「完璧な親」神話、捨ててみませんか? 日本のママが送る「7割子育て」のススメ

息苦しくない? 「完璧な親」という神話のプレッシャー

(※このセクションだけで約3000文字のボリュームを目指して執筆します)

海外で暮らす皆さん、特に欧米の文化圏で子育てをしていると、「完璧な親(Perfect Parent)」でいなきゃいけない、みたいな無言の圧力、感じたことありませんか?

これ、私が海外の友人(特に子育て中のママ友)と話したり、SNSで見かけたりして、すごく強く感じることなんです。「子育ては科学であり、親はマネージャーである」みたいな。

「絶対に失敗してはいけない」というプレッシャー

まず感じるのが、「絶対に失敗してはいけない」という強烈なプレッシャー。子供の栄養バランスは完璧? 早期教育のスケジュールは最適? 習い事は子供の才能を最大限に伸ばすものを選んでる? まるで、親がちょっとでも選択を間違えたら、子供の将来が取り返しのつかないことになる、とでも言いたげな雰囲気。

私たち日本の主婦も、もちろん子供のことは心配だし、ベストを尽くしたいと思っています。でも、どこかで「まぁ、人間だもの」「子供は子供の世界で育つ」みたいな、ある種の「諦め」というか「余白」を持っている気がするんです。

でも、海外(特に西洋文化)の「完璧な子育て神話」は、その「余白」を許してくれないように見えることがあります。オーガニックじゃないとダメ。スクリーンタイムは厳密に管理。知育玩具は月齢に最適なものを。親が子供のすべてをコントロールし、最適化(optimization)することが「良い親」の証、みたいになっていませんか?

私自身、日本で子育てをしていても、情報が溢れすぎてて息苦しくなることがあります。例えば、離乳食。日本でも昔よりずっと細かく「何ヶ月目はこの食材をこの順番で」と指導されます。でも、うちの姑さん(おばあちゃん)なんかは、「昔はそんなの気にせず、大人のご飯を柔らかくして食べさせてたよ。それでもみんな元気に育ったわ」なんて笑ってます。

どっちが正しいとかじゃなくて、この「絶対に失敗しちゃいけない」という強迫観念が、親をどれだけ追い詰めているんだろう、と思うんです。

不安が生み出す「ヘリコプター・ペアレンティング」

そのプレッシャーと不安が行き着く先が、よく言われる「ヘリコプター・ペアレンティング」なのかな、と。子供の上空をヘリコプターみたいにずっと旋回して、ちょっとでも危ないことがあれば(あるいは、危なくなりそうになる前に)、サーッと急降下して助けちゃう。転ぶ前に手を差し伸べ、喧嘩する前に仲裁し、子供が「退屈だ」と感じる前に次のアクティビティを用意する。

これ、親の愛なんですよね。痛い思いをさせたくない、悲しい思いをさせたくない。その気持ち、痛いほどわかります。

でも、この間、近所の公園で見た光景がちょっと印象的だったんです。

3歳くらいの男の子が、ちょっと高い遊具に登ろうとして、足が滑って落ちそうになったんです。ヒヤッとした瞬間、近くにいたお母さん(私です)は「あっ!」と声を出しそうになった。でも、その子のお母さんは、数メートル離れたベンチから「おっとっと。大丈夫、自分で登れるよ」と、静かに声をかけただけでした。

男の子は一瞬泣きそうになったけど、ぐっとこらえて、もう一度足場を探して、今度はゆっくり、慎重に登り切ったんです。登り切った時の、あの誇らしげな顔!

もしあの時、お母さんが駆け寄って「危ないでしょ!」と降ろしていたら? あるいは、先回りして「そこは滑るからこっちの足場を使いなさい」と指示していたら?

彼は「登れた」という達成感も、「自分で考えて工夫する」という経験も失っていたかもしれません。

ヘリコプター・ペアレンティングの「見えないデメリット」って、こういうところにあるのかな、と。親が不安だから先回りする。その結果、子供が「自分で解決する力」や「失敗から学ぶ力」、もっと言えば「自分の力を信じる心」を育む機会を奪ってしまっているのかもしれない。

そして何より、親自身が疲弊します。だって、24時間365日、ヘリコプターを飛ばし続けるなんて、どれだけ燃料(親の体力と精神力)があっても足りません。

このアプローチは、私たちを幸せにしている?

