木漏れ日マインドセット:海外でがんばるあなたへ贈る、日本の「なんとかなる」生活術

はじめに:「木漏れ日」マインド、持ってますか?

やっほー! こんにちは!

日本で二人の子育てと家事に追われる、ごくごく普通の主婦、サチです。

このブログは、今、海外でがんばっている主婦の皆さんに向けて書いています。

毎日、お疲れ様です!

慣れない土地での生活、言葉の壁、文化の違い。

日本では「阿吽(あうん)の呼吸」で伝わったことが、ちゃんと言葉にしないと伝わらない。スーパーでのちょっとしたやり取りでさえ、エネルギーを使いますよね。

「ちゃんとしたお母さん」でいなきゃ。

「現地に溶け込める、デキる妻」でいなきゃ。

「私だって、ここで何かを成し遂げなきゃ」

そんなふうに、知らず知らずのうちに肩に力が入って、カチコチになっていませんか?

光が強ければ強いほど、影もまた濃くなるように、海外での「充実した生活」を目指せば目指すほど、ふとした瞬間に「孤独」や「焦り」という濃い影に飲み込まれそうになる……。

そんな経験、ありませんか?

かくいう私も、日本にいながら毎日バタバタです。朝は洗濯機を3回回し、子供を怒鳴りつけながら送り出し、掃除機をかけ始めた瞬間に宅配便が来て、気づいたらお昼ご飯の時間。

「私、今日、午前中いったい何してたっけ……?」

って、虚空を見つめることもしょっちゅうです(笑)。

完璧な主婦なんて、どこにもいない。

それは分かっているけれど、SNSを開けばキラキラした暮らしが溢れていて、落ち込むこともありますよね。

今日は、そんな風に「光」と「影」の間で揺れ動いている、がんばり屋さんのあなたに、日本から持って行ってほしい「お守り」のような考え方を紹介したいんです。

それが、「木漏れ日(こもれび)マインドセット」

「Komorebi」って、最近海外でも「日本語にしかない美しい言葉」として知られ始めているみたいですね。

そう、「木々の葉の間から差し込む太陽の光」のこと。

でも、これって単に「Sunlight filtering through trees(木々を透過する日光)」っていう現象を指してるだけじゃないと、私は思うんです。

想像してみてください。

深い森の中じゃなくても、近所の公園でもいい。

夏の強い日差しが、青々と茂った葉っぱに遮られて、地面にゆらゆらと揺れる光の斑点(はんてん)を作っている。

あれって、100%の「光」じゃないですよね。

かといって、100%の「影」でもない。

風が吹けば形を変え、光の強さが変われば色合いを変える。

輪郭はぼんやりしていて、曖昧で、不確か。

でも、だからこそ、ものすごく優しくて、心が安らぐ。

「完璧な光」を浴び続けるのは眩しすぎるし、疲れてしまう。

「完全な影」の中にずっといるのは、冷たくて、怖い。

日本人が昔から美しいと感じてきた「木漏れ日」って、実は、**「光も影も、両方あっていいんだよ。白黒ハッキリしなくていいんだよ」**っていう、日本的な人生観そのものなんじゃないかと思うんです。

海外、特に欧米の文化は、物事をハッキリさせる「ローコンテクスト」な文化が多いと聞きます。

「Yes」なのか「No」なのか。

「好き」なのか「嫌い」なのか。

「成功」なのか「失敗」なのか。

自分の意見をしっかり主張し、結果を出すことが求められる社会。

それはとても合理的で、クリアで、素晴らしいことです。

でも、私たち日本人が慣れ親しんだのは、どちらかというと「ハイコンテクスト」な文化。

直接的な言葉よりも、「空気」や「間(ま)」を大切にする。

物事をハッキリさせず、あえて「グレーゾーン」を残しておく。

これ、海外で生活していると、一番「面倒くさい」とか「分かりにくい」と感じる部分かもしれません。

「だから日本人はダメなんだ」って、イライラした経験もあるんじゃないでしょうか。

でもね、日本でどっぷり主婦をしている私は、最近、この「曖昧さ」や「グレーゾーン」こそが、私たちを息苦しさから救ってくれる、最強の「生活の知恵」であり「人生術」なんじゃないかと、強く感じるようになりました。

この「木漏れ日マインドセット」=「曖昧さを許容する力」が、私を何度も救ってくれたんです。

例えば、ご近所付き合い。

私は今、古いけど人付き合いがそこそこ残っている住宅街に住んでいます。

海外だと、ご近所さんとの関係ってどうですか?

