【日本からの手紙】「欠けている」のではない、「個」として立っているだけ。——ソロペアレンティングという誇り高き道

「片親」という言葉の重みと、見えない鎖「世間体」

日本の四季は美しいけれど、時々その季節の移ろいが、心にチクリと刺さることがあります。

例えば、春。

桜が満開の公園で、ブルーシートを広げてお弁当を食べる家族連れ。「お父さん、お母さん、子供二人」。まるで絵に描いたような、あるいはテレビCMから抜け出してきたような「標準的な家族」の風景がそこら中に溢れます。

海外に住む皆さんは、「日本はアニメやテクノロジーの国」というイメージが強いかもしれませんね。でも、実際に住んでみると、日本という国は驚くほど「型(カタ)」を重んじる社会なんです。

お茶やお花に「型」があるように、人生や家族のあり方にも、見えない「型」が存在します。

そして、その型から少しでも外れると、まるでパズルのピースがはまらない時のような違和感を、社会全体から無言で突きつけられる瞬間があるのです。

今回は、そんな日本社会の中で「ソロペアレント(ひとり親)」として生きること、あるいはパートナーがいても実質ひとりで育児を背負う「ワンオペ(One-Operation)」状態で生きることについて、私の周りのリアルな声や実体験をベースにお話しします。

「Kesson(欠損)」の意識と戦う日々

まず、言葉の話をしましょう。

日本語には「片親(Kata-oya)」という言葉があります。文字通り「片方の親」という意味ですが、この言葉にはどこかネガティブな響きがこびりついています。もっと古い言葉や行政用語では、かつて「欠損家庭(Kesson-katei)」などという、今聞くとぞっとするような言葉が使われていた時代もありました。「欠けている」「損なわれている」というニュアンスです。

今は「ひとり親家庭」という言葉が一般的ですが、それでも社会の意識の根底には、「両親が揃っているのが正解(デフォルト)で、そうでないのは異常(イレギュラー)」というバイアスが強く残っています。

私の友人に、数年前に離婚をしてシングルマザーになった女性、Aさんがいます。

彼女が言っていた言葉が忘れられません。

「ねえ、離婚届を出した役所の帰りにね、スーパーに寄ったの。そこで4人用のファミリーパックのお肉を見た瞬間、急に涙が出てきたんだよ。『あ、うちはもう、このパックを買う資格がないんだ』って思っちゃって」

彼女は笑いながら話してくれましたが、その奥にある深い痛み、わかりますか?

誰に言われたわけでもないのに、自分自身で「自分は社会の標準コースから脱落した」というレッテルを貼ってしまう。これが日本社会の恐ろしさ、「世間体(Seken-tei)」の正体です。

「世間体」という名の妖怪

海外の方には説明が難しいのですが、日本には「世間体」という概念があります。直訳すると “Appearance in society” や “Reputation” ですが、もっと粘着質で、空気のようにまとわりつくものです。

「世間様に顔向けできない」

「世間に笑われる」

私たちは子供の頃から、この「世間」という実体のない監視役を意識して育てられます。

ソロペアレントであることは、日本ではしばしば「世間体が悪い」と見なされがちです。「我慢が足りなかったんじゃないか」「子供がかわいそうだ」という無言の視線。

特に、学校行事などでそれは顕著に現れます。

運動会や授業参観。お父さんがビデオカメラを回し、お母さんがお弁当を広げる。その中で、ひとりで参加している親御さんが感じる「居心地の悪さ」。

「うちはうち、よそはよそ」と割り切れればいいのですが、日本の「和(Wa)」を尊ぶ文化は、同調圧力を生みやすく、違うことをしている人を目立たせてしまうのです。

「すみません」が口癖になる社会

日本で子育てをしていると、なぜか「すみません」と言う回数が増えます。

電車で子供が泣いたら「すみません」。

ベビーカーで道を塞いだら「すみません」。

保育園に熱が出た子供を迎えに行って、早退する時に会社の人に「すみません」。

これがソロペアレントだと、その「すみません」の重さが倍増します。

頼れるパートナーが物理的に(あるいは精神的に)不在の場合、すべての責任は「個」にのしかかります。

「私が倒れたら終わりだ」

「私がしっかりしていないから、子供が迷惑をかけてしまう」

そうやって、日本のソロペアレントたちは、自分を極限まで追い込んでしまいがちです。

これは「責任感が強い」という美徳のように見えて、実は「助けを求めるのが下手」という日本人の弱点でもあります。「人に迷惑をかけてはいけない(Meiwaku wo kakete wa ikenai)」という教えが、呪いのように親たちを縛り付けているのです。

