映画のような恋?それともコント?私の「初デート」失敗談図鑑
海外で暮らす皆さん、日本のドラマやアニメを見て、「日本のデートってなんてロマンチックなんだろう!」なんて思ったことはありませんか? 桜舞い散る並木道、恥じらいながら交わす視線、完璧なタイミングで訪れる告白……。
ええ、確かに画面の中ではそうです。でもね、ここで正直に白状させてください。私たち現実の日本人の初デートなんて、そんな美しい映画のワンシーンのようなものではありません。むしろ、ディレクターが頭を抱えるような「NG集」の連続、まさに「編集なしの生々しい映像(Raw Footage)」そのものなんです。
今日は、私が過去に見聞きし、あるいは実際にやらかしてしまった(笑)、「初デートのリアル」という名のホラー、いえ、コメディについて、包み隠さずお話しします。きっと皆さんの国でも、「あるある!」と頷いてもらえるはずです。
理想という名の「台本」
まず前提として、私たち日本人は「ちゃんとしなきゃ」という意識がとても強い国民性を持っています。特に初デートともなると、頭の中には完璧な台本が出来上がっているんです。「素敵なカフェで、会話が弾み、エレガントに食事をして、お互いの共通点を見つけて微笑み合う」。そう、まるでトレンディドラマの主人公になったかのように。
しかし、現実は残酷です。神様は決してその台本通りには演じさせてくれません。
エピソード1:永遠に続くかのような「沈黙地獄」
あれは私がまだ独身だった頃の話です。友人の紹介で知り合った、真面目そうな彼との初デート。場所は東京の青山にある、少し背伸びをしたオシャレなイタリアンレストランでした。
席に着き、メニューを選び終わった瞬間、その「魔の時間」は訪れました。
シーン……。
会話が、ないのです。
お互いに緊張しすぎて、次に何を話せばいいのか完全に飛んでしまった状態。日本には「沈黙は金(Silence is golden)」なんて言葉もありますが、初デートにおける沈黙は「金」どころか「鉛」のように重くのしかかります。
私は必死に頭をフル回転させました。「天気の話? いや、さっきした」「趣味の話? プロフィールで見た気がするけど忘れた」「仕事の話? 初回から生々しいかな?」。ぐるぐると考えが巡る中、聞こえてくるのは店内に流れるジャズと、隣の席のカップルの楽しそうな笑い声だけ。
彼が水を一口飲む。私も釣られて飲む。
彼が窓の外を見る。私もなんとなく見る。
目が合う。慌てて逸らす。
この「過剰なアイコンタクトとその直後の回避」の繰り返し。まるで不審者同士の探り合いです。心の中では「誰か! 誰か『カット!』って叫んで!」と叫んでいるのに、現実はノンストップで回り続けます。スマートに振る舞おうとすればするほど、その沈黙は気まずさを増幅させ、私たちはまるで言葉を忘れた金魚のように口をパクパクさせるだけでした。
エピソード2:白シャツの悲劇と、飛び散るソース
緊張というのは、身体機能にも影響を及ぼすようです。これもまた、デートの失敗あるあるの王道、「食べこぼし」です。
初デートに向けて、私は気合を入れて新調した真っ白なブラウスを着ていきました。「清潔感」こそが日本女性の嗜みだと思っていたからです。しかし、オーダーしたのはパスタ。トマトソースのパスタでした。(なぜそのチョイスをしたのか、過去の自分を問い詰めたいです)。
「いただきます」と上品にフォークを回したその時です。
麺の端っこが「ピンッ!」と跳ね、スローモーションのように赤いしずくが私の胸元へ飛んでいきました。
白いキャンバスに描かれた、鮮やかな一点の赤。
その瞬間の凍りついた空気と言ったら!