ここで、最初のフックに戻ります。「なぜ、私たちの今のアプローチは失敗しているのかもしれないのか」。

「完璧」を目指し、「失敗」を極度に恐れ、「不安」から子供を過剰に管理する。

その結果、何が起きているでしょう?

親は、常に「足りていない」という焦燥感に駆られています。

インスタを開けば、キラキラした「完璧なママ」たちの投稿が溢れている。手作りの知育おもちゃ、週末の完璧な家族キャンプ、非の打ち所のない栄養満点ごはん。それに比べて自分は……。

「あの子はもう英語を習っているのに、うちはまだ何も」

「あのお母さんは怒らない育児を実践してるのに、私は今日も怒鳴ってしまった」

自己嫌悪と罪悪感。

子供は、親の不安を敏感に感じ取ります。

「失敗しちゃいけないんだ」

「ママをガッカリさせちゃいけないんだ」

親の期待に応えようと、いい子でいようとする。でも、子供は本来、失敗しながら学ぶ生き物です。その本能的な衝動と、「失敗してはいけない」というプレッシャーの間で、子供自身も不安を募らせていく。

私たち(親)は疲れ果て、子供たちも(見えない)プレッシャーに苦しんでいる。

これって、誰も幸せになってないんじゃない?

「完璧な親」という神話。それは、もしかしたら、私たち自身が作り上げ、私たち自身を縛り付けているだけの、苦しい「呪い」なのかもしれません。

日本に住む一人の主婦として、日々の中で感じるのは、もう少し「ゆるい」というか、「いい加減」――あ、「良い加減(よいかげん)」の知恵です。

すべてを完璧にコントロールしようとするのではなく、自然の流れや「なるようにしかる」という、ある種の「開き直り」とも言える人生観。

完璧じゃないからこそ見える景色がある。

失敗するからこそ、人は強くなる。

このブログでは、そんな「完璧」を目指さないからこそ得られる、日本の生活に根付いた「心の持ち方」や「人生術」を、これからの「承・転・結」で、私のリアルな(そして、ちょっとドジな)実体験を交えながらお話ししていきたいと思います。

「完璧な親」じゃなくていい。まずは、親である私たちが、息苦しさから解放されること。そこから始めてみませんか?

 日本で見つけた「まぁ、いっか」の知恵と「見守る」子育て

(※このセクションだけで約3000文字のボリュームを目指して執筆します)

さて、「起」では、特に欧米で感じやすいかもしれない「完璧な親でいなきゃ!」という、あの息苦しいほどのプレッシャーについてお話ししました。読んでいる皆さんの中にも、「わかる…わかるよ…」と首をブンブン振ってくれた方がいるかもしれませんね。

じゃあ、翻って日本はどうなんだ、と。日本は「完璧な子育て」のプレッシャーから解放されたユートピアなのか?

…と聞かれたら、**「そんなわけない(笑)」**と即答します。

ご存知の通り、日本は日本で、また別の種類の強烈な「型」があります。「3歳児神話(子供が3歳になるまでは母親はそばにいるべき、という古い考え)」はいまだに根強いし、「集団行動を乱さない子」が良い子とされがち。「キャラ弁(キャラクターを模したお弁当)」文化に象徴されるように、母親の愛情を「どれだけ手をかけたか」で測ろうとする無言の圧力も、確かに存在します。

だから、日本にいたって息苦しさはあるんです。

でも、その一方で、私たちはその息苦しさを真正面から受け止めて真正面から打ち返す…というよりは、なんだかんだ「フワッ」と受け流すための、便利な「魔法の言葉」をいっぱい持っている気がします。

その代表格が、**「まぁ、いっか」「なんとかなる」**です。

これは、諦めや怠惰とはちょっと違う。むしろ、自分ではコントロールできないことの多さを知っているからこその、積極的な「受容」であり、「優先順位付け」の知恵なんです。

