朝の味噌汁と通知音のミスマッチ ― 言葉に頼らない世代と、空気を読みすぎる私
日本の朝は、包丁がまな板を叩くトントンという音と、出汁の香りで始まります。
ここ、神奈川県の少し郊外にある私の家でも、毎朝6時にはキッチンに立ち、夫と、そして大学生になる娘のためにお弁当を作るのが日課になっています。
「今日も寒いねぇ」
独り言のように呟きながら、卵焼きを焼いていると、リビングのソファに座っている娘のスマートフォンから、短く、でも軽快な通知音が鳴り響きました。まだ寝ぼけ眼で画面を見つめる娘。その指先は、私がネギを刻む速度よりも遥かに速く動き、画面をスクロールしています。
「おはよう、何見てるの?」
私が声をかけると、娘は画面から目を離さずに、「んー、リール。友達がメンションしてきた」とだけ答えました。
「メンション? 朝から?」
「うん、これウケるから見て」
差し出された画面には、海外の知らない誰かが、ただ無表情でコーヒーをこぼすだけの数秒の動画がループしていました。そこに添えられた文字は、言葉とも記号ともつかないスラングと、泣き笑いの絵文字が3つ。
正直、私には何が面白いのかさっぱり分かりませんでした。でも、娘は楽しそうです。
「これの何が面白いの?」と聞こうとして、私は言葉を飲み込みました。なぜなら、その瞬間の娘の顔が、私が若かった頃、親に内緒で深夜ラジオを聴いていた時の顔と少し似ていたからです。自分たちだけの世界、自分たちだけの言語。
海外に住む主婦の皆さんも、もしかしたら同じような経験があるのではないでしょうか?
我が子が、あるいは近所の若者が、スマートフォンという小さな箱を通じて、私たちが見えていない広大な「何か」と繋がっている感覚。そして、そこに自分が取り残されているような、少しの寂しさと焦り。
日本には古くから「空気を読む(Reading the air)」という文化があります。
言葉にしなくても相手の気持ちを察する、直接的な表現を避けて調和を保つ、というハイコンテクストなコミュニケーションです。私たちは、相手の眉の動かし方や、沈黙の間(ま)で、「No」なのか「Yes」なのかを感じ取ってきました。これは、島国である日本で円滑に社会生活を送るために発達した、ある種の生存戦略であり、美徳でもありました。
しかし、Z世代と呼ばれる彼らのコミュニケーションを見ていると、この「空気を読む」という能力が、全く別の次元で進化しているように感じるのです。
例えば、私の娘とのLINE(日本で主流のメッセージアプリ)のやり取りを見てください。
私が「今日は雨が降りそうだから、傘を持って行きなさいね。晩御飯は何がいい?」と、主語と述語がしっかりした文章を送るとします。
それに対する娘の返信は、一言。
「了解(スタンプ)」
あるいは、シュールな猫が踊っているGIF動画だけ。
最初は、「冷たいなあ」と思っていました。「もっと会話しようよ」と。
でも、よく観察していると違うんです。彼らは、膨大な情報の海の中で溺れないように、情報の「重さ」を極限まで削ぎ落としているのです。
テキストで長々と説明するのは、彼らにとって「重い」。まるで、着物を着て全力疾走しろと言われているようなものなのかもしれません。彼らにとっての「会話」は、言葉のキャッチボールというよりは、感情の「瞬間移動」に近いのです。スタンプ一つ、動画のリンク一つで、「今の私の気分はこれ!共有!」と、感覚そのものを投げ合っている。
これはある意味、日本的な「以心伝心(言葉を使わなくても心が通じ合うこと)」の究極系とも言えるのではないでしょうか?
ただ、そのスピードがあまりにも速く、使われるツールが私たちの知らないものであるがゆえに、私たち親世代は「無視された」「軽視された」と感じてしまうのです。
最近、日本でも「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉が流行しています。かけた時間に対する満足度を重視する考え方です。映画を倍速で見たり、サビだけ聴いたりする若者の行動を指して使われます。
私たち世代からすると、「過程を楽しむ情緒がない」と嘆きたくなりますよね。
手間暇かけて出汁をとった味噌汁よりも、インスタントで十分だと言われているような気がして。
でも、本当にそうでしょうか?
