最初の壁:「人に頼る=悪」という見えない呪縛
まず、フックの一つ目にあった「Delegation mastery(デリゲーション=分担・外注の達人)」という言葉。
もうね、これを見た瞬間に、私、ちょっと笑っちゃったんですよ。
「達人」どころか、私たちは「デリゲーション(外注)します!」って宣言するだけで、なぜか「母親失格」「主婦失格」みたいなレッテルを貼られかねない、そんな不思議な空気の中で生きているんです。
海外、特に欧米では、ベビーシッターやハウスキーパー(家事代行)を頼むことは、合理的な「時間の買い方」として、もっとカジュアルに受け入れられている印象があります。アメリカでは8割以上の人が利用経験がある、なんて話も聞きますよね。
じゃあ、日本は?
ある調査(※くらしのマーケット 2024年調査)によると、家事代行サービスを「利用したことがある」と答えた人は、なんとたったの12.3%。
「え、少なっ!」って思いませんか?
そうなんです。ニーズがないわけじゃない。むしろ「利用したい」と思っている人はたくさんいるんです(情報1.1, 1.3)。でも、利用しない。
なぜか。
もちろん「価格が高い」(情報2.1)という現実的な問題は大きいです。日本のサービスは人件費もあって、まだまだ「気軽に毎日」というレベルではありません。
でも、それ以上に根深いのが、私たちの心の中にある「心理的な壁」なんです。
私自身の体験をお話ししますね。
第一子が生まれて数ヶ月。夫は典型的な日本のサラリーマンで、朝は子どもが起きる前に家を出て、帰ってくるのは子どもが寝た後、日付が変わる頃(情報4.2)。まさに「ワンオペ」状態でした。
私は帝王切開の傷がまだ痛む中、一日中泣き止まない赤子を抱え、まともに食事も睡眠もとれない日々。部屋は荒れ放題、洗濯物は山積み。「もう無理だ」と思いました。
その時、スマホで「家事代行 産後」って検索したんです。
いくつかサービスが出てきました。料金も確認しました。「…いける、かも?」
でも、予約ボタンが押せない。
頭の中をぐるぐる回るのは、「私が頑張ればいいだけじゃない?」「こんなことにお金を使うなんて、夫に申し訳ない」「みんな、もっと大変でも一人でやってるのに」「私が『サボってる』だけだ」「楽をしようとしている」…(情報4.4)。
そう。日本では、「家事や育児を他人に任せること(外注)」=「楽をしている」=「母親としての責任を放棄している」という、謎の方程式が、いまだに強く、強く残っているんです。
これは、「人に迷惑をかけてはいけない」という日本の文化が、歪んだ形で表れているのかもしれません。
この場合の「迷惑」は、お金を払ってサービスを受ける「業者さん」に対してですら、「こんなこと(家のこと)で他人様の手を煩わせて、申し訳ない」と感じてしまう。
結局その時、私はそっとブラウザを閉じました。
そして、ボロボロの体で夜中に洗濯機を回しながら、「これが『母親』ってことなんだ」と、自分に言い聞かせていました。
これが、日本の主婦が「デリゲーション(外注)」に踏み切れない、一つ目の大きな、見えない壁なんです。
第二の壁:「いない」パートナーと「遠い」家族
じゃあ、外注(デリゲーション)が無理なら、フックにあるように「家族や友人と分担」すればいいじゃない?
ごもっともです。
理想は、そう。
でも、ここにも日本の「ワンオペ」を生み出す、構造的な問題が横たわっています。
まず、パートナー(夫)。
先ほども少し触れましたが、日本の「長時間労働」文化は、想像以上かもしれません(情報4.2)。「イクメン(育児をするイケてるメンズ)」なんて言葉がわざわざ作られる(情報4.5)くらい、「男性が育児・家事をする」ことが、まだ「特別」で「褒められること」なんです。
「分担」しようにも、平日の夜、その肝心の「分担相手」が物理的に家にいない。
夫が単身赴任(情報4.1)で、週末しか帰ってこない家庭もザラにあります。
私の友人は、夫が激務すぎて、平日は「夫ももう一人(長男)の子どもだと思ってる」と笑っていました。食事と着替えを用意して、寝る場所を確保する。「世話」はしても「分担」は期待できない、と。
次に、親族(自分の親や義理の親)。
日本も「核家族化」が進んで、親世代と離れて暮らすのが当たり前になりました(情報4.4)。
私の実家も、新幹線で3時間かかる距離。
「ちょっと子ども見といて」なんて、絶対に無理。
これも忘れられない実体験があります。
子どもが2歳の冬、インフルエンザにかかりました。40度の熱。そして、最悪なことに、私も翌日に発熱。同じく40度。
夫は運悪く、海外出張中。
意識が朦朧とする中、解熱剤で無理やり熱を下げて、子どものためにおかゆを作り、ぐったりしている子どもを抱きかかえてトイレに連れて行く。
「助けて」
その一言が、言えない。
実家の親に電話? 高齢の親にインフルエンザをうつすわけにはいかないし、そもそも今から来てもらっても間に合わない。
義理の親? 「嫁失格」って思われそうで、絶対に言えない。
地域の「病児保育サービス」?
