「見守る愛」の美学:現代ティーンの初恋と、私たち親が学ぶべき”距離感”の魔法

「あの子が恋?」:甘酸っぱい記憶と、親としての葛藤

こんにちは、日本のとある街で暮らしている主婦です。

今日も窓の外からは、近所の神社の木々が風に揺れる音が聞こえてきます。季節の移ろいを肌で感じながら、家族のためにお味噌汁の出汁をとる時間が、私にとっての朝の瞑想タイム。そんな穏やかな日常の中で、ふと訪れる「嵐」のような予感について、今日は皆さんとシェアしたいと思います。

突然ですが、皆さんにはこんな経験はありませんか?

朝、いつものようにお弁当を包んでいるとき、あるいは夕食の食卓を囲んでいるとき。ふと、子供の視線がどこか遠くを見ているような、あるいはスマートフォンを握る手がほんの少しだけ緊張しているような……そんな微かな違和感を感じた瞬間です。

「あの頃の、初めての恋心を覚えていますか? その胸の高鳴りを、今まさにあなたのティーンエイジャーが経験していると想像してみてください。ただし、現代社会の複雑さをすべて背負った状態で。」

まさに、この言葉通りなのです。

私の息子が中学生になった頃の話です。ある日、洗濯物を畳んでいると、彼の制服のポケットからクシャクシャになったレシートのような紙切れが出てきました。普段なら気にも留めないゴミですが、なんとなく「母の勘」とでも言うのでしょうか、胸がザワついたのを覚えています。

日本には「虫の知らせ(Mushi no shirase)」という言葉があります。直訳すると “Insects notification” ですが、これは「予感」や「直感」を意味する美しい表現です。体の中に住む虫が、これから起こることをこっそり教えてくれる……そんな感覚です。

その時、私の体の中の「虫」が騒ぎ出したのです。「あ、あの子、誰かを好きになったな」と。

私たち親にとって、子供が「恋愛」という新しいフロンティア(未開拓の地)に足を踏み入れる瞬間は、喜びと同じくらい、いや、それ以上に恐怖を感じるものではないでしょうか。

「傷ついたらどうしよう」

「勉強がおろそかになるんじゃないか」

「変なトラブルに巻き込まれたら……」

特に今の時代、私たちが経験したような、下駄箱に手紙を入れるような牧歌的な恋愛とは違います。SNSがあり、常時接続されたデジタルワールドがあり、人間関係はよりスピーディーで、複雑で、そして時に残酷です。海外に住む皆さんも、日本に住む私たちも、この「現代の複雑さ」に対する親としての不安は、きっと万国共通ですよね。

私がまだ学生だった頃、日本には「想い」を秘める美学がありました。和歌の時代から続く、直接言葉にせずに相手に気持ちを伝える文化。相手の背中を目で追ったり、借りた本にメッセージを挟んだり。そこにはゆっくりとした時間が流れていました。

でも、今の子供たちは違います。既読がついたかどうかに一喜一憂し、オンライン上のステータスで愛を測ろうとする。そんな姿を見ていると、親としてはどうしても「危なっかしい!」と叫びたくなるし、できることなら手取り足取り、転ばないように先回りして石をどけてあげたくなるものです。

しかし、ここで深く深呼吸をしましょう。

今日のこのブログ記事で私が伝えたいこと、それは「どうやって子供の恋愛を管理するか」というコントロールの話ではありません。むしろその逆です。

日本には「見守る(Mitoru)」という素晴らしい言葉があります。「見る(See)」と「守る(Protect)」が合わさった言葉ですが、これは単に監視することでも、過保護に守ることでもありません。

「相手が自力で成長しようとする姿を、静かに、しかし温かい眼差しで、いつでも助けられる距離感で支え続けること」を意味します。

植物を育てるときをイメージしてください。早く大きくなれと枝を引っ張れば、植物は枯れてしまいますよね。必要なのは、適切な日当たりと水、そして「伸びようとする力」を信じて待つ忍耐です。