彼は「あ……」と言ったままフリーズ。私も「あ……」と言ったまま硬直。
ここで映画なら、彼がハンカチをさっと出して「大丈夫? 僕が拭いてあげるよ」なんて甘い展開になるのかもしれません。
でも現実は違います。
彼は慌てて自分のおしぼりを差し出してくれましたが、焦りすぎてテーブルの上の水を倒しそうになり、私は私で「大丈夫です!大丈夫です!」と過剰に恐縮しながら、必死にナプキンでこすって余計にシミを広げてしまう始末。
優雅なランチタイムは一転、「シミ抜き大会」へと変貌しました。気まずさと恥ずかしさで顔から火が出そうで、その後のパスタの味なんて全く覚えていません。私の真っ白なブラウスに残ったシミは、まさに「完璧にはいかない現実」の刻印のようでした。
エピソード3:スマホという名の逃げ場
そして現代ならではの失敗といえば、これでしょう。「スマホのチェック頻度」。
別の機会のデートの話ですが、相手の男性が頻繁にスマホを触る人でした。話が一区切りつくたびに、スッとスマホに手が伸びる。
日本人は直接的に「やめて」と言うのが苦手な人が多いです。私も「仕事が忙しいのかな?」と善意に解釈しようと努めました。でも、内心ではモヤモヤが止まりません。
「私との話、つまらないのかな?」
「早く帰りたいっていうサイン?」
「もしかして、他の女の子と連絡取ってる?」
疑心暗鬼が爆発しそうです。実際には、彼はただ単に緊張して手持ち無沙汰だったり、次に話す話題をネットで検索していたり(これはこれで可愛い努力ですが)したのかもしれません。でも、その場ではそんなことは分かりません。
彼がスマホを見るたびに、私は「あ、今、私たちの間に壁ができた」と感じてしまう。目の前に生身の人間がいるのに、デジタルの世界に逃げ込まれる疎外感。
ロマンチックな雰囲気を作ろうとキャンドルが揺れているのに、その横で青白いスマホのライトが彼の顔を照らす光景は、なんとも言えないシュールで冷めた現実を突きつけてきました。
結論:私たちは「NGテイク」を生きている
こうして振り返ってみると、初デートというのは、お互いに「最高の自分」を見せようとして、結果的に「一番不格好な自分」をさらけ出してしまう、奇妙な儀式のように思えます。
悪いジョークで場を凍らせたり、気合を入れたヒールで靴擦れしてロボットみたいな歩き方になったり、相手の名前をど忘れして冷や汗をかいたり……。
映画の中の恋人たちは、一度も噛まずに愛を囁き、食事をこぼすこともなく、絶妙なタイミングでキスをします。でも、私たちの現実は「NGテイク」の連続です。リハーサルなし、台本なし、編集なし。
でもね、海外の皆さん。
こうして数々の「失敗」を並べてみましたが、不思議と嫌な気分にはならないんです。むしろ、あの時の必死だった自分たちが愛おしくさえ思えてきます。
なぜなら、その「かっこ悪さ」の中にこそ、人間としての本当の姿、そして日本人が大切にしている「ある感覚」が隠されている気がするからです。
次章では、なぜ私たち日本人がこれほどまでに初デートで緊張し、失敗してしまうのか。その背景にある、日本独特の「空気を読む文化」や社会的なプレッシャーについて、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。これを読めば、きっと日本人の少しシャイで不器用な振る舞いが、もっと愛らしく見えるはずですよ。
「空気を読む」という名の見えない鎖:なぜ私たちは初デートで自滅するのか
海外の友人に日本のデートの話をすると、よくこう言われます。「なぜそんなに考えすぎるの? 楽しめばいいだけじゃない(Just have fun!)」と。
その通りです。ぐうの音も出ません。でも、それができないのが日本人なんです。
私たちの初デートが「ロマンチックな映画」ではなく「ドキュメンタリーのNG集」になってしまう最大の原因。それは、日本特有の**「ハイコンテクスト(高文脈)文化」と、過剰なまでの「配慮」**にあります。
