『ありがとう』だけじゃない?日本のお辞儀(ペコっ)に隠された、深〜い「心」の話

コンビニでもペコり! 日本は「お辞儀」だらけの国?

さて、記念すべき第1回目。(勝手に記念にしてます)

皆さんが「日本」と聞いてイメージする「仕草」って、何がありますか?

アニメの「ピースサイン」?(笑) それとも、ラーメンをすする音?

やっぱり、一番有名なのは「お辞儀(Bowing)」じゃないでしょうか。

きっと皆さんも、映画やニュースで、黒いスーツを着たビジネスマンたちが、真剣な顔で何度も深く頭を下げ合っているシーンや、お店の店員さんが「いらっしゃいませー!」とそれはそれは丁寧にお辞儀する姿を見たことがあるかもしれません。

確かに、日本は「お辞儀の国」です。それはもう、間違いありません。

でもね、私、声を大にして言いたい!

そのイメージ、ちょっと「堅苦しい」し、「ビジネスライク」すぎます!(笑)

本当の「お辞儀天国」は、そういうカッチリした場所じゃなくて、私たち主婦が走り回っている、ごくごく普通の「日常」にこそあるんです。

ちょっと、私の(本当にどうでもいい)一日を覗いてみませんか?

<とある主婦ワタコの「お辞儀」モーメント>

  • 朝8:00(ゴミ出し)朝、まだちょっと寝癖がついたまま(!)マンションのゴミ捨て場に行くとします。向かいの奥さんも、ちょうどゴミ袋を持ってやってきました。「おはようございます」お互いマスクもしてるし、朝だからそんなに大きな声も出さない。でも、その言葉と「同時」か、なんなら「言葉より先に」、お互いの頭が**軽く「ペコっ」**と下がります。これはもう、条件反射。パブロフの犬です(笑)。この「ペコっ」は、もちろん「Good morning」の意味もあるんですけど、それ以上に「あ、どうも。お互い朝から大変ですね。今日も一日頑張りましょ」みたいな、一種の「連帯の確認」みたいな空気が含まれてるんですよ。
  • 午前11:00(スーパーのレジ)今日の特売品をゲットして、レジでお会計。私がマイバッグに商品を詰めていると、レジの店員さんが、私が次の商品を取りやすいように、空になった買い物カゴをスッと横にずらしてくれました。その瞬間。私は「あ、どうも」と小さな声を出しながら、店員さんに向かって**「ペコっ」。店員さんも、レジ作業の手を止めずに、私に「ペコっ」**。…はい。言葉は、ほぼ交わしていません(笑)。でも、この瞬間の「ペコっ」と「ペコっ」の間には、「(店員さん)カゴ、邪魔ですよね。こちらの方が詰めやすいですよ、どうぞ」「(私)わ、ありがとう!助かります。その配慮、ちゃんと受け取りましたよ!」という、**目に見えない「気持ちのキャッチボール」**が、ものすごいスピードで行われてるんです。
  • 午後2:00(宅配便)ピンポーン! 来た! ネットで注文したお米(重い!)。玄関先でサインをして、配達員さんから「よいしょ」と荷物を受け取ります。「ありがとうございましたー!」私は、重い荷物を運んでくれたことへの感謝を込めて、さっきより少し深めに「ペコっ」。配達員さんも、帽子に手をやりながら「ありがとうございました!」と、私に「ペコっ」。このお辞儀は、純粋な「Thank you」です。でも、それだけじゃない。「あなたの労働(重いものを運ぶ)に敬意を表します」「時間通りに届けてくれてありがとう」という、いろんな気持ちが混ざってる。
  • 夕方4:00(子どもが友達の家から帰宅)息子が、遊びに行っていたお友達の家から帰ってきました。そのお母さんも、一緒に見送りに来てくれました。「〇〇くん(息子の名)、バイバーイ!」「今日はありがとうございました!お邪魔しましたー!」私は、息子を遊ばせてくれたことへの感謝と、「うるさくしてごめんね」という(ちょっとした)謝罪の気持ちも込めて、丁寧に「ペコっ」。お友達のお母さんも、「ううん、楽しかったみたい!また遊んでねー!」と**「ペコっ」**。ここでの「ペコっ」は、「感謝」であり、「これからもよろしくね」という「ご近所付き合いの潤滑油」でもあるんです。

