失われた感覚と、木漏れ日という「気づき」
こんにちは!
日本はすっかり秋めいて、朝晩は少し肌寒いくらい。
窓を開けると、どこからか金木犀の香りがふわっと届く季節になりました。
海外で、現地の言葉や文化の中で、毎日をパワフルに駆け抜けている主婦のみなさん。
本当にお疲れ様です。
日本に住む私(○○←ご自身の名前やハンドルネームを入れてください)も、二人の子育てと家事、パートタイムの仕事に追われ、毎日が「タスク処理」の連続。朝、目覚まし時計の音で飛び起きてから、夜、子供を寝かしつけてバタンと倒れ込むまで、自分の「心」がどこにあるのか忘れてしまうような日々です。
海外での生活は、きっと、日本にいる私の想像を絶するほどエキサイティングで、同時にタフなものだろうなと思います。
違う言語の書類、学校のシステム、スーパーで売っている「これ、どうやって食べるの?」な食材。
日本では「当たり前」にできていたことが、一つひとつ「挑戦」になる。
そんな環境で家族を守り、生活を切り盛りしている皆さんのことを、心から尊敬しています。
でも……だからこそ、ふと、立ち止まりたくなる瞬間はありませんか?
あまりの忙しさに、心がカサカサに乾いていくような感覚。
「楽しい」はずなのに、どこか「こなしてる」だけ。
空の青さや、風の匂いに、心を動かす「余裕」を失ってしまったような。
日本の繊細な四季の移ろいや、あの独特の「空気感」が、無性に恋しくなったり。
「ああ、日本のあの感じ、懐かしいな」
その「感じ」って、一体なんでしょう。
それはもしかしたら、ただ桜や紅葉が美しい、ということだけではないのかもしれません。
私たちが無意識のうちに共有していた、ある「感覚」なのではないか、と思うんです。
その感覚に気づかされた、私自身の「実体験」があります。
あれは、去年の夏。
猛暑が続く東京近郊のベッドタウンでのこと。
その日も、私は本当に「いっぱいいっぱい」でした。
子供が夏風邪をこじらせて、数日まともに眠れていない。
仕事の締め切りは迫る。
なのに、冷蔵庫は空っぽ。
「もうっ!」
イライラを隠しもせず、ベビーカーを片手で押し、もう片方の手でスマホを睨みつけながら、スーパーに向かっていました。
アスファルトからの照り返しが痛い。
蝉の声が、頭に突き刺さるようにうるさい。
目に入るものすべてが、私を責めているような気さえしていました。
「なんで私だけ、こんなに大変なの」
そんな被害妄想で頭がいっぱいになった時。
いつも通る、駅前の小さな神社の前を通りかかりました。
本当に小さな、地域の鎮守様(ちんじゅさま)です。
観光地でもなんでもない、鬱蒼(うっそう)とした木々に囲まれた場所。
その日、私はなぜか、いつもは気にも留めないその鳥居の奥に、ふと目を向けたんです。
そこに広がっていたのは、**「木漏れ日」**でした。
ぎっしりと茂った古いケヤキの葉っぱたち。
その隙間から、真夏の強すぎる太陽の光が、まるで選別されるように、柔らかい光の粒になって、ハラハラと、地面の苔(こけ)の上に降り注いでいました。
風が「さぁっ」と吹くと、その光の粒たちが、一斉に踊り出すんです。
キラキラ、キラキラと。
まるで生き物みたいに。
私は、ベビーカーを押す手も、スマホを握る手も忘れて、その場に立ち尽くしました。
うるさいとしか思えなかった蝉の声が、急に「夏の音」として耳に届く。
痛いだけだった日差しが、葉っぱを透かすことで「命の光」に見える。
汗だくの肌を撫でる風が、木々の匂いを運んでくれることに気づく。
それは、たった数十秒のことだったかもしれません。
でも、その瞬間、私のカサカサだった心が、じわっと潤うのを感じました。
「ああ、私、息してたんだ」って。
私たちは「木漏れ日(こもれび)」という言葉を持っています。
英語には、これを一言で表す単語がないそうですね。
“Sunlight filtering through trees”
(木々を通して差し込む日光)
説明はできる。
でも、「木漏れ日」という一言が持つ、あの独特の「情景」や「感情」は、なかなか伝わりにくい。
それはきっと、私たちがただ「現象」として光を見ているのではなく、
そこに「儚さ(はかなさ)」や「美しさ」、「時間の流れ」といった、ある種の「人生観」を見出してきたからだと思うんです。
私たちは、自然を「観察(observe)」する対象としてだけではなく、「感じる(feel)」ものとして、暮らしの中に取り込んできた。
でも、現代の忙しい都市生活は、日本にいても、海外にいても、私たちからその「感じる力」を奪っていきます。
自然を「見る」ことはあっても、
自然を「深く感じる」ことは、驚くほど少なくなっている。
海外で暮らしている皆さんなら、なおさらかもしれません。
日本とは違う、ダイナミックで広大な自然に触れる機会はあっても、
日本の路地裏や神社の片隅にあるような、あの「小さな自然」との対話は、難しいかもしれない。
だからこそ、私は提案したいんです。
この「木漏れ日」を、私たちの「心の中」に育んでみませんか?