1.「察する」という超能力への依存
日本には**「空気を読む(Kuuki wo Yomu / Reading the Air)」**という独特の文化があります。これは、言葉にされていない相手の感情やその場の雰囲気を察知し、適切な行動をとることを指します。
社会生活では、これは素晴らしい潤滑油になります。しかし、初デートという「未知の相手」との遭遇戦において、このスキルは諸刃の剣、いえ、自分を刺す剣となります。
例えば、レストランで彼がメニューを見ている時。
欧米なら「私はこれが食べたい、あなたはどうする?」と聞けば済む話です。
しかし、日本人の頭の中(特に女性側)では、こんな高度な情報戦が繰り広げられます。
- 「彼は値段を気にしているのかしら? 一番高いコースを頼んだら図々しいと思われる?」
- 「彼はアルコールを飲む? 私だけ飲んだら『酒好きの女』だと思われる?」
- 「取り分けやすい料理を選んだ方が『気の利く子』だと思われる?」
- 「いや、逆に気を使いすぎると『重い』と思われる?」
言葉に出さず、相手の眉の動き一つ、ため息一つから「正解」を導き出そうとする。
これはデートではありません。**「心理探偵ゲーム」**です。
お互いが相手の「空気」を読み合おうとしすぎて、結果として誰も動けなくなる。前回の「沈黙地獄」は、話題がないから起きるのではありません。「相手を不快にさせない正解の話題は何か」を選別するフィルターが強力すぎて、言葉が喉元で渋滞を起こしているのです。
私たちは、言葉よりも「察すること」に重きを置きすぎて、肝心の「伝えること」をおろそかにしてしまっているのかもしれません。
2.「すみません」が恋を冷ます
もう一つ、日本の初デートをぎこちなくさせる要因に**「すみません(Sumimasen)」**の多用があります。
海外の方は驚かれるかもしれませんが、日本人は謝罪の言葉を「ありがとう」や「呼びかけ」の代わりにも使います。
店員さんを呼ぶときも「すみません」。
水を注いでもらったときも「あ、すみません」。
トイレに立つときも「ちょっとすみません」。
初デートで緊張していると、この「すみません」が暴走します。
相手がドアを開けてくれた時、素敵な笑顔で「Thank you!」と言えば恋が始まるかもしれないのに、私たちはつい伏し目がちに「あ、すみません(恐縮です)」と言ってしまう。
これでは、対等なパートナーシップというより、上下関係や、相手に迷惑をかけているようなニュアンスが漂ってしまいます。
「楽しませてくれてありがとう」よりも「時間を使わせてしまって申し訳ない」という謙虚さが前面に出過ぎてしまうのです。
この過剰な謙虚さは、相手(特に男性)に対して「自分と一緒にいても彼女は楽しんでいないんじゃないか?」「気を使わせているんじゃないか?」という不安を与え、結果として二人の間に見えない壁を作ってしまいます。
3.「マニュアル人間」の悲劇
日本は「マニュアル社会」だと言われることがあります。電車は時刻通りに来るし、サービスには一定の型がある。その安心感が日本の良さですが、恋愛においても「正解の型」を求めすぎてしまう傾向があります。
書店に行くと、「モテる会話術」「嫌われないデート服」「男を落とす『さしすせそ』」といった恋愛マニュアル本が山のように積まれています。
私たちは、目の前の生身の人間(The person right in front of you)を見る前に、頭の中にある「マニュアル(The Manual)」を見てしまっているのです。
- 「サラダが来たら、女性が取り分けるべき(女子力アピール)」
- 「男性は車道側を歩くべき」
- 「お会計では、女性は財布を出すフリをするべき(実際は男性が奢るとしても)」
こうした「べき(Must/Should)」に縛られていると、想定外のことが起きた時にパニックになります。
前回の「パスタソース事件」で私たちがフリーズしたのは、「白い服にソースがついた時の、エレガントで好感度の高い対処法」がマニュアルに載っていなかったからです(笑)。
