雨の日も、雪の日も。ランドセルと「Gaman」の第一歩
やっほー!こんにちは!
日本から、現役主婦の(あなたの名前やニックネーム)です。
海外での生活、楽しんでる? もちろん、楽しいことばっかりじゃなくて、文化の違いに戸惑ったり、子育てに奮闘したり、毎日あっという間だよね。
こないだ、アメリカに住んでる友達とビデオ通話してた時のこと。
彼女、朝からすっごいお疲れモードなの。
「どうしたの?」って聞いたら、「毎朝、子供のスクールバスのバス停まで車で送って、夕方もお迎え。下の子もいるから、もうバタバタで!」って。
わかる、わかるよその大変さ!
アメリカじゃ、子供を一人で歩かせるなんて(場所にもよるけど)「ネグレクト(育児放棄)」って言われかねないって言うもんね。安全が第一、それはもう重々承知。
でもね、その話を聞きながら、ふと我が家の窓から見える景色に目をやったの。
朝の7時半。
家の前の道を、黄色い通学帽子をかぶった小さな集団が、きゃっきゃと笑いながら歩いていく。
一番大きな子でも、たぶん小学校3年生(9歳)くらいかな。
その子が、ピカピカの大きなランドセルを背負った小さな1年生(6歳!)の手を引いて、「ほら、車来るからこっち!」なんて言いながら、横断歩道を渡っていく。
そう。
ここ日本では、これが「日常」なんだよね。
(もちろん、地域や学校の方針による差は年々出てきてるけど)
多くの公立小学校では、親が車で送り迎えすることは、原則禁止。
「集団登校」といって、近所の子たちでグループを作って、上級生がリーダーになって、みんなで歩いて学校に行くのが基本。
うちの長男が1年生になったばかりの頃なんて、もう心配で心配で!
家から学校まで、大人の足で歩いても20分。子供の足だともっとかかる。
大きな道路も渡らなきゃいけない。
背中には、教科書やらノートやら水筒やら、いろんな「夢と希望(という名の重り)」が詰まった、あの重たいランドセル。
正直、「え、この小さな体で、毎日こんな距離歩けるの!?」って思ったよね。
入学式の翌日。
新品の制服に、まだ背負われてる感満載のランドセル。
「ママ、行ってきます!」って元気よく言ったものの、玄関を出て2歩で、
「…ママ、ランドセル、重い…」
「…ママ、水筒、持って…」
出たー! 早速!
もうね、私も「ほら、やっぱり! 持ってあげるよ!」って言いたくなるのを、ぐーーーーーっとこらえて。
「昨日、先生と約束したでしょ? 自分の荷物は、自分で持つ。学校までは、自分で行く。大丈夫、あなたならできるよ!」
って、背中を押したの。
(内心は、「あぁ、手伝いたい! 車で送っちゃいたい!」って叫んでたけど。笑)
角を曲がって、彼の小さな背中が見えなくなるまで、こっそり見送る。
もう、心臓バクバク。
(ちゃんと渡れたかな…)
(途中で転んでないかな…)
(「やっぱり無理ー!」って泣いて帰ってこないかな…)
仕事(在宅ワーク)中も、なんだかソワソワしちゃって。
でもね、夕方。
「ただいまー!」って、朝の不安そうな顔とは打って変わって、なんだかちょっと誇らしげな顔で帰ってきたの。
「ママ! 今日、学校まで一人で行けたよ! ◯◯くんと一緒に行ったんだ!」
その顔を見た時、「あぁ、信じてよかった」って思ったんだよね。
これって、通学だけじゃない。
日本の学校って、とにかく「自分のことは自分で」を徹底するの。
月曜日の朝なんて、すごいのよ。
ランドセルの他に、体操着入れ、上履き入れ、給食袋、週末に洗った給食着、図工の道具箱、ピアニカ…
もう、サンタクロースか!?ってくらいの荷物を、小さな体で一生懸命運んでる。
忘れ物をしても、基本、親は届けちゃいけない。
「忘れ物をしたら、自分が困る。だから、次は忘れないように、自分でちゃんと準備する」
っていうことを、身をもって学ぶためなんだって。
(もちろん、親としては「あー! プリント出し忘れてる! 届けたい!」ってうずうずするんだけどね。)
こういう話を海外の友達にすると、
「え、なんでそんなに子供に厳しくするの?」
「かわいそうじゃない?」
「安全面は大丈夫なの?」
って、すごく驚かれる。
でもね、これって、別に「厳しく」しようとか、「冷たく」しようとか、そういうことじゃないんだと思う。
じゃあ、なんで日本の親や学校は、子供たちにこういう「試練」を(あえて)与えるんだろう?
