「ありがとう」だけじゃない? 食卓と針供養に隠された、日本のディープな感謝の心

食卓は「命」の教室。「いただきます」と「もったいない」の本当の意味

(※本日は、この「起」の部分のみを執筆します)

皆さん、こんにちは。

今日の東京は、雲一つない、気持ちのいい秋晴れです。こんな日は、洗濯機を何度も回して、シーツや毛布を全部洗ってしまいたくなりますね。

さて、今日のテーマは「感謝」です。

「なーんだ、ありがとう(Thank you)でしょ?」

そう思った方、もちろん正解です。でも、日本で「感謝」を伝える言葉は、実は「ありがとう」だけじゃないんです。むしろ、**「ありがとう」という言葉を使わない、形のない「感謝」**が、私たちの生活のいたるところに染み込んでいる気がします。

今日はその中でも、一番わかりやすい「食卓」の話をさせてください。

海外の皆さんが日本に来て、食事の時にちょっと不思議に思うこと。

それは、手を合わせて「いただきます」と言い、食べ終わったらまた手を合わせて「ごちそうさまでした」と言う、あの習慣かもしれません。

これ、私たち日本人にとっては、物心ついた時からやっている「当たり前」の動作です。子どもたちにも「ご飯の前になんて言うんだっけ?」と毎日毎日、呪文のように唱えさせています(笑)。

でも、これ、単なる「食事の合図」じゃないんですよね。

もちろん、海外にも食前のお祈り(Grace)がある文化はたくさんあると思いますが、日本の「いただきます」は、ちょっとユニークな視点を持っているんです。

「いただきます」を漢字で書くと「頂きます」。

これは、「(物を)もらう」という言葉の、とても謙虚な(へりくだった)表現です。

じゃあ、私たちは一体「何」を「頂いている」のでしょうか?

それは、目の前にある「食べ物」を作ってくれた人(例えば私)への感謝?

それももちろんあります。

でも、もっと根源的な意味は、**「あなたの『命』を、私の『命』にさせて頂きます」**という宣言なんです。

…ちょっと重いですか?(笑)

でも、これが本質なんです。

私たちは、お肉や魚はもちろん、目の前にあるお米一粒、ニンジン一本にも「命」が宿っていた、と考えています。

これは、日本の古い考え方である「アニミズム(八百万の神)」、つまり「すべてのものに神様や魂が宿る」という感覚に近いかもしれません。

だから、手を合わせて頭を下げるのは、

「お魚さん、あなたの命をくれて、ありがとう」

「お米さん、あなたが育ったあのお日様や水に、ありがとう」

という、自分以外の「命」に対する尊敬と感謝の気持ちなんです。

この感覚は、私たちが子どもの頃から当たり前に触れている仏教の「不殺生(むやみに生き物を殺さない)」という教えとも、深くつながっていると言われています。

だから、これは「Thank you for the food(食べ物をありがとう)」というよりは、「I humbly receive this life(この命を、謹んで頂戴します)」というニュアンスの方が、ずっと近いんですね。

スーパーでピカピカのキュウリを見ながら「今日はこれにしよう」と選んでいる私(主婦)も、無意識のうちに「命」を選んでいるわけです。そう思うと、毎日の献立作りも、なんだか神聖な仕事に思えてきませんか?(…たまに面倒で仕方がなくなりますけど!)

そして、食後の「ごちそうさまでした」。

こちらはもっと面白いですよ。

「ごちそうさま」は漢字で「御馳走様」と書きます。

この「馳走(ちそう)」という言葉、どういう意味か知っていますか?

「馳(は)せる」も「走(はし)る」も、どちらも「走る」という意味なんです。

昔、まだスーパーなんてなかった時代。お客様をもてなす(ごちそうする)ためには、馬を「走らせ」て山や海へ食材を獲りに行き、お客さんのために「走り回って」準備をする必要がありました。

つまり、「ごちそうさま」という言葉には、**「私のために、あちこち走り回ってくれて、ありがとう」**という、食材を準備してくれた人の「努力」や「苦労」に対する感謝が込められているんです。