パーティに招待しあったり、逆に、挨拶はするけどプライベートは完全に別、とか、ルールがハッキリしているイメージがあります。

私のご近所さんは、まぁ、曖昧です(笑)。

ある日の夕方、私が「あー!今日の夕飯、副菜どうしよう!もう作る気力ない!」って頭を抱えていたら、ピンポーン、と。

お隣の奥さんが、タッパーにもりもり入った「切り干し大根の煮物」を持って立っていました。

「サチさん、ごめんね、ちょっと作りすぎちゃって。味、濃かったらごめん!」

もう、神様かと思いました(笑)。

これって、別に「契約」じゃないんですよね。

「私が煮物をあげたから、あなたは次、何くれるの?」なんていう暗黙のプレッシャーも(たぶん)ない。

ただ、「お互い様」っていう、ふんわりとした空気があるだけ。

海外生活で「自分のことは自分でやるのが当たり前」「助けてほしければ、明確に言葉でSOSを出すべき」という環境にいると、こういう「察してくれる」関係性って、奇跡みたいに感じませんか?

もちろん、この「曖昧さ」は、時として「窮屈さ」にもなります。

地域の草むしりをサボれば「なんとなく」居心地が悪くなるし、子供の学校の「暗黙のルール」に振り回されることもあります。

でも、いつも白黒ハッキリ、いつも100%の自立を求められる世界って、息が詰まっちゃう。

人間って、そんなに強くないですよね。

疲れた時、「助けて」とハッキリ言えなくても、誰かが「どうしたの?」って察してくれたり、理由も聞かずにそっと煮物を差し出してくれたりする。

そういう「光」でも「影」でもない、人肌くらいの温度の「曖昧なセーフティネット」。

これが、「木漏れ日」的な日本の知恵だと思うんです。

そして、このマインドは「人生観」にも繋がります。

私、昔は本当に完璧主義でした。

家はモデルルームみたいに片付いていないと嫌だし、料理も品数多く、栄養バランスも完璧じゃないとダメ。子供にもいつも笑顔でいなきゃ、って。

でも、無理ですよね(笑)。

子供が生まれ、自分の時間がゼロになった時、あっけなく全部崩壊しました。

部屋は散らかり放題、夕飯はレトルトカレー、子供にはイライラして怒鳴ってしまう。

「私、母親失格だ。主婦失格だ」

って、まさに「真っ暗な影」の中に落ち込みました。

そんな時、ふと、実家の母の言葉を思い出したんです。

母は、私と違ってすごく「テキトー」な人(笑)。

家事も完璧じゃないし、よく「まぁ、いっか!」って笑ってる人でした。

子供の頃は「もっとちゃんとしてよ!」って思ってたけど、あの「まぁ、いっか!」こそが、最強の「木漏れ日マインド」だったんだな、と。

日本には「わびさび(侘び寂び)」という美意識がありますよね。

ピカピカの新品よりも、少し欠けていたり、時間が経って色褪せたりしたものに美しさを見出す感覚。

完璧な満月よりも、雲に隠れたり、少し欠けたりしている月に風情を感じる。

これって、人生も同じじゃないでしょうか。

海外で「キャリアを中断して主婦をしている私」(Source 3.5参照)とか、「言語がうまくならなくて、社会から取り残されている私」(Source 3.1参照)とか……。

そういう自分を「欠けている」「ダメだ」と責めてしまう時。

でも、それって本当に「ダメ」なこと?