私はこれを、**「内なる木漏れ日(Inner Komorebi)」**と呼んでいます。
それは、物理的な木漏れ日だけを指すのではありません。
どんなに忙しい都会の生活でも、
たとえコンクリートに囲まれた場所でも、
ふと立ち止まり、
五感をひらき、
日常の片隅にある「小さな美」や「命の気配」に気づき、
そこに心の安らぎを見出す「技術」であり「人生術」です。
このブログ連載では、私が日本での実体験(あの神社の日のような)をベースに、この「内なる木漏れ日」を育むための、具体的なステップを紹介していきます。
次の「承」のパートでは、まず、私たちが失ってしまった「感覚」を取り戻すための、最初の一歩。
ただ「見る」のではなく、音、匂い、肌触りまで深く味わう「センサリー・イマージョン(五感の没入)」の習慣について、詳しくお話ししていきますね。
海外という、日本から見れば「非日常」の場所で「日常」を生きる皆さんだからこそ、この日本の「感覚」が、きっと新しいお守りになるはずです。
五感をひらく「センサリー・イマージョン」の習慣
「起」の記事では、私が日本の小さな神社で、ハッとするような美しい「木漏れ日」に出会い、いかに自分が「感じる」ことを忘れていたかに気づいた、というお話をしました。
あの時。
私がベビーカーを止めて立ち尽くした、あの数十秒。
一体、私の中で何が起こっていたのか。
それは、「思考」が止まり、「五感」がひらいた瞬間でした。
「早くスーパーに行かなきゃ」
「今夜のおかず、どうしよう」
「あ、あのメール返さなきゃ」
常に頭の中でぐるぐる回っている「タスク」と「思考」のスイッチが、一瞬オフになった。
その代わりに、普段は「情報処理」のためにしか使っていなかった感覚、つまり「耳」や「目」や「肌」が、本来の仕事(=感じること)を思い出したんです。
海外で暮らす皆さんも、きっとそうじゃないかと思うんです。
毎日が「判断」と「実行」の連続。
現地の言葉でメールを読み、子供の学校と交渉し、日本の家族と連絡を取り、慣れない食材で料理をする。
常に頭はフル回転。
私たちは、日常を「受動的に観察(Passive Observation)」はしているんです。
「あ、空が青いな」(チラ見)
「あ、雨が降ってる」(洗濯物どうしよう)
「あ、お花が咲いてる」(きれいだな、はい次)
これは、自然を「感じて」いるのではなく、自然を「情報として処理」している状態。
心が、動いていない。
だから、どんなに美しいものを見ても、心が潤わない。
「内なる木漏れ日」を育むための第一歩。
それは、この「情報処理モード」を意識的にオフにして、「感覚モード」のスイッチを入れる訓練をすること。
私はこれを、フックの言葉を借りて**「センサリー・イマージョン(Sensory Immersion)」、日本語で言うなら「五感への没入」**と呼んでいます。
「え、なにそれ。瞑想とかしなきゃダメ? 難しそう…」
「そんな時間、主婦にあるわけないじゃない!」
分かります。
私も「瞑想、挫折組」のひとりです(笑)。
静かに座って、呼吸に集中して……なんて、無理!
