日本の主婦がこっそり実践。「自然」を教室に、不安を手放すマインド術

忙しすぎ!な私が見つけた「5分の処方箋」

海外で暮らしていると、日本の「四季の激しさ」を懐かしく思うことはありませんか?

もちろん、国によっては日本以上にドラマチックな気候の場所もあると思いますが、日本の面白さって、あの「容赦なさ」だと思うんです。

春が来た!と桜に浮かれたら、数日後には嵐のような雨風で全部散ってしまう。

「あぁ、儚いなぁ…(もののあはれ、ですね)」なんて感傷に浸る間もなく、ジメジメした梅雨がやってきて、洗濯物が乾かない日々にイライラさせられる。

かと思えば、今度は命の危険を感じるレベルの酷暑。「涼しくなってくれ!」と願えば、今度は台風がすべてをなぎ倒しに来る。

そして、すべてが落ち着いた頃に美しい紅葉が来て、凍える冬が来る。

これって、見方を変えると**「人間の力ではどうにもならないこと」**のオンパレードですよね。

私たちは日々、いろんなことを「コントロールしよう」と頑張っています。

子供の機嫌、食事のスケジュール、部屋の片付き具合、家計、人間関係…。

主婦の仕事って、この「コントロール」の連続です。そして、それがうまくいかない時に、私たちは不安になったり、イライラしたり、自己嫌悪に陥ったりします。

「なんで、ちゃんと言った通りにやってくれないの!」

「あぁ、また計画通りにいかなかった…」

そんな時、ふと窓の外を見ると、日本の自然は「知らんがな」って顔してるんですよね(笑)。

桜は「あなたが忙しいから、咲くのを待ってあげよう」なんて言わないし、台風は「あなたの家の屋根が心配だから、曲がろう」なんて思ってくれない。

彼らはただ、そこにある。

ただ、移り変わっていく。

この感覚、日本に古くからある「八百万(やおよろず)の神」の考え方に通じる気がするんです。

大げさな話じゃなくて、日本では昔から、山も川も、大きな木も、変な形の岩にも、なんなら台所のカマド(古いコンロですね)にも、何か「意思」や「魂」みたいなものが宿る、って無意識に感じているところがあって。

だから、自然はただの「モノ」じゃなくて、何かを教えてくれる「先生」みたいな存在なんです。

まさに、「Nature’s Classroom(自然という教室)」。

「あーもう! 無理! キャパオーバー!」

私が毎朝のように(本当にお恥ずかしいですが)心の中で叫んでいる時。

そんな時に私を救ってくれるのが、この「教室」からもらう「処方箋」なんです。

それは、別に壮大な滝を見に行くとか、森でハイキングするとか、そんな立派なものじゃありません。

だって、主婦にそんな時間、毎日はありませんから!

私が実践しているのは、もっと手軽な、言わば「ズボラ処方箋」です。

例えば、ある朝のこと。

いつものように、戦場のような朝が始まりました。

子供が「靴下がない!」と騒ぎ出す。

夫の弁当用の卵焼きがちょっと焦げそう。

洗濯機が「終わったよ!」とピーピー鳴っている。

(ああ、朝ごはんのトーストも焼かなきゃ…)