先日、こんなことがありました。
私が仕事で落ち込んで帰ってきた夜のことです。リビングでいつものようにスマホを見ていた娘が、私の顔を見るなり、何も言わずに私のお気に入りのコンビニスイーツをテーブルに置いたのです。
「……ん」
と言って、またスマホに戻る娘。
そこには、「お母さん、大丈夫? 何があったの? 話聞くよ?」という言葉は一切ありませんでした。でも、その「ん」の一言と、スイーツの選択(私が好きな抹茶味でした)には、言葉以上の情報量が詰まっていました。
「気にかけてるよ」
「元気出して」
「深い話はしなくていいから、とりあえず糖分とりなよ」
その時、私はハッとしました。
彼女たちは、言葉を捨てたわけではない。言葉よりも「リアルな感覚」や「その場のバイブス(雰囲気)」を、もっと繊細なアンテナで受信し、発信しているのだと。
私たちが「空気を読む」ために必死で相手の顔色を伺い、建前(Tatemae)という鎧を着て社会に出ていたのに対し、彼らはデジタルの世界で、もっと直感的に、もっと動物的に、互いの「本音」の匂いを嗅ぎ分けているのかもしれません。
海外の方から見ると、日本人は「本音と建前」を使い分けるミステリアスな国民に見えるかもしれません。確かに、私たちは社会の潤滑油として「建前」を重んじてきました。綺麗な言葉で包んで、角が立たないようにする。
しかし、日本のZ世代は、この「建前」を極端に嫌います。彼らが好むのは「Authenticity(真正性、本物であること)」です。
作り込んだインスタグラムの写真よりも、加工なしの「BeReal」や、寝起きのボサボサ頭でのTikTokライブを好む。
「盛っている(誇張している)」ことや「必死さ」は、彼らにとって一番かっこ悪いことなのです。
ここで一つの矛盾が生まれます。
「察する文化」の国で育った私たちが、デジタルネイティブである彼らとどう向き合うか。
私たちは、彼らと仲良くなりたくて、必死に彼らの言葉を使おうとします。
「それな!(That’s true!)」とか「草(LOL)」とか、若者言葉を無理して使ってみたり。
でも、娘の反応は冷ややかです。「ママ、それ無理してるからやめたほうがいいよ。痛い(Cringe)から」。
ショックですよね。歩み寄ろうとしたのに。
でも、彼らの視点に立てば当然なんです。なぜなら、それは「Authenticity(本物)」ではないから。お母さんが無理して若作りしている、その「パフォーマンス」自体が、彼らの美学に反するのです。
彼らは、私たちが思う以上に、私たちの「嘘」や「無理」を見抜く目を持っています。それは、膨大なフェイクニュースや加工画像の中で育ってきた彼らが身につけた、ある種の防衛本能なのかもしれません。
私がキッチンで卵焼きを巻き終わり、お弁当箱に詰めている時、ふと思いました。
私たちがすべきなのは、彼らの真似をして絵文字を多用することでも、無理にTikTokを踊ることでもないのかもしれない。
もっと根本的な、日本の主婦として、母として、そして一人の人間としての「在り方」を見直す時期に来ているのではないか。
日本には「和敬清寂(わけいせいじゃく)」という茶道の言葉があります。
お互いを敬い、心を清らかに保ち、何事にも動じない心を持つこと。
Z世代とのコミュニケーションに必要なのは、まさにこの精神ではないでしょうか?