「あ、今日の夕飯…」って、雑念が10秒で勝ちます。
だから、大丈夫。
ここで言う「五感への没入」は、特別な時間や場所を必要としません。
いつもの日常の中で、ほんの「30秒」だけ、意識のチャンネルを変えるだけ。
今日は、私が日本で実際にやっている、超カンタンな「五感のチューニング術」を、3つの感覚に絞ってご紹介しますね。
1.「雑音」を「音風景」に変える【聴覚】のイマージョン
私たち主婦って、いつも「音」に囲まれていますよね。
子供の「ママー!」、食洗器の「ピーッ!」、スマホの通知音、テレビの音。
海外なら、慣れない外国語のざわめき。
そのほとんどが、私たちにとっては「対処すべき雑音」です。
この「聴覚のイマージョン」は、それらの音を、ただの「音」として、映画のBGMのように聴いてみる訓練です。
<私の実体験:食器洗い中の30秒>
ある日の午後、キッチンで溜まった食器を洗っていました。
いつものように、頭の中は「これが終わったら、洗濯物たたんで、それから…」と、次のタスクでいっぱい。
その時、ふと「あ、聴覚の練習してみよう」と思い立ったんです。
いったん手を止め、目を閉じました。(泡だらけの手を、シンクの縁に置いたまま・笑)
そして、意識を「耳」だけに集中する。
最初は、一番うるさい音が聞こえます。
「ゴーッ」という換気扇の音。
「ブーン」という冷蔵庫の低いモーター音。
(ああ、うるさいな)と、まだ「思考」が邪魔をします。
でも、そこをぐっとこらえて、さらに耳を澄ます。
すると、その「うるさい音」の向こう側から、別の音が聞こえてくるんです。
「チチッ…チ、ツピツピ!」
え?
窓の外から、小鳥の声がする。
いつもなら、換気扇の音にかき消されて、絶対に気づかない音。
(あ、シジュウカラ(四十雀)だ。こんな街中にもいるんだ)
さらに集中。
「サー…」
遠くを走る車の、タイヤがアスファルトをこする音。
さっきまで「騒音」だと思っていたのに、意識して聴くと、なんだか「街が生きている音」に聞こえてくる。
水道の蛇口から「ポタッ…」と滴が落ちる音。
自分が着ているセーターが、腕とこすれる「カサッ」という微かな音。
たった30秒。
目を開けた時、世界が少し違って見えました。
さっきまで「雑音だらけの戦場」だったキッチンが、いろんな音で構成された「音風景(サウンドスケープ)」に変わったんです。
これは、どこでもできます。
スーパーのレジ待ちの「ピッ」という音。
公園の子供たちの「キャーッ」という声。
それを「うるさい」とシャットアウトする前に、30秒だけ、その音の「質感」や「響き」を、ただ聴いてみる。
それだけで、イライラが少し「客観視」に変わります。
2.「作業」を「体験」に変える【嗅覚】のイマージョン
匂いって、不思議ですよね。
一瞬で、遠い記憶を呼び覚ます。
「プルースト効果」なんて呼ばれたりもします。
海外で暮らしていると、日本にはないスパイスの匂いや、違う洗剤の匂いに囲まれていると思います。
それも、慣れてしまうと「日常」になり、「感じ」なくなってしまう。
「嗅覚」は、五感の中でも特に「慣れ」に弱い感覚です。
だからこそ、意識的に「嗅ぐ」訓練をします。
<私の実体験:いつもの味噌汁が「ご馳走」に変わった瞬間>
日本の食卓の基本、お味噌汁。
私にとっては「作らなきゃいけない、いつものヤツ」でしかありませんでした。
でもある日、出汁(だし)をとったお鍋のフタを開けた瞬間、いつもの「作業」ではなく、「イマージョン」を試してみたんです。