そこにこそ、日本人が昔から、それこそ私たちが子供の頃から、いや、もっと言えばおじいちゃんおばあちゃんの時代から、ずーっと大切にしてきた「ある感覚」が隠されてるんだよね。
それが、今日のテーマ。
「Gaman(我慢)」
あ、「Gaman」って聞くと、なんだか「やりたいことを無理やり抑え込む」とか、「苦しいことにひたすら耐える」みたいな、ちょっとネガティブなイメージを持っちゃうかもしれない。
英語だと「Patience(忍耐)」とか「Endurance(我慢)」って訳されることが多いけど、私たちが日常で使ってる「Gaman」って、実はもうちょっと深くて、ポジティブなニュアンスも含んでる気がするの。
それは、単に耐えるんじゃなくて、「自分のやるべきことのために、今はぐっとこらえる力」であり、「その先にある成長を信じる力」。
そして、周りの人に迷惑をかけないっていう**「尊厳(Dignity)」**にもつながってる。
さっきの通学の話で言えば、
「学校に行く」という自分の役目のために、
「重たい」とか「面倒くさい」っていう気持ちを、ちょっとだけ「Gaman」する。
それを毎日続けることで、「自分は一人でできるんだ」っていう自信と、内面的な強さ(これを「Resilience(回復力)」って言うのかな?)が育っていく。
この「Gaman」という感覚。
これって、実は海外で生活している私たちにとっても、すごく役立つ「人生術」になるんじゃないかと思うんだよね。
言葉の壁、文化の違い、子育ての悩み…。
「あー、もう!」って投げ出したくなる瞬間に、ちょっとだけ踏ん張る力。
今日は、この日本の「Gaman」っていう不思議な力について、私の実体験も交えながら、もうちょっと深掘りしてみたいと思います!
ただ耐えるだけじゃない。「我慢」が育む、見えない力
(「起」の続きから)
さて、「Gaman」って聞くと、どうしても「苦行」とか「精神論」みたいな、ちょっと古風で堅苦しいイメージ、あるかもしれないよね。
「そんなの、今の時代に合わないよ!」って声も聞こえてきそう。
私もね、正直、日本で子育てしてても「これって、ただの無理強いじゃない?」って思う瞬間、ゼロじゃないよ。
例えば、うちの子の幼稚園(日本では保育園と幼稚園があったりするんだけど、まぁプレスクールみたいな感じね)の発表会でのこと。
劇の途中で、セリフをど忘れしちゃった子がいたの。
舞台の袖には先生がいるんだけど、絶対に出てこない。
もちろん、小声で「ほら、◯◯だよ」って助け舟は出してるんだけど、その子が自分で思い出して言うまで、ずーっと待ってるの。
その子も、泣きそうになるのをぐっとこらえて、必死で思い出そうとしてる。
シーン…って静まりかえる会場。
親の私も「が、頑張れ…!」って、手汗びっしょり(笑)
もしこれが海外のスクールだったら、「大丈夫よ、次行こう!」って先生がすぐサポートしたり、周りの子が助けたりするシーンかな?とも思うんだけど。
日本の場合は、「本人が乗り越える」のを待つ、っていう場面が結構あるんだよね。
これもある種の「Gaman」の訓練。
見てるこっちはハラハラするんだけど、結局その子は、数分後にちゃんとセリフを思い出して、最後までやり遂げたの。
終わった後の、あの子の顔!
泣きべそかきそうだったのが嘘みたいに、もう「やりきった!」っていう達成感と自信に満ち溢れてて。
きっとあの子は、「自分は、パニックになっても最後までできた」っていう原体験を手に入れたんだと思う。
そう、私たちが子供の頃から教えられてきた「Gaman」って、単に「耐えろ、忍べ!」っていう根性論だけじゃないんだよね。
その先にある**「内なる強さ(Internal Fortitude)」と「折れない心(Resilient Spirit)」**を育てるための、いわば「心の筋トレ」みたいなものだったんじゃないかなって、最近すごく思うの。
「起」で話した、重たいランドセルの話もそう。
あんな重たいもの、毎日毎日背負って歩く。
雨の日も、風の日も、灼熱のアスファルトの日も、凍える雪の日も。(日本は四季がハッキリしてるからね!)