家事が完璧にできなくても、子供を怒鳴っちゃった日があっても、それが「影」だとしたら。

子供が寝た後、その寝顔を見て「大好きだよ」って思う瞬間が「光」。

人生って、その「光」と「影」がまだらに混ざり合って、揺らめいている。

それが「木漏れ日」みたいで、それこそが「生きてる」ってことなんじゃないかな。

だから、「完璧な光」を目指さなくていい。

「影」に落ち込んでも、そこが全てだと思わなくていい。

「今日は、まぁ、いっか!」

「なんとかなるさ」

それは「諦め」じゃなくて、光も影も全部受け入れるっていう、日本的な「強さ」であり「しなやかさ」。

海外という、日本とは違うルール(光)の中でがんばっているあなただからこそ、この「木漏れ日マインド」=「グレーゾーンを愛する力」が、きっとあなたを楽にしてくれる「お守り」になる。

私はそう信じています。

このブログでは、そんな「木漏れ日マインド」をベースに、私が日本での主婦生活の中で見つけた「生活の知恵」や「人生術」を、私の実体験(と、たくさんの失敗談!笑)を通してお届けしていきたいと思っています。

白黒ハッキリした答えはないかもしれない。

でも、読んだ後、あなたの心がちょっとだけ軽くなって、「まぁ、いっか!」って笑えるようになったら、最高に嬉しいです。

次回は、この「木漏れ日マインド」が、具体的に日本の「食」や「家事」にどう現れているのか?

私たち日本人が無意識にやっている「テキトーに見えて実は合理的」な生活の知恵について、深く掘り下げてみたいと思います。

最後まで読んでくれて、ありがとう!

また遊びに来てくださいね。

暮らしの処方箋:「曖昧さ」が生み出す、日本の食卓と家事の知恵

こんにちは!サチです。

前回の「起」の記事、読んでいただけましたか?(まだの方は、ぜひそっちから読んでみてね!)

「完璧な光」も「真っ暗な影」もない、その中間。

白黒ハッキリさせない、ゆらゆら揺れる「木漏れ日(こもれび)」みたいな「曖昧(あいまい)さ」こそが、私たちを息苦しさから救ってくれる最強のマインドセットなんじゃないか、というお話をさせてもらいました。

海外で、クリアな「YES/NO」の世界でがんばっている皆さん。

「曖昧さなんて、イライラするだけだよ!」って思うかもしれません。

でもね、今日はこの「木漏れ日マインド」が、具体的に私たち日本の主婦の「食卓」と「家事」を、いかに楽にしてくれているか、その「処方箋」とも言える知恵について、私の実体験ベースで語らせてください!

◆ レシピに書いてある「適量」という名の、魔法のコトバ

海外の料理本やレシピサイトって、すごく「科学的」じゃないですか?

「小麦粉 250g」「バター 113g(なんでそんな中途半端なの?!って思う・笑)」「オーブンは180℃で正確に25分」みたいに。

もちろん、お菓子作りとか、そういう正確さが必要なものもあります。

でも、毎日のご飯でそれをやろうとしたら……どうです?

もう、疲れちゃいますよね!

「あ! パセリが0.5g足りない!」

「このスパイス、うちには無い! もう作れない!」

って、なっちゃう。

一方、日本の「お母さんのレシピ」って、どうでしょう。

私の母の得意料理は「肉じゃが」なんですけど、作り方を聞いても、

「お醤油をね、さーっと回し入れて」

「お砂糖はひとつまみ、かな。あとはみりんをちょろっと」

「落し蓋して、いい感じの色になるまで煮込むのよ」

……さっぱり分かりません!(笑)

でも、日本のレシピサイトや料理本で、今でも堂々と使われている「魔法のコトバ」があります。

それが、「適量」そして「少々」。

これぞ、まさに「木漏れ日マインド」の真骨頂!

「塩、少々」って言われても、人によって「ひとつまみ」の指の太さ、違いますよね。

「野菜、適量」って、キャベツ半玉のこと? それとも1/4玉?

これって、海外の合理的(ローコンテクスト)な感覚からしたら、「レシピとして成立してない!」って怒られちゃうかもしれない。

でも、これが日本のお母さんたちを「ラク」にしてきた、すごい知恵なんです。

だって、これってレシピが私たちに「正解」を押し付けてくるんじゃなくて、

「最後は、あなたの舌で決めていいんだよ」

「あなたの家族の好みで、調整していいんだよ」

って、決定権を「委ねて」くれているってことじゃないですか?