このブログを通して、子供たちがこの新しいフェーズ(局面)に入ったとき、親である私たちがどのようにして彼らの感情的な成長のための「強くて優しい土台」になれるのか、日本の生活の知恵を交えながら一緒に考えていきたいと思います。

正直に言えば、私も最初はパニックでした(笑)。

息子がスマホを片手にニヤニヤしているのを見たとき、「誰? どこの子? 勉強したの?」と問い詰めたい衝動に駆られました。日本の母親は教育熱心な人が多いので、恋愛=勉強の妨げ、と短絡的に考えてしまいがちなんです。

でも、ふと我に返りました。

これは彼にとっての「人生の初舞台」なのだと。

私たちが経験したあの甘酸っぱい痛みや、天にも昇るような高揚感。それを奪う権利は親にはありません。むしろ、その経験そのものが、彼らが大人へと脱皮するための重要な儀式なのです。

日本には「可愛い子には旅をさせよ」という諺(ことわざ)があります。愛しているなら、あえて厳しい環境や未知の世界へ送り出しなさい、という教えです。恋愛という名の「旅」に出ようとしている我が子を前に、私たちは空港のゲートで手を振る見送り人のようなものかもしれません。

一緒に飛行機に乗っていくことはできないけれど、旅の安全を祈り、帰ってくる場所を温めておくことはできる。

この「起」のパートを書きながら、私自身も当時のドキドキを思い出しています。

不安ですよね。怖いです。

「まだ子供なのに」という思いと、「もう大人になりつつあるんだ」という寂しさが入り混じった、言葉にできない感情。

日本では、このような割り切れない感情を無理に白黒つけず、そのまま受け入れることを「曖昧さの受容」として大切にします。親自身の心の揺らぎもまた、自然なことなのです。

これから続く章では、そんな揺れ動く親心と向き合いながら、具体的にどうやって子供との信頼関係を築いていくか、日本の伝統的な精神性である「間(Ma)」や「和(Wa)」の考え方をヒントに紐解いていきます。

それは決して、厳格なルールで縛ることではなく、かといって放任することでもない、日本独自の絶妙なバランス感覚に基づいたアプローチです。

さあ、お茶でも飲みながら、リラックスして読み進めてください。

これは、子供のための話であると同時に、私たち親自身が「子離れ」という新しいステージへ進むための、心の整理の物語でもあるのですから。

あなたのティーンエイジャーが経験しようとしているその「嵐」は、彼らを強くするための恵みの雨かもしれません。そして私たち親にとっても、彼らを一人の人間として認め、新たな関係性を築くための素晴らしいチャンスなのです。

準備はいいですか?

それでは、複雑で愛おしい「現代の初恋」という荒波へ、日本の知恵という羅針盤を持って、一緒に漕ぎ出していきましょう。

「間(Ma)」を読む:コントロールしようとせず、心の土台を作る

さて、前回の記事で「あの子、もしかして恋してる?」という直感、つまり「虫の知らせ」についてお話ししました。

その直感が確信に変わったとき、私たち親が次に直面するのは、「で、どうするの?」という問題です。

ここで多くの親御さん(そして過去の私を含め!)が陥りがちなのが、「名探偵モード」になってしまうことです。

「相手は誰?」「クラスメイト?」「まさかSNSで知り合った人じゃないわよね?」「今日どこに行くの?」「何時に帰るの?」……。

心配だからこそ、質問攻めにしてしまう。海外のドラマを見ていても、ディナーテーブルで「昨日のデートはどうだった?」とオープンに聞くシーンをよく見かけます。オープンなコミュニケーションは素晴らしいことです。

でも、思春期の、特に初めての恋に戸惑っている子供にとって、親からの直球の質問は「尋問」にしか聞こえないことが多いのです。

ここで、日本の古い知恵である**「間(Ma)」**という魔法の概念をご紹介しましょう。

日本の美学「間(Ma)」とは何か?