親としては「かわいそう」「車で送りたい」って思うよ。思うけど!
でも、それを6年間(日本の小学校は6年制なの)続けることで、子供たちは何を学ぶか。
まず**「自己管理能力」**。
自分の荷物は自分で運ぶ。明日の準備も自分でやる。
この「自分のことは自分でやる」っていう当たり前のことが、実はすごく大事。
だって、海外で生活しててもさ、誰かが全部お膳立てしてくれるわけじゃないもんね。
書類の手続き、言葉の壁、子供の学校とのこと…。
「あーもう、わかんない!」って投げ出すんじゃなくて、自分で調べて、自分で動くしかない。
その「自分で立つ」力って、こういう小さな「Gaman」の積み重ねで養われるんじゃないかな。
それから**「忍耐力」と「やり遂げる力」。
学校までの道が、遠い。荷物が、重い。
でも、だからって行かないわけにはいかない。
「学校に行く」っていう、自分に与えられたミッションをクリアするために、今日の「重い」「面倒くさい」を乗り越える。
この小さな「乗り越えた」っていう成功体験が、めちゃくちゃ大事。
「今日もちゃんと行けた」
「6年間、歩き続けた」
この自信が、「どうせ私なんて…」っていう自己否定じゃなくて、「私なら、きっとできる」っていう「自己効力感(Self-efficacy)」**につながっていくんだと思う。
私自身の話で恐縮だけど、私、子供の頃、めちゃくちゃ体が弱かったの。
しょっちゅう熱出して学校休んでたし、マラソン大会なんて大の苦手。
いつもビリから数えたほうが早かった。
でもね、小学校の時の担任の先生が、マラソン大会の時、ビリの私と一緒に走ってくれたの。
「ほら、苦しいな。でも、あそこの電信柱まで『Gaman』してみよう」
「よし、着いたな! じゃあ次は、あのカーブまで『Gaman』してみよう」
そうやって、小さな「Gaman」を積み重ねさせてくれた。
結局、最後まで歩かずに(ビリだったけど)完走できたんだよね。
その時、「あ、私でも『Gaman』すれば、最後までできるんだ」って思えたの。
その経験って、大人になっても生きてる。
海外で生活するって、まさにこれの連続じゃない?
言葉が通じなくて、スーパーでレジの人に言いたいことが言えない。悔しい。
でも、「あ、もう嫌だ!」って家に閉じこもるんじゃなくて、「よし、次はあのフレーズだけ覚えて『Gaman』して言ってみよう」って思う。
小さな「Gaman」を繰り返して、ちょっとずつ世界を広げていく。
そしてね、もう一つ。「Gaman」が育てる大事な力。
それは**「他者への想像力」**だと思うの。
日本の学校では、「集団登校」だけじゃなくて、「掃除」も子供たちがやるのが普通。
自分たちが使った教室、トイレ、廊下を、みんなで分担して掃除する。
「え、トイレ掃除も子供がやるの!?」って驚かれるんだけど、本当(笑)
もちろん、専門の業者さんが入る学校も増えてるけど、まだまだ主流はこれ。
なんでこんなことするか。
「自分たちが汚したら、自分たちで綺麗にする」
「みんなが使う場所だから、綺麗に使う」
「掃除してくれる人(この場合は自分たちだけど)がいるから、汚さないようにしよう」
こういう気持ちを学ぶため。
これって、「自分がやりたいこと」をちょっと「Gaman」して、「みんなのために」動くっていう訓練だよね。
「あー、掃除面倒くさいな。遊びたいな」
でも、みんなやってるし、ここでサボったら他の子に迷惑がかかる。
だから、ちょっと「Gaman」して、自分の役割を果たす。
この感覚って、日本社会の根底に流れてる「和(Wa)」、つまり「調和」を重んじる文化と、ものすごく密接につながってると思う。
自分が自分が!って主張するんじゃなくて、
「今、自分はどう動くべきか」
「周りの人はどう思ってるか」
を、ぐっと「Gaman」して考える。
それが、結果としてスムーズな人間関係だったり、心地よいコミュニティを作ることにつながる。
海外にいると、逆に「なんで言わないの?」「あなたの意見は?」って言われて戸惑うことも多いよね(笑)
日本の「Gaman」が、時として「自己主張しない」「曖昧」ってマイナスに捉えられることもあるのも、重々承知。
でも、この「Gaman」が育む「内なる強さ」と「他者への想像力」って、環境が違う場所で、いろんな価値観の人たちと生きていかなきゃいけない私たち海外在住主婦にとって、実は最強の「お守り」になるんじゃないかなって思うんだよね。