「今日はちょっと疲れてるから、甘めにしようかな」(光)

「昨日はこってりだったから、今日は出汁を効かせてあっさりにしよう」(影)

その日の体調や気分、冷蔵庫の残り物(!)という「ゆらぎ」に合わせて、自由に調整していい。

「正解は、一つじゃないよ」っていうメッセージなんです。

海外で、きっちりしたレシピに疲れた時。

思い出してください。日本の「適量」という名の「曖昧さ」を。

冷蔵庫にあるもので、なんとかなる。

「豚肉ないから、鶏肉でいっか!」

「大根ないけど、カブがあるからこれでいっか!」

その「まぁ、いっか!」が、あなたの食卓を豊かにしてくれる「木漏れ日」になります。

◆「一汁三菜」という呪いと、「お惣菜」という知恵

日本の食卓の「理想」として、「一汁三菜(いちじゅうさんさい)」ってよく言われますよね。

ご飯と、お汁物と、主菜(メインのおかず)と、副菜が二つ。

栄養バランスもバッチリ!

……って、んなもん、毎日やってられるかーい!!(心の叫び)

これは、まさに「完璧な光」です。

これを毎日目指そうとすると、そのプレッシャーで「影」に落ちます。

「私、ダメな主婦だ…」って。

でも、日本の主婦(私)の現実は、もっと「木漏れ日」的です。

昨日の夜、多めに作った「豚汁」が残ってる。(ラッキー!)

ご飯は、冷凍してたやつをチン。

メインのおかず……あー、作る気力ない。

そこで、登場するのが、スーパーの**「お惣菜(おそうざい)」**コーナーです!

コロッケでも、焼き鳥でも、カボチャの煮物でもいい。

これ、海外だとどうでしょう?

「デリ」や「テイクアウト」って、もっと「特別なもの」「ガッツリ外食」っていうイメージがありませんか?

日本の「お惣菜」って、もっと日常に溶け込んだ、「手抜き」と「ちゃんとご飯」の「中間」にある、絶妙な「グレーゾーン」なんです。

「ぜんぶ手作り」(光)でもない。

「ぜんぶ外食」(影? まぁ、たまにはいいけど)でもない。

「ご飯と味噌汁は作ったけど、メインは買ってきたアジフライ」

これ、最高じゃないですか?

罪悪感ゼロ。むしろ「私、賢くやりくりしてる!」って思える。

この**「ちょっとだけ手を抜く」**ことを許容する文化。

「完璧じゃなくていいよ」っていう、社会全体の「木漏れ日」的な優しさが、日本の「お惣菜」文化には詰まってると思うんです。

◆「ついで掃除」という、曖昧な家事システム

さて、次は「家事」です。

特に「掃除」。

これも、海外と日本じゃ、感覚が違うなぁと、海外に住む友人の話を聞いてて思います。

海外(特に欧米)だと、例えば「土曜の午前中は、掃除機をかけて、モップがけして、バスルームを磨き上げる『クリーニング・デー』」みたいに、オンとオフがハッキリしているイメージ。

「やるときはやる!」っていう「光」の時間。

だから、平日は結構散らかってても「まぁ、クリーニング・デーにやればいいし」って、ある意味おおらか(笑)。

一方、日本の主婦(の多く)が、無意識にやっていること。

それが**「ついで掃除」**です。

これは「クリーニング・デー」(光)でもないし、「何もしない」(影)でもない。

まさに「木漏れ日」的な、曖昧な掃除術。

例えば、

・トイレに入った「ついで」に、トイレットペーパーで便座や床をサッと拭く。

・顔を洗った「ついで」に、濡れたタオルで洗面台の鏡をキュッと拭く。

・料理をしてコンロが汚れた「ついで」に、まだ温かいうちにサッと拭き上げる。

これ、一つ一つは「30秒」とか「1分」の世界。

「掃除をした」というほどの達成感(光)はないんです。

でも、これをやっておくと、何が起きるか。

「うわー! 汚れがこびりついて取れない!」っていう、絶望的な「影」の状態を、回避できるんです。

常に「完璧にピカピカ」ではないけれど、「まぁ、人に見られてもギリ大丈夫」っていう「木漏れ日」状態をキープできる。

これって、すごく「効率的」だと思いませんか?