頭の中でタスクリストが点滅して、脳みそが沸騰しそうになる。

「なんで私だけこんなに忙しいの!」と、お決まりのイライラがこみ上げてきた、その時でした。

ふと、洗い物をしようと顔を上げた先、キッチンの小さな窓から見える、お隣さんの庭の「カエデの木」が目に入ったんです。

その日は少し風があって、小さな緑色の葉っぱたちが、ただ「サワサワ〜」っと揺れている。

それ以上でも、それ以下でもなく。

ただ、揺れている。

その葉っぱたちは、「ちゃんと揺れなきゃ!」とか「隣の葉っぱよりうまく揺れなきゃ!」なんて、一切思っていない。

風が来たら、風に任せて揺れる。

風が止んだら、静かにしている。

それを見た瞬間、カチカチになっていた私の眉間のシワが、ふっと緩んだのが分かりました。

「あ、私、今すごく『力んでた』な」って。

私は、朝のタスクを「完璧にコントロールしよう」として、風に逆らって無理やり立とうとしている葉っぱみたいになっていたんです。

でも、葉っぱは逆らわない。ただ、受け入れて、揺れている。

この、「ただ、揺れている葉っぱ」を5分…いや、ほんの1分でもいい。

じーっと眺める。

これが、私が勝手に呼んでいる**「窓辺の処方箋」**です。

ポイントは、「問題を解決しよう」としないこと。

「卵焼きが焦げそう」という現実から目をそらすための「逃避」じゃないんです。

そうじゃなくて、

「(あ、葉っぱが揺れてるな)」

「(私、今、焦ってるな)」

「(でも、葉っぱは焦ってないな)」

「(そっか、風が吹いてるだけか)」

と、自分と目の前の自然を、ただ「観察」するんです。

すると、不思議なことに、沸騰していた頭に、すーっと冷たい水が差し込まれたみたいに、冷静さが戻ってくる。

「あ、大丈夫。卵焼きは火を止めればいいし、靴下はあそこのカゴにあるはずだ。洗濯物は後でいい」

と、優先順位がクリアになる。

これは、フックにあった「Stillness(静けさ)」の入り口なんだと思います。

もう一つ、私の「ズボラ処方箋」を紹介させてください。

それは**「雨音の処方箋」**です。

そちらの国ではどうでしょう? 日本、特に梅雨の時期は、本当にうんざりするほど雨が降ります。

外に出られないストレス、湿気でカビが心配、洗濯物が乾かない…。

雨って、主婦にとっては「敵」になりがちですよね。

私も以前は、雨が降ると「あーあ、最悪。今日の予定どうしよう」と、朝からテンションが下がっていました。

でもある時、あまりにやることが多くて疲れていた日、ソファで突っ伏してしまったことがありました。

外はザーザー降りの土砂降り。

「もう何もしたくない…」と、ただ目を閉じていました。

すると、いつもは「騒音」でしかなかった雨音が、違って聞こえてきたんです。

ザーーーーー…

トトトト…(窓に当たる音)

ザザザザ…(風で強くなる音)

一定のようでいて、実は全然一定じゃない。

激しくなったり、静かになったり。

まるで、大きな何かが、この世のすべてを「洗い流そう」としているみたいに聞こえました。

その時、私の頭の中にあった「あれもやらなきゃ」「これも不安だ」というゴチャゴチャした思考も、一緒に洗い流されていくような…。

そんな不思議な感覚に包まれたんです。

これも、フックにあった「Impernanence(無常)」…つまり、「すべては移り変わっていく」という感覚に近いのかもしれません。

この不安も、このイライラも、この雨みたいに、ずっと同じ強さで降り続くわけじゃない。

いつか止むし、いつか弱まる。

そう思えたら、

「今、こんなに不安に思わなくても、まぁいっか」

と、少しだけ心が軽くなったんです。

ベランダに出て植物に触れてみる。

お茶を淹れながら、湯気の「ゆらぎ」を眺めてみる。

日本の生活の中で見つけられる、こうした小さな「自然の教室」。

それは、私たちに「コントロールできないことを、無理にコントロールしなくていいんだよ」と教えてくれている気がします。

私たちはつい、「ちゃんとした主婦」「できるお母さん」であろうとして、自分をガチガチに固めてしまいます。

でも、自然はもっとしなやかで、テキトーで(笑)、それでいて完璧なバランスで成り立っている。

この「起」のパートでは、まず私が日常でぶつかっている「イライラ」や「不安」と、それを和らげてくれる日本の自然観、「自然の教室」という視点についてお話ししました。

でも、正直に言うと、いつもこんな風に穏やかに受け入れられるわけじゃないんです(笑)。

「葉っぱが揺れてる? 知るか! こっちは忙しいんだ!」ってなる日も、もちろんあります。

次の「承」のパートでは、私がこの「自然の教室」のレッスンをどうやって「手放す」という実践に繋げていったのか、失敗談も交えながら、もう少し詳しくお話ししてみたいと思います。

海外で頑張る皆さんも、もしよければ、窓の外の「小さな自然」を5分だけ眺めてみませんか?

そこに、何かヒントが隠れているかもしれませんよ。

葉っぱが教えてくれた「まぁ、いっか」の魔法

「起」のパートでは、私が日常でイライラした時に、窓の外の葉っぱを眺める「窓辺の処方箋」の話をしましたよね。

でも、海外でこれを読んでくださっている賢明な皆さんは、こう思いませんでしたか?