すぐに泣かない。すぐに投げ出さない。
自分と違う意見があっても、すぐに「No!」って言うんじゃなくて、一回「Gaman」して、相手の背景を想像してみる。
そういう「しなやかな強さ」の根っこに、この「Gaman」がある気がしてならないんだ。
時代遅れ? それとも最強の処世術? 「Gaman」の現在地
(「承」の続きから)
ここまで、日本の「Gaman」がいかに私たちに「内なる強さ」とか「他者への想像力」を与えてくれるか、なんていう、ちょっといい感じの話をしてきたよね。
重いランドセルを背負って歩く小学生の姿に、日本人の美徳を見た!みたいな(笑)
でも、でもよ。
勘のいい皆さんは、きっとこう思ってるはず。
「いやいや、Gamanって、そんなキレイなだけじゃなくない?」
「むしろ、その『Gaman』のせいで、しんどい思いしてるんだけど!」
…はい、その通りです。
私も、心の底からそう思う瞬間、めちゃくちゃあります(笑)
海外で生活してると、余計にそう感じない?
日本で「常識」だと思って、ぐっと「Gaman」してたことが、一歩外に出たら「なんでそんなこと我慢してるの? 馬鹿なの?」みたいに言われちゃったり。
私にも、苦い経験があるよ。
まだこっち(日本)にいる時の話だけど、海外のクライアントとリモートで仕事してた時。
向こうの要求が、まぁ無茶苦茶でさ。
「いや、それ、契約と違うし、物理的に無理!」って内容だったんだけど、日本人の私は思っちゃうわけ。
「うーん、でもクライアントだし…」
「ここで『できません』って言ったら、関係が悪くなるかも…」
「なんとか『Gaman』して、期待に応えなきゃ…」
そう、出ました「Gaman」!
結局、数日間ほぼ徹夜で作業して、ボロボロになりながら納品したの。
そしたら、クライアントから一言。
「Oh, できたんだ! じゃあ、次もお願いね!」
…え?
「ありがとう」とか「無理させたね」とか、一切なし!
むしろ、「この人、この量でもできるんだ」って、基準が上がっちゃっただけ。
こっちは「Gaman」して「察して(=こんなに大変だったんだよ!)」って思ってたのに、向こうには「余裕でできる人」としか映ってなかった。
もう、ガックリだよね…。
これ、海外生活あるあるじゃない?
日本では「黙って頑張る」姿が「美徳」として評価されたり、「あの人、文句も言わずに頑張ってる、偉いね」ってなったりするけど、海外(特に欧米)では、
「Gaman=言いたいことがない(No Opinion)」
あるいは、
「Gaman=問題がない(No Problem)」
って受け取られちゃう。
「なんで嫌なら嫌って言わなかったの?」
「なんで不満があるなら交渉しなかったの?」
「あなたが『Gaman』して黙ってたんでしょ? それはあなたの責任だよ」
って、バッサリ。
うわーん、冷たい! でも、これがグローバルスタンダードだったりする…。
そう、日本の「Gaman」が、時として「負の遺産」になっちゃう瞬間。
それは、**「Gamanが目的化」**しちゃった時だと思うんだよね。
「承」で話した「心の筋トレ」としてのGamanは、
「重いけど、学校に行くために(目的)→Gamanする(手段)」
「セリフ忘れたけど、劇を成功させるために(目的)→Gamanする(手段)」
っていう、ポジティブな構造だった。
でも、私たちが陥りがちなのは、
「とりあえず、その場を丸く収めるために(目的?)→Gamanする(手段)」
「上司の機嫌を損ねないために(目的?)→Gamanする(手段)」
「みんな我慢してるから、私も(目的…なし!)→Gamanする(手段)」
っていう、「思考停止のGaman」。
これの何がヤバいかって、自分をすり減らすだけじゃなくて、周りにも「Gaman」を強要しちゃうこと。
いわゆる「同調圧力」ってやつね。
「私がこんなに我慢してるんだから、あなたも我慢しなさいよ!」
「なんであなただけ楽してるの!」
この空気が、日本社会の息苦しさの一因になってるのも、絶対あると思う。
(ママ友コミュニティとか、職場の飲み会とか…思い当たる節、ありすぎ!笑)
特に、私たち「主婦」っていう立場。
家事、育児、夫(パートナー)のこと、ご近所付き合い、地域のこと…。
名前のないタスクの嵐の中で、「Gaman」がデフォルト設定になってない?