「さあ、掃除するぞ!」って気合を入れるのは、エネルギーが要ります。

でも「〜のついで」なら、エネルギーはほぼゼロ。

「光」を目指さない代わりに、「影」に落ちないようにする、ミニマムな努力。

日本には「玄関だけはキレイにしておけ」って、昔から言いますよね。

あれも面白い感覚で、「玄関(人から見える部分)」さえキレイなら、家全体がキレイに見える(だろう)という、ある種の「曖昧さ」に頼った知恵。

リビングが散らかっていても(影)、玄関がスッキリしていれば(光)、全体としては「まぁ、いっか」(木漏れ日)っていう(笑)。

どうでしょう?

「適量」で味付けし、

「お惣菜」で賢く手を抜き、

「ついで掃除」で大惨事を防ぐ。

これらは全部、「100%(光)」を目指さない代わりに、「0%(影)」にもならないようにする、日本人が生み出した「グレーゾーン」を生き抜くための、しなやかな生活術です。

海外で「100%」を求められて、カチコチになってしまいそうな時。

「あ、日本には『適量』って言葉があったな」

「今日は『お惣菜』的なマインドでいこう」

って、思い出してみてください。

きっと、あなたの肩の力が、ふっと抜けるはずです。

さて、次回は「転」。

この「曖昧さ」=「木漏れ日マインド」ですが、もちろん、いいことばかりじゃありません。

これが人間関係に持ち込まれると、あの、日本特有の「息苦しさ」が生まれます。

そう、「空気を読む(Read the air)」という、あの厄介なやつです。

この「曖IME」という光と影。

その葛藤と、私が日本で主婦として生きていく中で見つけた「空気」との付き合い方について、お話ししたいと思います。

今回も、長々と読んでくれて、ありがとうございました!

光と影の葛藤:私が見つけた「空気を読む」ことの本当の意味

やっほー! サチです。

前回の「承」では、「適量」とか「お惣菜」とか「ついで掃除」とか、日本の主婦を救う「曖昧さ=木漏れ日マインド」の素晴らしい知恵について、熱く語らせてもらいました。

「完璧な光」を目指さず、「真っ暗な影」にも落ちない、その「グレーゾーン」こそが最強の処方箋だ!と。

…と、ここまで読んで、海外で暮らすあなたは、こう思ってるかもしれません。

「いやいや、サチさん、待ってくれ」と。

「その『曖昧さ』こそが、私が日本で一番しんどかった部分なんですけど?!」

……ですよねー!!

分かります。分かりすぎて、首がもげるほどうなずいてます。

そうなんです。

「承」で書いた「木漏lebi」が、私たちを「まぁ、いっか!」と優しく包んでくれる「柔らかな光」だとしたら。

この「曖昧さ」が**「人間関係」に持ち込まれた瞬間、それは、私たちを息苦しくさせる「澱(よど)んだ影」**に豹変(ひょうへん)するんです。

それこそが、日本社会が誇る(?)特殊スキル、

「空気を読む(Kuuki wo Yomu)」。

これ、まさに「光」と「影」の葛藤、そのもの。

今日は、私がこの「空気」という名の「影」にどっぷりハマり、息もできなくなってもがいた、超・実体験をお話しさせてください。

(ちょっと長くなるけど、お茶でも飲みながら聞いて!)

あれは、下の子がまだ幼稚園だった頃。「PTAの役員決め」での出来事でした。

海外にもPTA(的なもの)ってありますか?

日本の(特に古い体質の)PTAって、もう「空気の読み合い」の最前線、バトルロワイヤル会場なんですよ(笑)。

その日も、集会室には重〜い空気が漂っていました。

「では、来年度のクラス役員を決めたいと思います。どなたか、やっていただける方は…?」

シーン……。

誰も手を挙げない。

みんな、うつむいて、手元の資料を熱心に読みふけるフリ。

(分かる、その気持ち!)

これぞ、究かげの「木漏れ日」状態!