デジタルの嵐の中で目まぐるしく変化する彼らのコミュニケーションスタイルを、ただ遠くから「最近の若い子は」と批判するのではなく、かといって無理に同化しようと若作りするのでもなく。
ただ、どっしりと構えて、彼らの発する微細なシグナルを、温かい味噌汁のような包容力で受け止めること。
ここから先の話では、そんなZ世代特有のコミュニケーションツール(DMやミームなど)が持つ本当の意味を、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。そして、私たち大人が、彼らの世界にお邪魔する時、どのような「手土産(マナー)」を持っていけばいいのか。私の失敗談と、そこから得た小さな気づきをシェアさせてください。
不思議なことに、デジタルの最先端を走る彼らの行動原理を紐解いていくと、意外にも日本の古き良き精神性にたどり着くことがあるのです。
「え、それって昔のおばあちゃんの知恵と同じじゃない?」
そんな発見が、皆さんにもきっとあるはずです。
では、冷めないうちに味噌汁をよそって、続きをお話ししましょうか。
「タイパ」と「わびさび」の意外な共通点 ― 日本的沈黙とデジタルの行間
さて、朝のお弁当作りを終えて、娘が大学へ出かけた後の静かなリビング。
私はふと、先ほどの娘とのやり取りを思い出して、スマホを手に取りました。
「ねえ、今日の夕飯、久しぶりに煮物にしようかと思うんだけど」
そう打とうとして、指が止まります。
「あ、電話しちゃおうかな」
冷蔵庫の中身を確認したかったので、テキストを打つより早いと思い、通話ボタンを押しました。
『……』
呼び出し音は鳴り続けます。出ません。
数分後、LINEの通知がピコン。
「なに? 今電車。電話ムリ」
これです。これなんですよね。
海外のママ友たちと話していても、よくこの話題になります。「なぜ彼らは電話に出ないのか!」。
私たちにとって、電話は「声のトーンで感情が伝わる、温かいツール」でした。でも、Z世代にとっての電話は、少し大袈裟に言えば「テロ行為」に近い感覚のようです。
日本には今、「テルハラ(Telephone Harassment)」という言葉さえあります。相手の時間を予告なく奪い、拘束する行為だと捉えられているのです。
最初は私も「冷たいわねえ、親の声を聞くのがそんなに嫌?」と拗ねていました。
でも、ある時、娘に言われた一言でハッとしたのです。
「ママ、電話ってさ、相手の都合を無視して土足で部屋に入り込むようなもんだよ」
「土足で入り込む」。
この言葉を聞いた時、私は日本の伝統的な家屋の玄関を思い出しました。
日本人は、家の中(ウチ)と外(ソト)を明確に区別します。玄関で靴を脱ぐのは、外の穢れを持ち込まないためであり、内側の聖域を守るための儀式です。
彼らにとって、自分のスマートフォンという空間は、極めてプライベートな「聖域(サンクチュアリ)」なのです。そこに、事前の約束もなく「電話」という土足で踏み込むことは、非常に無作法なことなのかもしれません。
そう考えると、彼らがテキストコミュニケーション(DM)を好む理由が見えてきます。
テキストなら、相手が好きなタイミングで読み、好きなタイミングで返せる。これは、相手の「時間」と「空間」を尊重する、究極の「配慮」とも言えるのではないでしょうか?
日本人が大切にしてきた「親しき中にも礼儀あり」という精神が、デジタルの世界では「電話をかけない」という形で現れているとしたら……少し考えすぎでしょうか?(笑)
デジタル時代の「俳句」と「わびさび」
次に、彼らの言葉の使い方に注目してみましょう。
私たち世代(特に日本のバブル世代やお母さん世代)は、メールやLINEで、これでもかと絵文字を使います。
「今日はいい天気だね!☀️ お洗濯日和!🧺✨ ランチ楽しみにしてるね😋🍴💕」
このように、文章の内容を絵文字で補足し、画面を華やかにするのが「マナー」だと思っていました。文字だけだと、怒っているように見えるから。
しかし、Z世代の娘から見ると、これは「おばさん構文(Old people syntax)」と呼ばれる、少し痛々しいものらしいのです。
彼女たちのやり取りを見せてもらうと、驚くほどシンプル。
「今日天気いい」
「それな」
「(変な顔の猫の画像)」
以上。
句読点すらありません。絵文字も、使うとしても文脈とは全く関係のない、シュールなものを一つだけ。
先日、娘から送られてきたメッセージには、私が失敗した料理の写真と共に、骸骨(💀)の絵文字が一つだけ添えられていました。
「えっ、死ぬほど不味いってこと!?」と焦る私に、娘は呆れて言いました。
「違うよ、これ『死ぬほど笑える』って意味の『草(LOL)』代わりだよ」
……難しい。あまりにも難解です。
でも、ふと思いました。
この「極限まで言葉を削ぎ落とし、一つのアイコンや画像で複雑な感情を伝える」というスタイル。これって、日本が世界に誇る**「俳句(Haiku)」**の世界に通じませんか?