「あー、私ばっかり…」
「疲れた。休みたい」
「誰か手伝って…」
その本音を、ぐっと「Gaman」して、飲み込んで、「いい妻」「いい母」を演じちゃう。
(演じてるつもりなくても、体が勝手に「Gaman」モードに入っちゃう)
その結果、どうなるか。
ある日突然、プツン、と何かが切れる。
爆発するか、燃え尽きるか、心が動かなくなるか。
これって、果たして「内なる強さ」なんだろうか?
いや、違うよね。
それはもう、「Gaman」じゃなくて、ただの「自己犠牲」。
「Resilience(回復力)」どころか、自分を壊してるだけ。
そう考えると、私たちが子供の頃に教わった「Gaman」って、もしかしたら「時代遅れ」の概念なのかもしれない。
「Gaman」なんて言葉で自分をごまかさず、
「嫌なことは、嫌(No)」
「無理なことは、無理(Can’t)」
「助けてほしい時は、助けて(Help)」
って、ちゃんと口に出して主張することの方が、よっぽど大事なんじゃないか。
…と、思うじゃん?
私も、海外のドラマとか見てると「あー、こうやってハッキリ言えたら楽だろうなー」って思うよ。
でも、ここで「転」。
(もともと「転」だけど、さらにひっくり返すよ!笑)
じゃあ、あの「Gaman」の感覚、全部捨てちゃっていいのか?
海外スタイルで、「私、これやりません!」「それはあなたの仕事でしょ!」って、全部主張して生きていったら、どうなる?
…たぶん、それはそれで、めちゃくちゃ疲れる(笑)
というか、コミュニティから弾き出される(笑)
だって、私たちは「Gaman」が育んだ「他者への想像力」も、同時に持っちゃってるから。
そんなこと言ったら、相手がどう思うかな、とか、この場の空気がどうなるかな、とか、考えちゃうんだよね。
(これはこれで、日本人特有の「呪い」であり「才能」でもあるんだけど)
それに、海外で生活してるからこそ、わかることもある。
ちょっとした理不尽さ、言葉の壁、文化の違い…。
そういう「どうにもならないこと」に直面した時。
いちいちキレたり、いちいち落ち込んだりしてたら、身が持たない。
そういう時、「まぁ、そんなもんか」と受け流したり、「今はその時じゃないな」と耐えたりする力が必要。
それって、名前を変えた「Gaman」じゃない?
目標(=海外で楽しく生き抜く)のために、
目の前の小さなイライラや理不尽を、戦略的に「Gaman」(=スルー)する。
そう。
私たちがアップデートしなきゃいけないのは、「Gaman」そのものを捨てることじゃない。
**「Gaman」の「使い方」**なんだと思う。
「思考停止」で、周りに流されて、自分を犠牲にする「奴隷のGaman」は、もういらない。
それはハッキリと「時代遅れ」だし、むしろ有害。
でも、
自分の目標達成のために、必要な努力を続ける**「戦略的なGaman」。
そして、
自分と違う他者と共存するために、一瞬相手の立場を想像する「思いやりのGaman」**。
この二つは、どんな時代でも、どんな場所でも、自分を助けてくれる最強の「処世術」になるんじゃないかな。
あの重いランドセルで培った力は、決して無駄じゃなかった。
ただ、私たちはその使い方を、日本のローカルルールから、海外でも通用するグローバルルールに、チューニングし直す必要があるってこと。
じゃあ、具体的にどうやって「Gaman」を使いこなしていくか?
