到来と「既読(Kidoku)」の呪縛
そして時代は変わり、今の日本の若者(そして私たち大人も)の恋愛の主戦場は、スマートフォンの中にあるアプリ**「LINE(ライン)」**へと移りました。
欧米ではWhatsAppやMessengerが主流かと思いますが、日本ではLINEがインフラレベルで普及しています。
このLINEには、日本の恋愛文化を劇的に、そして残酷に変えた機能があります。
それが**「既読(Read)」機能**です。
相手がメッセージを開くと、自分の画面に「既読」という文字が表示される。
元々は、東日本大震災の教訓から「安否確認」のために生まれた素晴らしい機能だと言われています。返信ができなくても、読んだことさえわかれば「生きている」とわかるから。
しかし、平和な日常の恋愛において、この機能は**「既読スルー(Left on read)」**という新たな悩みを生み出しました。
「既読がついたのに、返信がない」
この事実に、日本の繊細な若者たちはパニックに陥ります。
- 「怒らせることを言ったかな?」
- 「私に興味がないっていうサイン?」
- 「もしかして、駆け引きしてる?」
言葉がない空間(Silence)に、勝手に意味を見出し、不安を増幅させる。
これはまさに、日本人が得意とする(そして苦しむ)**「行間を読む(Reading between the lines)」**文化の究極形です。
もし相手が欧米の方なら、「忙しいから後で返そうと思っただけ」で済む話かもしれません。
しかし、日本では**「即レス(即座に返信すること)」が誠意の証とされる風潮があり、返信の遅れはそのまま「好意の欠如」と翻訳されがちです。
私たちは便利なツールを手に入れたはずなのに、逆に「常に繋がっていなければならない」というデジタルの鎖**に繋がれてしまったのかもしれません。
「言わない」ことで伝える美学 — スタンプと絵文字の功罪
さらに、日本独自のコミュニケーションとして**「スタンプ(Stickers)」**の存在も欠かせません。
LINEのスタンプは、言葉以上に雄弁です。
例えば、デートに誘った時。
相手から「行けたら行くね(I’ll go if I can)」という言葉と共に、ちょっと困った顔をしたキャラクターのスタンプが送られてきたら?
日本の「察する力」が高い人なら、これを**「No」**と受け取ります。
はっきりと「行きたくない」「無理」と断るのは、相手を傷つけるし、角が立つ。
だから、曖昧な言葉とスタンプで「察してね」というサインを送る。これを**「お断りの空気」**と言います。
告白においてもそうです。
最近ではLINEで告白する若者も増えましたが、そこでもやはり「断られる前の予防線」が張られます。
「冗談だよ(笑)」と後から言えるような軽いトーンで好意を伝え、相手の反応を探る。
もし相手が乗ってこなければ、それは「なかったこと」として流す。
これを海外の方は「Honne(本音)とTatemae(建前)が複雑すぎて理解できない!」と言うかもしれません。
「YesならYes、NoならNoと言って!」と。
でも、この**「白黒つけないグレーゾーン」**こそが、狭いコミュニティで人間関係を壊さずに維持するための、日本人の生活の知恵なのです。
画面越しのEQトレーニング
こうして見ると、手紙からスマホへツールが変わっても、私たちがやっていることの本質は変わりません。
それは、**「相手の沈黙や、短い言葉の裏にある感情を想像する」**というトレーニングです。
画面の向こうにいる相手は、今どんな顔をしているのか?
なぜ今、返信が止まったのか?
このスタンプを選んだ心理は何か?
私たちは、顔の見えないテキストコミュニケーションの中で、必死に**「心の解像度」を上げようとしています。
失敗して、既読スルーに泣き、勘違いして舞い上がり、また落ち込む。
その痛みを繰り返すことで、私たちは少しずつ、「自分のタイミング」ではなく「相手のペース」を尊重すること**を学んでいくのです。
便利すぎるデジタルツールは、時に私たちを焦らせ、傷つけます。
しかし、その画面の向こうには、必ず「生身の人間」がいます。
「転」の段階で私たちが直面するのは、テクノロジーに振り回されながらも、結局は**「人の心は、効率だけでは動かない」**という真理への気づきです。
次回、いよいよ物語は「結」へ。
これら全ての甘酸っぱい経験、失敗、そして学んだ「察する技術」が、大人になった私たちの人生にどのような花を咲かせているのか。
日本の主婦として、母として、そして一人の女性として感じる「愛とつながりの結論」をお話ししたいと思います。
淡い恋が教えてくれたこと — 大人になった今だからわかる、人間関係の真髄
窓の外を走っていた高校生たちの姿は見えなくなりましたが、私の心の中には、かつての自分が鮮やかに蘇っています。
振り返ってみれば、日本の学校生活における恋愛は、まるで**「障害物競走」**のようでした。
告白という高いハードル、空気を読むという平均台、そして既読スルーという落とし穴。