もちろん登録はしていました。でも、朝8時に電話をかけたら、もう「本日は満員です」のアナウンス。
絶望でした。
高熱の中、二人きりの部屋で、「もし私がここで倒れたら、この子はどうなるんだろう」と本気で思いました。
これが、日本の主婦が直面する「ワンオペ」のリアル。
「デリゲーション(分担)」したくても、**頼る先が「ない」**んです。
「村」は、どこにある?
外注(デリゲーション)には罪悪感という心の壁がある。
家族(夫・親族)は、物理的に頼れない。
まさに「詰んでる」状況ですよね。
じゃあ、私たち日本の主婦は、サポートシステム(村)なしで、この過酷なワンオペ育児という荒野を、たった一人で走り続けているんでしょうか?
いいえ。だとしたら、とっくに倒れています(笑)。
私たちには、私たちなりの「村」の作り方があります。
それは、欧米の「シッターを頼む」「パーティを開いて皆でワイワイ」というような、分かりやすくオープンな「村」とは、ちょっと違います。
もっと静かで、見えにくくて、でも確かに存在する、日本独自の「見えない村」です。
それは、「人に迷惑をかけてはいけない」(建前)という文化の中で、それでも「助け合いたい」(本音)という思いがせめぎ合って生まれた、究極の「サバイバル術(人生術)」とも言えます。
フックの二つ目にあった「Mompreneur Network(ママ起業家ネットワーク)」、日本でいうところの「ママ友ネットワーク」も、その「見えない村」の最たるもの。
それは、ただランチをして愚痴を言い合う関係じゃありません。
ネットには載っていない地域の病院情報(情報3.1)や、災害時の避難場所、信頼できる一時保育の情報を交換し合う、最強の「情報ネットワーク」であり、いざという時に「うちの子も一緒に見とくよ!」と言い合える、最後の「セーフティネット」なんです。
そして、フックの三つ目「Setting boundaries(境界線を引くこと)」。
私たちが引くべき「境界線」は、仕事と家庭の間(だって夫がいないから、境界線を引きようがない!)でも、他人との間でもありません。
まず引くべきは、「“完璧な母親”になろうとする自分」と「現実の自分」との間の境界線。
「全部自分でやらなきゃ」という呪縛から、いかに自分を解放するか。
いかに「迷惑をかけてもいいんだ」と自分に許可を出すか。
「起」の今回は、まず日本の主婦がいかに「村」を作りにくいか、その背景にある社会観や私のリアルな絶望体験(笑)を中心にお話ししました。
「承」となる次回は、この「詰んだ」状況から、私たちがどうやって「見えない村」を築いていくのか。
特に、海外の方には不思議に見えるかもしれない「ママ友」というコミュニティの実態と、その中でうまくサバイバルしていくための、日本的な「人生術」について、さらに深く掘り下げていきますね。
「見えない村」の正体と、その掟(おきて)
前回、「私たちには、日本独自の『見えない村』がある」というお話をしました。
外注(家事代行)には罪悪感がつきまとい、夫や親族は物理的に頼れない。そんな八方ふさがりの状況で、私たちが必死に手を伸ばし、築き上げるコミュニティ。
それが、フックにあった「The power of the “Mompreneur Network”(ママ起業家ネットワーク)」…と言いたいところですが、日本でこの言葉は、ちょっと意識が高すぎるかもしれません(笑)。もちろん、起業してバリバリ活躍されているママさんもたくさんいますが、多くのごく普通の主婦(私のような)にとって、このネットワークはもっと泥臭く、もっと切実なものです。
そう、それが「ママ友ネットワーク」です。
海外の皆さんから見たら、「ママ友」ってどんなイメージでしょう? 一緒にランチしておしゃべりして、楽しそう?