…ね?(笑)

たった半日だけでも、何回「ペコっ」としてるんだっていう。

もし日本に来たら、コンビニでも、駅でも、道端でも、よーく観察してみてください。信じられないくらいの「ペコっ」が、そこら中で行われていますから。

面白いのは、この「お辞儀」という一つの動作が、

「こんにちは(挨拶)」

「ありがとう(感謝)」

「ごめんなさい(謝罪)」

「お願いします(依頼)」

「失礼します(入退室)」

「お先にどうぞ(謙遜)」

…全部の役割を果たせちゃうってことです。

海外の友達からは、「日本人はすぐ『すみません(Sorry)』って言うよね」って言われることがよくあります。

でも、私たちが「すみません」って言いながら頭を下げる時、それは「I’m sorry」だけじゃない。「Thank you(手間をかけさせてありがとう)」と「Excuse me(ちょっと通してください、ごめんなさい)」が、絶妙にブレンドされている「魔法の言葉」なんです。

お辞儀も、まったく同じ。

それは単なる「マナー」や「ポーズ」ではなくて、言葉では表現しきれない複雑な感情や、相手への配慮をギュッと凝縮して伝えるための、最高のコミュニケーションツールなんです。

今回、私がこのテーマを選んだのは、まさにフックにあった「Beyond the Bow(お辞儀の先にあるもの)」という言葉に、ビビッときたから。

私たち日本人が、なぜ、これほどまでに「ペコっ」とするのか。

それは、フックの言葉を借りるなら、「尊敬(respect)」や「相互主義(reciprocity)」、つまり「お互い様」の精神が、私たちの生活の知恵として、深く深く根付いているからじゃないかな、と思うんです。

言葉でハッキリ「感謝してる!」「愛してる!」と伝えるストレートな文化も、本当に素敵です。憧れます。

でも日本人は、どうやら昔から、言葉にする前の「気配」とか「場の空気」とか、そういう「目に見えないもの」を読んで、お互いに配慮し合うことを大切にしてきた民族みたい。

お辞儀は、その「空気」を円滑にするための「人生術」であり、

「あなたの存在を、私はちゃんと認識していますよ」

「あなたに敵意はありませんよ」

「あなたのしてくれたことに、私は気づいていますよ」

という、**大切な「サイン」**なんです。

これって、インドの「ナマステ」(あなたの内なる神聖なものに敬意を表します)や、先住民の方々の「贈り物の文化」(見返りを求めず、目に見えないつながりを大切にする)とも、根っこの部分で通じるものがあるんじゃないかな、なんて思ったり。

このブログでは、この「お辞儀」という日本独特のアクションを入り口に、その裏側に隠れている日本人の「人生観」や「社会の考え方」、そして「共同体の絆」について、私(主婦ワタコ)の目線で、これからじっくり掘り下げていきたいと思います。

次回(承)は、この「ペコっ」が、具体的にどうやって私たち主婦の「ご近所付き合い」や「学校(PTAとか!)」といった、超ローカルなコミュニティの絆(と、時にはプレッシャーも?笑)を作っているのか…そんなお話をしますね!

お楽しみに!