古池や 蛙飛び込む 水の音(松尾芭蕉)
このわずか17音の中に、静寂、波紋、季節の移ろい、そして人生の儚さまでを込める。
読み手(受信者)の想像力に委ねることで、言葉以上の情景を共有する。
Z世代が送り合う「ミーム(Mememe)」や、文脈のないシュールなスタンプは、現代の俳句なのかもしれません。
彼らは、説明過多なコミュニケーションを「野暮(Yabo – unrefined)」だと感じているのです。
全てを言葉で説明し尽くすのは、粋じゃない。
言わなくても分かるよね? この画像一枚で、私の今の「バイブス」を感じ取ってよね?
それは、日本文化の根底にある**「余白の美」や、あえて不完全なものに美を見出す「わびさび(Wabi-Sabi)」**の精神と、驚くほどリンクしているように思えてなりません。
完璧じゃないから、愛おしい ― 「映え」の終焉
そしてもう一つ、Z世代とのコミュニケーションで欠かせないキーワードが**「Authenticity(真正性)」**です。
数年前までは、インスタグラムで「いかに完璧でキラキラした生活を見せるか(映え)」がすべてでした。しかし、今のZ世代はそれを「フェイク」だと感じ始めています。
娘がよく見ているTikTokの動画は、プロが撮影したような綺麗な映像ではありません。
部屋の隅に洗濯物が積まれたままの状態で、スッピンの女の子が今日あった嫌なことを早口で喋っているだけの動画。あるいは、失敗した料理を笑い飛ばしている動画。
そういうものに、何万もの「いいね」がついているのです。
日本には古くから、完璧な左右対称よりも、少し歪んだ茶碗や、苔むした石に美しさを感じる感性があります。
完璧なものは緊張を強いるけれど、不完全なものは心を緩め、共感を呼ぶ。
彼らは無意識のうちに、デジタルの世界にもこの「人間味(Humanity)」や「弱さ(Vulnerability)」を求めているのです。
私たち親世代が、若者と仲良くなろうとしてやりがちな失敗があります。
それは、「完璧な大人」として振る舞おうとすること。
「最近の流行りはこれなんでしょ? 知ってるわよ」と知ったかぶりをしたり、若者言葉を無理に使って「話のわかるお母さん」を演じたり。
これは、彼らにとって一番の「興ざめ(Turn off)」です。なぜなら、そこには「Authenticity」がないから。
実は、私が娘との距離を縮められたきっかけも、私の「失敗」でした。
ある日、私は娘に送るはずの「あー、今日の夕飯作るの面倒くさいなぁ。ピザ頼んじゃおうかな」という愚痴LINEを、間違えて娘の彼氏(まだ会ったこともない!)を含むグループチャットに誤爆してしまったのです。
顔面蒼白になりました。
「完璧な母親」の仮面が剥がれ落ちた瞬間です。
でも、帰ってきた娘は、怒るどころかお腹を抱えて笑っていました。
「ママ、あれ最高すぎ。彼氏も『お母さん面白い人だね』って言ってたよ。あ、これTikTokのネタにしていい?」
私が必死に取り繕っていた「良い母親像」よりも、だらしない本音の漏れた「リアルな私」の方が、彼らにはずっと魅力的なコンテンツであり、信頼できる人間に見えたようなのです。
彼らは「演出」を見抜きます。でも、「人間らしい失敗」や「正直な弱音」には、驚くほど寛容で、優しいのです。
15秒に込められた「一期一会」
最後に、彼らが愛する「ショート動画」について。
TikTokやYouTubeショートなど、数秒から1分程度の動画を、彼らは延々と見続けます。
私たちは「そんなに次々と飛ばして見て、何が頭に残るの?」と思いがちです。
でも、彼らの指先の動きを見ていると、ある種の茶道の精神を感じることがあります。
茶道には**「一期一会(Ichi-go Ichi-e)」**という言葉があります。
「この出会いは一生に一度きりのものだから、その瞬間を大切にしよう」という意味です。
デジタルの海には、無限の情報が溢れています。その中から、自分の感性に「ピタッ」とハマる瞬間、自分の心が震える「15秒」に出会うために、彼らはすごいスピードでスクロールを続けているのかもしれません。
彼らにとってのスマホは、ただの暇つぶしの道具ではなく、自分自身のアイデンティティを確認するための、終わりのない旅の道具なのです。
私たちが縁側で庭の四季を眺めていた時間を、彼らは6インチの画面の中で過ごしています。
見ている景色は違うけれど、「何かを感じたい」「誰かと共感したい」という心の渇きは、明治時代の人間も、令和のZ世代も変わらないのではないでしょうか。
さて、こうして彼らのコミュニケーションの「行間」を読んでみると、私たち大人が取るべき戦略が見えてきませんか?