私の知っているあるシングルファザーの方は、毎朝4時におきて子供のお弁当を作り、完璧にアイロンのかかったシャツを着て出社していました。

「父親だけだから子供がだらしない、と言われたくないんです」

彼はそう言っていましたが、その目の下には濃いクマがありました。彼は「父親」と「母親」の両方の役割を、しかも「日本の高い基準」でこなそうとして、ギリギリのところで踏ん張っていたのです。

日常の中にある「孤独な戦い」

実体験として、私自身も夫が海外出張で長く不在だった時期があります。いわゆる「期間限定のシングルマザー」状態でした。

その時に感じたのは、物理的な大変さよりも、精神的な「社会からの孤立感」でした。

夜、子供が高熱を出した時。

救急病院に行くべきか、朝まで待つべきか。その判断を、誰とも相談できずに一人で決めなければならない恐怖。

暗い部屋で、スマホの画面だけが光っていて、検索履歴は「子供 高熱 震え」の文字ばかり。

外は静まり返っていて、まるで世界中で起きているのは私と子供だけのような錯覚に陥ります。

「誰か、大丈夫だよって言って」

そう思うけれど、SNSを開けば、キラキラした「丁寧な暮らし」をしている(ように見える)投稿が溢れていて、余計に惨めになる。

「みんなちゃんとやっているのに、どうして私はこんなに余裕がないんだろう」

日本の都市部では、隣に住んでいる人の顔も知らないことが珍しくありません。

昔のような「長屋(Nagaya)」文化——醤油の貸し借りができるような近所付き合い——は、もうほとんど残っていません。

プライバシーは守られるようになったけれど、その分、密室育児が加速しました。壁一枚隔てた向こうには人がいるのに、助けを求められない。

この「群衆の中の孤独」こそが、現代日本のソロペアレンティングのリアルな手触りなのです。

「可哀想」という視線への反発

そして、ソロペアレントたちが何より傷つくのは、周囲からの「可哀想に」という視線ではないでしょうか。

「一人で子育てして偉いね(大変だね)」

この言葉は、慰めのようでいて、実は「あなたは通常の状態ではない苦労を背負っている」という再確認でもあります。

子供に対してもそうです。

「片親だから寂しい思いをしているのではないか」と勝手に推測されることへの怒り。

私の友人は、「子供が少し反抗期を迎えただけで『やっぱり父親がいないから』と学校の先生に言われた」と激怒していました。反抗期なんて、両親がいてもいなくても来るものです。でも、ソロペアレント家庭で起きると、すべてが「親が一人しかいないこと」に原因付けられてしまう。

これを「Stigma(スティグマ・烙印)」と呼ばずして、何と呼ぶのでしょうか。

序章の終わりに:なぜ今、この話をするのか

ここまで、あえて日本社会の「暗部」や「重苦しさ」に焦点を当てて書いてきました。読んでいて少し胸が苦しくなったかもしれませんね。ごめんなさい。

でも、この現状(Real)を知っていただかないと、次に話す「希望」や「強さ」が嘘っぽくなってしまうと思ったのです。

日本には、根強い「標準家族信仰」があります。

「迷惑をかけてはいけない」というプレッシャーがあります。

「片親は欠損である」という古いバイアスがあります。

しかし。

But.

