「失敗」と「間(Ma)」の素敵な関係。日本流「やっちゃった!」から学ぶ、心の余白の作り方。

あちゃー!な日常と、「間(Ma)」っていう魔法の言葉

やっほー!みんな、今日どんな一日だった?

こっちはね、さっき、本当にさっきなんだけど、小学一年生の息子がね、リビングで宿題のプリントを広げた瞬間。コップにたっぷり入った麦茶を、ぜーんぶ、派手に、カーペットの上に「バーッシャーン!!」って。

もう、スローモーションみたいだったよ(笑)

麦茶の茶色い波が、白いカーペットと、やりかけの算数プリントに広がっていくのが見えて。

その瞬間、私の頭の中に鳴り響いた言葉。

「あーーーーー!もう何やってんの!!」

これ、世界共通の「ママあるある」じゃない?(笑)

「だからコップはそこに置なって言ったでしょ!」とか、「あーもう、このカーペットお気に入りだったのに!」とか、「プリントびしょ濡れじゃん、どうすんのよ!」とか。

怒りと、焦りと、落胆と、後片付けのめんどくささ…。いろんな感情が一気に押し寄せてきて、心臓がバクバクしちゃって。

多分、海外のみんなも、ジュースだったり、牛乳だったり、はたまた赤ワインだったり(!)で、同じような経験、絶対あるよね?

こういう「やっちゃった!」っていう瞬間。

私たちはつい、**「すぐに(Immediately)」**反応しちゃう。

すぐに怒ったり、すぐに対処法を指示したり、すぐに「なんでこうなったの!」って原因を追及したり。

もちろん、麦茶はすぐに拭かないとシミになるし、濡れたプリントもどうにかしなきゃいけない。それは事実。

でもね、最近ふと思ったんだ。

私たちがその「すぐに!」って焦ってる時、日本人が昔から大事にしてきた「何か」を、置き忘れてるんじゃないかなって。

それが、今日のテーマ。

「間(Ma)」

っていう言葉。

みんな、「Ma」って聞いたことあるかな?

もしかしたら、「Zen(禅)」とか「Wabi-Sabi(わびさび)」みたいに、日本文化を紹介する言葉として耳にしたことがあるかもしれない。

「間」って、漢字で書くと「門」の中に「日(太陽)」があるよね。門のすき間から光が差し込んでるイメージ。

だから、「間」の基本的な意味は、**「スペース(Space)」とか「時間(Time)」**のこと。

例えば、

  • 「部屋の取り(Madori)」= 部屋のレイアウト、空間の使い方
  • に合わない(Ma-ni-awanai)」= 時間が足りない
  • 「二人の(Aida)」= 二人の関係性(これも一種のスペースだよね)

こんな感じで、日常のあらゆるところに「間」は存在するの。

でもね、日本文化における「間」は、ただの「空白」や「空っぽの時間」じゃないんだよね。

これが面白いところで。

例えば、日本の伝統的な絵画(水墨画とか)って、余白がすごく多いと思わない?

キャンバス全体を色で埋め尽くすんじゃなくて、あえて「何も描かない空間」をたっぷり残す。

でも、その「何も描いてない部分(=間)」があるからこそ、描かれているもの(例えば一本の竹とか)が際立って、そこに風が吹いてる様子とか、静けさとかが伝わってくる。

音楽でもそう。

西洋音楽が音符と音符でビッシリ埋まっていくとしたら、日本の伝統音楽(例えばお琴とか)は、「音」と「音」の**間にある「静寂」**をすごく大事にするの。音が鳴ってない時間、「シーン…」としてる「間」こそが、次の音をより深く響かせる、みたいな。

会話でも、「間が持たない」って言うとちょっとネガティブだけど、相手が話した後、すぐに自分の話をかぶせるんじゃなくて、少し「間」を置くことで、「ちゃんとあなたの話を聞きましたよ」っていうサインになったり、お互いに考える時間になったりする。

つまりね、日本文化でいう「間(Ma)」っていうのは、

「何もない、空っぽのムダなもの」じゃなくて、「次に何かを生み出すための、意図的で、ポジティブな余白」

って感じなの。

「空白(Empty)」じゃなくて、「可能性(Potential)」って言った方が近いかな。

でね、冒頭の「麦茶バーッシャーン事件」に戻るわけですよ(笑)