台本通りの完璧なデートを演じようとすればするほど、そこから外れた瞬間の「生々しい現実(Raw Reality)」が際立ち、収拾がつかなくなってしまう。私たちは、「不完全な自分」を見せる勇気を持てずにいるのです。
4.「本音(Honne)」と「建前(Tatemae)」の厚い壁
最後に、日本独特の**「本音と建前」**について触れなくてはなりません。
これは社会的な調和を保つための知恵ですが、デートにおいては致命的なミスコミュニケーションを生むことがあります。
例えば、デートの終わりに彼が「今日は楽しかったですね、また行きましょう」と言ったとします。
これは額面通り「楽しかったから次も会いたい」という意味かもしれませんし、単なる「社交辞令(Social pleasantry)」として「今日はありがとう、もう会うことはないけど元気でね」という意味を含んでいるかもしれません。
私たち日本人は、この言葉の裏にある「本音」を探ることに必死になります。
「『また行きましょう』と言ったけど、具体的な日程が出なかった……ということは脈なしか?」
「LINEの返信がスタンプだけ……これは『察してくれ』というサインか?」
相手を傷つけないように、という配慮から「No」をはっきり言わない文化。それが恋愛においては、「相手が何を考えているかわからない」という不安の沼へと引きずり込むのです。
海外の方のように、「今日のデートは最高だった!」「ごめんなさい、相性が合わないみたい」とストレートに表現できれば、どれほど楽でしょう。でも、それを「野暮(Unrefined)」だと感じてしまう美学が、私たちの中にはまだ根強く残っているのです。
まとめ:完璧主義という病
こうして見ていくと、私たち日本人の初デートがぎこちなくなりがちなのは、私たちが不器用だからというよりも、**「相手を大切に思いすぎるがゆえの完璧主義」**が原因だと言えるかもしれません。
相手に失礼があってはいけない。
相手に不快な思いをさせてはいけない。
相手に「できない人」だと思われてはいけない。
そんな「いけない(Must not)」の鎖でがんじがらめになり、私たちは自分自身であることを忘れてしまいます。まるで、武装した鎧を着て、ティーパーティーに参加しているようなものです。それでは、お茶の味も、相手の笑顔も、心から楽しめるはずがありませんよね。
でも、ここで一つの疑問が浮かびます。
私たちはいつまで、この「完璧な台本」にしがみついているのでしょうか?
失敗のない、傷つかない、マニュアル通りのデート。それが本当に、私たちが求めている「愛」の入り口なのでしょうか?
次回の【転】パートでは、視点を変えてみましょう。
あの日、私がパスタソースを飛ばした瞬間に見えたもの。
マニュアルを捨て、鎧を脱ぎ捨て、「失敗」を受け入れた時に初めて生まれる、人間臭くて温かい「つながり」についてお話ししたいと思います。
そう、時には「台本のない現実」こそが、最高のドラマを生むのですから。
失敗こそが最高のスパイス?「完璧」を手放した瞬間に見えてくる、愛すべき現実
前章まで、私は日本の文化的なプレッシャーが、いかに私たちをがんじがらめにしているかを嘆いてきました。
「空気を読まなきゃいけない」
「相手に気を使わせちゃいけない」
「マニュアル通りに振る舞わなきゃいけない」
この「いけない(Must not)」の鎖に縛られ、私たちは鎧を着てデートに向かいます。傷つかないように、失敗しないように。
しかし、ある時ふと気づいたのです。
私が必死に演じていた「完璧で、気が利いて、いつも微笑んでいる女性」。それって、本当に魅力的なんでしょうか?
もし目の前に、一度も噛まずに完璧なセールストークをする営業マンが現れたら、どう思いますか? 「すごいな」とは思うけれど、「この人と友達になりたい」「心を開きたい」と思うでしょうか。なんだか人間味がなくて、少し警戒してしまいませんか?