今、このブログを読んでいるあなたに伝えたいのは、ここからが本題だということです。

私たちは、ただこの重圧に押しつぶされて、めそめそと泣いているだけの存在ではありません。

コンクリートの隙間から咲くタンポポのように。

厳しい冬を超えて芽吹く梅の花のように。

この「制約」や「逆境」があるからこそ生まれる、とてつもないエネルギーと、深い愛情の形があるのです。

「ひとりで育てる」ということは、決して「半分」になることではありません。それは、覚悟を決めた人間だけが手に入れられる、独自の「完全な世界」を築くことでもあるのです。

次回の【承】では、この厳しい日本社会の中で、ソロペアレントたちがどのように戦い、時には傷つきながらも、日常の中に「小さな革命」を起こしているのか。

「完璧な親」という幻想を捨てて、泥臭くも愛おしいリアリティについて、もっと深く掘り下げていきたいと思います。

3000文字という長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。

日本から愛を込めて。

 完璧主義の罠——「ちゃんとした親」になろうとして心が折れる時

「ちゃんと」しなさい、という呪い

日本で子育てをしていると、一日に何度この言葉を聞く(あるいは言ってしまう)でしょうか。

「ちゃんと食べなさい」

「ちゃんと挨拶しなさい」

「ちゃんとした服を着なさい」

日本社会は、この「ちゃんと=Standard(標準)」の基準が驚くほど高い国です。

特に母親に対する期待値は、エベレスト並みに高いと言っても過言ではありません。

例えば、子供が小学校に入学する時。

学校から「袋物(Fukuromono)」のリストが渡されます。体操着入れ、上履き入れ、給食袋、レッスンバッグ…。そして驚くべきことに、多くの学校(特に地方や伝統的な学校)では、「お母さんの手作り」が暗黙の推奨とされています。

しかも、「縦30cm、横40cm」といったミリ単位の指定付きです。

パートナーがいる家庭でも大変なこの作業。

仕事、家事、育児を一人で回しているソロペアレントにとって、これは「深夜の孤独な戦い」になります。

「既製品を買えばいいじゃない?」

海外の友人は不思議そうな顔でそう言います。合理的ですよね。私もそう思います。

でも、ここで前回の「世間体」が顔を出します。

「やっぱり片親だから、手が回らないのね」

「お母さんが忙しすぎて、子供が愛情不足なんじゃない?」

そんな幻聴が聞こえてくるのです。だから、私たちは夜なべをしてミシンを踏みます。既製品よりも不格好かもしれないけれど、「私は子供のために時間を割いた」という免罪符が欲しいのです。

これは、子供のためというより、自分たちが「ちゃんとした親」であると社会に証明するための、悲しい儀式なのかもしれません。

「キャラ弁」という戦場

もう一つ、日本独特の文化でソロペアレントを追い詰めるのが「お弁当(Bento)」です。

皆さんもInstagramなどで「Kyaraben(Character Bento)」を見たことがありますか? アニメのキャラクターを海苔やチーズで精巧に描いた、芸術作品のようなお弁当です。

日本の幼稚園や学校では、お弁当箱を開けた瞬間が、子供たちの「ヒエラルキー」を決める瞬間になることさえあります。

茶色いおかずばかりの地味なお弁当だと、子供が「恥ずかしい」と感じてしまう空気があるのです。

私の友人のシングルファザー、Kさんの話です。

彼は朝5時に起きて、娘のために「パンダのおにぎり」を作っていました。不器用な手で、小さな海苔をピンセットで切り抜いて。

「母親がいないから可哀想、なんて絶対言わせたくないんだ」

彼はそう言って笑っていましたが、その笑顔の裏にある必死さを思うと、胸が締め付けられます。

私たちは、「両親が揃っている家庭」の子供たちが持っているもの、経験していること、食べているもの…そのすべてを、一人で、しかも同等以上のクオリティで提供しようとしてしまいます。