その「ペコっ」は、「絆」ですか?「圧力」ですか? ~ご近所と学校のリアル~

「起」で紹介したのは、まぁ、言ってみれば「ライトな『ペコっ』」です。

スーパーの店員さんや配達員さんとは、その場限りの関係。だから、純粋な「感謝」や「配慮」としての「ペコっ」が交わされることが多い。とっても気持ちがいいものです。

でも、これが「継続的な関係性」…つまり、「明日も、明後日も、来年も顔を合わせる」ことが確定しているコミュニティになると、話は別。

そう、私たち主婦にとっての二大巨頭、「ご近所」と「学校」です。

ここでは、「ペコっ」は単なる挨拶から一気に進化して、

「私は、このコミュニティのルールを理解し、遵守する一員です」

という、「所属の意思表明(Identity)」という、めちゃくちゃ重い役割を帯びてくるんです。

<ケース1:ゴミ出し場は「序列」の確認場所>

「起」でもちょっと触れた「朝のゴミ出し」。

あれ、実は単なる「おはようございます」の場じゃないんです。あれは「コミュニティの秩序確認」の場(笑)。

私が今のマンションに引っ越してきたばかりの頃。

ゴミ出し場には、すでに何人かの「先輩主婦」らしき方々がいました。

私はもちろん、新入りですから、

「おはようございますっ!(ペコっ)」

と、一番声も大きく、角度も深く(推定30度くらい?笑)お辞儀をします。

これは「新入りのワタコです! ルールも何も分かりませんが、どうかよろしくお願いします!」という「服従の誓い」に近い(大げさ?笑)。

すると、先輩主婦の方々も、

「あら、おはようございます(ペコっ)」

と返してくれます。でも、その角度は私より浅い(推定15度)。

この角度の差こそが、「序列」です。

決して彼女たちがいばっているわけじゃない。でも、これが「暗黙の秩序」。

もし、私がここでふんぞり返って、会釈もせず、ゴミ袋を「ドンッ」と置いて立ち去ったら…?

はい、想像しただけで恐ろしい。

たぶん、翌日には「〇〇号室の奥さん、挨拶もしない」というレッテルが光の速さで貼られます。

それは、「コミュニティの和を乱す、ルール違反者」の烙印(らくいん)です。

逆に、この「丁寧なペコっ」を数日続けるだけで、「あら、感じのいい奥さんね」と認識してもらえます。

そのうち、一番ボス格っぽい奥さん(必ずいるんです、そういう人が)から、「あなた、ゴミの分別、こっちの袋で大丈夫よ」なんて、地域の「生きたルール」を教えてもらえるようになる。