「間(Ma)」という漢字は、門の中に日(太陽・光)が差し込んでいる様子を表しています(古い字体では「月」が使われていました)。これは単なる「何もない空間」や「空白」ではありません。

音楽で言えば、音と音の間にある静寂。

生け花で言えば、花のない空間が作り出す美しさ。

そして人間関係においては、**「言葉には出さないけれど、互いの気配を感じ合い、相手の領域を尊重する距離感」**を指します。

日本人は、沈黙を怖がりません。むしろ、沈黙の中にこそ多くの意味があると信じています。

子供が黙っているとき、それは「隠し事をしている」のではなく、「自分の心の中で感情を整理している最中」なのかもしれません。その大切な沈黙の時間を、私たちの質問で埋めてしまっては、彼らが自分自身で答えを見つけるチャンスを奪ってしまうことになるのです。

失敗から学んだ「北風と太陽」

正直にお話ししますと、私は最初、この「間」を完全に無視していました。

息子の様子がおかしいと気づいた当初、私は不安のあまり、彼をコントロールしようとしました。「変な子に引っかかってないか」を確認したくて、彼の部屋に入っては「最近どう?」としつこく聞き、彼のスマホが鳴るたびに「誰から?」と視線を送っていました。

結果どうなったと思いますか?

彼は心のシャッターをガラガラと下ろしました。「うるさいな、放っておいてくれよ!」という言葉とともに、リビングに寄り付かなくなってしまったのです。

まさにイソップ童話の「北風と太陽」です。私が心配という名の冷たい風を吹き付ければ吹き付けるほど、彼はコートの襟を立てて心を閉ざしてしまいました。

そこで私は、日本の伝統的なコミュニケーションスタイルである**「察する(Sassuru)」**と、この「間」を取り戻すことに決めました。

「察する」とは、言葉で説明されなくても、相手の表情や空気感から状況や気持ちを推し量ることです。

私が実践したのは、以下の3つのステップです。これは、海外に住む皆さんにもぜひ試していただきたい、日本流の「見守り術」です。

1. 「対面(Face to Face)」ではなく「横並び(Side by Side)」

日本では、大事な話をするときほど、正面切って向き合わないことがあります。

真正面から目を見て話すのは、時として相手に圧迫感を与えます。特に隠したい秘密(恋心)があるときはなおさらです。

代わりに、私は**「横並び」**の時間を増やしました。

例えば、キッチンで夕食の準備をしているとき。

私が野菜を切っている横で、息子がお茶を飲みに来る。

あるいは、車での送迎中。運転席と助手席、お互いに前を向いている状態。

視線がぶつからないこの「間」があるときこそ、子供はポツリポツリと本音を話しやすくなります。

「今日、学校でちょっと嫌なことがあってさ……」

そんな些細な一言が出たとき、私は包丁を止めて向き直ることはしません。そのまま野菜を切り続けながら、「そっか、それは大変だったね」と背中で聞くのです。

「聞いてるよ、でも干渉はしないよ」という空気感。これが、彼らにとっての安全基地(Safety Zone)を作るのです。

2. 「以心伝心(Ishin-denshin)」を信じて待つ

英語に訳すのが難しい日本語の一つに「以心伝心」があります。「心をもって心に伝える」、つまりテレパシーのように言葉なしで通じ合うことです。

これは超能力の話ではありません(笑)。

「親はいつでもあなたの味方だ」というメッセージを、言葉ではなく態度で示し続けることです。

私は、質問をするのを一切やめました。

その代わり、彼の好物である唐揚げを夕食に出し、お風呂を沸かし、居心地の良い家を維持することに徹しました。

「あなたのことを愛しているし、気に掛けている。でも、あなたのプライバシーも尊重しているよ」

この無言のメッセージが伝わるまでには時間がかかります。でも、信じて待つのです。

すると不思議なことに、空白(間)ができると、人はそれを埋めたくなるものです。

ある夜、私が洗濯物を畳んでいると、息子が何気なく寄ってきて言いました。

「ねえ母さん、女子ってどういうプレゼントもらったら嬉しいの?」