「一人だからできない」を言い訳にしたくない。そのプライドが、いつしか自分たちの首を絞める「完璧主義の罠」になっていくのです。

「ワンオペ」の極限状態が生む孤独

日本では、一人で育児と家事のすべてを回す状態を、飲食店の一人勤務になぞらえて**「ワンオペ(One-Ope)」**と呼びます。

ソロペアレントは、365日24時間、終わりのないワンオペ営業中です。

この生活の何が一番辛いかというと、「判断の連続」に脳が疲弊することです。

今日の夕飯のメニューから、子供の進路、保険の契約、週末の予定、病気の時の対応…。

人生のすべての舵取りを、相談する相手もなく、たった一人で行わなければなりません。

「これでいいのかな?」

「私の選択は間違っていないかな?」

常に不安がつきまといます。

例えば、仕事で疲れて帰ってきて、子供が「遊びたい」と泣いた時。

余裕があれば抱きしめられるのに、つい「うるさい!」と怒鳴ってしまい、その後に自己嫌悪でトイレで泣く。

パートナーがいれば、「ちょっと代わって」と言える場面でも、逃げ場がありません。

この「逃げ場のない閉塞感」が、日本の狭い住宅事情と相まって、心を蝕んでいきます。

テレビをつければ「丁寧な暮らし(Teinei na Kurashi)」という、スローライフを推奨する番組が流れています。手作りのジャム、干した洗濯物の匂い、笑顔の食卓。

コンビニの弁当を子供と食べている自分とのギャップに、テレビを消したくなる夜が何度あったことか。

しかし、そこには「隠された強さ」が芽生える

ここまで書くと、「ソロペアレントは辛いばかりなのか」と思われてしまうかもしれません。

いいえ、ここからが「承」の核心です。

この過酷な「ワンオペ」と「完璧主義への抵抗」の日々の中で、私たちは知らず知らずのうちに、とてつもない**「サバイバル能力」**を身につけていくのです。

人間は、追い詰められると進化します。

まず、「決断力」が劇的に速くなります。

誰にも相談できないということは、裏を返せば「誰の許可もいらない」ということです。

「今週末、海に行こう!」と思い立ったら、誰のスケジュール調整も必要ありません。自分の覚悟一つで、世界はどうにでも動かせる。この「全能感」にも似た自由は、ソロペアレントだけの特権です。

そして、「マネジメント能力」の向上。

限られた時間と予算の中で、いかに子供を満足させ、生活を回すか。

私たちは、企業のプロジェクトマネージャー顔負けのスキルを日常で発揮しています。

風邪を引いた時のバックアップ体制の構築、スーパーの特売日の把握、子供の精神状態のケア。これらをマルチタスクでこなす私たちは、実は社会的に見ても非常にハイスペックな人材になっているのです(残念ながら、日本の企業はまだその価値に気づいていないことが多いですが!)。

弱さを見せる強さへ

私が最も尊敬するシングルマザーの先輩、Mさんはこう言いました。

「最初はね、父親の役割も全部私がやらなきゃって肩肘張ってたの。でも、ある日過労で倒れて、子供に救急車を呼ばせちゃったのよ」

その時、彼女は小学生の息子さんに泣きながら謝ったそうです。

「ごめんね、お母さん、弱くて」

すると息子さんはこう言ったそうです。

「知ってるよ。お母さんが頑張りすぎてるの、僕ずっと知ってたよ」

その瞬間、Mさんは「完璧な親」という鎧を捨てることができたと言います。

「ああ、私は『強い親』を見せる必要はなかったんだ。『人間として一生懸命生きている姿』を見せればよかったんだ」と。

日本には**「親の背中を見て育つ(Oya no senaka wo mite sodatsu)」**という言葉があります。

親があれこれ口で教えなくても、子供は親の生き方や姿勢を見て育つという意味です。

ソロペアレントの私たちは、確かに「揃った家族」の形は見せられないかもしれません。

でも、「困難があっても、歯を食いしばって前を向く姿」「不器用でも、愛情を持って生きる姿」「自分の足で立ち、自分の責任で人生を選ぶ姿」という、最も力強い「背中」を子供に見せているのではないでしょうか。