「あー!もう!」って叫びそうになった、あの瞬間。

私が怒鳴る「前」。

息子が「やっちゃった…」って顔で固まってる「今」。

カーペットが麦茶を吸い込んでいく、その「時間」。

これこそが、まさに「間」だったんじゃないかって。

私たちは「失敗」が起きると、その「間」をものすごい勢いで「正しいこと(説教とか、後片付けとか)」で埋めようとしちゃう。

だって、気まずいし、焦るし、イライラするし。その「間」に耐えられないから。

でも、もし。

もし、日本の絵画や音楽が「間」を大切にするように、私たちも日常の「やっちゃった!」の瞬間に、あえて「間」を置いてみたら…?

「あー!」ってなった時、すぐに言葉を発しないで、ぐっと飲み込んで、3秒だけ、その「間」を味わってみる。

それは「空白」じゃなくて、「チャンス(Opportunity)」の「間」かもしれない。

  • 息子が「やちゃった」顔の奥で、何を考えてるか観察する「間」。
  • 私が今、一番イライラしてる理由(カーペット?プリント?それとも疲れてるだけ?)を自分自身で理解する「間」。
  • そして、この「失敗」を、ただ怒るんじゃなくて、何かを学ぶ「レッスン」に変えるための「間」。

そう。私がみんなとシェアしたいのは、この「間違いの中の『間』を受け入れる(Embracing the “Ma” in Mistakes)」っていう、ちょっと新しい視点なんだ。

「間」っていうのは、単なる「空間」じゃなくて「機会」。

「失敗」っていうのは、単なる「ダメなこと」じゃなくて、その「間」に気づくための「合図」なのかも。

この「起」の部分では、まずみんなに「あー、わかる!」っていう日常の焦りと、日本文化の「間(Ma)」っていうキーワードを紹介してみたよ。

「失敗=焦る」っていう当たり前から一歩引いて、「失敗=間?」っていう新しいフックを提案したかったんだ。

次の「承」では、じゃあ実際に、日本の親たち(私のことや、私の周りのママ友たち)が、子どもの「やっちゃった!」—例えばおもちゃを壊した時とか、テストで悪い点を取ってきた時とか—に、どうやってこの「間」を捉えて、どういう風に「レッスン」に変えていってるのか、具体的な実体験エピソードを深掘りしていくね!

「どうして!」を「どうしようか?」に変える魔法。—壊れたオモチャと、30点のテストが教えてくれたこと—

「起」で話した、息子の「麦茶バーッシャーン事件」。

あの後、どうなったか。

「あーーーー!」って叫びそうになるのを、ぐっと飲み込んで3秒。

これが私の「間」の始まり。

その3秒の「間」に、私、何をしたと思う?

息子を見たの。

息子はね、両手を「パー」にしたまま、カチーン!って固まってた(笑)

目には、うっすら涙が浮かんでる。「やっちゃった…」「ママ、絶対怒る…」って顔に書いてある。

その顔を見た瞬間、私の頭にあった「あーもう!このカーペット!」っていうイライラが、すーっと別の場所に移動したんだよね。

「(…あ、この子、今、世界で一番『絶望』してるわ)」

「(ここで私が『なんで!』って言ったら、この絶望は『恐怖』に変わるな)」

「(…カーペットは、最悪洗えばいい。プリントは、明日先生に言えばいい。でも、この子の『失敗しちゃった…』っていう心を、今『恐怖』でフタしちゃったら、この先ずっと、失敗=怖い、になっちゃうかも)」

これが、たった3秒の「間」が生み出した、私の心の変化。

「間」って、自分をクールダウンさせる時間だけじゃなくて、相手を「観察」するための時間でもあるんだよね。

で、私、どうしたか。

しゃがんで、息子の目を見て、できるだけ「普通」の声で言ったの。

「おー、盛大にいったね(笑)」って。

そしたら、息子のカチーン!が解けて、「…うん」って、半ベソ。

「さて」と私。

「まず、何が必要かな?」

これが、我が家でよく使う「魔法の言葉」のひとつ。

「どうしてこぼしたの!」(=過去への追求、非難)