「葉っぱを眺めたくらいで、イライラが消えるなら苦労しないわよ!」

…はい。

ご名答です(笑)。

もちろん、そんな簡単な話じゃありません。

実際、イライラが最高潮の時、「あ、そうだ、葉っぱを見よう」なんて窓の外を見ても、

「…(サワサワ)…」

「知るか! こっちは子どもが牛乳こぼして、洗濯機回して、今から雨なのに布団も干しっぱなしで、夕飯の献立も決まってないんだ!」

と、逆に腹が立ったことさえあります。葉っぱに。

「あなたはいいわよね、ただ揺れてれば良くて。光合成さえしてれば褒められて。こっちはね!」

と、八つ当たりもいいところです。

そう。私、ずっと勘違いしていたんです。

「起」で書いたような「処方箋」は、**「気分転換」や「逃避」**だと思っていたんです。

目の前の現実(牛乳まみれの床)から目をそらし、美しいもの(揺れる葉っぱ)を見て、気分をリセットする。

もちろん、それも大事なテクニックです。

でも、それだけだと、「問題」は何も解決していない。

葉っぱから目を離して、牛乳まみれの床に戻った瞬間、イライラもカムバックしてくるんです。

私が「自然の教室(Nature’s Classroom)」から本当に学ぶべきことは、そこじゃありませんでした。

ある時、また例の「完璧なスケジュール」を組んで、一人で空回りしていた日のことです。

(午前中に掃除機かけて、買い物済ませて、午後は常備菜作って、夕飯の下ごしらえして、夕方子どもを迎えに…よし完璧!)

と思っていたのに、銀行のATMがまさかのシステムエラーで長蛇の列。

予定が30分狂っただけで、私の頭の中は「あぁ、もうダメだ! 常備菜作る時間がない! 今日の夕飯どうしよう!」とパニック。

イライラしながら車に戻り、ハンドルに突っ伏した時、目の前に公園の木々が見えました。

季節は、ちょうど緑が濃くなる初夏。

私は「あーもう!」と、その葉っぱたちを睨みつけました。

「(…なんで、そんなに平気なの?)」

その時、ふと気づいたんです。

葉っぱは、ただ揺れているだけじゃなかった。

「今、この瞬間」に最適化していたんです。

風が吹けば、揺れる。

雨が降れば、濡れる。

日が差せば、乾き、光合成をする。

彼らは、「30分後に吹く風のために、今から揺れる練習をしておこう」とか、「昨日の雨で濡れたことを、いつまでもクヨクヨ悩む」なんてことはしない。

そして何より、**「執着(しゅうちゃく)」**していないんです。

日本の文化に深く根付いている感覚の一つに、「無常(むじょう)」という考え方があります。

「すべては移り変わっていくもので、ずっと同じ状態のものはない」という、仏教由来の考え方ですね。

海外で暮らしていると、日本人がいかに「桜」が好きか、不思議に思うことはありませんか?

あれは、ただキレイだから、だけじゃないんです。

「あんなに美しく咲き誇っても、たった数日、強い風が吹けばあっという間に散ってしまう」

その**「儚さ(はかなさ)」**に、私たちは心を揺さぶられる。

「あぁ、無常だなぁ」と。

この「無常観」は、自然を観察していると、痛いほどわかります。

私が「起」で見ていた緑の葉っぱ。

あの葉っぱも、ずっと緑なわけじゃない。

夏が過ぎれば黄色くなり、やがて茶色くカサカサになって、冬の風に吹かれて枝から「手放される」。

そして、地面に落ちて土に還る。

葉っぱは、「まだ緑でいたい!」「枝から離れたくない!」と、必死にしがみついたりしないんですよね。

(少なくとも、私にはそう見える)

さぁ、そこで私です。

銀行のATMでイライラしていた、私。

私は、何にしがみついていたのか?

「私が立てた、完璧なスケジュール」にです。

「常備菜は今日作らねばならない」という、凝り固まった理想。

でも、それって、永遠に続くものですか?