それは、教科書や道徳の授業では教えられない、生きた「人生の教科書」です。

私たちの強さは、最初からあったものではありません。

孤独な夜に涙を流し、世間体の壁にぶつかり、それでも「子供のために」と朝起き上がる、その繰り返しの日常の中で鍛え上げられた「心の筋肉」なのです。

嵐の中の静けさ

「承」の最後に、あることに気づきます。

私たちは社会の「枠」からはみ出してしまったかもしれない。

でも、その「枠」の外には、誰も教えてくれなかった広い荒野が広がっています。

そこは風が強く、雨もしのげないけれど、自分の足でどこへでも行ける自由がある。

「欠損」だと思っていた部分は、実は「風通しの良い窓」だったのかもしれません。

助けを求めなければ生きていけないからこそ、人の優しさが骨身に染みる。

時間がないからこそ、子供と過ごす一瞬の夕暮れが、涙が出るほど美しく感じる。

私たちの日常は、確かに戦場です。

でも、その戦場でしか咲かない花があることに、私たちは気づき始めています。

次回の**【転】**では、この気づきをさらに深め、視点をガラリと変えてみましょう。

日本の伝統技術「金継ぎ(Kintsugi)」の哲学を通して、私たちの傷や欠けを、どのように「美しい景色」へと変えていくのか。

ネガティブをポジティブに無理やり変換するのではなく、痛みをそのまま価値に変える、日本的な「受容」の知恵についてお話しします。

コーヒーのおかわりはいかがですか?

物語は、いよいよクライマックスへと向かいます。

金継ぎの心——傷を隠さず、黄金で飾る

壊れた器は、ゴミ箱行きですか?

みなさんは、「金継ぎ(Kintsugi)」という日本の伝統技術をご存知でしょうか?