完璧な食卓より、笑顔の食卓。「まぁ、いっか」の人生術

日本の家庭料理の理想といえば、今も昔も「一汁三菜(いちじゅうさんさい)」。ご飯と汁物、そして主菜1品、副菜2品。これが「ちゃんとやってるお母さん」の証、みたいに言われがちです。

私も結婚当初、長男が生まれたばかりの頃は、この「一汁三菜の呪い」にそれはもうガチガチに縛られていました。

栄養バランスを考えて、彩りを考えて、旬の食材を使って…。でも、こっちは寝不足でフラフラ。赤ちゃんは理由もなく泣き叫ぶ。そんな中で、副菜の「ほうれん草のおひたし」とか「きんぴらごぼう」を作る気力なんて、正直1ミリも湧いてこない。

ある日、本当に疲れ果てて、もう何も作れなくなってしまったんです。

夫の帰りも遅い。でも、何か食べさせなきゃ。罪悪感でいっぱいになりながら、私が絞り出した「精一杯のごはん」。

それは、**「納豆ごはんと、インスタントのワカメスープ」**でした。

もう、食卓に出す時、申し訳なくて夫の顔が見れませんでした。「ごめん、今日これだけ…」と。

ところが夫は、泣き止まない息子をあやしながら、その納豆ごはんをかき込んで一言。

「うわ、納豆うまっ。やっぱこれだよね。お疲れ様」

その瞬間、私の中で何かがプツンと切れました。

「あれ…? 私、何と戦ってたんだ?」と。

夫が求めていたのは、完璧な「一汁三菜」じゃなかった。彼が求めていたのは、疲れた体で大好きな納豆ごはんをかき込む「日常」と、妻(私)がぶっ倒れないで、なんとか「笑顔」でいることだったんです。

それ以来、我が家のモットーは「まぁ、いっか」になりました。

疲れた日は、納豆ごはんと卵焼きでOK。なんなら、スーパーのお惣菜コロッケでOK。

「一汁三菜」は、あくまで「目指す理想」であって、「絶対に達成すべきノルマ」じゃない。

子供が元気に走り回ってて、夫と私が「疲れたねー」って笑い合えるなら、今日の食卓は100点満点。

この「まぁ、いっか」は、すべてを完璧にやろうとしてパンクする(そして周りに当たり散らす)よりも、**「8割できれば上出来。残りの2割は、家族の笑顔のために残しておく」**という、日本の生活から生まれた立派な「人生術」だと思うんです。

完璧じゃない。でも、不幸じゃない。むしろ、すごく気が楽で、幸せ。

海外で「完璧なママ」を演じることに疲れたら、ぜひ日本の伝家の宝刀、「まぁ、いっか」を唱えてみてください。今夜はデリバリーでも、冷凍ピザでも、全然OK!

介入しない勇気。「見守る(みまもる)」という子育て

そして、もう一つ。「起」で触れた「ヘリコプター・ペアレンティング」の対極にあるような言葉が、日本にはあります。

それが**「見守る(みまもる)」**です。

これは、「放置(ネグレクト)」とは全く違います。

「放置」は、子供に無関心であること。

「見守る」は、子供に深い関心を持ち、信頼しているからこそ、あえて手を出さないという、非常に積極的な「関わり方」です。

私の実体験で言うと、子供同士の「おもちゃの取り合い」が一番わかりやすいかもしれません。

公園の砂場。うちの子が使っていたスコップを、別の子がパッと取ってしまった。

うちの子、当然「わーん!」と泣き出す。

さあ、ここで「完璧な親」神話(ヘリコプター)だと、どうなるでしょう?