じゃなくて、

「(じゃあ)どうしようか?」(=未来への行動、解決)

に、言葉をすり替える。

「どうして!」って言われちゃうと、子どもは「僕が悪い」「だって、手が滑って…」って、言い訳か、自己否定しか出てこない。

でも、「どうしようか?」って言われると、頭が「解決モード」に切り替わる。

息子は、はっと我に返って、「…ぞうきん…?」

「だね!ぞうきん持ってこれる?」

「うん!」

「じゃあママは、この濡れたプリントを救出する!」

そこからは、もう「共同作業」。

息子は、びしょ濡れの雑巾でカーペットをなぜか広範囲に広げようとしちゃったり(笑)、それはそれで「あー!そっちじゃない!」ってツッコミどころ満載だったんだけど、でも、最初の「絶望と恐怖」の雰囲気は、もうどこにもなかった。

最後、二人でぐったり座り込んで、息子がポツリと、

「…ごめんなさい」

「ううん、わざとじゃないのは知ってるよ。でもさ、宿題の横にコップ置くと、危ないってわかったでしょ?」

「うん、わかった…」

「じゃあ、次からどうする?」

「…テーブルの、真ん中に置く…」

「OK、それでいこう」

これが、我が家の「間」の活かし方。

もし、あの「3秒の間」がなかったら?

「なんでこぼしたの!」→「(ビクッ)…わかんない」→「ちゃんと前見てないからでしょ!」→「(シクシク…)」

…で、お互い最悪の気分で後片付けして、息子は「ママ怖い」、私は「カーペット最悪」ってイライラしたまま、一日が終わってたと思う。

「間」っていうのは、「スペース(空間)」だけじゃなくて、**「機会(Opportunity)」**だって言ったよね。

こぼれた麦茶は「失敗」だけど、その失敗が生み出した「あちゃー!」っていうあの気まずい「間」は、私にとっては、

「息子に、『失敗=終わり』じゃなくて、『失敗=さあ、どうする?』っていう学びのチャンスを与えなさい」

っていう、神様からの合図みたいなものだったんだよね。


もう一つ、別の「間」の話をしようか。

「モノ」が壊れた時の話。

みんなは「金継ぎ(Kintsugi)」って知ってる?

日本で、割れちゃったお茶碗とかお皿を、漆(うるし)と金(きん)で、あえて「割れ目」がわかるように修理するテクニックのこと。

「割れちゃった、価値が下がった」んじゃなくて、「割れたヒビも、そのお皿の新しい『景色』であり『歴史』だ」って、ヒビを「美」として捉え直す考え方なの。

これ、ものすごく「間」の考え方に近いと思う。

うちの娘がね、お気に入りのウサギの人形の耳を、片方、根元から「バキッ」と折っちゃったことがあるの。

もう、この世の終わりみたいに泣いて。

「うわー、やっちゃったね」って見たら、プラスチックの接続部分が完全に折れてる。

この時の「間」もきつかったよー(笑)

「あー、これ、一番好きだったやつじゃん…」「(正直、これ、接着剤じゃ無理かも…)」

私の頭をよぎるのは、「新しいのを買うか?」「でも、同じのあるかな?」「またすぐ壊すかも…」っていう、超現実的な「処理」のこと。

でも、娘は違う。

娘は「この子(ウサギ)が痛い!」って泣いてる。

この**「親の視点(=処理)」と「子どもの視点(=感情)」のギャップ**。

この「間」をどう埋めるか。

「泣かないの!しょうがないでしょ!」は、絶対言っちゃダメなやつ(言いたくなるけど!)。

「大丈夫、すぐ直るよ!」も、嘘になっちゃうかもしれない。

私が選んだのは、ここでも「観察」と「共同作業」。

「あー、本当だ。痛そう。ウS

「(娘の)Aちゃん、どうしてウサちゃん、耳が折れちゃったと思う?」

「…(泣きながら)…ベッドから、落っこちた…」

「そっかそっか。Aちゃんが落としたかったわけじゃないもんね。事故だね」

(まずは、罪悪感(Guilt)を和らげる。失敗=お前が悪い、にしない)

「さて、このウサちゃん、どうして欲しいと思う?Aちゃんなら」

「…なおしてほしい…」

「だよね。じゃあ、『ウサちゃん病院』、開くか!」

二人で、接着剤(ボンド)と、マスキングテープ(かわいい柄の)を持ってきた。

接着剤でくっつけても、すぐには固まらないでしょ?