現代の食卓で言えば、こうです。

農家の人が、汗水たらして野菜を育ててくれた(走)。

トラックの運転手さんが、市場まで運んでくれた(走)。

スーパーの店員さんが、きれいに並べてくれた(走)。

私(主婦)が、特売を目指してスーパーを「走り回り」(笑)、家に帰って台所で「走り回って」料理をした(走)。

夫が、家族のために毎日会社で「走り回って」お給料を稼いできてくれた(走)。

この一皿には、本当にたくさんの人の「馳走(走り回った努力)」が詰まってるんですよね。

「ごちそうさまでした」は、その「命のリレー」に関わった全ての人への「お疲れ様、ありがとう」なんです。

さて、ここまで「いただきます(命への感謝)」と「ごちそうさま(努力への感謝)」について話してきました。

この2つの感謝の気持ちが合わさると、自然と生まれてくる「日本の知恵」があります。

それが、**「もったいない」**という感覚です。

海外でも、ケニアのワンガリ・マータイさんが環境保全のスローガンとして使ってくれたことで、「MOTTAINAI」という言葉として知られるようになりましたよね。

多くの人が、これを「Wasteful(無駄遣い)」や「Saving money(節約)」と訳します。

でも、私たち日本人が「もったいない」と言う時、それはお金のこと「だけ」を言っているのではありません。

「もったいない」の語源は、「勿体(もったい)が無い」です。「勿体」とは、「物事の本来あるべき姿、価値」のこと。

つまり、**「それを捨ててしまうなんて、その物の本来の価値に対して失礼だ!」**というのが、「もったいない」の本当のニュアンスなんです。

命をくれた野菜や魚(いただきます)と、たくさんの人が走り回ってくれた努力(ごちそうさま)。

その「価値」を知っているからこそ、私たちは食べ物を残すことに強い罪悪感を覚えます。

だから、日本の主婦は(私だけかもしれませんが)、大根の皮を捨てません。きんぴらにします。

ニンジンやブロッコリーの芯も、スープの出汁にします。

昨日の残りのカレーは、うどんにリメイクします。

これは、ただ「ケチ」だからじゃないんです(笑)。

その方が美味しいというのもありますが、「命」と「努力」を最後まで使い切らないと「もったいない」、つまり「野菜さんや農家さんに申し訳ない」という感覚が、心の底にあるから。

この「もったいない」精神は、食べ物だけじゃありません。

日本には昔から「針供養(はりくよう)」という風習があります。これは、折れて使えなくなった裁縫針を、柔らかいお豆腐やこんにゃくに刺して、「今までありがとう、お疲れ様」と供養する儀式です。

たかが針、されど針。

無機質な「モノ」にすら、私たちは「お疲れ様」と感謝の気持ちを向けてきたんですね。

「いただきます」

「ごちそうさま」

「もったいない」

この3つは、私たちが日常の食卓で、毎日毎日、無意識に実践している「感謝のレッスン」です。

命を頂いていることへの謙虚さ。

見えない誰かの努力を想像すること。

そして、モノの価値を最後まで使い切ること。

これって、別に宗教的な儀式じゃなくても、すごく大切な「人生の知恵」だと思いませんか?

もし皆さんの食卓でも、この「いただきます」や「もったいない」の感覚を少し思い出してもらえたら、いつものご飯が、もっともっと深く、美味しく感じられるかもしれません。

見えない努力に「お疲れ様」。モノにも魂が宿る国の不思議

皆さん、こんにちは!