いや、もはや「木漏れ日」ですらない。「日食」か?(笑)

「完璧な光」(=「はい! 私やります!」という自己犠牲)は、誰も選びたくない。

かといって、「真っ暗な影」(=「絶対にやりません」と明確に断る)を選ぶ勇気もない。

なぜなら、明確に「NO」と言うことは、この場の「和(わ)」を乱す「ワガママな人」というレッテルを貼られることを意味するから。

だから全員が、「光」でも「影」でもない、息苦しい「グレーゾーン」に留まって、時間が過ぎるのを待つんです。

誰かが「空気を読んで」折れてくれるのを、ひたすら待つ。

これ、地獄ですよね?

私、その空気に耐えられなかったんです。

この「曖昧さ」は、優しさでもなんでもない。ただの「責任のなすりつけ合い」じゃないか!と。

海外のドラマみたいに、「OK, I can’t do it this year, I’m too busy.(ごめん、今年は忙しすぎるから無理だわ)」って、ハッキリ言えたらどれだけ楽か!

で、私、やっちゃったんです。

その重苦しい沈黙の中で、パッと手を挙げて、こう言いました。

「あのー、このまま待ってても決まらないですよね? いっそ、クジ引きにしませんか?

その瞬間、集会室の空気が「ピシッ」と凍りついたのを、今でも肌で覚えています。

私としては、これは「合理的」な提案のつもりでした。

「光」でも「影」でもない「グレーゾーン」で苦しむくらいなら、「クジ」という「白黒ハッキリした光」で、公平に決めたほうが、みんなハッピーじゃない?と。

でも、違ったんです。

その場にいたベテランのママさん(仮にAさんとします)が、ふぅ、とため息をついて、こう言いました。

「…サチさん。クジ引きって…。それは、ちょっと、冷たくないかしら?」

「えっ」

Aさんは続けます。

「私たち、これから一年、一緒に子供たちのために頑張る仲間なのよ。それを『運』で決めるなんて…。それに、ここには下のお子さんが小さい方(※私のことです)もいれば、お仕事で忙しい方も、介護をされてる方もいる。そういう**『事情』を、みんなで『思いやって』**決めるのが、ここのやり方なのよ」

……終わった。

私がやらかしたこと、分かりますか?

私が投じた「クジ引き」という名の「白黒ハッキリした光」。

それは、彼女たちが守ろうとしていた「木漏れ日」…つまり、「お互いの『事情』という名の『影』を、あえて『曖昧』にして『思いやる』」という、日本的な「優しさ」の作法を、真正面からぶっ壊す行為だったんです。

私は、「空気を読めない(KY)な人」のレッテルを貼られました。

私が求めた「合理的な光」は、彼女たちにとっては「配慮のない、強すぎる光」だった。

もう、落ち込みましたね。

「曖昧さ」って、なんて面倒なんだ!

「思いやり」って、結局「言わなくても察しろ」っていうプレッシャーじゃないか!

こんな文化、もう嫌だ!

海外で暮らしているあなたも、きっとこういう「日本的な曖昧さ」の「影」の部分に、何度も何度もぶつかって、嫌な思いをしてきたんじゃないでしょうか。

だからこそ、海外の「YES/NO」がハッキリした「ローコンテクスト」な文化に触れた時、「なんて楽なんだ!」って感動しますよね。

「言いたいことが言えるって、素晴らしい!」って。

私も、あのPTA事件の直後は、本気でそう思いました。

「もう『空気』なんて読むもんか。私は『光』の中で生きてやる!」って。

でも。

…でも、なんです。

日本で暮らし続け、色々な「光」と「影」の葛藤を経験するうちに、気づいたことがあります。

あの「白黒ハッキリ」した世界にも、また別の「影」があるんじゃないか、と。

例えば、海外の「個人主義」の「光」は、時として「自己責任」という「影」を連れてきます。

「私は『NO』と言った。だから私の責任じゃない」

「それは『あなたの問題』で、『私の問題』じゃない」

それは、とてもクリアカット。

でも、その結果、コミュニティがギスギスしたり、本当に助けが必要な人が「SOS」とハッキリ言えずに「孤立」してしまったりする(Source 3.3参照)。

あのPTAのママさんたち。

彼女たちが「NO」と言わずに黙っていたのは、ただ「責任逃れ」だったんでしょうか?

もしかしたら、「本当はやりたくない(影)」けど、「でも、誰かがやらないと子供たちが困る(光)」という、「光」と「影」の板挟みで、苦しんでいたんじゃないか?