これぞ、「共同体の絆(Communal Bonds)」の第一歩。

私の「ペコっ(=私はルールを守りますよ、というサイン)」が相手に伝わり、相手が「ペコっ(=じゃあ、仲間として認め、情報を与えましょう)」で返してくれる。

これは、まさにフックにあった「Reciprocity(相互主義)」ですよね。

「私もあなたに配慮(=挨拶)するから、あなたも私に配慮(=地域の情報)してね」という、見えない契約が成立した瞬間なんです。

<ケース2:「お裾分け」と「回覧板」が運ぶ「お互い様」>

日本の、特にこういう「ご近所」という単位では、「お裾分け」という文化が根強く残っています。

旅行に行ったらお土産を買ってきて配る。野菜をたくさんもらったら配る。煮物を作りすぎたら「よかったらどうぞ」とタッパーに入れて持って行く。

ピンポーン。

「はーい」

「あ、ワタコです。これ、実家から送ってきたミカン、食べきれなくて(ペコっ)」

「わー! いつもすみません! 美味しそう! ありがとうございます(ペコっ)」

「じゃあ、タッパー、また後で(ペコっ)」

「はーい、どうもー(ペコっ)」

…何回お辞儀するんだって話です(笑)。

でも、この「モノ」のやり取りとセットになった「ペコっ」のラリーこそが、「絆の貯金」なんです。

言葉で「いつもありがとう」とか「仲良くしましょうね」なんて、いちいち言いません。

でも、この「お裾分け」と「ペコっ」の積み重ねが、「お互い様」という空気を作っていく。

「この前ミカンもらったから、今度うちが旅行行ったら、あそこの分もお土産買っていこう」

「いつもお世話になってるから、あそこのお子さんがうちの前で遊んでても、ちょっと多めに見てあげよう」

この「お互い様」の空気が満ちているコミュニティは、強いです。

いざという時、例えば大きな地震が来た時とか、私が急に熱を出して倒れた時とか。

「助けて!」と声を上げやすいし、周りも「あそこの奥さん、大丈夫かしら?」と自然に気にかけてくれる。

言葉で「We are friends!」と確認し合わなくても、日々の「ペコっ」の貯金が、セーフティネットとして機能するんです。

<ケース3:恐怖の「PTA」と「同調圧力」>

さて、ここまでは「絆」っていう、ちょっとイイ話でした。

でも、この「ペコっ」文化、光があれば闇もある(笑)。

その闇(?)が一番深くなる場所…それが「学校」、特に「PTA(Parent-Teacher Association:保護者と教師の会)」です。

ここは、「ご近所」よりもさらに「同質性(みんな同じであること)」が求められる場所。

なぜなら、「私たちの子どものために」という、誰も反論できない「大義名分」があるから。

年に数回開かれる「保護者会」。

教室の後ろに、親たちがズラーッと並びます。シーンとした空気。

先生が入ってきます。

「本日はお忙しい中…」

親、全員、一斉に「ペコっ」。

PTAの役員さんが前に立ちます。

「えー、来年度の活動についてですが…」

親、また一斉に「ペコっ」。

この時のお辞儀は、「感謝」や「挨拶」という意味合いも、もちろんあります。

でも、それ以上に強いのは、「私は『和』を乱しません」「私は、ちゃんと『常識的な親』として、ここに所属しています(Identity)」という、強力な「同調アピール」です。

もし、この状況で一人だけ、ふんぞり返って腕組みしてたり、スマホをいじっていたりしたら…?

もう、想像するだけで胃が痛い(笑)。

「あの親、何?」「協調性ないよね」

そのレッテルは、親だけじゃなく、子どもにまで影響するんじゃないか…そんな恐怖すら感じさせます。

ここでは、「ペコっ」は「絆」の道具であると同時に、「秩序を守らせるための圧力」として機能します。

みんなが頭を下げているから、私も下げる。

私の「ペコっ」は、隣の人の「ペコっ」を誘発し、隣の人の「ペコっ」も、私の「ペコっ」を強化する。

こうして、無言の「お辞儀の波」が、その場の「空気」を支配していくんです。

そのクライマックスが、恐怖の「役員決め」。

「どなたか、来年度の学年委員を…」

シーン…。

全員、目を合わせないように、うつむき加減になります。

これは、「私にはできません、ごめんなさい」という「消極的なお辞儀」です。

長い沈黙の後、一人の勇敢なお母さん(!)が、おそるおそる手を挙げます。

「…じゃあ、…私、やります」

その瞬間!

教室を満たしていた重い空気が一変し、そのお母さんに向かって、嵐のような「感謝と尊敬と安堵の『ペコっ』」が集中砲火されます。

「わああ!」「ありがとう!」「助かります!」「お願いします!(ペコペコペコっ!)」

これは、もう、すごい光景ですよ。

フックにあった「Indigenous gift-giving(先住民の贈与)」の話を思い出しました。

あれは「見返りを求めない贈り物」が共同体を繋ぐという話だったけど、PTAのこれは、ちょっと違う。

手を挙げたお母さんは、「共同体のための自己犠牲」という、とてつもなく大きな「贈り物(Gift)」を差し出しました。

それを受け取った(=やらなくて済んだ)他の親たちは、その「贈り物」に対して、強烈な「負債(借り)」を感じます。

「あの人がやってくれた。私たちは助かった」

この「負債」こそが、日本の「Reciprocity(相互主義)」の正体であり、共同体を縛り付ける「絆」そのもの。

「あの人があんな大変な役をやってくれたんだから、私がこのくらい(ベルマーク集めとか)やるのは当たり前だよね」

「来年は、私も何かやらなきゃ申し訳ないな」

こうして、「お互い様」という名の「プレッシャーの連鎖」で、この(誰もやりたがらない)PTAというシステムは、奇跡的に回り続けるわけです。

そして、その全ての節目節目に、「ペコっ」という名の「契約のサイン」が、何度も何度も、交わされ続けるんです。


…どうでしたか?(笑)

日本の主婦の「ペコっ」が、いかに地域社会や学校という「ムラ社会」を維持するために、複雑で、重要で、そして時にはちょっと面倒くさい(!)役割を果たしているか、伝わりましたでしょうか。

それは、「尊敬」や「感謝」というポジティブな絆(Bonds)を生む、素晴らしい生活の知恵であると同時に、

「みんなと同じでいなきゃ」

「和を乱しちゃいけない」

という、「同調圧力(Identityへの強制)」の道具にもなっている、という両面性があるんです。

言葉にしないからこそ、その「お辞儀」のわずかな角度や、タイミング、表情に、私たちはものすごーーーく沢山の情報を込め、そして読み取ろうと必死になっている。

じゃあ、もし。

その「暗黙のルール」を、あえて「読まない」人が現れたら?