前回の「起」では、日本の食卓に隠された「いただきます」「ごちそうさま」「もったいない」という、命と努力に対する感謝の心についてお話ししました。

「命をいただく」ことへの謙虚さと、「作ってくれた人の苦労(馳走)」を想像すること。この2つが、日本の「感謝」のベースにある、という話でしたね。

今日は、その感謝の気持ちが「食卓」から一歩外に出たらどうなるか?というお話をしたいと思います。

テーマは、ズバリ**「見えない努力」への感謝と、「モノ」に対する感謝**です。

日本で暮らしていると、一日に何度も耳にする「魔法の言葉」があります。

それは、「ありがとう」でも「すみません」でもありません。

「お疲れ様です(おつかれさまです)」

これ、本当に一日中、あらゆる場所で使われるんです。

会社では、同僚とすれ違う時に「お疲れ様です」。

退社する時に「お先に失礼します」「お疲れ様でした」。

うちの夫も、家に帰ってくるとまず第一声が「ただいまー」。

私が「おかえりなさい、お疲れ様」と返します。

この「お疲れ様」、直訳すると「You must be tired(あなたは疲れているでしょうね)」という、ちょっと不思議な言葉になります。

でも、私たちがこの言葉を使う時、そのニュアンスは「お疲れでしょう、休んでください」という意味だけではありません。

これは、前回の「ごちそうさま」の正体であった「あなたの『馳走(走り回った努力)』、ちゃんとわかっていますよ」という、「見えない努力」をねぎらい、承認するための、最高レベルの感謝の言葉なんです。

例えば、夫が帰宅した時の「お疲れ様」。

これは、私が直接見ていたわけではないけれど、「今日も家族のために、会社でいろいろ大変だったんだろうな。満員電車に揺られて、上司に気を遣って、頭を下げて、一生懸命『走り回って』きてくれたんだろうな」という、その人一日分の「見えない苦労」を丸ごと受け止める一言なんです。