無理に若者のフリをする必要はない。完璧である必要もない。
ただ、日本の母ちゃんらしく、「素(す)」のままであればいい。
続く「転」では、そんな私が実際に体験した、Z世代との「衝突」と、そこから生まれた思いがけない「和解」のエピソードをお話しします。
完璧な卵焼きを作ろうとしていた私が、形崩れの卵焼きを食卓に出した時、一体何が起きたのか。
そこには、私たち世代が忘れていた、大切な「人生のスパイス」が隠されていました。
「映え」の呪縛が解けた日 ― 崩れた卵焼きと、娘の「いいね」
「お母さん、それ『イタい』よ」
私が娘との距離を縮めようと、流行りのK-POPアイドルのメイクを真似て、ちょっと若作りした自撮り写真を家族のグループLINEに送った時のことです。
娘からの返信は、冷ややかな一言でした。
ショックでした。
日本の母親には、どこか「完璧でなければならない」という強迫観念があります。
朝は誰よりも早く起きて、栄養バランスの取れたお弁当を作る。家の中は常に片付いている。そして、いつまでも若々しく、笑顔でいる。
これは、日本社会が長年女性に求めてきた「良妻賢母(Ryosai Kenbo – Good Wife, Wise Mother)」という古い価値観の呪縛かもしれません。
さらに悪いことに、SNSの普及がそれに拍車をかけました。Instagramを開けば、まるで雑誌の切り抜きのような「丁寧な暮らし」を発信する主婦たちの投稿が溢れています。
「私も、ちゃんとしなきゃ」
「娘に、素敵なママだと思われたい」
そんな思いから、私は知らず知らずのうちに、自分の生活を「演出(Perform)」していたのです。
お弁当も、味より見た目重視の「キャラ弁(Character Bento)」を作ってみたり。娘の話に合わせようと、ネットで調べた若者言葉を不自然に使ってみたり。
でも、頑張れば頑張るほど、娘の反応は薄くなっていきました。
「ふーん」
「すごいね(棒読み)」
Z世代の彼らは、生まれた時からインターネット広告や、大人の作った「マーケティング戦略」に晒されてきました。だからこそ、「狙っている感」や「嘘くささ」を嗅ぎ分ける能力が、探知犬並みに鋭いのです。
私が一生懸命作り上げていた「素敵なママ」像は、娘から見れば、ただの「痛々しいフェイク」だったのです。
そんなある日のことです。
その週は、私のパートの仕事が忙しく、さらに夫の実家の用事も重なり、心身ともに限界でした。
朝、いつものようにキッチンに立ちましたが、めまいがするほど眠い。
手元が狂い、フライパンの上で卵焼きが見るも無残に崩れてしまいました。いつもなら黄色く美しく巻かれるはずの卵が、焦げ目のついたスクランブルエッグの塊のようになってしまったのです。
普段なら、作り直します。あるいは、冷凍食品で誤魔化します。
でも、その日はもう気力が残っていませんでした。
「もう、これでいいや……」
私は半ば自棄(ヤケ)になって、その崩れた卵と、昨晩の残り物の茶色い煮物を、適当にご飯の上に投げ込みました。彩りも何もない、まさに「茶色い弁当」です。
娘に渡す時、私は罪悪感でいっぱいでした。
「ごめん、今日はお弁当、ハズレだから。食堂でパンでも買って食べて」
そう言って、逃げるように送り出しました。
その日一日、私は落ち込んでいました。
「あんな恥ずかしいお弁当を持たせてしまった」
「母親失格だ」
日本の母親たちが陥りやすい、自己否定のループです。
しかし、夕方。娘が帰宅して、意外なことが起きました。
玄関に入るなり、娘が言ったのです。
「ママ、今日のお弁当、マジで最高だったんだけど」
耳を疑いました。
「え? 嫌味?」
「違うよ。あの卵焼き、味が濃くて美味しかったし。ていうか、映えとか気にしてない感じが、逆に『実家(Home)』って感じで安心した」
そう言って、娘はスマホの画面を私に見せてくれました。