多分、親が即座に介入しますよね。「Hey, sweetie, that’s not nice. It’s his turn.(ダメよ、それは彼が使ってたのよ)」とか、「(自分の子に)大丈夫よ、ママがもっとすごいの貸してあげるから」とか。

親が「問題」を先回りして「解決」してしまいます。

でも、日本の公園で(もちろん人にもよりますが)よく見る光景は、「見守る」親の姿です。

私も、そうするように心がけています。

息子が泣いている。スコップを取った子も、こっちを見て固まっている。

私は、駆け寄りません。

10メートルくらい離れたベンチから、ただ、じーっと見ています。(内心はドキドキです。「殴り合いになったらどうしよう!」って)

息子は泣きながら私を見ます。「ママ、助けて」という顔。

私は、ニコリともせず、ただ静かに「見てるよ」というサインを送ります。

息子は、ママが助けに来ないとわかると、今度は自分で行動を起こします。

泣きながら、相手の子に「かえして…」と小さな声で言う。

相手の子は「やだ」と言う。

また、息子が泣く。

…という攻防が、2〜3分続きます。

見ていて、親としては本当に胃が痛い(笑)。今すぐ「はい、順番こ!」って解決してあげたい。

でも、ぐっとこらえる。

なぜなら、これは彼が「社会性」を学ぶ、人生で最初の「レッスン」だからです。

「自分の要求は、泣くだけじゃ伝わらない」

「『返して』と言葉にしないとダメだ」

「相手にも『使いたい』という要求がある」

「じゃあ、どうしたらいい? 一緒に使う? 順番にする?」

彼らは、この小さな砂場で、人生で最も重要な「交渉」や「妥協」や「自己主張」を学んでいるんです。

親がやるべきことは、このプロセスを奪うことじゃない。

このレッスンが、「安全な範囲内」で行われることを見届けることです。

(もちろん、手が出たり、あまりに意地悪が続くようなら、「はい、おしまい!」と割って入ります。それが「見守る」の「安全ネット」です)

結局その時は、相手の子のお母さんが来て「ごめんね、一緒に使おうか」と言ってくれて、二人はぎこちなく、一緒に穴を掘り始めました。

私は、そこではじめて息子のところに歩み寄って、「よかったね。言えたじゃん」と頭を撫でました。

親が先回りして「失敗」を防ぐのではなく、子供が「自分で解決しようともがく」プロセスを信頼して待つ。そして、どうしてもダメだった時に「大丈夫、見てたよ。大変だったね」と受け止めてあげる「受け皿」になる。

これが「見守る」子育てです。

ヘリコプターのように上空から管理するのではなく、大木のように、どっしりと根を張って、子供が自分の足で立とうとするのを「ただ、そこにいて、見ている」。

これは、「完璧」を目指す親からしたら、無責任に見えるかもしれません。

でも、私はこれを「子供の力を信じる」という、親としての最大の「責任」だと思っています。

「まぁ、いっか」の受容性と、「見守る」という信頼。

この二つが、日本の主婦(私)が、「完璧な親」神話のプレッシャーと戦うための、最強の「人生術」なんです。

「失敗」はダメなこと? 子供の「転び方」を教える大切さ

(※このセクションだけで約3000文字のボリュームを目指して執筆します)

「起」で、「完璧な親」神話のプレッシャーについてお話ししました。

そして「承」では、そのプレッシャーに対する日本の主婦(私)なりの処方箋、「まぁ、いっか」の受容と「見守る」子育てをご紹介しました。

…とはいえ。

とはいえ、ですよ。

口で「見守ろう」と言うのは簡単です。でも、実際に自分の子供が失敗しそうになっている(あるいは、まさに失敗している)瞬間を目の当たりにして、手をこまねいているのは……正直、めちゃくちゃ怖いですよね?

「まぁ、いっか」と割り切ったつもりでも、心の奥底では「あぁ、今助けてあげれば、この子は泣かずに済んだのに」「私が先回りしなかったから、この子は恥ずかしい思いをした」と、罪悪感がムクムクと湧き上がってくる。

「見守る」って、親にとって一番「忍耐」と「勇気」がいる行為なんです。

なぜ、私たちはこんなにも「子供の失敗」が怖いんでしょう?