Aさんが言った「思いやり」。

それは、確かに「同調圧力」という「影」の側面を強く持っていました。

でも、同時に、「クジ」という「光」では切り捨てられてしまうかもしれない、「個人の事情(=影)」を、なんとかすくい上げようとする「優しさ(=光)」でもあったんじゃないか?

「光」が強ければ、「影」も濃くなる。

日本の「曖昧さ」は、「同調圧力」という濃い影を生む。

海外の「明確さ」は、「孤立」という濃い影を生む。

……じゃあ、一体、どっちが「正解」なんだ?!

私は、この「転」の葛藤の中で、ぐるぐると悩み続けました。

日本的な「木漏れ日」は、優しさなのか、それとも息苦しさなのか。

そして、私なりに見つけた、一つの「答え」があります。

それは、「どっちが正しいか」じゃない。

「光」か「影」か、二択で選ぶこと自体が、もう間違ってるんじゃないか、と。

大切なのは、その「光」と「影」が混ざり合う「グレーゾーン」=「木漏れ日」の中で、いかに「呼吸」をするか

息苦しい「澱んだ空気」を、どうやって「心地よいそよ風」に変えていくか。

「空気を読む」って、ただ我慢すること(影)じゃない。

かといって、「空気を読まず」に正論(光)を振りかざすことでもない。

本当の「木漏れ日マインド」とは、その「光」と「影」の両方をちゃんと見つめた上で、**「じゃあ、今はどうしようか」**と考える、しなやかな「人生術」なんじゃないか。

…と、なんだか壮大な話になってきちゃいましたね(笑)。

次回、いよいよ最終回、「結」。

この「光と影の葛藤」を乗り越えた私が、海外でがんばるあなたに、明日から実践してほしい「あなた自身のKomorebi Journey」=「日常に小さな光を見つける練習」について、具体的にお話ししたいと思います。

今回も、私の失敗談に最後まで付き合ってくれて、本当にありがとう!

あなたのKomorebi Journey:日常に「小さな光」を見つける練習

やっほー! サチです。

ついに、この「木漏れ日マインドセット」を巡る長いお話も、最終回になりました。

ここまで付いてきてくれて、本当に、本当にありがとう!

「起」では、「光でも影でもない、曖昧な木漏れ日こそが、私たちのお守りになるかも」というお話を。

「承」では、「適量」や「お惣菜」に隠された、曖昧さの「光」=「日本の生活の知恵」を。

そして「転」では、あの悪名高き(!)「空気を読む」文化…PTAでの大失敗(笑)を通して、曖昧さが持つ「影」=「息苦しさ」との葛藤をお話ししました。

「光」だけじゃ眩しすぎる。

「影」だけじゃ冷たすぎる。

日本の「曖昧さ」は、私たちを優しく包む「木漏れ日」なのか?

それとも、私たちを縛り付ける「澱んだ空気」なのか?

この「転」の葛藤を経て、私が見つけた「結」=答え。

それは、

「どっちも、自分の一部なんだ」

って、ただ認めること。

そして、その「光」と「影」がまだらに揺れる「今、ここ」で、いかに「心地よく呼吸するか」を、自分で選んでいくこと。

これこそが、「木漏れ日マインドセット」が持つ、本当の**「変革の力(Transformative Power)」**なんだと、私は思うんです。

海外で暮らしていると、否が応でも「白黒ハッキリ」した価値観にさらされますよね。

「あなたは、何ができるの?」(光)

「キャリアを捨てて、何者でもなくなった私」(影)

「英語、ペラペラなんでしょ?」(光)

「日常会話はできても、ジョークが分からなくて笑えない私」(影)

そうやって、「光」と「影」の二択で自分を裁いて、勝手に落ち込んで…。

「ちゃんと(光)しなきゃ」って、自分を追い詰めてしまう。

もう、その二択、やめにしませんか?