フタを開けて、湯気と一緒に立ち上る香りを、ゆっくり、深く吸い込みました。
(ああ……いい匂い)
ただ「出汁の匂い」と情報処理するんじゃなくて、その匂いを「味わう」。
昆布の、海の底のような深い匂い。
かつお節の、スモーキーで、懐かしい匂い。
その瞬間、頭の中にパッと浮かんだのは、子供の頃、台所に立っていた母の後ろ姿でした。
実家の、あの古いキッチンの匂い。
「ただいまー!」と帰ると、いつも漂っていた、あの安心する匂い。
私は、ただ「味噌汁」というタスクをこなしていたんじゃなくて、
何十年も続く「日本の家庭の匂い」を、今、ここで再現していたんだ。
そう気づいたら、いつもの味噌汁が、なんだかとても「尊い」ものに思えたんです。
これは、皆さんが毎朝淹れるコーヒーでもできます。
豆を挽いた時の香り。お湯を注いだ時の香り。
「さあ、飲むぞ!」とカフェイン摂取のために流し込む前に、30秒だけ、その「香り」の奥にあるものを感じてみてください。
それは「ローストされた豆の香り」であり、もしかしたら「地球の裏側の農園の土の香り」かもしれません。
3.「触れる」から「深く感じる」へ【触覚】のイマージョン
最後は「触覚」です。
私たちは常に何かに触れています。スマホの冷たいガラス、キーボード、洋服、ドアノブ。
でも、その「質感」を意識することは、ほぼありません。
特に「手」は、働き者すぎて、感じることをサボりがちです。
<私の実体験:「洗濯物をたたむ」という瞑想>
主婦にとって「洗濯物をたたむ」作業は、トップクラスに「無」になれる作業、あるいは「面倒くさい」作業ですよね(笑)。
私はいつも、テレビを見ながら、半分「内職」のように、機械的にたたんでいました。
でも、ある日、テレビを消して、「触覚のイマージョン」を試したんです。
まず、乾いたバスタオル。
手に取って、その「質感」に集中する。
(あ、これ、ちょっとゴワゴワだな。柔軟剤ケチったかな)
(でも、このゴワゴワ感が、水分をしっかり吸ってくれる証拠なんだよな)
次に、子供のTシャツ。
(うわ、柔らかい。ふわふわだ)
首元のタグが肌に当たらないように、裏側に縫い付けてあるメーカーさんの優しさを、指先で感じる。
夫のYシャツ。
(パリッとしてる。アイロン大変だったな、私)
ボタンの、つるんとした冷たさ。
一つひとつの「違い」を、手のひら全部で感じるんです。
それは、家族の肌に一番近いものに触れる、とても「親密な」時間でした。
テレビを見ながら「作業」としてやっていた時は、たたむそばから散らかす子供にイライラしていたのに。
不思議と、その日は「ああ、この柔らかいTシャツを、またあの子が着るんだな」と、穏やかな気持ちになれました。
どうでしょう。
「センサリー・イマージョン」。
どれも、わざわざ時間をとってやるものではなく、
「食器を洗いながら」
「料理をしながら」
「洗濯物をたたみながら」
できることばかりです。
これこそが、「内なる木漏れ日」を育むための土台作り。
「起」でお話しした神社の木漏れ日は、**葉っぱ(=日常のタスク)の隙間(=五感のスイッチ)から差し込む光(=心の安らぎ)**でした。
私たちが「センサリー・イマージョン」を実践することは、
びっしりと生い茂って、心を真っ暗にしている「思考」という葉っぱに、
意識的に「隙間」を作ってあげる作業なんです。
「聴覚」「嗅覚」「触覚」。
まずは、この3つのうち、どれか一つでもいい。
今日、この後すぐ、30秒だけ試してみませんか?