だから、「お疲れ様」と言われた側は、それだけで「ああ、自分の頑張りをわかってもらえた」と、心が少し軽くなる。

この感覚は、家族以外にも向けられます。

例えば、雨の中、荷物を届けてくれる宅配便のお兄さん。

サインをしながら「雨の中、ありがとうございます。お疲れ様です」と一言添える主婦は多いはずです。

これは、彼が私の荷物を届けるまでに「走り回って」くれた努力(=馳走)に対する、心からの「ごちそうさま」なんですね。

「ありがとう」が「荷物を受け取った」という「結果」への感謝だとしたら、「お疲れ様」は、そこに至るまでの「プロセス」への感謝です。

学校から帰ってきた子どもにも言います。

「おかえり! 今日も一日、お疲れ様」

これは「勉強や運動、友達関係、あなたがあなたの場所で頑張ってきたこと、お母さんはわかってるよ」というメッセージです。

日本社会は、この「お疲れ様」という言葉で、お互いの「見えない努力」をねぎらい合うことで回っている、と言ってもいいかもしれません。

「結果」だけを評価するのではなく、そこに至るまでの「過程(プロセス)」や「苦労」を尊ぶ。

これは、日本人の人生観や仕事観の、とても深い部分に根付いている感覚だと思います。


さて、もう一つの不思議な「感謝」の話をしましょう。

「見えない努力」に感謝するのは、人に対してだけじゃないんです。

そう、「モノ」に対しても、私たちは「お疲れ様」と思ってしまうんです。

前回の最後で、折れた針を供養する「針供養」の話をしましたよね。

「え、針に『お疲れ様』って、本気で言ってるの?」

と、海外の皆さんからしたら、ちょっと不思議に、もしかしたら少し滑稽に(笑)見えるかもしれません。

はい、本気です(笑)。

これは、大昔から続く「八百万の神(やおよろずのかみ)」という考え方が、今も私たちの心の底に息づいているからだと思います。

「八百万」というのは「800万」という意味ですが、これは「数えきれないほどたくさん」という比喩です。

つまり、「この世の森羅万象、あらゆるものに神様や魂が宿っている」という考え方。

お米一粒に「お米の神様」が、トイレには「トイレの神様」が(!)いると、本気で信じられてきた国なんです。

もちろん、現代の私たちが、本気で「このフライパンに神様が!」と思って料理をしているわけではありませんよ(笑)。

でも、「モノを大切にしなさい」と、子どもの頃から口酸っぱく言われて育ってきました。

この「大切にする」は、単に「壊さないように使う(carefully)」という意味だけじゃないんです。

「敬意を払う(respectfully)」というニュアンスが、とても強い。

例えば、私が毎日使っている台所の道具たち。

もう10年以上使っている、テフロンが剥げかけたフライパン。

義理のお母さんから譲り受けた、少し重い包丁。

子どもたちが赤ちゃんの時に使っていた、小さなスプーン。

これらは、私にとって単なる「モノ(Object)」ではありません。

私という主婦の「戦友」であり、「相棒(Partner)」なんです。

彼ら(?)がいてくれたから、毎日の(時には面倒く K…)料理を乗り切り、家族の命をつないできた。

このフライパンは、一体何回、夫の好物の生姜焼きを作ってくれたことか。

この包丁は、何回、子どもの嫌いなピーマンをみじん切りにしてくれたことか。

そう思うと、使い古して「もう捨てよう」と思う時、そのままゴミ袋にポイッと捨てることに、ものすごい「罪悪感」を覚えてしまうんです。

「今までありがとうね。あなたのおかげで助かったよ」

そんな気持ちが、自然と湧き上がってきます。

最近、世界で有名になった「こんまりさん(近藤麻理恵さん)」の片付け術。

彼女が「捨てる服に『ありがとう』と言ってから手放しましょう」と提唱した時、日本人の多くは「うん、わかるわかる」とすんなり受け入れました。

でも、海外では「モノに話しかけるなんて!」と、とてもセンセーショナルに受け止められましたよね。

あの「モノへの感謝」こそが、まさに日本の「針供養」や「八百万の神」の精神そのものなんです。

日本では、使い古した「モノ」を供養する儀式が、今でもたくさん残っています。

針供養だけじゃありません。

役目を終えた「人形」や「ぬいぐるみ」を供養する「人形供養」。

(人形は、持ち主の想いを吸い取ると考えられているので、とてもじゃないけど「ゴミ」としては捨てられないんです)

書道を習っている人が、使い古した「筆」を供養する「筆供養」。

モノを擬人化する、と言えばいいんでしょうか。

自分たちの生活を支えてくれたモノたちへの「お疲れ様」と「ありがとう」を、きちんと形にして伝えてきたんですね。

これ、前回の「もったいない(MOTTAINAI)」の精神とも深くつながっています。

「もったいない」が「命や価値を無駄にするな」という戒めだとしたら、

「モノへの感謝」は「その命や価値を、最後まで支えてくれてありがとう」という、ポジティブな「お礼」です。

だから、日本の主婦(私だけ?)は、大根の皮を捨てずにきんぴらにする時、「節約♪」という気持ちと同時に、「大根さん、丸ごと使い切るからね(=ありがとう)」という感謝の気持ちも、ほんの少し、込めているのかもしれません。

人々の「見えない努力」を「お疲れ様」とねぎらい、

自分を支えてくれる「モノ」にすら「お疲れ様」と感謝する。

そうやって、私たちは、自分以外のたくさんの「おかげ」に気づきながら、この社会を回している。

なんだか、とても温かくて、ちょっと不思議な国だと思いませんか?

「おかげさま」で生きていく。空気を読むことと「思いやり」の関係

皆さん、こんにちは!

「起」では食卓の「いただきます」、「承」では「お疲れ様」や「モノへの感謝」という、日本人の感謝の心についてお話ししてきました。

命への感謝、努力への感謝、モノへの感謝…こう見ると、日本人は四六時中、何かに感謝しているみたいですよね(笑)。

でも、実はまだ「ラスボス」が残っているんです。

それは、海外の皆さんに説明するのが一番難しいかもしれない、**「目に見えない何か」**に対する、壮大な感謝の概念です。

今日のテーマは、**「おかげさま」**という言葉です。


日本で暮らしていると、こんな会話が日常的に交わされます。

近所の人:「奥さん、お久しぶり! お元気でした?」

私:「あ、こんにちは! はい、おかげさまで、なんとか元気にやってますよ」

この「おかげさまで」という言葉。

直訳すると「Thanks to you (or something)(あなた(あるいは何か)のおかげで)」となります。

もし「あなたのおかげで」と限定してしまうと、ちょっと変ですよね。別にこの近所の人が、私の健康に何か直接してくれたわけではないので(笑)。

では、この「おかげ」の「かげ」って、一体何のことだと思いますか?