例えば、こういう文化に全く馴染みのない外国の方が、この濃密なコミュニティにポンと入ってきたら?

あるいは、私自身が「もう、疲れた! この『空気』読むの、やーめた!」って、お辞儀するのをやめたら?(笑)

一体、何が起こるんでしょうね。

次回(転)は、この「お辞儀コミュニティ」と「異文化」が出会った時に起こる「摩擦」や「変化」について、そんな、もう一歩踏み込んだお話をしてみたいと思います!

ではまた!

「ペコっ」をしない人がやってきた!~文化摩擦と「新しい風」~

「お辞儀」が、そのコミュニティの「絆」であり「圧力」であるということは、裏を返せば、「お辞儀をしない」という行為が、その「絆」への「拒否」であり、「圧力」への「反逆」とみなされる、ということ。

これ、日本で暮らしていると、もう肌感覚で「ヤバいこと」だって分かるんです。

でも、その「ヤバさ」が分からない人が現れた時、私たちの「お辞儀システム」は、一瞬フリーズします。

<ケース1:ゴミ出し場の「Hi!」と「フリーズする奥様」>

数年前、私が住むマンションに、海外(確か北米だったかな?)から、とってもフレンドリーなご家族が引っ越してきたんです。

旦那さんも奥さんも、目が合うと「ニカッ」と笑ってくれる、絵に描いたようなナイスカップル。

で、ある朝。来ました、運命の「ゴミ出し場」。(またゴミ出し場かい!って?笑 だって、あそこは戦場なんですってば!)

そこには、例のごとく、このマンションの「主(ぬし)」とも言える、ベテラン主婦のTさんが、目を光らせていました。

そこへ、彼(海外からの旦那さん)が登場。

Tさんは、新入りを値踏みするように、ジッと見ています。

私も「あ、どうなるかな…」と、固唾をのんで見守っていました(性格悪い?笑)。

彼は、Tさんと目が合うと、

「Hi! Good morning!」

と、満面の笑みで、片手をヒラッと挙げたんです。

お辞儀は、ゼロ。

角度ゼロ。

「ペコっ」の「ぺ」の字もありません。

その瞬間。

Tさん、フリーズしました。

時間が、止まりました。

Tさんの顔は、笑顔を作ろうとしているんだけど、目が「…え?」って、完全に戸惑っている(笑)。

Tさんの頭の中は、きっとこうだったと思います。

「(え? 挨拶…された? …けど、お辞儀は? なに、あの『ヒラッ』ってやつは。あれが挨拶? え、私、どう返せばいいの? 『おはようございます(ペコっ)』って言うべき? でも、相手は『Hi!』だよ? 私も『Hi!』って手を振るの? この私が? このゴミ出し場で?)」

もう、大混乱です(笑)。

なぜなら、Tさんにとっての「秩序」は、

「新入りが、既存の住民(特に年上)に、敬意(Respect)を込めて、深くお辞儀(ペコっ)をする」

ことで保たれるものだったから。

その「ペコっ」こそが、「私は、ここのルールに従います」という「服従のサイン」だったんです。

でも、彼にとっての「敬意(Respect)」は、そんな堅苦しいものじゃない。

「アイコンタクト」と「笑顔」と「明るい声での挨拶」。

「僕は君に敵意はないよ! 仲良くしようぜ!」という、オープンで「対等」なサインなんです。

はい、ここで「文化摩擦」の発生です!

フックにあった「Underlying values(根底にある価値観)」…「敬意」や「相互主義」は、本当は両者とも持っているんです。お互い、「良き隣人」でありたい、と思っている。

でも、その「Expressions(表現方法)」が、「お辞儀」と「手を振る」で、あまりにも違った!

この「お辞儀システム」が壊れた瞬間、私たちは否応なく、「じゃあ、『敬意』って、そもそも何だっけ?」という、本質的な問いに直面させられるんです。

(ちなみに、このTさんと旦那さんがどうなったかというと。

数ヶ月後、Tさんが、ゴミ出し場で、ものすごーーーくぎこちなく、顔は笑ってないまま(笑)、指先だけ小さく「ヒラッ」と振っているのを目撃しました。

一方で、旦那さんも、笑顔で「Hi!」と言いながら、首だけ「カクン」と(お辞儀とも言えない角度で)曲げるようになっていました。

…これぞ、文化の融合! 新しい「ハイブリッドな絆」が生まれた瞬間でした!)