さて、次の「転」のパートでは、この「五感のイマージョン」を、さらに一歩進めます。
「家の中だけじゃなくて、一歩外に出た時。特に、自然が少ない都会のど真ん中で、どうやって『内なる木漏れ日』を見つけるの?」
という、具体的な「都市生活(アーバン・ライフ)編」をお届けしますね。
コンクリートジャングルで見つける「私だけの自然」
「承」の記事では、食器洗いや洗濯物といった日常の「家事」の中で、五感のスイッチを入れ直す「センサリー・イマージョン」のお話をしました。
キッチンで聴く鳥の声。
お味噌汁から立ち上る、記憶を呼び覚ます香り。
洗濯物の、手のひらが喜ぶ感触。
「ああ、私、ちゃんと『感じて』生きてるかも」
そんな小さな自信が、少しずつ湧いてきた頃。
私たちは、次の「壁」にぶつかります。
それは、一歩「家(うち)」の外に出た瞬間。
そこは、音と情報とタスクに溢れた「戦場」です。
特に、海外の都市で暮らす皆さん。
日本のような、情緒ある路地裏や、ふと現れる小さな神社、繊細な軒先の植木鉢……そういう「分かりやすい小さな自然」が、少ない場所にお住まいかもしれません。
目に入るのは、そびえ立つビル。
ひっきりなしに行き交う車。
スマホを見ながら足早に歩く人々。
まさに「コンクリートジャングル」です。
「家の中ではできても、こんな場所じゃ無理」
「自然を感じるには、やっぱり週末に遠くの公園や森に行かないと」
私も、そう思っていました。
私が住むのも、東京近郊の典型的なベッドタウン。
駅前はロータリーとチェーン店ばかりで、お世辞にも「自然豊か」とは言えません。
「承」で五感の訓練を積んだはずの私でさえ、外に出た途端、あっという間に「情報処理モード」に逆戻り。
眉間にシワを寄せ、スマホ片手に「次のタスク」へと急ぐ、いつもの私です。
でも、ある時、気づいたんです。
私たちが育もうとしている「内なる木漏れ日」は、「場所」に依存するものじゃない、と。
「自然がない」んじゃない。
「自然の定義」を、私たちが勝手に狭くしていただけなんだ、と。
国立公園の壮大な景色だけが、自然じゃない。
道端のアスファルトを突き破って生える、一本の雑草。
ビル風に乗って運ばれてくる、雨の匂い。
カフェのテーブルに使われている、木の木目。
それら全てが、私たちに「生命の気配」を伝えてくれる、尊い「自然」です。
「転」のパートでは、この「自然の定義」をぐっと広げて、どんなに忙しい都市生活(アーバンライフ)の真っ只中でも、自然との小さなつながりを見つけるための、具体的な3つの「都市型ミッション」をご紹介します。
これは、私が日本の雑多な駅前で、日々実践している「宝探しゲーム」のようなものです。
ミッション1:視線を「3メートル先」から「30センチ下」へ変える
都会を歩く時、私たちの視線はどこにあるでしょう?
だいたい「3メートル先」です。
人にぶつからないため。目的地を最短距離で目指すため。
あるいは、「30センチ上」のスマホの画面。
これでは、世界は「障害物」と「情報」でしかありません。
このミッションは、あえて視線を**「30センチ下」、つまり「自分の足元」**に落としてみること。
<私の実体験:駐車場の「ど根性タンポポ」>
ある雨上がりの朝。
子供を自転車で保育園に送った帰り道。
私は、パートのシフトに遅れそうで、めちゃくちゃ急いでいました。
「あーもう、なんであの信号赤なの!」
イライラしながら、スーパーの巨大な駐車場の脇を通り過ぎようとした時。
ふと、足元に「黄色いもの」が見えたんです。
見ると、アスファルトとコンクリートブロックの、本当にわずか数ミリの「隙間」。
そこから、タンポポが、たった一輪、健気に咲いていました。
周りは、排気ガスまみれの駐車場。
何百台という車に踏みつけられそうになりながら。
昨日降った雨の雫を、花びらにキラキラと溜めて。
私は、思わず自転車を止めました。
(うわ……生きてる)
その、あまりにも力強い「生命」の姿に、胸を打たれたんです。
誰に褒められるでもなく、誰に水をもらえるでもなく、ただ、自分に与えられた場所で、精一杯、黄色い花を咲かせている。
「私、何にイライラしてたんだっけ」
シフトに数分遅れることなんて、このタンポポの「生きる力」に比べたら、なんてちっぽけなんだろう。
そう思ったら、さっきまでの焦りが、すーっと消えていきました。
皆さんの街にも、いませんか?