半分正解で、半分は…ちょっと違います。
私たちにとっての「ママ友ネットワーク」は、楽しい「交流の場」であると同時に、情報を駆使して生き残るための「最強の諜報(ちょうほう)機関」であり、ギリギリのところで助け合う「相互扶助のセーフティネット」なんです。
「ママ友」は、最強のインフラである
まず、なぜ私たちがこのネットワークを必死で築くのか。
それは、「ママ友」が持っている「情報」が、文字通り「命綱」になるからです。
日本、特に都市部では、行政のサービス(児童館、保育園、保健センターなど)は一応整っています。でも、本当に知りたい「生きた情報」は、ネットのどこにも、役所のパンフレットにも載っていません。
それは、実際にその地域で子育てをしている「ママ」の口からしか得られないんです。
実体験:地獄の「公園デビュー」と、情報の価値
忘れもしません。子どもが1歳になり、よちよち歩き始めた頃。私は意を決して、近所の公園に「デビュー」しました。
なぜ「意を決して」かって?
当時の私にとって、公園は「憩いの場」ではなく、「ママ友コミュニティへの入会審査会場」だったからです。
すでにいくつかのグループができていて、和気あいあいと話している。私は、その輪の5メートル外側で、子どもと二人、砂遊びをしながら(を装いながら)、全身の神経を耳に集中させていました。
「こんにちは」
この一言をかけるのに、どれだけの勇気が必要だったか。
まるで、初めての転職面接みたいでした(笑)。
不審者だと思われないように、でも馴れ馴れしくないように。絶妙なタイミングを見計らって声をかけ、当たり障りのない会話(「何歳ですか?」「この辺、小児科どこがいいんですかね?」)を交わす。
そう。これが「村」作りの第一歩。
一見、無駄なおしゃべりに見えますが、これは「私は敵ではありません」「あなたのコミュニティに入れてください」という、必死のシグナル交換なんです。
そして、この「審査」を無事に通過し、LINEグループ(情報3.4)に入れてもらうと、世界は一変します。
- 「A小児科は混むけど、ネット予約できる。B小児科は先生が怖いけど、予防接種専用の時間があるから安心」(情報3.1)
- 「駅前のスーパー、火曜の午前中は卵が特売」
- 「あそこの児童館、〇〇先生がいる日はイベントが楽しいよ」
これ、全部ネットには載っていない、地元民だけの「インテリジェンス(諜報)」です。
この情報を知っているかいないかで、日々の生活の難易度(QOL)が劇的に変わる。
フックにある「shared wisdom(共有された知恵)」とは、まさにこのこと。
日本の主婦にとって「ママ友」は、電気・ガス・水道に次ぐ、第4の「生活インフラ」なんです。
持ちつ持たれつ、ギリギリの「おすそ分け」文化
情報だけではありません。この「見えない村」のもう一つの重要な機能が、「相互扶助(助け合い)」です。
前回(起)で、私が子どもと二人でインフルエンザで倒れた話を書きました。あの時、もし近所に「ママ友」がいたら?