違いますよね。

子どもの体調、天気、銀行のトラブル…主婦の日常なんて、「予定通りにいかないこと」の連続です。

それなのに、私は「緑の葉っぱ」の状態に必死にしがみついて、「黄色くなる(=予定が狂う)」ことを極端に恐れていた。

風(=トラブル)が吹いてきたら、抵抗して、枝から落ちまいと必死に力を入れていた。

だから、疲れるんです。

だから、イライラするんです。

葉っぱが教えてくれたこと。

それは、「気分転換」なんかじゃなく、

「しがみつかなくて、いいんだよ」

という、もっと根本的な「人生術」でした。

風が吹いたら、揺れればいい。

予定が狂ったら、「あ、狂ったな」と、それを受け入れればいい。

このレッスンを理解してから、私の「処方箋」は少し変わりました。

イラっとした時、窓の外を見る。

葉っぱが揺れている。

(あ、そっか。風、吹いてるな)

(私は今、「こうあるべき」って、しがみついてるな)

(でも、この状況もずっとは続かない。無常、無常…)

(葉っぱみたいに、流れに任せてみようか)

そうして、深呼吸とセットで呟くんです。

あの魔法の言葉を。

「まぁ、いっか」

これ、すごく便利な日本語だと思いませんか?(笑)

“It’s okay.” や “Whatever.” “Let it go.” に近いですが、もう少し「諦め」と「受容」が混ざった、独特のニュアンス。

「常備菜、今日作れなくても、まぁいっか。死なないし」

「牛乳こぼされたけど、まぁいっか。拭けばいいし」

「布団が雨に濡れた! …まぁ、いっか。コインランドリー行けばいいか…(これは結構キツイけど)」

この「まぁ、いっか」は、**「手放す」**ための合言葉なんです。

何を?

「完璧な私」や「理想のスケジュール」という、自分で勝手に作り上げた「執着」を、です。

フックにあった「How does observing nature teach us about letting go and impermanence?(自然の観察は、いかにして手放すことと無常を教えてくれるか?)」

私にとっての答えは、これでした。

自然は、「ずっと同じじゃないよ」「しがみついても無駄だよ」と、ただそこにあることで、静かに、でも厳しく教えてくれる。

それを受け入れた時、私たちは初めて「まぁ、いっか」と、肩の力を抜くことができる。

これが、私が「葉っぱの教室」で学んだ、不安やイライラに対する「シフトチェンジ」の方法です。

不安な時って、私たちは未来(まだ起きてない悪いこと)や過去(変えられない後悔)に「執着」しています。

でも、葉っぱは「今」しか生きていない。

「今、やるべきこと(=床を拭く)」だけに集中する。

それ以外は、「まぁ、いっか」。

…とはいえ。

理屈ではわかっても、この「まぁ、いっか」がなかなか言えない相手がいますよね。

そう、自分の中に巣食う、「~ねばならない」という頑固な考え方。

海外にいると、日本の常識と現地の常識の板挟みで、この「~ねばならない」が暴走しませんか?

「日本の母ならこうするべきだ」

「妻としてこうあるべきだ」

って。

次の「転」のパートでは、この一番やっかいな「べきべき思考」と、どう向き合っているか。

今度は「雨音の処方箋」を例に、もう少し突っ込んでお話ししてみたいと思います。

雨音が洗い流す「べきべき思考」

「承」のパートで、私はついに「まぁ、いっか」という魔法の言葉を手に入れました。

葉っぱ先生に「執着しなくていいんだよ」と教えてもらったおかげで、カチカチだった肩の力が少し抜けた気がしました。

…と、キレイにまとまれば良かったのですが。

人間の思考って、本当にしぶといんですよね。

特に、私たち主婦の頭の中にこびりついている、あの厄介なヤツ。

そう、**「~ねばならない」という呪い、通称「べきべき思考」**です。

「主婦たるもの、家事は完璧にこなすべき」

「母親たるもの、常に笑顔で子どもに接するべき」

「夕飯は、栄養バランスを考えて一汁三菜であるべき」

「日本(あるいは海外)の常識に合わせて、きちんと振る舞うべき」

もう、出るわ出るわ(笑)。

海外で暮らしている皆さんは、特にこの「べきべき思考」に振り回されませんか?