ビルの壁を必死に這い上がるツタ。
レンガの隙間の小さな苔(こけ)。
歩道橋の隅っこで風に揺れる、名前も知らない雑草。
スマホから顔を上げ、視線を「下」に向けるだけで、コンクリートジャングルは「生命の宝庫」に変わります。
ミッション2:「嫌なもの」を「感じる対象」に変える
都会には「嫌なもの」がたくさんあります。
騒音、排気ガス、そして「ビル風」。
特に、高層ビルの谷間を吹き抜ける、あの突風。
荷物が多い時、髪は乱れるし、スカートはめくれるし(笑)、本当に厄介ですよね。
このミッションは、その「嫌なもの」から逃げるのではなく、あえて「センサリー・イマージョン」の対象にしてみることです。
<私の実体験:ビル風が教えてくれた「空の広さ」>
その日も、スーパーで買いすぎた荷物で、両手はちぎれそう。
駅前の高層マンション(日本で言う「タワマン」ですね)の脇を通り抜けた瞬間。
「ビューーーッ!!」
案の定、ものすごいビル風が私を襲いました。
「もうっ!」と顔をしかめた、その時。
「承」で練習した「五感のスイッチ」が、ふと入ったんです。
(……あ、待てよ。この「風」を感じてみよう)
私は、重い荷物をいったん足元に置き、顔を上げました。
目を閉じて、風を「肌」で受け止める。
それは、ただの「邪魔な風」ではありませんでした。
(あ、冷たい。でも、少し湿ってる)
(どこかで雨が降った匂いが混じってる)
(……あ。遠くのパン屋の、甘い匂いもする)
風は、いろんな「情報」を運んできます。
それは、スマホが教えてくれる情報とは違う、「今、ここ」のリアルな情報。
目を開けて、風が吹いてくる「先」を見上げました。
ビルの、そのずっと上。
そこには、私が今日一日、一度も見ていなかった「空」が広がっていました。
雲が、すごい速さで流れていく。
夕焼けが始まっていて、空の端が、淡いオレンジ色に染まっている。
(ああ、私、ずっと下ばっかり見てた)
(この街にも、こんなに広い空があったんだ)
ビル風は、私たちに「空を見上げろ」と教えてくれる、自然からの「合図」だったのかもしれません。
騒音も同じです。
「うるさい!」と耳を塞ぐのではなく、「何の音だろう?」と聴いてみる(ミッション1の聴覚編ですね)。
工事の音、電車の音、人々の話し声。
それが「街の鼓動」として聞こえてきた時、私たちは都市とも「つながる」ことができます。
ミッション3:「人工物」の中の「自然素材」に触れる
最後のミッションは、最も都会的かもしれません。
「本物の自然」が見つからなくても、私たち人間は「自然素材」なしでは生きていけません。
その「痕跡」は、街中に溢れています。
このミッションは、それらを「意識的に」触れて、感じること。
<私の実体験:カフェのテーブルが「森」だった日>
子供の習い事の待ち時間。
私はいつものように、チェーン系のカフェで、スマホを見ながら時間を潰していました。
ふと、机にこぼした水を拭いた時、指先がテーブルの「木目」に触れたんです。
ツルツルにコーティングされてはいるけれど、確かに「木」でした。
私は、スマホをカバンにしまいました。
そして、そのテーブルを、手のひらでゆっくりと撫でてみました。
(ミッション1の触覚編です)
(この木目、まっすぐだな)
(こっちは、ちょっと節(ふし)がある)
その木目が、かつて「年輪」だったことを想像しました。
この木が、どこかの森で、何十年もかけて育ったこと。
雨の日も、風の日も、太陽を浴びて、そこに立っていたこと。
今、私の目の前にあるのは「テーブル」という人工物です。
でも、その「本質」は、まぎれもない「自然」であり「生命」でした。
(私、今、森に触れてるんだ)
そう思ったら、無機質だったカフェの空間が、急に「温かい」場所に感じられました。
窓から差し込む光が、まるで「木漏れ日」のように、その木目を照らしていました。
皆さんの周りにも、きっとあります。
公園の「石」のベンチ。(ひんやりした感触は、地球の内部の温度です)
今、着ている「コットン」のシャツ。(どこかの畑で咲いた「綿花」です)
手に持っている「紙」の本。(かつては「木」でした)
それらに触れる時、ほんの10秒、その「素材」がどこから来たのかを想像してみる。
それだけで、私たちは、コンクリートジャングルにいながらにして、地球とつながることができるんです。
どうでしょうか。
「足元のタンポポ」
「ビル風と空」
「カフェの木目」
どれも、日本だから、海外だから、というものではなく、都市で暮らしていれば誰でも出会える「小さな自然」です。
私たちが「自然がない」と嘆いていたのは、
実は、「自然」の方ではなく、
私たちの「心のアンテナ」が、サビついていただけ。
「センサリー・イマージョン」は、そのアンテナを磨く作業。
そして、この「都市型ミッション」は、磨いたアンテナを持って、実際に「宝探し」に出かける冒険です。
この冒険を続けるうちに、私たちの日常は、驚くほど「豊か」に変わっていきます。
タスク処理だった「移動時間」が、「内なる木漏れ日」を見つけるための「豊かな時間」に変わるのです。
さて、いよいよ次の「結」のパート。
こうして「気づき(起)」、「五感の訓練(承)」、「都市での実践(転)」を経て、私たちが手に入れた「内なる木漏れ日」。
それが、私たちの「人生観」そのものをどう変えていくのか。
海外でタフな毎日を送る皆さんの「人生術」として、どう役立てていけるのか。
その総まとめをお話ししたいと思います。
木漏れ日を心に灯し、日常を豊かに生きる
長い間、私の「内なる木漏れ日」探しの旅にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
「起」の記事で、私は日本の小さな神社で、ハッと息をのむような木漏れ日に出会い、自分が「感じる」ことをすっかり忘れていた、カサカサの心で生きていたことに気づいたお話をしました。
海外で、言葉も文化も違う場所で、家族のために、自分のために、毎日を必死で駆け抜けている皆さん。
あの時の私のように、心が「情報処理」と「タスク」だけでパンクしそうになってはいませんか?