デートもそれと同じだったんです。私たちが目指していた「完璧な台本」は、実は相手を遠ざける壁になっていたのです。
1.「パスタソース事件」のその後:鎧が割れた瞬間
ここで、【起】でお話しした「白いブラウスにトマトソースが飛び散った事件」をもう一度思い出してください。
あの時、私は「終わった」と思いました。穴があったら入りたい、今すぐこの場から消えてしまいたいと。
私は真っ赤な顔で、必死にナプキンでシミをこすっていました。
その時です。向かいに座っていた彼が、ふっと息を吐き出すように笑ったんです。
馬鹿にするような笑いではありません。張り詰めていた糸が切れたような、優しい苦笑いでした。
「あーあ、やっちゃったね。……実は僕もさっき、緊張しすぎて水こぼしそうになってたんだよ」
彼がそう言って、自分のおしぼりで私の手元のグラスの結露を拭いてくれた時。
私の心の中で、ガシャン!と何かが壊れる音がしました。それは、私が必死にまとっていた「完璧な女性」という名の重たい鎧が割れた音でした。
「……もう、最悪です。この服、今日おろしたばっかりだったのに!」
私は開き直って、そう言いました。すると彼も声を上げて笑い、「それは災難だね。でも、トマトソースのワンポイントも悪くないよ」なんて軽口を叩いてくれたのです。
不思議なことに、その瞬間から、私たちの会話は劇的にスムーズになりました。
さっきまでの窒息しそうな沈黙が嘘のように、お互いの失敗談や、カッコ悪いところを話し始めたのです。「実は僕、すごい方向音痴で…」「私なんて、昨日左右違う靴下履いて出かけちゃって…」。
ソースのシミという「決定的な失敗(NG)」が、お互いの緊張を解く「アイスブレイク」になったのです。私たちは「完璧な男女」を演じるのをやめ、ただの「不器用な人間同士」として向き合うことができたのでした。
2.日本人が愛する「隙(Suki)」の魔力
この経験から私が学んだのは、人間関係において最も大切なのは完璧さではなく、**「隙(Suki)」**だということです。
「隙」とは、完璧ではない部分、ちょっと抜けているところ、人間らしい弱さのことです。英語で言うなら “Vulnerability(脆弱性)” や “Flaws(欠点)” に近いニュアンスかもしれませんが、日本語の「隙」には、もっとポジティブな、「愛嬌」や「親しみやすさ」といった意味合いが含まれています。
私たちは完璧な人を見ると緊張しますが、「隙」のある人を見ると安心します。「あ、この人も自分と同じ人間なんだ」と親近感を抱き、心の距離が縮まるのです。
日本の文化は、一方で厳しいマニュアルや完璧さを求めますが、もう一方では、この「隙」を非常に愛する文化でもあります。
例えば、完璧すぎる美人よりも、少し愛嬌のある顔立ちの方が人気があったり、完璧なエリートよりも、ちょっとドジな一面がある人の方が周りから助けてもらえたりします。
デートにおいても同じでした。私が必死に隠そうとしていた「失敗」や「カッコ悪さ」こそが、実は相手に「可愛いな」「親しみやすいな」と思わせる、最大の武器だったかもしれないのです。
マニュアル通りの完璧なデートは、記憶に残りません。でも、パスタソースを飛ばしたデートは、何年経っても二人で笑い合える「最高のエピソード」になります。
失敗は、ただのミスではありません。二人の関係を深めるための、かけがえのないスパイスだったのです。
3.「台本のない現実」を楽しむという人生術
そう考えると、「The Unscripted Reality(台本のない現実)」は、恐れるべきものではなく、むしろ歓迎すべきものだと思えてきませんか?