もちろん、インフルエンザをうつすわけにはいかないので、「助けて!」とは言えません。
でも、彼女たちはきっと、こんな行動(人生術)をとってくれたはずです。
「LINE、大丈夫? 生きてる? ポカリとゼリー、玄関のドアノブにかけとくから! 顔は見なくていいから、取れる時取って!」
これです。
物理的に接触せず、相手に「ありがとう」という「借り」を(精神的に)負わせすぎない、絶妙な距離感でのサポート。
これも実体験ですが、子どもが小さかった頃、我が家の食卓は「ママ友」からの「お下がり(お古の服やオモチャ)」と「おすそ分け」で成り立っていました。
「ごめん、うちの子、この肌着もうサイズアウトしちゃった。捨てるのもったいないから、いる?」
「カレー作りすぎちゃって。タッパーごと玄関に置いとくね!」
これは、「デリゲーション(外注)」のような明確な「契約」ではありません。
でも、この「お下がり」や「おすそ分け」という名の、目に見えない「善意のバトン」が、私たちワンオペ主婦の経済と精神を、ギリギリのところで支えているんです。
もちろん、もらったら、今度は自分が返す番。
「この前はありがとう。うちも実家からみかん送ってきたから、よかったらどうぞ」
この「持ちつ持たれつ」の感覚。
「人に迷惑をかけてはいけない」という文化の中で、唯一許される、非常に日本的な「デリゲーション(分担)」の形が、これなんです。
「村」の代償:見えない掟と「境界線」の難しさ
と、ここまで書くと、「ママ友ネットワークって最高!」と思いますよね。
でも、この「見えない村」には、光があれば、当然、濃い「影」もあります。
それは、この村が「善意」と「暗黙の了解」という、非常に曖昧なもので成り立っているからです。
この村には、明文化された「法律」がありません。
あるのは、その場の「空気」という名の、見えない「掟(おきて)」だけ。
- ランチ会には、なるべく参加しなくてはいけない(ように感じる)。
- 「お下がり」をもらったら、何か「お返し」をしなくてはいけない(気がする)。
- ボスママ的な人の意見には、逆らってはいけない(空気になる)。
- 子どもの服装や持ち物、習い事など、他の家と「横並び」でなくてはいけない(というプレッシャー)。
そう。この「村」は、強力なセーフティネットであると同時に、一歩間違えれば、とてつもない「同調圧力」を生む、息苦しい「監視社会」にもなり得るんです。
フックの3つ目に「Setting boundaries(境界線を引くこと)」とありました。
これ、まさに日本の主婦にとって、最も難易度の高い「人生術」です。
「仕事と家庭の境界線」(フックの元々の意味)なんて、悩む以前の問題。私たちが引くべきは、「ママ友との境界線」です。
村の「情報」や「助け合い」というメリットは享受したい。
でも、村の「同調圧力」や「監視」というデメリットは受けたくない。
このワガママを、いかにして実現するか。
近すぎれば、飲み込まれて息苦しくなる。
遠すぎれば、情報もサポートも得られず、孤立する。
この、「近すぎず、遠すぎず」の絶妙な距離感を保ち続けることこそが、日本の主婦に求められる、最高の「Delegation mastery(分担の達人)」ならぬ、「人間関係の達人(人生術)」なんです。
「承」では、日本の主婦の「村」=「ママ友ネットワーク」が、いかに強力なインフラであり、同時にもろ刃の剣であるか、そのリアルな実態をお話ししました。
では、この息苦しさもある「村」の中で、私たちはどうやって「自分」を保つのか?
フックの「境界線を引く」というテーマは、実は「他人」との間だけではないんです。
次回、「転」では、この話が思わぬ方向に転回します。
私たちが本当に引くべき「境界線」とは?
私たちが本当に「デリゲーション(手放す)」しなくてはいけないものとは?
それは、「他人」ではなく、私たち自身の「心の中」にある、ある「呪縛」だったのです。
最大の敵は「ママ友」じゃなかった。私の中にいた「呪い」の正体
「承」で書いた通り、私は「ママ友ネットワーク」という村の中で、常にピリピリと神経をすり減らしていました。
「Aさんの機嫌を損ねてないか?」
「Bさんのグループで、私の悪口を言われてないか?」
「『あそこの奥さん、付き合い悪いわね』と思われてないか?」
フックの3つ目「Setting boundaries (境界線を引くこと)」を、私は「他人から自分を守るための防衛ライン」だと、ずっと思っていたんです。
その考えが、ガラガラと崩れた決定的な出来事があります。
それは、長男が幼稚園に入園した時の、「お弁当」事件です。
地獄の「キャラ弁」と、涙の唐揚げ
日本の幼稚園では、週に数回、お弁当(Obento)を持たせる文化が根強く残っています。
そして、海外の皆さんも(もしかしたらご存知かもしれませんが)日本のママたちの中には、そのお弁当をアニメのキャラクターそっくりに作る「キャラ弁(Kyara-ben)」に命を懸けている人たちがいます。
私は、心の底から思いました。
「…無理だ」と。
私は絶望的に不器用でした。海苔(Nori)を小さなハサミで切って、顔のパーツを作る? チーズやハムで飾り付け? 早朝5時から、そんな細かい作業ができるわけがない。
でも、「ママ友ネットワーク」から入ってくる(気がする)無言のプレッシャーが、私を追い詰めました。
「みんな、可愛いお弁当なんでしょ?」
「Aさん(器用なママ)は、ピカチュウ作るって言ってたよ」
「(誰も言っていないのに)茶色いお弁当なんて、子どもが可哀想…」
これが「承」で話した「同調圧力」です。
私は観念しました。
入園式前夜、私は100円ショップでキャラ弁用の型抜きと、小さな海苔パンチを買い込みました。
そして、最初のお弁当の日。
…結果は、惨敗でした。
ご飯はうまく色がつかず、海苔は湿気でふやけて、型抜きのハムはそり返る。
出来上がったのは、「何か」のキャラクターだったものの「残骸」でした。
私は、早朝のキッチンで一人、泣きました。
なんで、私はこんなこともできないんだろう。
なんで、みんなはできている(ように見える)のに。
私は、母親失格だ。
その時です。
泣きながら冷凍の唐揚げをレンジで温めている私を見て、起きてきた息子が言いました。
「わーい! からあげ! やった!」
…え?