日本では「こうあるべき」だったのに、現地では「そうあるべき」が全然違う。

両方の「べき」が頭の中でケンカして、

「私、ちゃんと『日本の母』としてやれてる?」

「いや、こっちの『現地のママ』に合わせるべき?」

と、自分の軸がグラッグラになる。

この「べきべき思考」の恐ろしいところは、「まぁ、いっか」という魔法の言葉を、いとも簡単に無効化してくるところです。

「夕飯、今日は疲れたから冷凍パスタでいいかな…」

(いや、ダメだ。家族の健康のため、母親は手作りするべきだ)

「まぁ、いっか」

(よくない!)

…ほら、この通り。

「まぁ、いっか」が、「べき思考」という名のラスボスに一瞬で斬り捨てられるんです。

この「べき」は、もはや「執着」というより、「信念」とか「強迫観念」に近い。

これを手放さない限り、本当の意味での「内なる静けさ(Inner calm)」なんて手に入らない。

どうしたものか…。

葉っぱ先生(=受容のレッスン)だけでは歯が立たない。

そこで登場するのが、私のもう一つの処方箋。

「起」で少しだけ触れた、**「雨音の処方箋」**です。

フックで言うところの「listening to rain(雨音を聴く)」ですね。

「承」で話した「葉っぱ」が、目(視覚)を使った静かな「観察」だとしたら、「雨」は耳(聴覚)を使った、もっとダイナミックな「体感」です。

あれは、まさに梅雨の真っ只中。

洗濯物は乾かないし、子どもは外で遊べなくて不機嫌だし、私自身も低気圧で頭が重い。

「べき思考」がフル稼働する最悪のコンディションです。

「あぁ、この湿気、どうにかするべき」

「子どもの機嫌を、私が直すべき」

「この憂鬱な気分、なんとかするべき」

もう、うんざりだ。

私はすべてを放棄して、ベランダに出る窓を開け放ち、床にゴロンと寝転がりました。

(日本ではあまり行儀が良くないとされていますが、もう知るか!という気分でした笑)

外は、土砂降り。

「ザーーーーーーーー」

「ゴォーーーーーーー」

「トトトトトト…(窓枠に当たる音)」

最初は、やっぱり「うるさいな」と思いました。

この音が、私のイライラをさらに加速させる「騒音」にしか聞こえなかった。

でも、あまりに疲れていたので、抵抗するのをやめて、ただその音に全身を浸してみることにしたんです。

目を閉じて、耳をすます。

ザーーーーー…

その時、気づいたんです。

この「雨音」という存在の、**「圧倒的なコントロール不能性」**に。

私は、この雨に対して、何一つ「べき」を押し付けられない。

「止むべきだ!」と念じても、止まない。

「もっと静かに降るべきだ!」と怒っても、音量は変わらない。

私の「こうあるべき」という小さな意志なんて、自然の大きな流れの前では、まったくの無力。

そう思った瞬間。

今まで「騒音」だった雨音が、まったく違う音に変わりました。

それは、私の頭の中で鳴り響いていた「べき!」「べき!」というアラームを、根こそぎ「洗い流す」音でした。

ザーーーーー…

(母親は笑顔でいるべき…)

ザーーーーー…

(↑どうでもいい音に聞こえてきた)

ゴォーーーー…

(家は常に片付いているべき…)

ゴォーーーー…

(↑かき消された)

雨音は、私のちっぽけな「べき思考」を、一つ残らず無効化していく。

「そんなローカルルール、知るか」

と、地球が笑い飛ばしているみたいに。

フックには「Connect these observations to… a shift in perspective on daily anxieties.(これらの観察を、日常の不安に対する視点の転換につなげる)」とありました。