そこには、写真共有アプリ「BeReal」の投稿画面がありました。Z世代に人気の、フィルター加工ができない、ありのままの日常をシェアするアプリです。
娘は、あのみっともない「崩れた卵焼き弁当」をアップしていたのです。
キャプションには、こう書かれていました。
「ママ限界突破w でもこの卵焼きが世界一うまい。お疲れ」
その投稿には、娘の友達からたくさんのリアクションがついていました。
「わかりみが深い(Totally relatable)」
「こういうのが一番うまいんだよね」
「お母さん、推せる(Respect)」
涙が出そうになりました。
私が必死に取り繕って「完璧」を演じていた時は見向きもしなかった娘やその友達が、私が一番隠したかった「ダメな部分」「弱さ(Vulnerability)」をさらけ出した瞬間に、共感し、肯定してくれたのです。
ここで私は、日本のある伝統的な美意識を思い出しました。
**「金継ぎ(Kintsugi)」**です。
割れてしまった陶器を、漆と金粉で修復する技法。傷を隠すのではなく、傷を「歴史」として受け入れ、金で彩ることで、元の器よりも美しい新たな芸術として愛でる文化です。
Z世代が求めているコミュニケーションは、まさにこの「金継ぎ」ではないでしょうか?
彼らは、傷のないピカピカの新品(加工されたSNSの写真や、完璧な建前)には興味がありません。
彼らが心惹かれるのは、ひび割れや歪み(失敗や弱音、人間臭さ)があり、それを隠さずに堂々と見せる姿勢なのです。
「お母さん、無理してたんだね」
その夜、娘と一緒にキッチンで洗い物をしながら、初めて本音で話せた気がします。
「最近、若者ぶってて痛かったでしょ?」と私が聞くと、娘は笑いながら頷きました。
「うん、めっちゃ痛かった。ママはママのままでいいじゃん。昭和の頑固オヤジみたいなとこも含めてさ、それがリアルだし」
海外の皆さん、「脆弱性(Vulnerability)」という言葉は、少しネガティブな響きがあるかもしれません。「弱さ」を見せることは、攻撃される隙を作ることだと。
特に、私の世代やそれ以上の世代にとって、弱みを見せることは「恥(Shame)」でした。日本では「武士は食わねど高楊枝(侍はお腹が空いていても楊枝をくわえて満腹のフリをする)」という言葉があるくらい、やせ我慢が美徳とされてきました。
しかし、デジタルネイティブである彼らにとって、弱さを開示することは「信頼の証」であり、最強の「コネクションツール」なのです。
「私、今しんどいんだよね」
「これ、失敗しちゃった」
そう言える大人は、かっこ悪いどころか、彼らにとって「信頼できる(Authentic)」存在として映ります。
私たち大人がZ世代とコミュニケーションを取るための最大の戦略。
それは、**「鎧(よろい)を脱ぐこと」**でした。
若者の流行語を勉強するよりも、TikTokのダンスを覚えるよりも、もっと効果的な方法。
それは、自分の「弱さ」や「ダメなところ」を、ユーモアを持ってシェアすること。
「お母さん、今の流行り全然わかんないから教えてくれる?」と素直に白旗をあげること。
私が「完璧な母」を辞めた日、娘との間には、新しい、そしてとても居心地の良い「風」が吹き始めました。
それは、互いの「不完全さ」を許し合う、とても優しい風です。
まるで、嵐のあとに空気が澄み渡るように。
私の「崩れた卵焼き」事件は、我が家のコミュニケーションにおけるターニングポイントとなりました。
さて、物語はこれで終わりではありません。
最後に「結」として、このデジタル時代において、私たちアナログ世代がどのように「お茶の間(リビングルーム)」の絆を再構築していけばいいのか。
昭和の知恵と令和のツールを融合させた、これからの家族の幸せな形について、私の提案をまとめさせていただきます。
「え、それって日本独自の考え方?」と思うような、でも世界中の家庭で使える「魔法」についてお話ししますね。
デジタル時代の「お茶の間」再構築 ― 昭和の知恵と令和のツールの共存術