君、そっち?
この、ママの血と涙の結晶(の残骸)じゃなくて、そっちの「茶色い」やつ?
私は、ハッとしました。
息子は、キャラ弁なんて求めていなかった。彼が求めていたのは、大好きな唐揚げが入っていること、ただそれだけ。
じゃあ、私は、いったい誰のために、こんなに苦しんでいたんでしょう?
私たちを縛る「良い母」という名の呪縛
そう。
私を苦しめていたのは、ママ友グループのAさんでもBさんでもなかった。
私を苦しめていたのは、私自身の心の中に深く根付いていた、「“良い母親”は、こうあるべきだ」という、強烈な「呪縛(じゅばく)」だったんです。
- 呪縛その1:「母たるもの、子どものためには手間ひまをかけるべき」(手作り信仰)
- 呪縛その2:「母たるもの、弱音を吐かず、笑顔でいるべき」(自己犠牲)
- 呪縛その3:「母たるもの、家事も育児も完璧にこなすべき」(完璧主義)
私は、この見えない「呪い」に、完全に支配されていました。
「承」で話した、「ママ友」からの同調圧力。
あれも、今思えば、彼女たちが私に圧力をかけていたというよりは、私が「彼女たちは、きっと私をこうジャッジするに違いない」と、自分で自分に圧力をかけていただけなんです。
私が「茶色いお弁当」を持って行ったら、みんなに「ひどい母親」と笑われるんじゃないか、と怯えていた。
でも、それは、私自身が「茶色いお弁当=ひどい母親」だと思っていたからです。
フックの3つ目「Setting boundaries(境界線を引くこと)」。
私たちが本当に引くべきだった「境界線」は、他人との間じゃありませんでした。
それは、「社会や他人が期待する“理想の母親像”」と、「不器用で、ズボラで、冷凍唐揚げに頼る“現実の私”」との間に引くべき、心の境界線だったんです。
本当の「デリゲーション(手放す)」とは
この気づきは、フックの1つ目「Delegation mastery(デリゲーション=分担・外注の達人)」の意味さえも、私の中で変えてしまいました。
「起」で、私は「家事代行を頼むことに罪悪感がある」と書きました。
それは、家事を「デリゲーション(外注)」すること=「楽をしている」「サボっている」という、「呪縛」のせいでした。
でも、違う。
私たちがマスターすべき「デリゲーション」は、違ったんです。
私たちが真っ先に「デリゲーション(手放す)」しなきゃいけなかったのは、掃除や洗濯じゃありません。
「全部自分でやらなきゃ」という完璧主義。
「人に頼ったら申し訳ない」という罪悪感。
「私は“良い母親”でいなきゃ」という見栄(みえ)。
これら、自分を縛り付けている「心の呪縛」そのものを、「デリゲーション(手放す)」ことこそが、日本でサバイバルするための、第一歩だったんです。
この「呪縛」を手放さない限り、たとえ物理的にサポート(村)があったとしても、私たちはそれを受け取ることができません。
家事代行さんが来てくれても、「申し訳ない」と恐縮して、余計に疲れてしまう。
ママ友が「手伝おうか?」と言ってくれても、「いえ、大丈夫です!」と、笑顔で嘘をついてしまう。
これでは、「村」は機能しない。
私は、あのお弁当事件の日を境に、決めました。
もう、「完璧なママ」になるのは、やめよう。
「デリゲーション」しよう。この、重たい「呪い」を。
「呪い」を解いた先に、本当の「村」が見えた
「転」では、私たちが本当に戦うべき敵は「外」にはいなくて、すべて「内」…自分自身の「呪縛」だった、というお話をしました。
私は、あの地獄のキャラ弁事件以来、息子の弁当箱に、堂々と冷凍の唐揚げとミートボールを詰め込むようになりました。
(もちろん、栄養バランスは考えますよ!笑)
そして、勇気を出して、公園のママ友に言ってみたんです。
「私、キャラ弁、諦めました。不器用すぎて無理(笑)」
すると、彼女たちは何と言ったと思いますか?