<ケース2:PTAの「空気」を破った「正論」>

さて、もう一つの「摩擦」。

これは、「外から」ではなく、「内側から」起こった、もっと深刻な「事件」です。

これは、私が体験した、あの「地獄の役員決め」での出来事。

「どなたか、来年度の『学級委員』を…」

先生の言葉に、教室はシーン…。(「承」で書いた、いつものやつです)

全員が、「私にはできません、ごめんなさい」という「消極的なお辞儀」で、うつむいています。

この「空気」…この「みんなで痛みを分かち合おう」という「同調圧力(ペコっ)」が、最高潮に達した、その時。

一人の若いお母さん(Aさん)が、スッと顔を上げました。

彼女、うつむいてなかったんです。

そして、手を挙げた。

(おっ! やってくれるのか!? 救世主か!?)

…と、全員の「感謝のペコっ」が発射準備に入った、その瞬間。

Aさんは、先生(と、うつむく私たち全員)に向かって、ハッキリと言ったんです。

「すみません、できません。」

「(え…?)」

「私はフルタイムで働いていて、土日も出勤があります。物理的に不可能です。それに、この『誰かが犠牲になる』ことを前提とした決め方自体、もう無理があると思います。希望者制にするか、いっそ外部に委託するなど、システム自体を見直しませんか?」

…しーーーーーん。

さっきまでの「沈黙」とは、質の違う「沈黙」。

「空気」が、凍りつきました。

「寒い」とか「重い」とかじゃない。「割れた」んです。

彼女がやったこと、分かりますか?

これは、単なる「役員拒否」じゃありません。

「お辞儀コミュニティ」に対する、**最大の「反逆」**です。

  1. 「みんな我慢してるんだから(Reciprocity=お互い様)」という暗黙のルールを、「私は無理(Individual=個人)」という理由で破ったこと。
  2. 「決まったことだから(秩序)」という空気を、「そもそも、そのシステムがおかしい(正論)」で、真正面から破壊したこと。
  3. そして何より、「ごめんなさい…」と「うつむく(=消極的ペコっ)」ことで示していたはずの「共同体への所属(Identity)の意思」を、**顔を上げて「拒否」**したこと。

彼女は、「お辞儀」という名の「服従のサイン」を、一切、出さなかったんです。

その後の空気は、もう、最悪でした(苦笑)。

結局その場はうやむやになり、Aさんは「和を乱す、自分勝手な人」というレッテルを貼られました。

「絆」を維持するための「お辞儀システム」は、異物を排除しようと、強力な「圧力」を彼女に向けたんです。

…でもね。

これで終わりじゃなかった。

その日の帰り道。

私を含めた何人かのお母さんが、コソコソと(!)Aさんのところに集まったんです。

「…あの、さっきは言えなかったけど、私もそう思う」

「よく言ってくれた。システム、絶対おかしいよ」

「私もフルタイムだから、毎年ヒヤヒヤしてた…」

そう。

私たちは、うつむいて「ペコっ」とすることで、「空気を守る」ことを優先し、自分の本音を殺していたんです。

Aさんの「反逆」は、確かに「摩擦」と「分断」を生みました。

でも同時に、「あなたも、そう思っていたの?」という、今まで「お辞儀」の裏に隠されていた「本当の価値観」を、私たちに突きつけました。

それは、Tさんが「手を振る」という異文化に触れて、「『敬意』って何だっけ?」と考えさせられたのと同じ。

Aさんの「正論」という異議申し立てに触れて、私たちは、「『絆』って、みんなで黙って我慢することだっけ?」と、問い直すことになったんです。


お辞儀をしない「異物」の登場。

それは、一見すると「カオス」です。秩序が乱れ、空気が凍る。

でも、それと同時に、それは私たち「お辞儀コミュニティ」の住人にとって、自分たちの「当たり前」を、外から見つめ直す、絶好のチャンスでもある。

「Beyond the Bow(お辞儀の先にあるもの)」…私たちが「ペコっ」とすることで、本当に伝えたかったはずの「尊敬」や「感謝」の気持ち。

その「表現方法(お辞儀)」自体が、いつの間にか「目的」になって、中身(価値観)が置き去りにされていませんか?