心の中でガッツポーズをしました! でも、表面上はあくまでクールに。「そうねえ、その子の好みにもよるけど……」と、普通の会話として返しました。

親が「待ちの姿勢」でいることで、子供は「自分のタイミング」で相談することができるのです。

3. 「腹芸(Haragei)」ではなく、クリアな愛情表現を

ここまで「言わない美学」について話してきましたが、一つだけ例外があります。

日本には「腹芸(Haragei)」という、直接的な言葉を避け、腹の底にある本音を隠しながら交渉する高度なコミュニケーション文化があります。しかし、親子関係、特に思春期の子供に対してこれはNGです。

「間」を置くことは、無関心でいることではありません。

「いつでもここにいるよ(I’m always here for you)」という愛情表現だけは、明確に、言葉にして伝える必要があります。

日本の家庭では「愛してる」と口に出すのは少し照れくさい文化がありますが、私はあえて言うようにしています。

「あなたの人生はあなたのもの。でも、もし困ったことがあったら、ママは世界で一番のあなたの応援団だからね」と。

土台となるのは「信頼」

この【承】のパートで私が伝えたい「生活の知恵」は、**「手は出さないけれど、目は離さない」**という日本の職人のような姿勢です。

陶芸家が、ろくろの上で回る粘土を見守るように。手を添えすぎれば形が崩れるけれど、離れてしまえば倒れてしまう。その絶妙な距離感こそが「間」です。

子供の初めての恋愛は、親子の信頼関係を再構築する絶好の機会です。

彼らが秘密を持つことを許してあげてください。

彼らが自分の世界を持つことを喜んであげてください。

その「秘密のスペース」こそが、彼らが大人としての自我を育てるための畑なのですから。

コントロール(支配)から、トラスト(信頼)へ。

親としての役割を「管理者」から「港(Harbor)」へとシフトさせる時期が来たのです。船はいつか港を出ていきますが、嵐が来ればいつでも戻ってこられる場所。そんな存在でありたいですよね。

しかし、ここで安心ばかりもしていられません。

私たちが「間」を大切にして見守っている間にも、現代社会の波は容赦なく彼らに押し寄せてきます。

かつての私たちの時代にはなかった、デジタルデバイスという「パンドラの箱」。

スマホの画面の向こう側で、彼らは一体何に直面しているのでしょうか?

続く【転】の章では、この現代特有の課題——SNS、即時の繋がり、そしてデジタル時代の恋愛トラブル——に、古き良き日本の精神性がどう立ち向かえるのか(あるいはアップデートが必要なのか)について、少しシビアな現実にも触れていきたいと思います。

私たちの「見守る愛」が試される、正念場のお話です。

デジタル時代の恋愛事情:古き良き日本の知恵は通用する?

ここまで、日本の美徳である「間(Ma)」や「待つこと」の大切さをお話ししてきました。

「なんだ、意外とシンプルじゃない。ただ静かに見守っていればいいのね」

そう思われたかもしれません。

しかし、現実はそう甘くはありませんでした。

私たち親世代が経験した「古き良き恋愛」と、現代の子供たちが直面している「デジタル恋愛」の間には、あまりにも大きな、そして冷たい川が流れていたのです。

24時間営業の「心の戦場」

私が「間」を意識して、息子のプライバシーを尊重し始めた頃のことです。

ある深夜、ふと目が覚めてリビングに行くと、暗闇の中で青白い光が漏れていました。息子がソファで膝を抱え、スマートフォンの画面を凝視していたのです。

その表情は、恋にときめく少年のものではありませんでした。何かに追い詰められ、焦燥しきった顔。

「どうしたの?」と声をかけると、彼は慌てて画面を隠しましたが、その目は赤くなっていました。

後にわかったことですが、彼はその時、日本で主流のメッセージアプリ「LINE」のトラブルに巻き込まれていました。

日本では「既読スルー(Kidoku-thru)」という言葉が社会問題にもなりました。「メッセージを読んだのに返信しないこと」が、まるで人格否定されたかのように重く受け止められるのです。