木漏れ日マインドセットがくれる、長期的なメリット。

それは、「完璧な私(光)」じゃなくても、「ダメな私(影)」でもない、**「まぁ、こんなもんか」**っていう「今の自分」を、まるごと受け入れる「しなやかさ(レジリエンス)」です。

それは「諦め」じゃない。

「光」も「影」も、どっちも私。どっちもOK。

そうやって、自分への「ダメ出し」をやめられること。

カチコチになった肩の力を、ふっと抜くことができること。

この「しなやかさ」こそが、慣れない土地で、予測不可能なトラブル(それこそ、アジア人差別とか、子供の学校問題とか…)に直面した時、あなたの心をポキッと折れさせない、最強の「人生術」になってくれるはずです。

「なんとかなる」

それは、日本人が古くから知っていた、魔法の言葉。

「木漏れ日」の中で生きるための、お守りなんです。

…とはいえ、「はい、じゃあ今日からマインドセット変えて!」って言われても、難しいですよね(笑)。

分かります。

頭で分かっても、心はそう簡単じゃない。

だから、今日はこのブログの最後に、あなたに「宿題」を出させてください。

「宿題」っていうと堅苦しいな、「お誘い」です!

これが、あなたの「Komorebi Journey(木漏れ日の旅)」への第一歩。

【今週、あなたにコミットしてほしい、一つの小さな練習】

それは、**「リアル木漏れ日ハンティング」**です。

え、何それ?って(笑)

簡単です。

今週、たった5分でいい。

スマホを置いて、外に出てみてください。

あなたの住む街の、公園。

アパートメントの、中庭。

街路樹が並ぶ、いつもの道。

どこでもいいんです。

**「木々の葉の間から差し込む光」=「木漏れ日」**を、意識して探してみてください。

あ、日本みたいな鬱蒼(うっそう)とした森じゃなくていいですよ!

フランスのマロニエ並木でも、カリフォルニアのパームツリーでも、シンガポールのブーゲンビリアでも、何でもいい。

葉っぱが一枚でもあれば、そこに「光」と「影」は生まれます。

そして、それを見つけたら、

じーっと、観察してみてください。

ここでポイント。

「光」だけを見ないでください。

「影」だけを見ないでください。

見てほしいのは、その**「境界線(きょうかいせん)」**です。

風が吹いて、葉が揺れて、「光」と「影」が混ざり合い、形を変えていく様子。

さっきまで「影」だった場所が、次の瞬間「光」になり、また「影」になる。

輪郭はぼんやりしていて、くっきり分けることなんてできない。

それを眺めながら、深呼吸して、こう思ってみてください。

「あ、これが、私だ」

完璧に輝いている(光)わけじゃない。

真っ暗闇で終わってる(影)わけでもない。

キャリアも、子育ても、語学力も、ご近所付き合いも、ぜんぶ中途半端で、まだら模様で、ゆらゆら揺れてる。

でも、それでいい。

それが、いい。

それが、生きてるってことなんだ。

この「自然が生み出す曖昧さ」を、ただ「美しいなぁ」と受け入れる練習。

これが、あなたの「木漏れ日マインド」を育てる、一番の近道です。

どうでしょう?

これなら、できそうじゃないですか?

◆ あなたの「木漏れ日」を、教えてください!

このブログは、私からの一方的な発信で終わりたくないんです。

ここは、海外でがんばる皆さんが、ホッと一息つける「木漏れ日」の場所でありたい。

だから、最後にお願いです。

あなたが見つけた「木漏れ日」、コメント欄でシェアしませんか?

  • 「今週、こんな木漏れ日、見つけました!」(写真でも、言葉でも!)
  • 「私の国(街)の『木漏れ日』は、こんな感じです」
  • 「こんな失敗したけど、『まぁ、いっか!』って思えました!」
  • 「私の『曖昧さに救われた』エピソード」

もちろん、「光」だけじゃなくていいんです。

「転」で書いたような、モヤモヤする「影」の話でもいい。

キラキラした「海外生活」じゃなくていい。

ここでは、「空気を読まず」に、あなたの「まだら模様」を、そのまま見せてください。

みんなで「いいね、それも木漏れ日だね!」って言い合える、そんな場所にしたいんです。

あなたの「Komorebi Journey」の始まりを、心から応援しています。

そして、この長い長い手紙を、最後まで読んでくれて、本当にありがとうございました!

また、ここで会いましょうね。

愛をこめて。

日本より、サチ

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