「みんなやってるから」っていう「圧力」に、自分を殺していませんか?

「異文化」や「新しい世代」という「風」は、その「ぬるま湯」をかき回し、私たちに「目を覚ませ!」と、言っているのかもしれません。

さて、物語もいよいよ大詰め。

「起」で日常のお辞儀を、「承」で共同体の絆と圧力を、「転」でそのシステムの摩擦と変化を見てきました。

じゃあ、最終的に、この「お辞儀」という文化、そしてその先にある「日本人の心」は、これからどうなっていくんでしょう?

そして、私(ワタコ)は、一人の主婦として、この文化とどう付き合っていきたいと思っているのか。

次回、最終回「結」。

私の「結論」を、お話ししたいと思います!

お楽しみに!

私たちは、それでも「ペコっ」とし続ける。~その『お辞儀』に、あなたの『心』はありますか?~

ここまで、お辞儀文化の「イイところ(絆)」と「ヤバいところ(圧力)」を、散々書き連ねてきました。

じゃあ、結論。

「もう、こんな面倒くさい『ペコっ』なんて、やめちゃえばいいじゃん!」

…となるかというと、私は、そうは思わないんです。

きっと、私たちは、これからも「ペコっ」とし続けます。

私も、明日もあさっても、ゴミ出し場で「ペコっ」とするし、スーパーのレジで「ペコっ」と会釈するのを、やめないでしょう。

なぜか?

それは、「転」で見たような「摩擦」や「息苦しさ」を差し引いてもなお、

「お辞儀」というこの非言語コミュニケーションが、私たち日本人にとって、あまりにも強力で、便利で、そして…『美しい』と感じる『人生術』だからです。

フックにあった「Spiritual Connection(精神的なつながり)」。

私たち日本人は、言葉で「I respect you」とか「I appreciate you」とハッキリ伝えること以上に、**「察する(Sassuru)」こと、「思いやる(Omoiyaru)」**ことで、相手との「精神的なつながり」を確認しようとする文化を、何百年もかけて熟成させてきました。

「(あ、この人、今、急いでるな。道を譲ろう)」→ ペコっ(お先にどうぞ)

「(あ、今、重い荷物を持つのを手伝ってくれた。言葉で礼を言うより先に感謝を伝えたい)」→ ペコっ(ありがとう)

「(あ、今、私の子どもがご迷惑を…!)」→ ペコっ(本当にごめんなさい!)

この、「言葉」が追いつかない、あるいは「言葉」にすると角が立つような、繊細な感情のキャッチボール。

それを、一瞬の「ペコっ」という動作で、お互いに「送受信」できる。

そして、その「受信」が確認できた時(=相手も「ペコっ」と返してくれた時)、私たちは「あ、この人とは『繋がれた』」と、ものすごい「安心感」を得るんです。

これこそが、フックの「Communal Bonds(共同体の絆)」の正体。

お互いに「察し合う」ことで得られる、あの独特の「阿吽(あうん)の呼吸」のような心地よさ。

この「人生術」を、私たちは、たぶん手放せない。

…でも、時代は変わりました。

「承」で書いたような「PTAの息苦しさ」は、なぜ生まれたのか。

それは、「察し合う」文化が、いつの間にか「『察して』我慢する」文化にすり替わってしまったからです。

「みんな大変なんだから、あなたも我慢すべき(Reciprocity=お互い様という名の圧力)」

「和を乱すべきではない(Identity=所属のための同調)」

その「空気」が、私たちを縛り付けていた。

そこへ、「転」で書いた「新しい風」が吹いたわけです。

フルタイムで働くAさんが「私は無理だ。システムがおかしい」と、「言葉」で空気を破った。

海外からのご近所さんが「Hi!」と、「笑顔」で空気を変えようとした。

彼らが教えてくれたのは、

「『察する』だけじゃ、もう限界だ」

ということ。

かつての日本は、みんなが同じような生活(専業主婦がいて、地域の行事に参加できて)をしている「同質性の高いムラ社会」でした。

だから、「察し合い」と「お辞儀」だけで、なんとかなった。

でも、今は?