だから、その上から、マスキングテープで「ギプス」みたいに固定したの。

「ほら、ウサちゃん、ギプス巻いてもらったよ。Aちゃんが、ギプスに『早く治れ』って書いてあげて」

娘は、泣きながら、テープの上に、ぐちゃぐちゃの顔マークを描いてた(笑)

結局、その接着剤はあんまり強くなくて、耳はまた取れちゃったりしたんだけど、でも、その度に「あ、また入院だ!」って言って、二人でテープを貼り替えた。

そのうち、そのウサギの耳は、何重にも巻かれたマスキングテープで、元の耳より3倍くらい太くなっちゃって(笑)

でもね、娘にとって、そのウサギは「壊れたお気に入り」じゃなくて、「自分がお世話した、特別なウサギ」になったの。

折れたヒビ、つまり「失敗」を、金(Kintsugi)…じゃなくて、マスキングテープで「景色」に変えたんだよね。

「壊れた」っていう「間(=ネガティブな空白)」に、

「どうして壊したの!」って怒りを注ぐんじゃなくて、

「どうしようか?」っていう「ケア(お手当)」を注いだ。

モノを大切にする(=もったいない精神)も大事だけど、それ以上に、

「失敗や欠け(Kake)は、新しい物語の始まりになる」

ってことを、あの太っちょの耳が教えてくれた気がする。

あの「間」は、「モノとの関係性を深める」ためのチャンスだったんだよね。


最後は、一番「うっ…」てなるやつ。

「学力の問題」。つまり、テストの点数。

これは、日本のママたちも、世界中のママたちも、一番「間」の使い方が問われるところじゃないかな…(笑)

特に、日本はまだ「良い点数を取ることが大事」っていう考え方が根強いから、子どもが「うわっ」ていう点数のテストを持って帰ってきた時の、あの「シーン…」となる「間」!

これはキツいよー!

こないだね、まさに息子が、漢字の小テストで「30点」ってのを取ってきたの。

「え、100点満点だよね? 30…点?」

さすがに、麦茶やオモチャと違って、笑顔で「盛大にいったね!」とは言えなかった(笑)

私の顔、たぶん、能面みたいになってたと思う。

息子も、それを察して、サササッと私から離れてコソコソし始めた。

これが、一番よくない「間」だよね。気まずくて、冷たい「間」。

どうしよう、と。

ここで「勉強しなさい!」って言うのは、一番簡単。

でも、それって「麦茶こぼした時に『なんで!』って言う」のと、全く同じ構造だよね。

「30点」っていう「結果(=失敗)」だけを見て、非難してる。

私が知りたいのは、「30点」っていう「結果」じゃない。

「残りの70点分の『間』」に、何が詰まってるのか、だ。

それは、「サボった」のか?「わからなかった」のか?「わかってたけど、ミスした」のか?

その「間」の正体を見極めないと、解決にならない。

私は、深呼吸して(またかよ!って感じだけど、大事なのよ、呼吸は)、息子のところに自分から行った。

「お、お疲れさん」

「…うん」

「これさ、30点だったけど、ママ、ちょっと中身見てもいい?」

「…うん」

私は、答案用紙を、息子と一緒に広げたの。

これがミソ。

「親が取り上げて、赤ペンでチェックする」んじゃなくて、「一緒に見る」。

立ち位置を「審査員」から「チームメイト」に変える。

「うわ、この『羽』っていう漢字、惜しい! ここ、線が一本足りないじゃん!」

「あ、本当だ…」

「で、こっちは…あ、これは、ママも書けないわ(笑)難しいね、これ」

「でしょー?」

「この70点分さ、全部『わからなかった』?」

「うーんとね…これは、わかってた。でも、書く場所間違えた」

「あー、問題読んでなかったパターンね(笑)で、こっちは?」

「これは、わかんなかった」

「OK。じゃあ、わからなかったのは、この3つだけだ。他は、練習不足か、うっかりミスだ」

わかるかな?