それは、「完璧な親」神話が、「子供の失敗 = 親の失敗」という、強烈な刷り込みを私たちにしているからじゃないかな、と思うんです。

子供がテストで悪い点を取ったら、親が勉強を見てあげなかったから。

子供が友達とケンカしたら、親が社会性をちゃんと教えていないから。

子供が転んでケガをしたら、親がちゃんと見ていなかったから。

全部、ぜんぶ、親の「せい」。

そんな風に思っていたら、そりゃヘリコプターにもなります。「失敗」という地雷原から、我が子を抱きかかえてダッシュで遠ざけたいと思うのが、親心ってものです。

でも、ここで「転」。視点をガラッと変えてみたいんです。

もし、その「失敗」こそが、子供が人生で学ぶべき、一番大切な「授業」だとしたら?

そして、親の役目は「失敗させない」ことではなく、「上手に失敗させる(そして、そこから立ち直る力をつけさせる)」ことだとしたら?

「柔道」に学ぶ、人生の「受け身」

私、子供の頃にちょっとだけ柔道を習っていたんです(かじった程度ですが!)。

柔道の道場で、最初に何を教わるか知っていますか?

「投げ方」じゃないんです。

「締め方」でもありません。

一番最初に、それこそ何ヶ月もかけて徹底的に叩き込まれるのは、「受け身(うけみ)」。つまり、**「安全な転び方」**です。

後ろに転ぶ時、畳にどう手をつき、どう頭を守るか。

前に転ぶ時、どう体を丸めて衝撃を逃すか。

考えてみれば当たり前です。これから何百回、何千回と「投げられる」のに、「転び方」を知らなかったら? 致命的な大怪我につながります。

「転び方」をマスターしているからこそ、安心して「投げる」練習ができるし、試合で思いっきり相手と組むことができる。

これって、子育て、いや、人生そのものだと思いませんか?

「完璧な親」神話のもとでの子育ては、子供を「絶対に投げさせない(転ばせない)」ようにする試みです。

でも、人生は道場です。親がいくら守っても、いつか必ず、誰かに投げられます。理不尽な上司、失恋、思い通りにいかない仕事、人間関係のトラブル…。

その時、「転び方」を知らない子は、どうなるでしょう?

たった一度の「投げ」で、心がポッキリ折れて、再起不能の大怪我をしてしまうかもしれない。

私たちが「まぁ、いっか」と「見守る」ことで子供に経験させる「小さな失敗」は、すべてこの「受け身」の練習なんです。

実録・我が家の「受け身」トレーニング

うちの息子が、自転車の補助輪を外す時の話です。

もう、見てるこっちがハラハラしますよね。絶対に転ぶってわかってるから。

私の心の中の「ヘリコプター・ペアレント」は、「まだ早い!」「うしろをずっと持っててあげなきゃ!」と叫んでいます。

でも、私は「見守る」親になる、と決めました。(正確には、夫に「いつまでも持ってたら乗れるようにならんぞ」と背中を押されたんですが)

「いい? 転んだら、まず手をついてね。ハンドルから手を離さないと危ないよ」

口で「受け身」を教えて、いざ、スタート。

案の定、5メートルも進まないうちに、グラッ、グラッ、ガシャーン!

盛大に転びました。

息子、大泣き。「もうやだー!」

さあ、ここで親の分岐点です。

A:「(ほら見たことか!)もうやめよう、危ないから。また今度にしなさい」

B:「(駆け寄って)わー、転んだね! 痛かった? どれ、血は?…よし、出てない。大丈夫。…っていうか、今の転び方、上手だったじゃん! ちゃんと手からつけたね! えらい!」

「完璧な親」は、Aを選んで「失敗」という経験そのものを中断させてしまうかもしれません。子供を「痛み」から守るために。

でも、「受け身」を教えたい私は、Bを選びました。

(もちろん、本当に大怪我だったらA一択ですよ! あくまで「安全な範囲」での話です)

泣きじゃくる息子に、私は言いました。

「痛かったね。でも、自転車ってのはね、転ばないと乗れるようにならないんだよ。ママもパパも、100回は転んだ。〇〇くんは、今、乗れるようになるために『必要な1回転び』をしただけ。おめでとう」

息子は、キョトンとしていました。

「失敗」したのに、「おめでとう」?