私たちは、この連載を通して、一つの「実験」をしてきたんだと思います。
それは、**「幸せは、どこか遠くにあるのではなく、今、ここに在るものに『気づく力』のことではないか?」**という実験です。
「承」では、その「気づく力」を取り戻すために、家の中で五感をひらく訓練、「センサリー・イマージョン」を試しました。
食器洗いの「音風景」。お味噌汁の「記憶の香り」。洗濯物の「手のひらの喜び」。
私たちは、自分が「タスク処理マシン」ではなく、豊かな感覚を持った「生き物」であることを思い出しました。
そして「転」では、一歩外へ出て、コンクリートジャングルという「試練の場所」で冒険をしました。
アスファルトを突き破る「ど根性タンポポ」。
邪魔者だったはずの「ビル風」が教えてくれた空の広さ。
カフェの「テーブルの木目」に触れた、森の記憶。
私たちは、壮大な国立公園に行かなくても、日常のすぐ足元に「生命の気配=自然」が溢れていることを知りました。
さて、いよいよ「結」です。
この「気づく力」=「内なる木漏れ日」を育むことは、最終的に、私たちの人生をどう変えてくれるのでしょうか。
これは単なる「リラックス法」や「気分転換」ではありません。
特に、日本から遠く離れた場所で、時に孤独や不安と戦いながら暮らす皆さんにとって、最強の**「人生術」であり、「お守り」**になると、私は確信しています。
私が「内なる木漏れ日」の感覚を掴み始めてから、私自身の「人生観」が大きく変わったことが二つあります。
一つは、「完璧じゃなくていい」と心から思えるようになったこと。
日本にいると、特に「主婦」や「母」という役割は、「ちゃんとしなきゃ」というプレッシャーとの戦いです。
海外で暮らす皆さんは、それに加えて「日本人として、恥ずかしくないように」とか、「現地のルールを完璧にこなさなきゃ」という、もう一段階上のプレッシャーを抱えていらっしゃるかもしれません。
「ちゃんとしたご飯を作らなきゃ」
「子供の教育も、現地の子に負けないように」
「家も、きれいに整えておかなきゃ」
その「完璧」を目指すレールの上を走っていると、レールから少しでもはみ出したもの(=雑草や、苔)は、「排除すべき邪魔者」に見えます。
でも、「転」で出会った、あの駐車場のタンポポを思い出してください。
彼は、お花屋さんの店先に並ぶ、完璧に手入れされたバラとは違います。
排気ガスにまみれ、いつ踏まれるかも分からない、不完全な場所で、それでも精一杯、自分だけの花を咲かせていた。
あの姿に「美しい」と感動した瞬間、私は気づいたんです。
「ああ、私も、あのタンポポでいいんだ」って。
完璧な環境じゃなくてもいい。
誰かに褒められなくてもいい。
今、自分がいるこの場所で、たとえ泥だらけでも、私なりの花を咲かせようと「している」、その「過程」そのものが、尊いんじゃないか、と。
日本の美意識には「わびさび(侘び寂び)」という言葉があります。
完璧なものよりも、不完全なもの、移ろいゆくものの中に「美」や「豊かさ」を見出す、独特の感覚です。
「内なる木漏れ日」を見つける訓練は、まさにこの「わびさび」の感覚を、現代の生活の中で取り戻す作業です。
コンクリートの「シミ」模様、欠けたお皿の「景色」、窓ガラスについた「雨粒」。
それらを「汚い」「ダメだ」と切り捨てるのではなく、「面白い」「なんだか愛おしい」と受け入れる「心の隙間」を作ること。
その隙間ができた時、私たちは「完璧じゃない自分」も、「完璧じゃない家族」も、そして「完璧じゃない今の状況」も、優しく受け入れられるようになる。
「まあ、いっか。生きてるだけで、タンポポみたいに十分すごいじゃん」って。
そして、もう一つの大きな変化。