どうやって「奴隷のGaman」から「最強の処世術」としてのGamanに切り替えていくか?
いよいよ次は、私なりの「Gaman」との付き合い方、その「人生術」について話してみたいと思う!
今日からできる「Gaman」の取り入れ方。しなやかに生きる日本の知恵
(「転」の続きから)
さあ、ここまで「Gaman」っていう、一筋縄ではいかない日本独特の感覚について、アツく語ってきちゃったけど、どうだったかな?
重いランドセルを背負う小学生の話から始まって、
「Gaman」が育む「内なる強さ」(承)もあれば、
一歩間違えば「自己犠牲」や「思考停止」になっちゃう危険な側面(転)もあるよねって話だった。
「じゃあ、結局どうすりゃいいのよ!」
「海外で、この『Gaman』体質、どう扱えばいいの!?」
って、なってるよね(笑)
わかる。だって、私たち日本人は、良くも悪くもこの「Gaman」が骨の髄まで染み付いちゃってるから。
今さら「はい、今日からGamanするのやめまーす!」なんてできないし、
かといって、日本にいた時と同じ「Gaman」の仕方してたら、海外では「都合のいい人」になって、すり減る一方…。
だからこそ、私たちが目指したいのは、「Gaman」に振り回されるんじゃなくて、「Gaman」を賢く使いこなすこと。
「Gaman」っていう日本刀を、無駄に振り回して自分や他人を傷つけるんじゃなくて、
ここぞ!という時にだけ抜く、「しなやかな使い手」になること。
今日は最後に、私なりに考えてみた「Gaman」との上手な付き合い方、「人生術」を3つのステップでシェアさせて!
ステップ1:まず、「Gamanセンサー」の感度を上げよう!
まずね、自分が今「Gaman」してるってことに、「気づく」のが超大事。
私たち、特に主婦って、無意識に「Gaman」しすぎなのよ。
「あ、なんか私、今ちょっと無理してるな」
「あ、今、本当は『No』って言いたいのに、笑ってごまかしてるな」
って、自分の心の小さな声をキャッチするクセをつけるの。
で、キャッチしたら、自分にこう問いかけてみて。
「このGaman、誰のため? 何のため?」
これが、**「自分の成長」とか「子供の自立」**とか、未来につながるポジティブな目的なら、それは「戦略的なGaman」。GOサイン!
(例:「言葉が通じなくて悔しいけど、子供の先生と話すために、今『Gaman』して単語を覚えるぞ!」とかね)
でも、もしその答えが、
「(誰か)に嫌われたくないから」
「(誰か)を怒らせたくないから」
「(なぜか)みんなやってるから」
だったら…それは危険な「奴隷のGaman」のサイン!
一回、立ち止まって。
ステップ2:「奴隷のGaman」からは、全力で逃げろ!
「奴隷のGaman」だって気づいたら、どうするか。
もちろん、いきなり「NO!!!!」って叫ぶのはハードル高いよね(笑)
だから、小さなところから「Gamanしない練習」をしてみるの。
例えば、
- 「小さなYes」を「小さなNo」に変えてみる。「今週末、パーティ来ない?」って誘われて、本当は疲れてて行きたくない時。今までは「うん、行く行く!(あー、めんどくさい…)」って「Gaman」してたのを、「誘ってくれてありがとう! でも今週末はちょっと疲れてるから、家でゆっくりするね。また今度!」って、勇気を出して言ってみる。(海外の人って、こういう時、意外と「OK, No problem! Take rest!」ってアッサリしてること多くない? まずはそこから!)
- 「察して」を捨てて、「Help」を言う練習。もう、私たち日本人の「察して文化」は、海外ではほぼ通じない(笑)夫(パートナー)に対して、「私こんなに家事やってるのに、なんで気づかないの!」って「Gaman」してイライラするんじゃなくて、「ごめん、今、手が離せないから、ゴミ捨てお願いできる?」「私、今日すごく疲れたから、夕飯はピザでもいい?」って、具体的に「Help」を出す。これ、最初は勇気がいるけど、言ってみたら「なんだ、それくらいで良かったんだ」って拍子抜けすることもあるよ。
- 「海外だから」を、Gamanしない「言い訳」にしちゃおう!これ、結構使えるよ(笑)日本だったら「Gaman」しちゃうような、理不尽なご近所ルールとか、ママ友の暗黙の了解とか。「あ、私、日本人だけど、こっち(海外)のやり方に慣れちゃって、そういうのよくわかんなくって〜」って、笑顔でスルーする(笑)せっかく海外にいるんだもん。日本の息苦しい「Gaman」から解放される特権、使わなきゃソンソン!