たくさん転んで、膝を擦りむいて、時には立ち上がれないほど泣いた夜もありました。
でも、海外の読者のみなさんに、胸を張って伝えたいことがあります。
**「あの時の痛みは、決して無駄じゃなかった」**と。
なぜなら、あの不器用で面倒くさい青春時代こそが、今の私という人間を形作る、最強のトレーニング期間だったからです。
失敗と失恋が育てた「共感力(Empathy)」
私たちは、何度も「読み」を間違えました。
相手の気持ちを勝手に想像して舞い上がったり、逆にネガティブに捉えすぎてチャンスを逃したり。
特に「振られる(被拒絶)」という経験は、若き日の私たちに強烈な教訓を与えてくれます。
「他人の心は、自分の思い通りにはならない」
当たり前のことですが、これは人間関係の基本中の基本です。
どれだけ空気を読んでも、どれだけ完璧なタイミングでLINEを送っても、ダメな時はダメ。
この理不尽さを10代のうちに骨の髄まで味わうことで、私たちは**「謙虚さ」と「他者への敬意」**を学びます。
そして、自分が傷ついた経験があるからこそ、他人の痛みに敏感になれます。
誰かが落ち込んでいる時、かけるべき言葉が見つからなくても、ただ黙ってそばにいて、温かいお茶を出すことができる。
それは、かつて自分が「言葉にならない悲しみ」を抱えた経験があるからこそできる、静かな励ましなのです。
「おもてなし」の源流は、思春期の気配りにあり
日本を訪れた海外の方がよく褒めてくださる**「おもてなし(Omotenashi)」**の精神。
お客様が何を求めているかを察し、言葉にされる前に提供するホスピタリティ。
これは、マニュアルを暗記してできることではありません。
私は思うのです。この「おもてなし」のルーツの一部は、あの教室での必死な**「察するトレーニング」**にあるのではないかと。
好きな人の視線の先を追い、
「あ、今寒そうにしてるな」
「喉が乾いてそうだな」
と、相手の微細な変化をキャッチし続けたあの日々。
自分の「好き」を押し付けるのではなく、相手にとっての「心地よさ」を最優先に考えようとした(そしてしばしば失敗した)試行錯誤。
その積み重ねが、大人になった今、
「お客様は今、少しお疲れのようだから、静かな席にご案内しよう」
「友人は笑っているけれど、本当は悩みを聞いてほしそうだ」
という、高度な社会的スキルとして花開いているのです。
私たちは、恋を通して「サービス精神」の極意を学んでいたのかもしれませんね。
「以心伝心」— 言葉を超えた信頼関係へ
結婚して、あるいは長いパートナーシップを築いていく中で、あんなに重視していた「告白」や「形式」は、少しずつ形を変えていきます。
今の私と夫の間には、ドラマのような熱烈な愛の言葉はありません(笑)。
「愛してる(I love you)」なんて、照れくさくて滅多に言いません。
でも、そこには**「以心伝心(Ishin-denshin)」**と呼ばれる、心地よい静寂があります。
言葉を使わなくても、心が通じ合っている状態です。
- 夫がため息をついただけで、仕事で何があったか察して、好物の夕食を用意する。
- 私が忙しそうにしていたら、夫が何も言わずに洗濯物を畳んでおいてくれる。
若い頃は「言わなきゃわからない!」と喧嘩したこともありました。
「察してちゃん(察してほしいと過剰に求める人)」になって、相手を困らせたこともありました。
でも、数々の衝突と「読み違い」を経て、私たちは学びました。
**「言葉は大切だけれど、行動と態度はもっと雄弁だ」**と。
日本の恋愛文化が教えてくれたのは、言葉で埋め尽くすことよりも、「相手のための余白(Space/Ma)」を残しておくことの美しさです。
相手が踏み込んでほしくない領域を察し、そっと距離を置くこともまた、深い愛情表現の一つなのだと。
最後に:世界中の「恋する悩み人」たちへ
もし今、この記事を読んでいるあなたが、
「日本のパートナーの考えていることがわからない」
「好きな人の気持ちが読めなくて辛い」
と感じているとしたら。
大丈夫です。私たち日本人だって、一生かけてそれを学んでいる途中なのですから。
あの下駄箱の前で震えていた少女は、今、母親になり、子供たちにこう伝えています。
「相手の気持ちを想像しなさい。でも、わかったつもりにならないで」と。
**Emotional Intelligence(心の知能指数)**とは、テストの点数ではありません。
それは、傷つき、悩み、それでも人と関わることを諦めなかった人だけに贈られる、人生の勲章のようなものです。
日本の、少し面倒くさくて、でも繊細で奥深い恋愛文化。
「察する」「空気を読む」「待つ」。
これらの知恵は、スピードと効率ばかりが求められる現代社会において、「人間らしい温もり」を取り戻すためのヒントになるかもしれません。
次にあなたが「胸の痛み(Butterflies)」を感じた時、思い出してください。
それは、あなたのEQがレベルアップしようとしている、成長の音なのだと。
日本から、愛と敬意を込めて。
あなたの恋と人生が、美しい桜のように咲き誇りますように!

コメント