それは、**「自分自身が、自分の『安全地帯』になれる」**と知ったことです。
海外生活。
それは、常に「アウェイ」である、ということです。
言葉が100%通じないもどかしさ。
文化の違いによる、ちょっとした疎外感。
「ここは、私の居場所じゃないかも」と、ふと感じてしまう不安。
頼れる親兄弟が、すぐそばにいない心細さ。
日本に住む私には想像でしかありませんが、きっと、そういう「心がすり減る」瞬間が、日常的にあるのではないでしょうか。
そんな時、人は「外側」に安心を求めます。
美味しい日本食レストラン、日本人コミュニティ、一時帰国……。
もちろん、それらは絶対に必要ですし、素晴らしいことです。
でも、もし。
もし、そういう「外側の避難所」がすぐに見つからなかった時。
たった一人で、嵐のような不安の真ん中に放り出された時。
その時こそ、「内なる木漏れ日」が、あなたの「お守り」になります。
どうしようもなく不安になったら。
もう全部投げ出して、日本に帰りたくなったら。
その場で、立ち止まってみてください。
そして、「承」でやった「センサリー・イマージョン」を起動するんです。
まずは、ゆっくり息を吸い込む。
今、ここの「空気」の匂いを嗅ぐ。
(あ、雨上がりの土の匂いがする)
(隣のカフェの、エスプレッソの香りだ)
耳を澄ます。
(遠くで、教会の鐘が鳴ってる)
(慣れない外国語だけど、楽しそうな笑い声が聞こえる)
手のひらを見る。
(あ、私の手のひらだ。ちゃんとシワがある。生きてる)
「転」でやったミッションを試す。
足元を見る。
(石畳だ。何百年も、ここにある石だ)
自分の五感が「今、ここ」にあるものを感じ取った瞬間、私たちの心は、過去への後悔や未来への不安という「妄想」から解放され、「現在地」に戻ってきます。
そうです。
「内なる木漏れ日」を育むとは、**「自分自身が、自分のパワースポットになる」**ための、最強の訓練なんです。
どんなにアウェイな環境でも、
どんなに心が揺さぶられても、
「五感」という、絶対に誰にも奪われない「自分だけの感覚」さえあれば。
私たちは、その場に「根っこ」を下ろし、「今、ここ」を「私の居場所」に変えることができる。
この長い旅の終わりに、改めて、あの神社の「木漏れ日」を思い出します。
あれは、強い「日差し」と、それを受け止める「葉っぱ」、そして「風」が織りなす、一瞬の奇跡でした。
海外で暮らす皆さんを照らす「日差し」は、時に強すぎたり、刺激的すぎたりするかもしれません。
皆さんの心を覆う「葉っぱ」は、タスクや不安で、隙間なく生い茂っているかもしれません。
でも、大丈夫。
今日から、ほんの少しだけ、意識的に「五感の風」を吹かせてみてください。
それは、朝淹れる一杯のコーヒーの香りを、いつもより3秒長く味わうことかもしれない。
子供をハグした時の、柔らかい髪の匂いを、深く吸い込むことかもしれない。
帰り道、いつもは見上げない「空」の色を、確かめてみることかもしれない。
その小さな「感じる」習慣が、あなたの心の葉っぱを優しく揺らし、必ず、美しい「隙間」を作ってくれます。
そして、そこから差し込む光こそが、あなただけの「内なる木漏れ日」です。
心に木漏れ日を灯して生きる。
それは、「自分のご機嫌は、自分でとる」という、大人の女性の、しなやかで賢い人生術です。
日本の片隅から、皆さんのタフで美しい毎日が、たくさんの「小さな気づき」と「豊かな感覚」で満たされることを、心から願っています。
あなたの日常に、あなただけの木漏れ日が、今日も降り注ぎますように。

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