「あ、なんだ。言ってよー!」
「わかる! あの海苔の作業、発狂しそうになるよね!」
「うち、ずっと冷凍だよ? 子ども、そっちのほうが喜ぶし!」
…え?
なんだ。
誰も、私をジャッジしていなかった。
私を縛っていた「呪縛」を解いた瞬間、今まで「監視社会」だと思っていた「村」は、一瞬にして「ズボラを許し合う、温かい同志の村」に変わったんです。
フックの2つ目「The power of the “Mompreneur Network”: finding your tribe for shared wisdom and emotional support.(ママのネットワークの力:知恵と精神的サポートを分かち合う、あなたの仲間を見つける)」
私が見つけた「知恵(wisdom)」とは、「キャラ弁の作り方」じゃありませんでした。
それは、「キャラ弁なんて作らなくても、私たちは良い母親だ」という、「呪いを解くための知恵」でした。
そして、「emotional support(精神的サポート)」とは、「**ズボラでもいいじゃん!」と、互いの不完全さを笑い合い、認め合う「共感」**だったんです。
「転」は、ここまで。
「呪縛」を手放し、不完全な自分を許す「境界線」を引いた私。
こうしてようやく、私は「村」の入り口に立つ準備ができました。
では、最終章「結」では、この「呪いを解いた私」が、具体的にどのように自分だけの「村(サポートシステム)」を再構築していったのか。
「デリゲーション」と「ママ友ネットワーク」と、どう「快適な距離感」で付き合っていくのか。
その、現実的かつ日本的な「人生術」について、お話ししたいと思います。
「呪い」を解いた私が、新しく手に入れた「村」のカタチ
「転」で「“良い母親”の呪縛」を手放した私。
なんだか、RPGで重い「呪いの鎧(よろi)」をようやく脱ぎ捨てて、身軽になった気分でした。
すると、面白いことに、今まで「難題」だと思っていたフックの3つのテーマが、まったく違う、もっと優しくて「楽」なものに見えてきたんです。
私の「デリゲーション・マスター(分担の達人)」宣言
まず、フックの1つ目「Delegation mastery(分担の達人)」。
「起」では、「家事代行なんて罪悪感の塊だ!」と、予約ボタンが押せなかった私。
でも、呪いが解けた私は、違いました。
「呪縛」を手放した私が、次に手放した(デリゲーションした)もの。
それは、「私じゃなくてもできる家事」です。
ある日、私はスマホを握りしめ、数年越しのリベンジを果たしました。
そう。「家事代行」の予約ボタンです。
ただし、頼んだのは「毎日の掃除」ではありません。
私が頼んだのは、一点集中。「換気扇(レンジフード)の奥の奥の、油まみれのファンの掃除」です!
皆さん、あそこ、掃除したことありますか?