最近は海外のアートシーンでも注目されているので、聞いたことがある方もいるかもしれません。

割れたり欠けたりした陶磁器を、漆(うるし)で接着し、その継ぎ目を金や銀の粉で装飾して修復する技法です。

ここで重要なのは、**「割れ目を隠さない」**ということです。

むしろ、金で強調し、その「傷跡」を新しい模様(景色)として愛でるのです。

私は離婚をした直後、自分の人生を「床に落ちて粉々に割れたお皿」のように感じていました。

もう二度と元には戻らない。価値がなくなった。誰かに出すのも恥ずかしい。

必死で接着剤でくっつけて、「何事もなかったかのように」見せかけようとしていました。それが前回の【承】でお話しした「完璧な親を演じる」という行為です。

でも、ある日、金継ぎの展示を見て、雷に打たれたような衝撃を受けたのです。

そこにあった器は、新品の時よりも遥かに深く、力強い美しさを放っていました。

その器が辿ってきた「壊れた」という歴史が、金のラインとなって刻まれている。

「ああ、私の人生もこれでいいんだ」

そう思えた瞬間、涙が止まりませんでした。

ソロペアレントであること。それは「失敗」の跡ではありません。私たちが苦悩し、決断し、サバイブしてきたという、誇り高い「黄金の傷跡」なのです。

「Kesson(欠損)」から「Wabi-Sabi(侘び寂び)」へ

日本には**「侘び寂び(Wabi-Sabi)」**という独自の美意識があります。

これは説明がとても難しいのですが、簡単に言えば「不完全なもの、未完成なもの、古びていくものの中に美しさを見出す心」です。

満月も美しいけれど、雲に隠れた月や、欠けていく月にも風情がある。

満開の桜も美しいけれど、散りゆく花びらや、枯れた枝にも命を感じる。

私たちソロペアレントの家庭は、社会的な「型(満月)」から見れば「欠けた月」かもしれません。

でも、その「欠け」があるからこそ生まれる「余白」があります。

例えば、私の家では、父親という絶対的な権威(昭和的な意味での)がいません。

その分、風通しが良いのです。

大きなダイニングテーブルの片側が空いているからこそ、そこに友人が座ったり、子供が絵を描くスペースになったりする。

「何かが足りない」のではなく、「新しい何かが入り込むスペースがある」と捉え直した時、私たちの生活は急に色鮮やかになりました。

「パパがいないから寂しい」ではなく、「ママと二人だから、こんなに密度の濃い話ができる」。

この視点の転換(Reframing)こそが、私たちが手に入れた最大の武器です。

家族運営のモデルチェンジ:トップダウンからチーム戦へ

視点が変わると、子供との関係性も劇的に変わりました。

かつての私は、子供を「守るべきか弱い存在」として背負い込み、自分が盾にならなければと必死でした。これは典型的な「親=管理者、子供=被保護者」という縦の関係です。

でも、一人で全てを背負うのには限界があります。

そこで私は、思い切って子供を「人生を共に戦うチームメイト(同志)」として扱うことにしました。

ある夜、私は正直に子供たち(当時小学生)に言いました。

「お母さんは、一人では全部できないことがあります。仕事も頑張りたいし、みんなと笑ってもいたい。だから、この家の運営チームの一員として、力を貸してほしい」

それは、親としての威厳を捨てるような怖さもありました。

でも、子供たちの反応は意外なものでした。彼らの目が、キラリと輝いたのです。

「任せてよ!」

そこから我が家は、「シェアハウスの住人」のような関係になりました。

洗濯物を畳むのは次男のプロフェッショナルな仕事。

お風呂掃除は長男の担当。

私は料理と資金調達(仕事)担当。

「手伝う」のではありません。「分担する」のです。

子供たちは「やらされている」のではなく、「自分たちがいないとこの組織(家庭)は回らない」という責任感と有用感(Self-efficacy)を持つようになりました。

日本の教育では、よく「自己肯定感が低い」と言われますが、我が家の子供たちは妙に自信満々です。

「俺が畳んだタオル、マジでホテルみたいじゃない?」と自画自賛しています。

親が不完全だからこそ、子供は「自分がしっかりしなきゃ」と育つ。

これは、完璧な環境を与えられた子供には得られない、たくましい「生活力」というギフトです。

弱さは「接着剤」になる

金継ぎにおいて、漆(うるし)は接着剤の役割を果たします。

家族において、その接着剤になるのは何でしょうか?

逆説的ですが、それは親の「弱さ」だと思います。

以前の私は、子供の前で泣くなんて絶対にダメだと思っていました。

でも、今は辛い時、「ごめん、お母さん今ちょっとキャパオーバーだわ」と宣言して、ソファでふて寝します(笑)。

すると、子供たちが毛布を掛けてくれたり、下手くそなコーヒーを淹れてくれたりします。

「大丈夫?」と心配されることで、子供の中に「優しさ」や「共感性(Empathy)」が育つのです。

もし私が鉄人のような完璧な母親だったら、彼らは人の痛みに気づかない大人になっていたかもしれません。

お互いの凸凹を埋め合う。

私が抜けているところを子供が補い、子供ができないところを私が支える。

この相互依存(Interdependence)の関係こそが、最強の家族の絆です。

「片親だからかわいそう」なんて、外野には言わせておけばいい。

私たちは、お互いを必要とし合う、誰よりも強固なチームなのですから。

世間体との「美しい距離感」

視点が変わると、あれほど怖かった「世間体」という妖怪も、小さく見えてきます。

「みんなと違う」ことは、恐怖ではなく「オリジナリティ」になります。

日本では同調圧力が強いと言いましたが、実は最近、少しずつ風向きが変わってきています。

SNSなどを通じて、「自分の幸せは自分で決める」という生き方を発信する人が増えてきました。

私たちソロペアレントもそうです。

「すみません」と頭を下げるのをやめました。

代わりに、「うちはこういうスタイルですが、何か?」と笑顔で堂々としていると、不思議なことに周囲も「あの家はああいう方針なんだな」と認めてくれるようになります。

日本の社会は、一度「型」から抜けた人に対して、最初は冷たいですが、その人が楽しそうに、そして力強く生きていると、今度は一転して「個性的で素敵ね」と評価を変える傾向があります(調子がいいですよね!)。