泣き止んだ彼に、私は「もう一回やってみる?」と聞きません。「さ、2回目の『おめでとう』、もらいに行こうか」と、自転車をもう一度起こしました。

「失敗」はダメなことじゃない。「学び」そのものだ

この「転」で言いたいことは、シンプルです。

「失敗を恐れるな」なんていう精神論じゃありません。

**「失敗は、学習プロセスそのものである」**という、もっと現実的な「人生術」です。

子供がお茶をこぼした。

→ 「あーあ!」と怒鳴るのは簡単。

→ 「まぁ、いっか。こぼれたね。さあ、雑巾持ってきて。〇〇くん(子供)はこっち拭いて。ママはこっち。どっちが早くキレイにできるか競争だ!」

この子は、「こぼしたら、自分で拭けばいい」という「受け身(対処法)」を学びます。そして、「こぼす」という失敗が、親との共同作業という「ちょっと楽しいイベント」に変わる。

これを繰り返せば、彼は「こぼす」ことを過剰に恐れなくなります。

友達とケンカした。

→ 「あなたが我慢しなさい」と無理やり謝らせるのは簡単。

→ 「そっか、ムカついたんだね。何がイヤだったの?」とまず「受け止め」、「じゃあ、Aくんはなんで怒ったと思う?」と考えさせ、「どう言えばよかったかな?」と「受け身(次への対策)」を一緒に考える。

彼は、人間関係のトラブルという「投げ」から、「自分の感情の伝え方」や「相手の気持ちの想像の仕方」という「転び方」を学びます。

「完璧な親」を目指して、子供の人生から「失敗」という名のすべての小石を取り除こうとすることは、一見「愛」に見えます。

でもそれは、子供から「受け身」を学ぶ機会、つまり「レジリエンス(回復力)」を身につける機会を、根こそぎ奪うことになっているのかもしれない。

ヘリコプター・ペアレンティングの本当の「見えないデメリット」は、親が疲弊することじゃなく、**「転び方を知らない、打たれ弱い子」**を育ててしまう危険性、そのものにあるんじゃないか。

私は、そう思うんです。

だから、今日も私は、ヒヤヒヤしながら「見守る」。

我が子に、人生という道場でしなやかに転び、笑って立ち上がるための「受け身」を身につけてほしいから。

あなたも私も「十分」いい親。完璧じゃなくていい、我が家流の幸せ

(※このセクションだけで約3000文字のボリュームを目指して執筆します)

長い長いブログになってしまいましたが、ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

「完璧な親」という神話に息が詰まりそうになりながら(起)、

「まぁ、いっか」と「見守る」という、日本の生活に根付いた「良い加減(よいかげん)」の知恵を使い(承)、

そして「失敗」を、人生の「受け身(うけみ)」を学ぶための必須科目だと捉え直す(転)。

この「起承転」を通して、私が海外で頑張る皆さんに一番伝えたかったこと。

それは、たった一つです。

「私たち、もう『十分』いい親だよ」

ってことです。

「100点の親」を目指すのを、やめてみませんか?

私たちが目指すべきゴールって、一体何なんでしょう?

「失敗を一切しない、完璧なスケジュールで管理されたエリートな子供」を育てること?

「あそこの奥さんは、いつも完璧ね」と、周りから称賛されること?

私は、違うと思うんです。

少なくとも、私はそんなもののために、毎日寝不足でフラフラになりながら子育てをしているわけじゃない。

私が欲しい未来は、もっとシンプルです。

「子供が、いつか自分の力で人生の壁にぶつかった時、ポキッと折れずに、しなやかに転んで、笑って立ち上がれる強さ」を持っていること。

そして、「家族みんなが、家(ここ)にいるとホッとするね」と、心から笑い合えること。

もし、皆さんのゴールも、この「子供のレジリエンス(回復力)」と「家族の幸福感」にあるのなら。

もう、「100点の親」を目指す必要はありません。

だって、「承」と「転」でお話ししたように、子供のレジリエンス(受け身の力)は、親の「完璧な管理」の中では絶対に育たないからです。

それは、親の「まぁ、いっか」という「余白(よはく)」の中で、子供が自分で「小さな失敗」と「小さな成功」を積み重ねることによってしか、育たない力だから。

だから私は、ブログのタイトルにもしましたが、**「7割子育て」**を提唱したいんです。

<h4>「7割」でいい。残りの「3割」は、笑うための余白</h4>

親としてやるべきこと、10のうち7できたら、もう100点満点。上出来。

あとの3割は?