これには諸説あるんですが、一つは「御陰様(おかげさま)」と書くように、「陰(かげ)」、つまり「陰(かげ)」で私を守ってくれる存在、という意味があると言われています。

それは、太陽の光(=神様や仏様のご加護)かもしれないし、大きな木が日陰を作ってくれるように、私をそっと見守ってくれる「何か」かもしれない。

この「何か」が、日本人のメンタリティの核心なんです。

例えば、私の祖母はよく、何か良いことがあると、仏壇に向かって手を合わせながら「ご先祖様のおかげや」と言っていました。

別に亡くなったおじいちゃんが、宝くじを当てさせてくれたわけじゃありません(笑)。

でも、「今、自分たちがこうして無事に、幸せに暮らせているのは、目には見えないけれど、ご先祖様たちがずっと私たちを守ってくれている『おかげ』なんだ」と、本気で信じているんです。

もう一つ、強力な「かげ」があります。

それは**「お天道様(おてんとうさま)」**です。

これは「太陽」のこと。日本では昔から「お天道様が見ている」という言葉があります。

例えば、私と子どもが公園で遊んでいて、ゴミが落ちていたとします。

私がそれを拾うと、子どもが「なんでママが拾うの? 私たちが捨てたゴミじゃないのに」と言うかもしれません。

そんな時、私や、私の親世代はこう言います。

「誰も見ていなくても、お天道様がちゃんと見てるからね。良いことをすると、お天道様が喜ぶのよ」と。

これ、すごくないですか?(笑)

特定の「神様」というわけではなく、「空」や「自然」という、人知を超えた大きな存在が、常に自分の行動を見ている、という感覚なんです。

だから、悪いことはできない。むしろ、誰も見ていないところでこそ、良い行いをしようとする。

つまり、日本人が言う「おかげさまで」の「おかげ」とは、

  • 目の前の「あなた」
  • 私を守ってくれる「ご先祖様」
  • すべてを見ている「お天道様(自然)」
  • そして、私が今ここにいることを支えてくれている「社会」や「環境」すべて

…という、自分を取り巻く森羅万象すべてに対する、壮大で、ちょっと漠然とした感謝の言葉なんです。

「私は一人で生きているんじゃない。目に見えないたくさんの『おかげ』によって、生かされている」

この謙虚な世界観が、「おかげさま」の一言には詰まっています。


この「おかげさま」の精神は、日本人の人間関係にも大きな影響を与えています。

それが、**「お互い様(おたがいさま)」**という感覚です。

「おかげさま」が「私は、みんなの『おかげ』で生きている」という感謝だとしたら、

「お互い様」は「あなたが困っている時は、私があんたの『おかげ』になる番だよ。だって、私もいつ困るかわからないんだから、その時は助けてね。お互い様でしょ?」という、ギブアンドテイクの精神です。

これは、主婦の生活、特に「子育て」において、ものすごく強く発揮されます。

数年前、うちの子どもがまだ小さくて、急に高熱を出したことがありました。

私はその日、どうしても外せない用事があったのですが、夫は出張中。もうパニックです。

その時、同じマンションのママ友が「どうしたの!?」と駆け寄ってきてくれて、事情を話すと、「うちの子もこの前お世話になったんだから、お互い様だよ! 用事、行ってきな! 私が預かっておくから!」と、嫌な顔一つせず言ってくれたんです。

もちろん、海外にも「You scratch my back, I’ll scratch yours(持ちつ持たれつ)」という言葉はありますよね。

でも、日本の「お互い様」は、もっと「迷惑」という概念とセットになっている気がします。

日本は、島国で、しかも地震や台風が多い国です。

昔から、一人では生きていけなかった。村全体で協力しないと、田んぼも作れないし、災害も乗り越えられない。

だから、「人に迷惑をかけてはいけない」と、私たちは厳しくしつけられます。

でも、人間、生きていれば、絶対に誰かに「迷惑」をかけてしまう時が来ます。それが、病気だったり、子育てだったり、老後だったりします。

「お互い様」というのは、「迷惑をかけるのは当たり前。だから、自分が元気な(迷惑をかけていない)うちに、困っている人を助けて『おかげ』を貯金しておくんだよ。そうすれば、自分が困った時に、誰かが『お互い様』って言って助けてくれるから」という、**共同体で生き抜くための、壮大な「知恵」**なんです。

それは、ある種の「保険」のようなものかもしれませんね。


さて、この「おかげさま(私は生かされている)」と「お互い様(だから助け合う)」という感覚。

これが、日本人のコミュニケーションの、ある「特徴」を生み出しています。

それが、皆さんご存知(?)の、**「空気を読む」**という文化です。

海外、特に欧米では「自分の意見をはっきり言うこと(Assertiveness)」がとても大切にされますよね。

でも、日本では「和(わ)を以て貴しとなす」という聖徳太子の言葉があるように、個人の意見よりも「集団の調和(ハーモニー)」を優先することが、美徳とされる場面が多々あります。

なぜか?