働くお母さんもいれば、介護をしている人もいる。海外から来た人もいる。価値観はバラッバラ。

そんな「多様性の時代」に、昔ながらの「『察して』我慢しろ(ペコっ)」というシステムは、もう、完全に「バグ」を起こしてるんです。

じゃあ、どうすればいいか?

私は、こう思うんです。

これからの「お辞儀」は、「言葉」とセットで使っていくべきだ、と。

「察する」という日本の素晴らしい文化(=お辞儀の心)は、大切にする。

でも、**「察してもらえない」こと、「察しきれない」ことがあるのが『当たり前』**という前提に立つ。

そして、

「ごめんなさい、今日は仕事があるので、その会合は出られません(ペコっ+言葉)」

「いつも役員、ありがとうございます。私は〇〇なら手伝えそうですが、どうですか?(ペコっ+言葉)」

と、**自分の「意志」や「事情」を、ちゃんと「言葉」にして、お辞儀に「添える」**んです。

「転」のAさんがやったのは、まさにこれです。

彼女は「お辞儀コミュニティ」を破壊したんじゃない。

「無言の圧力(ペコっ)」を、「意志ある言葉(ペコっ)」に、アップデートしようとしたんです。

あの、Tさんと外国人旦那さんが「Hi!」と「会釈」をハイブリッドさせたように。

「Beyond the Bow(お辞儀の先にあるもの)」…

その「尊敬」や「感謝」の心を、

「お辞儀」という『形』だけに押し込めて、「察してよ!」と相手に丸投げする時代は、もう終わり。

「お辞儀」という『形』に、「言葉」という『中身』をちゃんと乗せて、相手に手渡す。

これからの私たちに必要なのは、そういう「新しいお辞儀」なんだと思います。

だから、私はこれからも「ペコっ」とします。

でも、それは「空気を読んで、黙るため」の「ペコっ」じゃない。

「あなたの配慮に、心から感謝します!」

「ごめんなさい、でも私はこう考えます!」

という、**私自身の「心」を伝えるための、前向きな「ペコっ」**でありたい。

そう、強く思っています。


<海外で頑張る、皆さんへ>

さて、この長い長い「お辞儀」の話。

今、海外で暮らしている皆さんには、どう響いたでしょうか。

皆さんは、日本の「お辞儀コミュニティ」から離れて、「Hi!」とハグと握手と、そして「言葉」で、自分の気持ちをハッキリ伝え合う文化の中で、毎日を戦っているんだと思います。

それは、あの「PTAの空気」に比べたら、なんて風通しがいいんだろう!と、思うこともあるかもしれません。

でも、もしかしたら、時々、寂しくないですか?

言わなくても「察して」くれて、そっと手を差し伸べてくれるような、あの日本の「お互い様」の感覚が、恋しくなったりしませんか?

皆さんは、日本的な「察する心」と、海外の「言葉にする力」の、両方を知っている、**最強の「ハイブリッド世代」**です。

もし、いつか日本に帰ってきたり、日本のコミュニティと関わったりする時が来たら。

そこで行われている「ペコっ」の嵐を見て、

「うわっ、面倒くさい…」

と思うんじゃなくて、

「あ、今、この人たちは『絆』を確認しようとしてるんだな」

「あ、これは『圧力』になっちゃってる、危ない『ペコっ』だな」

と、その「Beyond the Bow(裏側にある心)」を、面白がって観察してみてほしいんです。

そして、皆さんが持つ「言葉にする力」で、その「空気」に、新しい風を吹き込んであげてほしい。

「お辞儀」の素晴らしい「心」は残したまま、その「息苦しい形」だけを変えていく。

それができるのは、もしかしたら、一度「外」に出た皆さんだけなのかもしれません。

お辞儀は、「終わり」の挨拶じゃありません。

「あなたとの関係を、これからも続けたいです」という、「始まり」の合図です。

この長いブログを、ここまで読んでくれて、本当にありがとう。

(と、私は今、PCの前で、皆さんに深々と「ペコっ」としています(笑))

また次のテーマで、お会いしましょう!

ワタコでした!

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