彼が送った勇気あるメッセージに「既読」がついたまま、何時間も返信がない。その「沈黙」は、私が推奨した心地よい「間」ではなく、彼にとっては拒絶を意味する拷問のような時間だったのです。

海外の皆さんの国でも、SnapchatのストリークやInstagramのストーリーなど、プラットフォームは違えど同じプレッシャーがあるでしょう。

彼らの恋愛は、学校が終われば中断されるものではありません。ポケットの中で24時間、常に繋がり、常に評価され続ける「終わりのない戦場」なのです。

正直、私は狼狽しました。

「スマホなんて捨てちゃいなさい!」「そんなアプリ、消せばいいじゃない!」

喉まで出かかったその言葉を、私はぐっと飲み込みました。なぜなら、それが彼らにとっての「リアル(現実)」だからです。その世界を否定することは、彼らの存在そのものを否定することになってしまう。

ここで、古き良き日本の知恵は無力なのでしょうか?

デジタルという冷たい波に、私たちは為す術もなくのまれるしかないのでしょうか?

「金継ぎ(Kintsugi)」の精神で心の傷を直す

息子が初めての失恋(のようなもの)を経験し、深く傷ついているのを見たとき、私の脳裏に浮かんだのは、ある一つの日本の伝統工芸でした。

皆さんは、**「金継ぎ(Kintsugi)」**をご存知でしょうか?

これは、割れたり欠けたりした陶器を捨てるのではなく、漆(うるし)でつなぎ合わせ、その継ぎ目を金粉で装飾して修復する技法です。

ここには、驚くべき哲学があります。

**「傷や割れ目は隠すべき欠点ではなく、その器が辿ってきた歴史(物語)の一部であり、修復することで元の器よりもさらに美しく、価値あるものになる」**という考え方です。

現代のデジタルのスピードは、出会いも早ければ、別れや傷つきも一瞬で連れてきます。

スクリーンショット一枚で拡散される噂、ブロック機能による突然の縁切り。私たちの時代よりも、彼らの心は脆く、砕けやすい環境にあります。

息子が落ち込んでいる時、私は彼に説教をする代わりに、熱いお茶を淹れて隣に座りました。そして、壊れた心を「なかったこと」にするのではなく、どう「金継ぎ」するかを一緒に考えようとしたのです。

「辛いよね。画面越しの言葉って、実際の言葉よりも鋭いナイフみたいに刺さることがあるから」

私はまず、彼の痛みを肯定しました。

日本の禅の考え方に**「ありのまま(Arinomama)」**という言葉があります。今の感情を良いとも悪いともジャッジせず、ただ「そこにあるもの」として認めること。

失恋した事実、無視された悲しみ。それを「大したことない」「次があるよ」と安易に励ますのは、割れた茶碗の破片をゴミ箱に捨てるようなものです。

そうではなく、その破片を拾い集める。

「あなたがそれだけ傷ついているのは、それだけ真剣に相手を想っていた証拠だよ」

そう伝えることが、継ぎ目に塗る「漆」になります。

失敗を「侘び寂び(Wabi-Sabi)」として愛でる

デジタル社会は完璧を求めます。SNSには加工された完璧な写真、最高の瞬間ばかりが並びます。だからこそ、子供たちは「失敗」や「拒絶」を極端に恐れます。

しかし、日本の美意識**「侘び寂び(Wabi-Sabi)」**は、不完全なもの、未完成なもの、儚いものの中にこそ美しさが宿ると説きます。

私は息子に、自分の失敗談を話しました。

昔、好きな人の家に電話をするために、家族が寝静まるのを待って、ダイヤル式の黒電話を指が震えながら回したこと。

間違えて相手のお父さんが出てしまい、パニックで切ってしまったこと。

翌日、学校で合わせる顔がなくて、恥ずかしくて死にたくなったこと。

「ママもたくさん失敗したよ。でもね、そのヒビ割れがあったからこそ、パパに出会えたし、人の痛みがわかるようになったの。今の私の心は、継ぎ目だらけの金継ぎ茶碗よ。でも、新品の時より今の自分が好き」