それは、「自分は『おかげさま』で生きている」という前提があるからです。

自分を生かしてくれている「共同体(みんな)」の和を乱すことは、「おかげ」を壊すことにつながり、非常に「わがまま」で「恥ずかしい」ことだと感じるんです。

だから、私たちは、相手が何を考えているか、何を望んでいるか、この「場」が何を求めているかを、必死で「察しよう」とします。

これが「空気を読む」です。

「私がこれを言ったら、あの人は傷つかないか?」

「今、私がやるべきことは、この場の雰囲気を壊さないことじゃないか?」

と、常にアンテナを張っています。

これが、日本の「思いやり(Compassion)」の正体であり、同時に、海外の人から見ると「イエス・ノーをはっきり言わない、何を考えているかわからない」と映る理由でもあるんですよね(苦笑)。

そして、この「空気を読む」文化の、最も象徴的な言葉が、

「すみません」

です。

日本に来た外国人が、一番最初に混乱する言葉かもしれません。

日本人は、感謝すべき「Thank you」の場面で、なぜか「Sorry(ごめんなさい)」と言うからです。

例えば、

  • お店で落とした物を拾ってもらう → 「あ、すみません!」
  • 友達から誕生日プレゼントをもらう → 「えー、こんな立派なもの、すみません!」
  • 電車で席を譲ってもらう → 「(会釈しながら)すみません

これ、謝っているわけじゃないんです。

もちろん「ありがとう」という気持ちが100%なんですが、それと「同時」に、

「私のために、わざわざ屈んで拾わせてしまって、申し訳ない(=すみません)」

「こんな高価なものを用意するために、あなたの時間とお金を使わせてしまって、申し訳ない(=すみません)」

「私なんかのために、あなたを立たせてしまって、申し訳ない(=すみません)」

という、「相手の『馳走(努力)』」や「かけてくれた『手間』」を想像し、それを「恐縮」する気持ちが、ストレートな「ありがとう」よりも先に出てしまうんです。

これは、「おかげさま」と「お互い様」の精神に基づいた、究極の「思いやり」の表現…と言えば聞こえはいいですが、まぁ、ちょっと面倒くさい謙遜の文化ですよね(笑)。

でも、この「すみません」には、「あなたの『おかげ』で助かったけど、同時に『借り(迷惑)』を作ってしまった。この『借り』は、次に私が『お互い様』で誰かを助けることで返しますね」という、社会全体で恩を回していく、というニュアンスも含まれている気がします。

「おかげさま」で、目に見えない存在に生かされていることを知る。

「お互い様」で、迷惑をかけ合うことを許し合う。

「空気を読み」合い、「すみません」と言い合うことで、相手の「手間」を想像し、思いやる。

これが、日本の感謝の文化の、三つ目の側面です。

直接的な「ありがとう」よりも、もっと深く、もっと複雑で、そしてとても温かい「つながり」を求める心が、そこにはあるんです。

感謝で世界はつながれる。「ありがとう」は平和への第一歩

皆さん、こんにちは!

長い間、日本のちょっと不思議な「感謝」の世界にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

「起」では、食卓での「いただきます(命への感謝)」と「もったいない(価値への敬意)」。

「承」では、人の「見えない努力」への「お疲れ様」と、モノにすら魂を見出す「針供養」の心。

「転」では、「おかげさま(目に見えない力への感謝)」と「お互い様(助け合いの保険)」、そして「すみません(相手への手間を想像する心)」という、共同体の知恵。

こうして振り返ると、日本人は本当に「ありがとう」という言葉を使わずに、あらゆる形で「感謝」を表現しようとしてきたんだな、と私自身も改めて驚いています(笑)。

なぜ、こんなに複雑で、遠回しな方法で「感謝」を伝えようとするんでしょうか?