それは、「あえて、やらない」。

その3割は、子供が自分で考えるための「余白」であり、親である私たちが息抜きをして、機嫌よく笑うための「余白」です。

昨日、私、まさに「7割子育て」を実感する出来事がありました。

週末、子供と「知育的なクッキー作り」をしようと、ちゃんと計画してたんです。材料を揃えて、レシピも調べて。「食育だ!」なんて意気込んで。

これぞ「完璧な親」の週末プラン(笑)。

ところが、いざ始めようとしたら、息子が「やだ! クッキーより『基地』が作りたい!」と言い出したんです。

えーっ、ママ準備したのに!

心の中の「完璧な親」は叫びます。「ダメ! 計画通りにやりなさい!」「今やるって言ったでしょ!」

でも、そこで「転」の視点を思い出しました。

「あ、これは『受け身』の練習だ」と。

私の計画(完璧なクッキー作り)が、「子供のやりたいこと」によって、見事に「投げられた」瞬間です。

ここで私がイライラしてクッキー作りを強行したら?

多分、息子はふてくされて、誰も幸せじゃない1時間になる。

私は、深呼吸して、伝家の宝刀を抜きました。

「…まぁ、いっか」。

「わかった。じゃあクッキーの材料は冷蔵庫ね。基地、作るか!」

そこからの1時間。

リビングは、そりゃあもう、ひどい有様になりました。

ソファのクッションは全部引っこ抜かれ、洗濯カゴがひっくり返され、私の大事なストールが屋根代わりにかけられ…。

私の「完璧な週末プラン」は木っ端微塵です。

でも、息子と娘は、キャッキャ言いながら「ここは武器庫!」「こっちは寝るとこ!」と、二人で相談し、時にケンカし、自分たちでルールを決めて、一つの「基地」を作り上げていました。

これって、クッキー作りなんかより、よっぽど「学び」じゃない…?

「協調性」「創造性」「問題解決能力」。なんか、そういうカタカナのやつ、全部入り。

そして何より、私が計画した「知育」の100倍、子供たちが楽しそうだったんです。

散らかり果てたリビングで、その「基地」から顔だけ出して笑っている子供たちを見て、私も心から笑ってしまいました。

あぁ、これでいいんだ、と。

これが「7割」でいい、ってことなんだ。

「完璧なクッキー」は焼けなかった。

「片付いたキレイなリビング」も失った。

でも、私は「子供の主体性」と「家族の笑顔」という、もっと大事なものを手に入れた。

結びに

海外という、日本とは違うプレッシャーの中で子育てをしている皆さん。

毎日、「こうあるべき」という無数の視線の中で、本当に、本当にお疲れ様です。

でも、忘れないでください。

「完璧な親」なんて、この世のどこにもいない。「完璧な親」という「神話」の呪いに、一番苦しめられているのは、私たち親自身です。

その呪いは、もう捨ててしまいましょう。

オーガニックじゃなくたって、冷凍食品だって、子供は育つ。

習い事をしていなくたって、子供は自分で「面白い」を見つけてくる。

親が失敗したって、「ごめん!」って謝れば、子供は「いいよ」って許してくれる。

私たちが子供に見せるべきなのは、「完璧に管理された人生」のモデルじゃなくて、「完璧じゃなくても、なんとかなる。失敗しても、立ち上がればいい。人生って、結構楽しいよ」という、「まぁ、いっか」の背中そのものなんだと思います。

完璧じゃない自分を、許しましょう。

完璧じゃない子供を、信頼しましょう。

「100点」じゃなくていい。我が家流の「70点の幸せ」を見つけた人から、楽になれる。

あなたも、私も、もう十分。「いい親」です。

自信を持って、今日の「まぁ、いっか」を見つけていきましょうね。

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