そう話すと、塞ぎ込んでいた息子が少しだけ笑いました。

「ママの失敗の方が、なんかダサいね」と。

テクノロジーに使われるな、心を乗せろ

デジタルの便利さは、時に「待つ時間」を奪い、相手を思いやる想像力を奪います。

しかし、道具自体が悪なのではありません。そこに「心」が乗っているかどうかが問題なのです。

私は息子に一つの提案をしました。

「スマホは便利だけど、大事なことは『指』じゃなくて『目』を見て伝えなさい。それが怖いなら、それはまだ伝えるタイミングじゃないのかもしれない」

これは、**「言霊(Kotodama)」**の考え方にも通じます。言葉には魂が宿る。テキストの文字だけでは、魂まではなかなか届きません。

デジタルの世界で傷ついた心を癒やすのは、結局のところ、アナログな温もりと、顔を合わせた対話なのです。

傷つくことを恐れて、恋愛というフロンティアから逃げないでほしい。

たとえ心画粉々になっても、私たち親には「金継ぎ」の知恵があります。

一緒に破片を拾い、金粉をまぶし、世界に一つだけの、強くて美しい心に修復するお手伝いをする。

それが、デジタルネイティブ世代を持つ親の、新しい役割なのかもしれません。

画面の光に照らされた息子の横顔を見ながら、私は思いました。

この痛みもいつか、彼の人生を彩る美しい「景色」になるのだと。

そう信じることが、親である私自身の修行でもあるのです。

さて、嵐のような夜が明けようとしています。

傷ついた心を持った彼は、これからどうやって立ち上がり、大人の階段を登っていくのでしょうか。

最後の章【結】では、この経験を経て親子がどう変化し、そして来るべき「巣立ち」の時をどう迎えるかについて、希望を込めて綴りたいと思います。

自立への第一歩:信じて手放す、究極の愛の形

季節は巡り、神社の木々の緑が少しずつ色づき始めました。

あの「デジタル失恋事件」から、しばらくの月日が流れました。

私の息子はどうなったかと言うと……元気です。以前よりも少しだけ大人びた顔つきで、今日も元気に学校へ出かけていきました。

彼がその恋をどう乗り越えたのか、詳しくは聞いていません。

でも、ある朝、食卓で彼がボソッと言ったのです。

「母さんの味噌汁、なんか今日うまいね」

ただそれだけ。でも、その一言の中に、「僕はもう大丈夫だよ」というメッセージと、「見守ってくれてありがとう」という不器用な感謝が含まれているのを、私は「察する」ことができました。

壊れた器を金継ぎで直したように、彼の心には見えない「継ぎ目」があるはずです。でもそれは、彼をより味わい深い人間にするための勲章になりました。

この一連の出来事を通じて、私はある一つの大切なことに気づかされました。

それは、子育てとは、長い時間をかけた「サヨナラ」の連続であるということです。

「一期一会(Ichigo Ichie)」:今のこの子には、二度と会えない

日本には、茶道から生まれた**「一期一会(Ichigo Ichie)」**という美しい言葉があります。

「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡ってこない一生に一度きりのもの。だからこそ、この一瞬を最高のものとして大切にしましょう」という意味です。

これは通常、お客様をもてなす際の心得として使われますが、私はこれを子育ての極意だと思っています。

私たちはつい、子供に対して「早く大人になってほしい」「早くこの反抗期が終わればいいのに」と思ってしまいます。特に、恋愛トラブルのような嵐の最中は、「早く平穏な日々に戻りたい」と願うものです。