これはデートに限った話ではありません。結婚生活、子育て、そして皆さんが今経験されている海外生活も同じです。
私たちはつい、「完璧な妻」「完璧な母」「海外生活をスマートにこなす私」という理想の台本を描いてしまいがちです。特に日本人は真面目なので、その理想と現実のギャップに苦しんでしまう。
「今日も子供に怒ってしまった」
「現地の言葉がうまく通じなくて落ち込んだ」
「日本食が恋しくて泣いてしまった」
そんな自分を「ダメだ」と責めてしまう。でも、それこそが「生々しい現実の映像(Raw Footage)」であり、あなたの人生そのものです。
映画の撮影でも、名シーンというのは往々にして、台本にはなかったアドリブや、ハプニングから生まれるそうです。人生も同じではないでしょうか。
予定通りにいかなかった日。
大失敗して落ち込んだ日。
恥ずかしくて布団の中で身悶えした夜。
それらは全て「NG集」ではなく、あなたの人生というドキュメンタリー映画を彩る、かけがえのない名シーンなのです。
「まあ、いっか。これもネタになるし」
そう思えた瞬間、私たちは「完璧主義の呪縛」から解き放たれます。
日本の窮屈な「察する文化」や「マニュアル主義」も、裏を返せば「相手を思いやる心」の表れです。その根底にある優しさは大切にしつつ、「完璧でなくてもいいんだ」という「隙」を持つこと。
鎧を脱ぎ捨て、不完全な自分をさらけ出した時に初めて、私たちは他人と深くつながることができる。そして、そんな予測不可能な毎日を楽しむことこそが、人生を豊かに生きるコツなのかもしれません。
さて、いよいよ次回は最終回【結】です。
ここまで見てきた日本のデート文化のリアルと、そこから得られた「不完全さを受け入れる」という人生の知恵。これらを、日本古来の美しい精神性――「侘び寂び(Wabi-Sabi)」という言葉と結びつけて、締めくくりたいと思います。
恥ずかしい思い出も、失敗だらけの過去も、全てが愛おしく思えるような、そんな日本の心の真髄に触れてみましょう。
恥ずかしい思い出は「人生の侘び寂び」:不完全さを愛する生き方へ
「完璧」ではないからこそ、美しい
皆さんは、**「侘び寂び(Wabi-Sabi)」**という言葉を聞いたことがありますか?
海外でもインテリアやデザインの文脈で知られるようになりましたが、これは単に「質素で静か」という意味ではありません。
本来の意味はもっと深く、**「不完全なもの、未完成なもの、移ろいゆくものの中にこそ、美しさを見出す心」**を指します。
苔むした岩、欠けた茶碗、枯れゆく花。
西洋的な美意識が、左右対称で永遠に変わらない「完璧な美(Perfect Beauty)」を目指すものだとしたら、日本の美意識は、歪んでいたり、古びていたりする「不完全な美(Imperfect Beauty)」を愛でるものです。
これを、私たちの「初デート」や「人間関係」に当てはめてみてください。
台本通りに進み、一分の隙もなく、映画のように美しいデート。それは確かに素晴らしいかもしれません。でも、それはどこか「造花」のようなものです。枯れないし、汚れないけれど、命の匂いがしません。
一方で、私たちが経験した「Unscripted Reality(台本のない現実)」はどうでしょう?