長い旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。
「起」で娘のスマホ中毒に悩み、「承」でその裏にある日本的な美意識(わびさび・余白)を発見し、「転」で自分の完璧主義(鎧)を脱ぎ捨てて和解する……。
こうして振り返ってみると、私たちが直面しているのは単なる「世代間ギャップ」ではなく、新しい時代の「愛の伝え方」の模索だったのだと気づかされます。
最終章となる今回は、私たちアナログ世代の主婦が、デジタルネイティブのZ世代とどのように「新しい家族の形」を築いていけばいいのか。
私が勝手に名付けた**「デジタルお茶の間(Digital Ochanoma)」**構想についてお話しさせてください。
「お茶の間」は消滅したのか?
かつて、日本の家庭には「お茶の間」がありました。
ちゃぶ台(低いテーブル)を囲み、家族全員が同じテレビ番組を見て、同じタイミングで笑い、みかんを食べる。そこには、一つの「中心」があり、強制的な「共有」がありました。
しかし今、リビングを見渡すと、夫はタブレットでニュース、私はドラマ、娘はスマホで動画。全員がバラバラの方向を見ています。
一見すると、家族の絆が分断されたように見えるかもしれません。
でも、本当にそうでしょうか?
娘がスマホを見ながら「ねえ、これ見て」と私に画面を向けてくる瞬間。
私が送ったLINEのスタンプに、娘が「既読」をつける瞬間。
形は変わりましたが、そこには確かな「つながり」があります。
私は思うのです。無理にスマホを取り上げて、全員で同じテレビを見る必要はないのだと。
大切なのは、物理的に同じ方向を見ることではなく、デジタルの海を自由に泳ぎ回っている彼らが、ふと疲れた時に戻ってこられる「港(Port)」として、リビングが存在することです。
明日からできる「デジタル手土産」のすすめ
では、具体的にどうすればいいのか。私が実践している小さな魔法があります。
それは、**「デジタル手土産(Digital Omiyage)」**です。
日本には、どこかに出かけたら必ず「お土産」を買って帰る文化がありますよね。
「これ、美味しそうだったから」「これ、あなたが喜びそうだったから」。
その気持ちを、デジタル上で行うのです。
以前の私は、LINEを「業務連絡」か「小言」のために使っていました。
「何時に帰るの?」「お風呂洗いなさい」。
これでは、娘が通知をオフにしたくなるのも当然です。
今は違います。
例えば、散歩中に見つけた変な形の雲の写真を一枚、ポイッと送ります。
「見て、ゴジラみたいな雲」
あるいは、Twitter(X)で見かけた、娘が好きな猫の動画のリンクを無言で送ります。
そこに、「返信してね」とか「どう思う?」という圧力(Pressure)は一切かけません。
これは、日本における**「季節の挨拶」**のようなものです。
「暑中お見舞い申し上げます」というハガキが、本質的には「あなたのことを気にかけていますよ」というシグナルであるように。
意味のない写真や動画のシェアは、「あなたのことを思っているよ」という、最も軽い、でも温かいタッチ(接触)なのです。
Z世代の彼らは、この「意味のない共有」をとても愛します。
彼らは「目的のある会話(議論や説教)」には身構えますが、「感覚の共有」には驚くほどオープンです。
「ママ、この雲ウケるね」とスタンプが一つ返ってくれば、それで十分。
それが、現代版の「お茶の間での何気ない会話」なのです。
「間(Ma)」を恐れない ― デジタル・デトックスの強要よりも
もう一つ、私たち世代が学ぶべきは、日本文化の真髄である**「間(Ma – The Void/Space)」**の取り方です。
Z世代は、常に接続されています。だからこそ、彼らは逆説的に「一人になる時間」を強烈に求めています。
部屋に閉じこもって動画を見ている時、彼らは自分自身をメンテナンスしています。