私は最近、あえて「シングルマザーであること」を隠さずに話すようにしています。

「大変でしょう?」と聞かれたら、「大変ですけど、自由で最高に楽しいですよ」と答えます。

その時の相手の、鳩が豆鉄砲を食らったような顔! それを見るのが密かな楽しみでもあります。

私たちが堂々と生きること。

それが、社会の偏見に対する一番の復讐であり、そして一番の啓蒙活動(Advocacy)なのです。

傷を黄金に変えて、未来へ

金継ぎされた器は、元の器よりも強度が増すこともあるそうです。

私たちも同じです。

一度壊れて、また繋ぎ合わせた心は、以前よりもずっとしなやかで、強い。

悲しみを知っているから、人の悲しみに寄り添える。

孤独を知っているから、人の温かさに感謝できる。

一人で立つことの厳しさを知っているから、本当の意味でのパートナーシップの価値がわかる。

これらは全て、私たちがソロペアレントという道を歩まなければ手に入らなかった「黄金」です。

人生の履歴書に「離婚」や「未婚」という項目があるとしたら、私はそこに蛍光ペンでマーカーを引きたいくらいです。「ここが私の転機(Turning Point)であり、成長の源泉でした」と。

さて、私たちの器は、もう修復されました。

継ぎ目は黄金に輝いています。

では、この美しい器に、これからの人生で何を盛り付けていきましょうか?

次回の最終章**【結】**では、この新しく生まれ変わった器で楽しむ「これからの人生」についてお話しします。

子供が巣立った後のこと。

新しいパートナーシップの可能性。

そして、私たちが見つけた「究極の幸せ」の定義について。

物語は、ハッピーエンドに向かって加速していきます。

どうぞ、最後まで見届けてくださいね。

 新しい家族の形——私たちは「不足」ではなく「ユニーク」な道を歩む

「サザエさん」じゃない、私たちの新しい幸せ

日本には、国民的アニメ『サザエさん』があります。

おじいちゃん、おばあちゃん、両親、子供たち。三世代が一つ屋根の下で暮らす、日本の「伝統的で理想的な家族」の象徴です。

日曜日の夕方、このアニメを見ると「ああ、うちは違うな」と、かつては胸がチクリとしたものでした。

でも、今は違います。

私たちは、既存のパッケージ商品のような幸せではなく、自分たちでパーツを集めて組み立てる「オーダーメイドの幸せ」を選んだのです。

私の友人がこんなことを言っていました。

「うちはパパがいない分、私が『お母さん』であり『お父さん』であり、時には『親友』にもなる。一人三役だから、人生の経験値が3倍速で貯まるのよ」

このポジティブな諦観こそが、日本のソロペアレントが到達する境地です。

私たちは「何かが足りない可哀想な家族」ではありません。

密度が濃く、風通しが良く、互いの個性を尊重し合う「ユニーク(独自)なチーム」なのです。

社会の定規で測れば、私たちは規格外かもしれません。

でも、規格外の野菜の方が、スーパーに並ぶ綺麗な野菜よりも味が濃くて美味しいこと、よくありますよね? 私たちの人生も、きっとそういう「味の濃い」ものなのだと思います。