でも、考えてみてください。

「初めての恋に戸惑い、傷つき、親に反発しながらも必死に自分を探している14歳の息子」は、今、この瞬間にしか存在しません。

明日には、彼はまた少し変わり、来年にはもう別の悩みを抱えているでしょう。そしていつか、本当に私の手元から巣立っていきます。

そう思うと、あの胃が痛くなるような心配の日々さえも、愛おしく、二度と戻らない貴重な「一期一会」の瞬間だったのだと思えるようになりました。

親としての不安、葛藤、そして彼を信じて待った時間。そのすべてが、私と彼との間にしか紡げない、世界でたった一つの物語だったのです。

桜の精神:散り際を知る愛

日本人がなぜこれほどまでに桜(Cherry Blossoms)を愛するか、ご存知ですか?

それは、満開の美しさだけでなく、潔く散っていく姿に「美」を見出しているからです。

永遠に咲き続ける花はありません。花は散るからこそ美しい。そして散ることは、終わりではなく、次の緑(葉桜)が芽吹くための始まりなのです。

親子の関係も同じです。

「保護者と被保護者」という関係は、いつか散らなければなりません。

子供の恋愛は、その花びらが散り始める最初の合図です。

少し寂しいですよね。私も寂しいです。今まで私だけを見ていた瞳が、誰か他の人を探し始めるのですから。

でも、その寂しさを噛み締めながら、「立派に散って、次のステージへ行きなさい」と送り出すこと。それが、日本の親が目指す「粋(Iki)」な愛情表現なのかもしれません。

私たちは、子供の人生の主役(Protagonist)ではありません。

これまでは監督兼脚本家として彼らの人生に関わってきましたが、これからは「観客席の最前列に座るファン」へと役割を変える時が来たのです。

ステージ上の彼らが転んでも、セリフを間違えても、舞台に上がり込んで手出しをしてはいけません。

ただ、誰よりも大きな拍手を送り、幕が降りた時に「良かったよ」と迎えてあげる。

今回の出来事で、私はようやくその観客席に座る覚悟ができた気がします。

「お疲れ様(Otsukaresama)」:世界中の親たちへ

最後に、このブログを読んでくださっている海外の皆さんへ。

そして、今まさにティーンエイジャーの恋愛や反抗期に直面し、頭を抱えているあなたへ。

日本には、魔法の挨拶があります。

**「お疲れ様(Otsukaresama)」**です。

直訳すると “You are tired” になってしまいますが、これはネガティブな意味ではありません。「あなたの努力を私は知っていますよ」「今日もよく頑張りましたね」という、相手の労苦をねぎらい、敬意を表す温かい言葉です。

子供を愛するあまり、干渉しすぎて自己嫌悪に陥ったり、逆に突き放しすぎて不安になったり。親という生き物は、いつだって迷いの中にいます。

正解なんてありません。

日本の「間」も「金継ぎ」も、数あるヒントの一つに過ぎません。

でも、どうか自分を責めないでください。

あなたが子供のために悩み、眠れない夜を過ごしたその事実こそが、何よりも尊い愛の証明なのですから。

今日、私は自分自身に、そして画面の向こうのあなたに、心からの「お疲れ様」を贈りたいと思います。

完璧な親でなくていいんです。

継ぎ接ぎだらけの「金継ぎ」の心で、不格好でも、子供と一緒に泣いたり笑ったりできる親であれば、それで十分。

さあ、夕暮れのチャイムが聞こえてきました(日本の多くの地域では、夕方5時に防災行政無線のチャイムが鳴るんですよ)。

そろそろ夕食の準備を始めなくては。

今夜は、息子の好きなメニューにしようと思います。特に理由は聞きません。ただ、温かいご飯を用意して、「おかえり」と迎える。

今の私にできる、最高のエールはそれだけですから。

このブログが、海を越えて、どこかの街で悩む誰かの心に、小さな灯りをともすことができれば幸いです。

あなたの「一期一会」の子育てが、実り多きものになりますように。

日本より、愛を込めて。

コメント

タイトルとURLをコピーしました