これこそが、私にとっての「視点の転換(Perspective Shift)」でした。

私が「べき」だと思い込んでいたことは、全部、私が勝手に作ったルール、あるいは、私が育った狭い社会が作ったルールでしかなかった。

自然の法則(雨が降る、風が吹く)とは、何の関係もなかった。

「夕飯が一汁三菜じゃなくても、雨は降るし、地球は回る」

「部屋が散らかっていても、誰も死なないし、季節は変わる」

そう思えたら、スーッと力が抜けました。

あれほど私を縛り付けていた「べき」という鎖が、ガラガラと音を立てて崩れていくような。

これが、「内なる静けさ(Inner calm)」なんじゃないか、と。

面白いですよね。

「静けさ」って、普通は「無音」の中に求めるじゃないですか。

でも、私の場合は逆。

「雨音」という圧倒的なノイズが、頭の中の小さなノイズ(=不安や「べき思考」)をかき消してくれたことで、結果的に「心の静けさ」が訪れたんです。

これは、日本的な感覚でいうと、お寺で「滝行」をする修行僧の感覚に近いのかもしれません(もちろん、私は滝に打たれたことはありませんが!)。

すべてを洗い流す水の力に身を任ねることで、雑念を払う。

大げさかもしれませんが、梅雨の日の土砂降りを聴くことは、私にとって自宅でできる「プチ滝行」なんです。

葉っぱが「無常」と「受容(まぁ、いっか)」を教えてくれる「静」の先生だとしたら、

雨音は「無力」と「解放(どうでもいい!)」を教えてくれる「動」の先生です。

この二人の先生のおかげで、私はだいぶ「手放す」ことが上手になってきました。

でも。

じゃあ、全部「まぁ、いっか」「どうでもいい」で、家事も育児も放棄していいのか?

「べき」を手放すことと、「テキトーに生きる」ことは、同じなのか?

もしそうなら、それはただの「怠惰」ですよね(笑)。

私たちが目指したいのは、そこじゃないはず。

「手放す」けれど、「丁寧(ていねい)に生きる」。

この、一見矛盾するように見える二つをどう両立させるか。

それが、日本人が昔から実践してきた「禅(Zen)」や「道(どう)」の考え方に繋がっていく気がします。

最後の「結」のパートでは、この「手放した先」で私が見つけた、新しい「日常の整え方」について、お話ししてみたいと思います。

自然のリズムと、自分のリズムを合わせる、私なりの「人生術」です。

自然のリズムで生きる、私なりの「禅」

「承」で「まぁ、いっか」という「受容」を学び、「転」で雨音に「べきべき思考」を洗い流してもらった私。

(あぁ、スッキリした!)

(もう、何にも縛られないぞ!)

…と、清々しい気分になったのも束の間。

現実の生活は、待ってくれません。

洗い流されたはずの床には、また子どもの食べこぼしが。

空になった洗濯カゴは、翌日にはまた山盛りになります。

そして、ここで最大の疑問が湧いてきました。

「べき思考」を手放して、「まぁ、いっか」を連発する。

それって、結局のところ、ただの**「怠惰(たいだ)」**じゃないの?

「ぐうたら主婦」になって、家事も育児もテキトーになっていくだけなんじゃないか?

「まぁ、いっか。夕飯作らなくて」

「まぁ、いっか。部屋が汚くても」

これでは、家族も困るし、何より私自身が、罪悪感で結局また不安になるだけ。

私たちが求めているのは、「何もしない静けさ(Stillness)」ではなく、「やるべきことはやりながらも、心は穏やかでいる静けさ」のはず。

この、一見矛盾する「手放す」と「実行する」を、どう両立させればいいのか。

そのヒントこそが、日本の「禅(Zen)」や、「道(どう)」(茶道、華道、武道など)と呼ばれる世界に隠されているんだ、と私は気づきました。

何も、私が座禅を組むとか、お茶を習い始めたとか、そういう立派な話ではありません(そんな時間はありません!笑)。

あくまで、主婦が日常で実践できる「なんちゃって禅」の話です。

日本の「禅」や「道」の世界で大切にされていることの一つに、**「今、ここ(Present Moment)」**に意識を集中するという考え方があります。

「転」で話した雨音も、「承」で話した葉っぱも、考えてみれば「今、ここ」しか生きていないんです。

葉っぱは、「明日の天気を心配して」揺れたりしない。ただ、「今」吹く風に揺れる。

雨は、「昨日の降り方が弱かったから」と後悔したりしない。ただ、「今」降るべき強さで降る。

一方で、私(人間)はどうでしょう?

不安やイライラに襲われている時、私たちの意識は「今、ここ」にありません。

「あぁ、昨日のうちにアレをやっておけば…(過去への後悔)」

「このままだと、夕飯の時間に間に合わないかも…(未来への不安)」

この、「過去」と「未来」を行ったり来たりする思考こそが、不安の正体だったんです。

そして、「べきべき思考」というのは、この「過去」や「未来」への執着を、さらに強固にする呪いの言葉でした。

「(過去のあの人の教え通りに)こうあるべき」

「(未来で失敗しないために)こうするべき」

もう、お分かりですよね。

「自然の教室」が本当に教えてくれていたレッスンは、これでした。

「『べき』のために動くのではなく、『今』のために動けばいい」

これが、「怠惰」に陥らず、しなやかに「実行する」ための答えでした。

どういうことか?