緊張で震えた手、こぼしたパスタソース、会話が途切れた時の気まずい空気。
これらは一見「失敗(汚れ)」に見えますが、侘び寂びの視点で見れば、それこそが「生きた人間である証」であり、その瞬間にしか生まれない「味わい」なのです。
心のひび割れを金で継ぐ:「金継ぎ」の哲学
ここで、もう一つご紹介したい日本の伝統技法があります。**「金継ぎ(Kintsugi)」**です。
これは、割れたり欠けたりした陶器を捨ててしまうのではなく、漆(うるし)で繋ぎ合わせ、その継ぎ目を金粉で装飾して修復する技法です。
ここには、「傷を隠すのではなく、傷を歴史として受け入れ、新たな美として昇華させる」という哲学があります。修復された器は、割れる前よりも芸術的な価値が高まるとさえ言われます。
私たちの人間関係も、この「金継ぎ」と同じではないでしょうか。
初デートでの大失敗。
夫婦間のすれ違いや喧嘩。
海外生活での言葉の失敗や、文化の違いによる摩擦。
これらは全て、私たちの心や関係に入った「ひび割れ」です。
「完璧な人生」を目指す人は、このひび割れた器を「失敗作」として捨ててしまおうとします。「こんなはずじゃなかった」「もっと理想的な相手がいるはずだ」と。
でも、私たち日本人の知恵は教えてくれます。
「そのひび割れこそが、あなただけの物語(Story)だよ」と。
失敗して気まずくなった後、二人で「あの時は酷かったね」と笑い合って仲直りする。それは、関係のひび割れを「笑い」や「許し」という金で継いでいる作業なのです。
そうやって修復された絆(きずな)は、最初から何の問題もなかった関係よりも、ずっと太く、強く、そして美しい輝きを放ちます。
私がパスタソースを飛ばしたあのブラウスは、もう着られないかもしれません。でも、あの日の記憶は、私と彼(今の夫です、実は!)の間で、金継ぎされた美しい思い出として輝き続けています。
「余白」があるから、人は優しくなれる
【承】のパートで、日本人は「察する」ことに疲れすぎている、という話をしました。しかし、裏を返せば、日本人は「完成されていないもの」に対して、自分の想像力を働かせて補おうとする優しさを持っています。
俳句が五・七・五の短い言葉で全てを語らず、読み手の想像に委ねるように。
水墨画が余白をたっぷりとって、見る人に風景を想像させるように。
人間関係においても、「不完全さ」は相手が入り込むための「余白(Space)」になります。
あなたが完璧な主婦であろうとすればするほど、家族は入り込む隙を失います。
あなたが完璧な英語を話そうとすればするほど、現地の友人はあなたの心を覗く隙を失います。
「私、こんな失敗しちゃって…」「これ、苦手なの」。
そうやって自分の不完全さをさらけ出すことは、相手に「私が助けてあげなきゃ」「僕が支えてあげよう」という出番(余白)を与えることでもあります。
お互いに完璧ではないからこそ、支え合える。
凸と凹がかみ合うように、不完全なパズルピース同士だからこそ、ピタリとつながることができる。
そう思うと、自分のダメな部分も、相手のちょっとした欠点も、愛おしい「チャームポイント」に見えてきませんか?
結論:人生は「リハーサルなしの本番」だから面白い
海外に住む主婦の皆さん。
日本という国を離れ、異文化の中で毎日戦っている皆さんは、日々たくさんの「Unscripted Reality(想定外の現実)」に直面していることと思います。
「理想の自分」と「現実の自分」のギャップに落ち込む日もあるでしょう。
日本のSNSを見て、キラキラした友人の生活と自分の「Raw Footage(編集なしの日常)」を比べてため息をつくこともあるかもしれません。
でも、どうか忘れないでください。
編集された映画よりも、何が起こるかわからないドキュメンタリーの方が、人生はずっとエキサイティングです。
気まずい沈黙も、派手な失敗も、誤解も、すれ違いも。
それら全てを「人生の侘び寂び」として味わってみてください。
「あーあ、またやっちゃった」と苦笑いしながら、その失敗のひび割れを、笑顔という金で継いでいってください。
そうして出来上がったあなたの人生という器は、世界中のどこにあるどんな完璧な器よりも、味わい深く、ユニークで、美しいはずです。
日本には「一期一会(Ichigo Ichie)」という言葉もあります。
「この瞬間は二度と巡ってこない」という意味です。
完璧にこなそうとして緊張して過ごすよりも、不格好でもいいから、目の前の相手と、その瞬間の「リアル」を心から楽しむこと。
それこそが、日本人が長い歴史の中で培ってきた、人生を豊かに生きるための最大の知恵なのかもしれません。
さあ、明日もまた「台本のない一日」が始まります。
どんなNGシーンが待っているか、楽しみですね。
カメラは回っています。思いっきり、あなたらしく、その瞬間を生きてください。
日本から、皆さんの「不完全で美しい毎日」を、心から応援しています。

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