「30点」っていう数字で見ると、「絶望的なデキなさ」に見える。

でも、こうやって「70点の『間』」を分解していくと、

「本当にわからなかった(=要学習)の部分」

「練習すればできる(=要反復)の部分」

「次から気をつければいい(=要注意)の部分」

に、ちゃんと分けられるんだよね。

「30点」っていう結果に「間」を置かず、「勉強しなさい!」って言うのは、医者が「熱が39度ありますね。じゃあ、風邪薬出しときます」って言ってるのと同じ。

「なんで熱が出たの?喉?お腹?」って、「間」を観察しないと、正しい薬(=解決策)は出せない。

「OK、じゃあ、この『わからなかった3兄弟』だけ、今やっつけよう。他のうっかりミスたちは、明日の朝、もう一回やろう」

「えー、今から?」

「今から!5分で終わる!」

テストの点数っていう「結果(=失敗)」と、私たち親子の間。

その「間」は、怒りや、不安や、プレッシャーで埋め尽くされがち。

でも、あえてそこに「間」を置いて、「一緒に分解してみる」っていう「機会(Opportunity)」に変える。

そうすると、その「間」は、「気まずい空白」から、「次の作戦を立てるための、作戦会議室」に変わるんだよね。


麦茶をこぼした「間」。

オモチャが壊れた「間」。

テストの点が悪かった「間」。

どれもこれも、「やっちゃった!」っていうネガティブな瞬間。

でも、そこで「どうして!」って過去を責めるんじゃなくて、

「あえて、一瞬止まる(=間を置く)」

「相手を(モノを)観察する(=間を測る)」

「『じゃあ、どうしようか?』って未来の行動につなげる(=間を活かす)」

この「承」では、日本の親(というか、私)が、日常の「失敗」っていう「間」を、どうやって「学びの機会」っていう「余白(=ポジティブな間)」に変えようとアタフタしてるか、その実例をお話ししてみたよ。

もちろん、毎回こんなに冷静に「間」を活かせるわけじゃないよ!

「うわーーーー!もう!」って、普通に爆発する日も、もちろんある!(笑)

でも、「あ、今『間』を置くチャンスかも」って気づける回数が、前よりちょっとだけ増えた。それだけでも、大きな進歩だと思ってるんだ。

次の「転」では、この「間」の考え方が、もっと大きな話…日本の社会全体とか、私たちの「人生」そのものに、どう繋がっていくのか、もうちょっと深く掘り下げてみようと思うよ!

「まあ、お茶でも」の深イイ訳。—失敗を「修正」するな、「鑑賞」せよ。—

日本で働いたり、生活したりしたことがあるみんなは、感じたことないかな?

何か大きなミスやトラブルが「バーン!」と発生した時。

もちろん、緊急対応はするよ?するんだけど、その後の「空気感」に、独特の「間」が流れることがあるの。

例えば、仕事で私が大きなミスをして、取引先に平謝りして、なんとか事態が収束した日の夕方。

上司に呼ばれて、「あー、私、クビかも…」って、心臓バクバクで部屋に入ったら、

上司が、おもむろに湯呑みを差し出して、

「…まあ、とりあえず、お茶でも飲めや」

って。

え?

説教は?

始末書は?

原因究明と再発防止策の「即時提出」は?

もちろん、そういう「処理」も、後で(翌日とかに)ちゃんとやるんだよ。

でも、その「直後」には、あえて「間」を置く。

「お茶を一杯飲む」っていう、何の意味もないような、でも、すごく大事な「間」を。

これって、ただの「なあなあ(曖昧)」な文化なのかな?

責任追及から逃げてるだけ?