ステップ3:「戦略的Gaman」と「思いやりGaman」は、最強の武器として磨く!
じゃあ、「奴隷のGaman」を捨てたら、もうGamanはしなくていいのか?
いや、そうじゃない。
私たちが持ってる「Gaman」力は、使い方次第で最強の武器になる。
- 目標達成のための「戦略的Gaman」これは、「承」で話した「心の筋トレ」だよね。語学の勉強、資格の取得、現地の運転免許…。海外生活で、新しいことにチャレンジしようと思ったら、やっぱり地味な努力(=Gaman)は必要不可欠。「すぐに結果が出ない」っていうストレスに耐えて、コツコツ続ける力。これ、私たち日本人がめちゃくちゃ得意な分野なはず!「どうせ私なんて…」って諦めるんじゃなくて、「よし、あそこの電信柱まで(笑)」って、小さな目標を立てて「Gaman」を続けてみる。その先には、絶対新しい景色が待ってるから。
- 異文化理解のための「思いやりGaman」海外で生活してると、「え、ありえない!」「信じられない!」って思うこと、毎日あるよね(笑)スーパーのレジが異常に遅いとか、時間通りに来ないとか、味付けが雑だとか(笑)その「イラッ」とした瞬間に、「だからこの国は!」って全否定するんじゃなくて、一回、ぐっと「Gaman」して、「…なんで、彼らはこうなんだろう?」「こういう文化(背景)なのかな?」って、想像してみる。これが「転」で言った「思いやりのGaman」。このワンクッションが、無駄な衝突を避けて、相手の文化を深く理解するキッカケになる。これこそ、私たち日本人が持ってる「和」の精神、そのグローバル版だと思うんだ。
- 子供の「Gaman」を信じて待つ「親のGaman」そして、最後にこれ。「起」の通学の話に戻るけど、海外で子育てしてると、いろんな不安があるよね。言葉は大丈夫か、いじめられてないか、勉強はついていけてるか…。親としては、全部先回りして、助けてあげたくなる。でも、そこをぐっと「Gaman」する。子供が自分で考えて、自分で乗り越えようとしているのを、「待つ」。子供自身の「Gaman(=内なる強さ)」が育つ瞬間を、奪わない。これって、親にとって一番難しい「Gaman」かもしれないけど、一番大事な「Gaman」だよね。(もちろん、本当に危険な時や、サポートが必要な時は、全力で助けるのが前提だよ!)
Gamanは、捨てるんじゃなくて、乗りこなす!
「Gaman」って、本当に面白い感覚。
それは、私たちを縛る「呪い」にもなるし、私たちを守ってくれる「お守り」にもなる。
海外という、日本とは全く違うルールで動いている場所に来たからこそ、
私たちは、自分が当たり前だと思っていた「Gaman」という道具を、もう一度見直すチャンスをもらったんだと思う。
もう、思考停止で耐えるのは、終わり。
「私は、今、何のためにGamanするのか?」
「これは、私を幸せにするGamanか?」
って、ちゃんと自分の頭で考えて、選んでいく。
そうやって、「Gaman」を「自己犠牲」から「戦略的な人生術」にアップデートできた時、
私たちは、日本の「しなやかさ」と海外の「合理性」を併せ持った、最強の「ハイブリッド主婦」になれるんじゃないかな(笑)
重いランドセルを背負って、泣きながらも一歩一歩、自分の足で歩いた、あの頃の私たちみたいに。
海外という新しい道でも、私たちは「Gaman」を使いこなしながら、絶対、自分の足でたくましく歩いていける。
あなたの「Gaman」は、今、どんな色をしてる?
もしよかったら、あなたの国の「Gaman」事情なんかも、コメントで教えてくれたら嬉しいな!

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