それを「引きこもってないで出てきなさい!」とこじ開けるのは、茶室の静寂を大声で破るような無粋な行為です。
私は、娘がイヤホンをして自分の世界に入っている時は、完全に透明人間として扱います。
そして、娘がイヤホンを外してリビングに出てきた時、つまり「間」が明けた時にだけ、「お茶、飲む?」と声をかけます。
この「待つ」という姿勢。
これこそが、大人の余裕であり、彼らへの最大のリスペクトです。
「いつでもここにいるけど、あなたの時間は邪魔しないよ」
この安心感があるからこそ、彼らは安心してデジタルの世界へ冒険に出かけ、そして必ず帰ってくるのです。
完璧な母ではなく、愉快な「昭和の生き残り」として
私たち世代には、Z世代にはない武器があります。
それは、アナログな身体感覚と、失敗を含めた人生経験です。
AIやアルゴリズムは、彼らに「最適解」や「おすすめ」を提示してくれます。でも、「失敗の味」や「不合理な感情」は教えてくれません。
だからこそ、私たちが「崩れた卵焼き」を見せたり、スマホの操作にまごついたりする姿は、彼らにとって貴重な「人間味」のサンプルになります。
彼らと張り合う必要はありません。
「ママたちの時代はね、好きな人に電話するのに、相手のお父さんが出るかもしれない恐怖と戦いながら家の電話にかけたんだよ」
そんな話をすると、娘は目を丸くして「えー、無理ゲーじゃん! エモい!」と面白がります。
私たちは、彼らにとっての「生きた歴史博物館」であり、ちょっと愉快な「昭和の生き残り(Survivors of Showa)」でいいのです。
結びにかえて ― 食卓の湯気は、Wi-Fiよりも強い
最後に、海外で子育てを頑張る主婦の皆さんに伝えたいことがあります。
テクノロジーは進化し、コミュニケーションツールは変わりました。
「建前」は「Authenticity(リアル)」へ、「長文メール」は「スタンプ」へ、「電話」は「DM」へ。
けれど、変わらないものがあります。
それは、**「同じ釜の飯を食う(Eating from the same pot)」**ことの力です。
どんなにデジタル化が進んでも、画面の中の料理は食べられません。
温かい味噌汁の香り、炊きたてのご飯の湯気。
これだけは、私たちのアナログな手が作り出せる、最強のコンテンツです。
娘は相変わらず、食事中も時々スマホをチラ見します。
でも、私が作った唐揚げを口に入れた瞬間だけは、画面から目を離して「ん、うま」と呟きます。
その一瞬があれば、それでいい。
その「美味しい」という感覚の共有さえあれば、私たちは繋がっていられます。
Z世代のコミュニケーションは、一見すると暗号のようで、冷たく感じるかもしれません。
でも、その解読コードは、実は日本の古い知恵の中にありました。
言葉に頼りすぎない「以心伝心」。
不完全さを愛でる「わびさび」。
相手の領域を侵さない「間」の感覚。
私たち日本人が大切にしてきたこれらの精神は、デジタル時代にこそ、その真価を発揮するのかもしれません。
だから、自信を持ってください。
私たちは、遅れているのではありません。
一周回って、最先端のコミュニケーションの「極意」を知っているのですから。
さて、そろそろ夕飯の時間です。
今夜は、娘のリクエストでハンバーグです。
わざと形を不揃いにして、「手作り感(=Authenticity)」満載で出そうと思います。
そして、もし娘がその写真を撮って「ママのハンバーグ、形やばいw」と投稿したら、私はこっそり自分のスマホから「いいね」を押すつもりです。
それが、私たち親子の、新しい「お茶の間」の風景なのですから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
皆さんのご家庭にも、温かい「デジタルお茶の間」の和が広がりますように。

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