昔は私もそう思ってた。

でも、今になって、主婦になって、母親になって、いろんな「失敗」を経験して、ようやくわかってきた気がする。

あの上司の「まあ、お茶でも」は、「なあなあ」なんかじゃなかった。

あれは、「失敗を『修正』する前に、まず、その失敗を『味わえ』」

っていう、無言のメッセージだったんだと思う。

「承」で、子どものテストの点(30点)を見て、すぐに「勉強しなさい!(=修正)」って言わなかった話、したよね。

あれと同じ。

私たちが「失敗」した時、一番やっちゃいがちなのが、

「すぐに、その失敗を『なかったこと』にしようとすること」

じゃないかな。

  • すぐに謝って、
  • すぐに原因(たいてい「不注意でした」とか、浅いレベルのやつ)を報告して、
  • すぐに「次から気をつけます!」って言って、
  • …それで、フタをする。

これは、「修正(Fix)」してるだけ。

麦茶をこぼした床を、とりあえず雑巾で「上から押さえた」だけ。

カーペットの奥に染み込んだ「本当の原因」は、見て見ぬふり。

だって、怖いから。

自分の「ダメな部分」とか、「能力のなさ」とか、「弱さ」とか。

そういう、気まずい「間」に詰まってるものを、直視するのが怖いから。

だから、私たちは「間」をゼロにして、「はい、次!次!」って走り続けようとしちゃう。

でも、あの上司の「お茶」の「間」は、

「おいおい、焦るな」

「今、お前がやらかしたことの『重み』を、ちゃんと感じろ」

「なんでこうなったか、今、一番『うわー』ってなってるその頭で、心で、ちゃんと『鑑賞』しろ」

っていう時間だったんだ。

「鑑賞(Appreciation)」って、変な言葉だよね。

でも、「承」で話した「金継ぎ(Kintsugi)」を思い出して。

割れたヒビを「ダメなもの(=修正対象)」として隠すんじゃなくて、

「新しい景色(=鑑賞対象)」として金で飾る。

私たちの「失敗」も、同じじゃないかな。

仕事でやらかした、あの「うわー」な体験。

人間関係でこじらせた、あの「ぎゃー」な記憶。

子育てで「私、母親失格かも…」って泣いた、あの夜。

それは、人生の「割れ目」だよ。

でも、それを「なかったこと」にして、急いでパテで埋めて、上から白いペンキで塗りつぶして、「はい、完璧な私、復活!」ってやっても、

その「割れ目」は、また同じ場所から、もっとひどい形で割れる。

そうじゃなくて。

「あー、私、割れちゃったわ」

「ここに、こんな『ヒビ』が入っちゃった」

って、その「割れ目(=失敗)」を、ちゃんと「鑑賞」する「間」が必要なんだ。

「なんで私、あの時、あんな言い方しちゃったんだろう…」

(…ああ、疲れてたんだな。余裕がなかったんだ)

「なんで、あの仕事、断れなかったんだろう…」

(…ああ、『いい人』って思われたかったんだな。嫌われるのが怖かったんだ)

この、痛くて、苦しくて、気まずい「間」。

この「鑑賞」の時間こそが、

**「修正(Fix)」を、「教訓(Lesson)」**に昇華させる、唯一の道なんじゃないか。

「疲れてる時は、人と大事な話をしない」

「『いい人』でいるために、自分のキャパを超える仕事は受けない」

こういう「教訓」って、表面的な「修正」からは絶対に出てこない。

「間」の中で、自分の「割れ目」をじーっと見つめて、初めて手に入る、自分だけの「金(きん)」なんだよね。


この「間」の感覚って、別の日本語にも言い換えられる気がする。

それは、「遊び(Asobi)」。

「遊ぶ(Play)」っていう意味じゃないよ。

日本の大工さんとか、車を整備する人が使う言葉。

例えば、ドアノブや、車のハンドル。

あれって、取り付けた時に、わざと「少しだけカタカタする隙間」を作っておくんだって。

もし、あの「隙間(=遊び)」が全くないと、気温の変化で金属が膨張した時に、ギチギチになって動かなくなっちゃうから。

「遊び(=間、余白、緩み)」があるからこそ、スムーズに機能する。

私たちの人生も、同じじゃない?