私は、何年も見て見ぬふりをしてきました。あそこは「開けてはいけないパンドラの箱」だと。
でも、プロの業者さんが来て、専用の洗剤と高圧洗浄機(?)であっという間にピカピカにしてくれた時、私は、換気扇の前で(心の中で)ガッツポーズをしました。
かかった費用、約1万円。
でも、私が得たのは、ただ「ピカピカの換気扇」だけじゃありません。
「私は、この1万円で、あの地獄のような掃除から解放される権利と、心の平穏を買ったんだ!」
という、圧倒的な「勝利宣言」でした。
「起」の私が感じていたのは、「楽をして申し訳ない」という罪悪感。
「結」の私が感じているのは、「面倒なことをプロに任せて、私は子どもと笑顔でいる時間を選ぶ」という賢明な選択(=マスター)。
そう。本当の「デリゲーション・マスター」とは、何でもかんでも外注することじゃありません。
自分の中の「呪い(罪悪感)」を手放し、「自分(母親)にしかできない仕事」(=子どもを抱きしめる、話を聞く、笑顔でいる)にリソースを集中させるために、それ以外の「私じゃなくてもできる仕事」を、戦略的に手放せる人のことだったんです。
私の「ママ友ネットワーク(村)」:ズボラ同盟のすすめ
次に、フックの2つ目「The power of the “Mompreneur Network”(ママのネットワーク)」。
「承」で、私は「ママ友ネットワーク」を「息苦しい監視社会」と「最強のインフラ」の両面で描きました。
呪いが解けた今、この「村」はどう変わったか。
答えは、「付き合う人(村)を、自分で選ぶようになった」です。
以前は、「みんな」から嫌われたくなくて、すべてのグループに顔を出し、すべてのランチ会に(無理して)参加していました。
でも、「転」で「キャラ弁、やめた!」とカミングアウトした私。
「私、ズボラなんです」と、自分の「不完全さ」をオープンにした。
すると、不思議なことが起こります。
「私も!」「わかる!」と、「不完全さ(ズボラ)を認め合える人」だけが、私の周りに残ったんです。
私は、彼女たちとの関係を、勝手に「ズボラ同盟」と呼んでいます(笑)。
この「同盟」の掟は、ただ一つ。
「無理をしない、させない」
- ランチ会に誘われても、「ごめん、今週ちょっと疲れてるから、パス」と平気で言える。
- お弁当の日に、「今日、寝坊して“ふりかけご飯”だけになっちゃった(笑)」とLINEで報告し合える。
- 誰かが本当に困った時(インフルエンザで倒れた時)だけは、「玄関にポカリ置いとく!」と、全力で助け合う。
フックにあった「finding your tribe(あなたの仲間を見つける)」とは、こういうことだったんです。
「ママ」という属性だけで、無理やり一つの「村」に入る必要はなかった。
情報交換は、LINEグループで最低限おさえる。
でも、心のサポート(emotional support)は、「ズボラ同盟」という、自分が本当に心地よい「小さな村(トライブ)」で得る。
この「ネットワークの使い分け(=境界線)」こそが、「承」であれほど悩んでいた「近すぎず、遠すぎず」の、私なりの答えでした。
私の「境界線(バウンダリー)」:それは私自身を守る「お守り」
最後に、フックの3つ目「Setting boundaries(境界線を引くこと)」。
「転」で、私は「理想の母親像と、現実の自分の間に引くべきだ」と気づきました。
「結」では、その「境界線」は、もっと具体的で、私を守ってくれる「お守り」のような存在になりました。
呪いが解けても、長年染み付いた「“良い母”であらねば」という呪縛は、油断するとすぐに顔を出します。
「あ、また冷凍食品に頼っちゃった…」
「さっき、子どもにイライラして当たっちゃった…」
そんな時、私は、あの「転」の日の息子の言葉を「境界線」として思い出すんです。
「わーい! からあげ!」
(大丈夫。子どもは、ママが完璧であることより、大好きな唐揚げが入っているほうが嬉しい)
(大丈夫。イライラしちゃっても、そのあと5分、ぎゅっと抱きしめれば、子どもは笑ってくれる)
この「境界線(=お守り)」は、「完璧な母」という呪いから、「不完全な私」を守ってくれるバリアなんです。
このバリアがあるから、家事代行に「罪悪感」ではなく「感謝」を抱ける。
このバリアがあるから、ママ友に「同調」ではなく「共感」を求められる。
「Building Your Village(あなたの村作り)」
この4回の連載で、私が出した結論はこうです。
日本社会で「村」を作るのは、確かに難しい。
でも、それは「他人」と「村」を作ろうとするから難しいんです。
本当の「村(サポートシステム)」とは、まず、自分自身の「心の中」に作るものだった。
「呪縛」を手放し(デリゲーション)、
「不完全な自分」を許し(境界線)、
「心地よい仲間」だけを選ぶ(ネットワーク)。
そうやって、自分の中に「自分がご機嫌でいられる村」を築くこと。
それこそが、日本で、あるいは海外で、孤独な「ワンオペ育児」をサバイバルしていくための、最強の「人生術」なんじゃないか、と私は思います。
海外で奮闘する皆さんも、きっとそれぞれの「村」を作っている(あるいは、作れずに悩んでいる)最中だと思います。
どうか、「完璧な主婦」「完璧なママ」の呪縛に、自分を閉じ込めないでください。
あなたが「もう無理!」と手放した冷凍唐揚げを、「最高!」と言ってくれる人が、きっとあなたの「村」の仲間です。

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