例えば、洗い物。

【今までの私(べき思考)】

(あぁ、洗い物が溜まってる…)

(食後はすぐに片付けるべきなのに、私ってダメだな…)

(この後、買い物にも行かなきゃいけないのに、間に合わないかも…)

→ イライラしながら、雑に洗う。

この時、私の意識は「過去(すぐにやらなかった後悔)」と「未来(買い物の心配)」にあって、「今、ここ(洗い物)」にありません。家事を「罰ゲーム」のように感じています。

【今の私(なんちゃって禅)】

(あぁ、洗い物が溜まってるな。…さて、『べき思考』が来たな?)

一旦、止まる(Stillness)。

窓の外の葉っぱを見るか、蛇口から出る水の音に集中する。

(葉っぱは揺れてるな。水は流れてるな。「今」だな)

「まぁ、いっか(過去や未来は、一旦手放す)」

意識を「今、ここ」に戻す。

「(未来のため『べき』だから洗うんじゃない)『今』、このお皿が汚れているから、私が洗うことにする」

そして、ただ、洗う。

スポンジの泡立ち、お湯の温かさ、お皿のキュキュッという音。

その「感覚」だけに集中する。

不思議なことに、こうやって「今、ここ」に集中して家事をすると、イライラが湧いてこないんです。

むしろ、無心になって、終わった後にはちょっとした「達成感」すらある。

心が「整う」感覚。

これが、私が見つけた「人生術」です。

フックにあった「a 5-minute window gaze(5分の窓凝視)」「listening to rain(雨音傾聴)」「touching a plant(植物への接触)」。

これらはすべて、バラバラの「気晴らし(Nature Prescriptions)」じゃなかったんです。

これらはすべて、**「過去や未来に飛んでいった意識を、『今、ここ』に強制的に連れ戻すためのスイッチ」**だったんです。

キッチンに小さなハーブを置くのも、すごくオススメです。

「べきべき思考」が来たら、その葉っぱ(例えばミント)を指先でそっとこする(touching a plant)。

フワッと香る、その「今、この瞬間」の香りが、私を「今」に引き戻してくれる。

「手放す」とは、「何もしない」ことじゃなかった。

「手放す」とは、「過去への後悔」と「未来への不安」を手放すこと。

そして、「『今、ここ』で、やるべきこと(やりたいこと)」に、ただ集中すること。

日本の主婦が、日々黙々と家事をこなしている姿。

海外から見たら、もしかしたら「我慢して『べき』をこなしている」ように見えるかもしれません。

でも、もしかしたら、その多くは(無意識かもしれませんが)「今、ここ」に集中する「日常の禅」を実践しているのかもしれません。

拭く、洗う、切る、煮る。

その繰り返しの行為の中に、「静けさ」を見出している。

海外で暮らす主婦の皆さんは、日本にいる私たち以上に、たくさんの「不安」や「べき思考」と戦っていると思います。

文化の違い、言葉の壁、孤独感。

「日本の常識ではこうすべき」

「現地の常識ではこうすべき」

過去の自分と、未来の理想像に、毎日引き裂かれそうになっているかもしれません。

でも、どうか思い出してください。

皆さんのいる場所にも、必ず「自然の教室」はあります。

空の色、雲の流れ、風の音、窓辺の小さな鉢植え。

不安で押しつぶされそうになったら、ほんの1分でいい。

その「先生」に触れてみてください。

そして、「今、ここ」にご自身の意識をアンカリング(錨を下ろす)してみてください。

葉っぱが教えてくれる「まぁ、いっか(受容)」。

雨音が教えてくれる「どうでもいい(解放)」。

私たちは、「完璧な主婦」になる必要なんてない。

ただ、風に揺れる葉っぱのように、「今、この瞬間」を、しなやかに受け入れて生きる。

それだけで、日常の不安は、驚くほど軽くなっていくはずです。

遠い日本から、同じ「主婦」として、皆さんの「今、ここ」を応援しています。

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