「完璧(Perfection)」を目指すってことは、この「遊び(=間)」をゼロにすること。

スケジュールを分刻みで埋めて、

失敗ゼロ、ミスゼロを目指して、

いつも「ちゃんとした私」でいようとする。

でも、そんな「遊び」のない人生は、ギチギチ。

予想外のこと(=子どもの麦茶バーッシャーン!)が起きた瞬間、

「キーーーッ!」ってなって、心が動かなくなる。

ハンドルが効かなくなる。

だから、日本の文化は、いろんなところに「間(=遊び)」を仕込んできたんじゃないかな。

絵画に「余白」を。

音楽に「静寂」を。

会話に「一拍」を。

そして、失敗に「まあ、お茶でも」の「間」を。

これって、「完璧主義」から自分を解放してあげるための、すごい「人生術」だと思うんだ。

海外で頑張ってるみんなは、きっと私以上に「ちゃんとしなきゃ」ってプレッシャーの中で生きてると思う。

「日本人として、恥ずかしくないように」とか、「現地の人に負けないように」とか。

その「完璧」を目指す心は、ものすごく尊い。

でも、もし、その「完璧主義」に疲れて、心がギチギチになって、失敗した自分を「ダメだ」って責めそうになったら。

思い出してみてほしいんだ。

「あ、今、私、ハンドルに『遊び』がなくなってるかも」

「『間』が必要だ」って。

失敗したって、いいじゃん。

「ちゃんとしてない」部分があったって、いいじゃん。

そこが、あなたの「間」であり、「遊び」であり、他の誰でもない、あなただけの「景色(=金継ぎのヒビ)」なんだから。

「失敗」は、「終わり」じゃない。

それは、人生のハンドルが「まだちゃんと『遊び』を持ってますよ」って教えてくれる、サイン。

その「間」を、「修正」で埋めるんじゃなくて、

「私、今、何を学んでるんだろう?」って「鑑賞」してみる。

「転」では、家庭から社会へ、そして「人生術」へと、話を大きくジャンプさせてみたよ。

「失敗」を「ダメなもの」から「鑑賞するもの」へ。

「完璧」を「ギチギチ」から「遊び(間)のある状態」へ。

そんな風に、視点を「転」じてみること。

それが、私たちが日本文化から学べる、一番しなやかで、強い「生きる知恵」なのかもしれない。

じゃあ、最後、「結」!

この「間」の達人になるために、私たちが明日から具体的にできる「小さな一歩」は何か。

その話を、まとめていくね!