「巣立ち(Sudachi)」——その時、何が残るか

日本の子育ての最終ゴールは**「巣立ち(Sudachi)」**です。

文字通り、雛鳥が巣から飛び立つこと。

ソロペアレントにとって、この「巣立ち」は、両親が揃っている家庭よりも少しだけ切なく、そして誇らしいイベントになります。

なぜなら、私たちは「戦友」として子供と並走してきたからです。

私の先輩シングルマザーの話をさせてください。

彼女の息子さんが就職して家を出る日。玄関で息子さんは、深々と頭を下げてこう言ったそうです。

「お母さん、俺を育ててくれてありがとう。親父がいなくて寂しいと思ったことは一度もなかった。お母さんが二倍笑っててくれたから」

彼女は、その言葉を聞いた時、自分が背負ってきた「世間体」や「重圧」がすべて報われたと感じたそうです。

そして、家の中がシーンと静まり返った時、彼女が感じたのは「孤独」ではなく「自由」でした。

「さあ、私の第2の人生の始まりだ」

日本には**「人生百年時代」**という言葉があります。

子育てが終わっても、まだ人生は半分近く残っています。

ソロペアレントとして「個」を磨いてきた私たちは、子供への依存度が意外と低いのです。【転】でお話ししたように、自分自身の足で立つ訓練をずっとしてきたからです。

子供は子供の人生を生きる。私は私の人生を生きる。

この潔い「個の確立」こそが、これからの日本社会に必要な新しい親子関係のモデルになるはずです。

パートナーシップの再定義——「補欠」はいらない

よく海外の方から聞かれるのが、「再婚(Remarriage)についてはどう考えているの?」という質問です。

日本の古い価値観では、「子供のために新しいお父さん(お母さん)を見つけなきゃ」というプレッシャーがありました。まるで、抜けた歯を差し歯で埋めるような感覚で。

でも、今の私たちは少し違います。

「子供のための親」は、もう私が一人で十分に務め上げました。

だからもし、次に誰かとパートナーになるとしたら、それは「子供の親代わり」としてではなく、「私自身の人生のパートナー」としてです。

「籍を入れる(法律婚)」ことにこだわらない人も増えています。

週末だけ一緒にご飯を食べる「事実婚(Common-law marriage)」や、お互いの家を行き来する「通い婚」。

平安時代の貴族のようなスタイルですが(笑)、これが意外と現代の自立したソロペアレントには合っているのです。

「誰かに養ってもらおう」なんて微塵も思っていません。

だって、私たちは一人で嵐の中を船の舵を取ってきた船長ですから。

隣に並んで、同じ景色を楽しんでくれる人がいればいい。いなければ、一人で楽しむまで。

この「執着のなさ」が、逆に素敵な**「ご縁(Go-en)」**を引き寄せるのかもしれません。

「足るを知る」——日常の中にある本当の豊かさ

最後に、日本の古い言葉をもう一つご紹介します。

「足るを知る(Taru wo shiru)」。

禅の言葉で、「自分がすでに持っているものの価値に気づき、それに満足する」という意味です。

ソロペアレントの生活は、経済的にも時間的にも、決して潤沢とは言えないかもしれません。

でも、だからこそ、私たちは小さな幸せを見つける天才になりました。

  • スーパーで半額になったお刺身をゲットして、子供と「やったー!」とハイタッチする瞬間。
  • 仕事が休みの日に、昼まで二人でパジャマでゴロゴロする背徳感。
  • 子供が学校で作ってきた、不格好な「肩たたき券」。

お金で買える豪華な旅行やブランド品はなかったかもしれない。

でも、「これさえあれば生きていける」という、自分にとっての必要最小限の幸せ(Core Happiness)を知っている強さがあります。

他人と比べない。

SNSのキラキラした投稿に惑わされない。

「私の人生、色々あったけど、結構悪くないじゃない」と、夜寝る前に思えること。

それが、私たちが辿り着いた**「生きがい(Ikigai)」**の正体です。

結びに代えて——海を越えて繋がるあなたへ

全4回にわたってお届けした「日本からの手紙」、いかがでしたでしょうか。

日本という国は、便利で美しいけれど、社会の「枠」が強固で、そこから外れた人には少し生きづらい場所でもあります。

でも、その厳しさがあるからこそ、私たちは雑草のように強く根を張り、自分たちだけの花を咲かせることができました。

もし、このブログを読んでいるあなたが、世界のどこかで「自分はひとりぼっちだ」「社会のレールから外れてしまった」と感じて泣いているとしたら。

どうか思い出してください。

極東の小さな島国にも、同じように悩み、もがき、それでも「金継ぎ」だらけの笑顔で生きている仲間がいることを。

あなたの傷は、欠損ではありません。

あなたが戦ってきた証(あかし)であり、あなただけの美しい模様です。

私たちは一人だけれど、独りではない。

空を見上げれば、同じ月を見ています。

欠けている月も、満ちていく月も、どちらも美しいように。

私たちの人生も、今のそのままで、十分に美しいのです。

長い間、私のお喋りに付き合ってくださり、ありがとうございました。

また、どこかの記事でお会いしましょう。

それまでは、どうかご自分を大切に。

温かいお茶でも飲んで、一息ついてくださいね。

From Japan with Love and Resilience.

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