失敗は「点」じゃない、「余白」。—あなたの「間」を、今日から愛でてみよう—

さて、長旅も終わりです。

今日は、日本の主婦である私が、日常の「やっちゃった!」から学んだ、日本文化に隠された「間(Ma)」っていう知恵について、熱く語らせてもらいました。

**【起】**では、息子の「麦茶バーッシャーン事件」をきっかけに(笑)、「失敗」の瞬間にこそ、「何もない空白」じゃなくて「可能性(Opportunity)」としての「間(Ma)」が生まれてるんじゃない?っていう問題を、みんなに投げてみた。

**【承】**では、その「間」をどう活かすか、具体的な「我が家の格闘史」をシェアしたね。

壊れたオモチャを「金継ぎ」みたいに「物語」に変える「間」。

30点のテストを「怒りの対象」から「作戦会議」に変える「間」。

「どうして!(Why)」っていう過去への非難じゃなくて、「どうしようか?(How)」っていう未来への「チームメイト」になるための「間」の使い道。

**【転】**では、その「間」の考え方を、家庭から、社会、そして「人生術」へと広げてみた。

大失敗した部下に、上司が「まあ、お茶でも」って差し出す、あの「間」。

それは「なあなあ」なんかじゃなくて、「失敗を『修正』する前に、まず『鑑賞』しろ」っていう、深いメッセージ。

そして、完璧を目指してギチギチになった心に、「遊び(=間)」を持たせることこそが、しなやかに生きるための知恵なんだって話。


ここまで話してきて、私が、そして多分このブログを読んでくれてるみんなが、気づいたこと。

それは、私たちは、

「『間』が、怖い」

ってこと。

会話の「沈黙(=間)」。

予定表の「空白(=間)」。

キャリアの「中断(=間)」。

そして、人生の「失敗(=最大の『間』)」。

私たちは、この「間」が生まれると、不安で、気まずくて、ダメなことのように感じて、とにかく「すぐに」「何か」で埋めようと必死になっちゃう。

「正しいこと」で、「効率」で、「反省」で、「次の予定」で。

でも、今日、私たちが一緒に見つけてきた「日本の知恵」は、

「いやいや、待ちなさい」と。

「その『間』こそが、一番『おいしい』ところなんだよ」

って、教えてくれてる。

絵画の「余白」が、一本の竹を際立たせるように。

音楽の「静寂」が、次の一音を深く響かせるように。

私たちの人生も、「何をしたか」っていう「音符」や「線」だけでできてるんじゃない。

「何もしなかった『間』」

「失敗して立ち止まった『間』」

「どうしようかって悩んだ『間』」

…そういう「余白」や「静寂」こそが、その人の「深み」や「物語」を作ってる。

「失敗」は、人生の五線譜に書かれた「バツ印」じゃない。

それは、「全休符」。

「ここで、ちょっと息を吸いなさい」

「ここで、周りの音を聞きなさい」

「ここで、次のメロディを考えなさい」

っていう、「間」のサインなんだ。


特に、みんなは今、海外で生活してる。

私なんかが想像するより、ずっとずっと「間」のない生活をしてるかもしれない。

言葉の壁、文化の壁、子どもの学校、夫の仕事…。

「ちゃんとしなきゃ」

「迷惑かけちゃいけない」

「日本の主婦として、恥ずかしくないように」

って、もしかしたら、日本で暮らしてる私よりも、ずっと「完璧」を目指して、心をギチギチにしてるかもしれない。

そんなみんなが、もし、海外生活で「やっちゃった!」って失敗したら?

言葉が通じなくて、気まずい「間」が流れたら?

文化の違いで、浮いちゃった「間」を感じたら?

その時、このブログを思い出してくれたら、めちゃくちゃ嬉しい。

「あ、これ、『間』だ」って。

「ダメな私」じゃない。

「恥ずかしい」じゃない。

これは、私の人生の「余白」であり、「遊び」であり、「金継ぎ」の「ヒビ」なんだ、と。

この「気まずい『間』」を、どうやって「私だけの『景色』」にしてやろうか、って。

そうやって、自分の「間」を「鑑賞」できたら、

失敗を「ダメな点(Dot)」として捉えるんじゃなくて、

「人生を豊かにする『余白(Ma)』」として、愛でることができるようになる。

…いや、いきなり「愛でる」は無理でも(笑)、「まあ、いっか」って、お茶を飲むくらいの「間」は、作れるようになる。


じゃあ、明日からできる「間」のトレーニング。

最後は、これ。

「3秒の、ポケット『間』」

子どもが、夫が、あるいは自分が、「やっちゃった!」時。

「あーーーー!」って、いつもの「即反応(ゼロ『間』)」が出そうになったら、

ぐっと飲み込んで、**「3秒」**だけ、口をつぐんでみる。

その3秒の「間」で、

  • こぼれたジュースを見る。
  • 相手の「やっちゃった」顔を見る。
  • イラっとしてる自分の「心」を見る。

「修正(Fix)」する前に、「鑑賞(Appreciate)」する。

たった3秒。

でも、その「3秒の『間』」が、あなたの反応を、

「どうして!」っていう「過去への非難」から、

「どうしようか?」っていう「未来への解決」へ、

ガラッと変えるスイッチになる。

この「3秒の間」を、お守りみたいに「ポケット」に入れて、明日から、また海外でのタフで、でも最高にクリエイティブな日常を、楽しんでいってほしいな。

日本は[ここに現在の日本の季節感。例:そろそろ、本格的な梅雨が来そうだよ]。

みんなが住んでる街は、どうかな?

遠く離れてても、同じ「主婦」として、同じ「今」を生きてる。

お互い、日常に潜む「間」を楽しみながら、しなやかに、たくましく、やっていこうね!

また、日本の「へぇ〜」な知恵、見つけたら手紙(ブログ)書くね。

読んでくれて、本当にありがとう!

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