それはたぶん、**「自分一人では、一瞬たりとも生きていけない」**ということを、この国の自然や歴史が、骨の髄まで教えてくれたからだと思います。

地震、台風、津波…。いつ自分の力が及ばない何かに、すべてを奪われるかわからない。

だからこそ、今ここにある「命」は、奇跡的な「いただきもの」だと知っている。

だからこそ、自分を生かしてくれている「見えない何か(おかげさま)」を常に感じ、隣の人と「お互い様」と肩を寄せ合い、「空気を読んで」和を保とうとしてきた。

日本の感謝の根底にあるのは、「謙虚さ(Humility)」と「想像力(Imagination)」なんだと思います。

  • 自分以外の「命」のおかげで、私は生きている。(いただきます)
  • 自分以外の「努力」のおかげで、私の生活は成り立っている。(ごちそうさま・お疲れ様)
  • 自分以外の「モノ」のおかげで、私は便利に暮らせている。(もったいない・針供養)
  • 自分以外の「すべて」のおかげで、私はここにいられる。(おかげさま)

そうやって、自分の存在を支えてくれている「自分以外のもの」を想像する力。

そして、その「おかげ」に対して、深く頭を下げる謙虚さ。

私たちが日常で使う「いただきます」も「お疲れ様」も「おかげさま」も、すべてが「ありがとう」の、別の姿(アバター)なんです。

そして、その感謝の矢印は、いつも「自分以外の誰か・何か」に向いています。


今、世界は本当にいろんなことで分断されてしまっているように見えます。

文化の違い、考え方の違い、正義の違い。

それぞれの国や文化が「自分は正しい」と主張しあったら、ぶつかってしまうのは当たり前かもしれません。

でも、どんな文化で育っても、どんな肌の色をしていても、きっと共通している感覚があるはずです。

おいしいご飯を食べたら、幸せな気持ちになること。

誰かに助けてもらったら、心が温かくなること。

美しい夕焼けを見たら、なんだか泣きそうになること。

そして、そういう瞬間に、ふと「ああ、ありがたいな」と感じる心。

この「ありがたい」という感覚こそ、世界中の人が共有できる、最強の「共通言語」なんじゃないでしょうか。

私たちは今、「ありがとう(Thank you / Gracias / Merci / 謝謝)」という「言葉」は知っています。

でも、その一歩手前にある**「うわぁ、ありがたいなぁ」と感じる「心」**を、もっと深く理解し合う必要があるのかもしれません。

日本の「いただきます」という習慣を知った海外の人が、自分の国の「お肉」を見たときに、「ああ、これも『命』だったんだな」と、一瞬でも想像してくれたら。

日本の「お疲れ様」という文化を知った人が、自分の街のバスの運転手さんに「(あなたの見えない努力を)ありがとう」と、心の中でつぶやいてくれたら。

日本の「おかげさま」の感覚を知った人が、自分を支えてくれている「太陽」や「水」や「ご先祖様」に、ふと意識を向けてくれたら。

世界は、今よりもほんの少しだけ、優しくなれる気がしませんか?

「感謝」とは、国境や文化を超える「想像力」のトレーニングです。

相手の「馳走(走り回った努力)」を想像し、相手の「命」を想像し、自分を生かしてくれる「おかげ」を想像する。

その想像力が、違う文化を持つ人々への「理解(Understanding)」や「尊敬(Respect)」につながっていく。

私がこのブログで伝えたかったのは、まさに「A World United by Thankfulness」——感謝の想像力でつながる世界、というビジョンです。

遠回しで、ちょっと面倒くさい日本の「感謝」の文化も、世界の誰かの「想像力」を刺激するヒントになるなら、とても嬉しいです。


🕊️ 私たちにできる、はじめの一歩(Call to Action)

もし、この長い長い(笑)主婦のつぶやきに、何か少しでも感じてくれることがあったら、ぜひ今週、一つだけ「新しい感謝」を試してみませんか?

例えば…

  • 食事をするとき、日本の「いただきます」を真似て、その「命」や「作ってくれた人」を想像してみる。
  • 宅配便のお兄さんに、いつもの「Thank you」に加えて、「(雨の中/重いのに)お疲れ様です」の気持ちを心の中でプラスしてみる。
  • 自分がいつも使っている「モノ」(スマホとか、ペンとか、靴とか)に、「いつもありがとうね」と声をかけてみる。(こっそりでいいんですよ!)

何でもいいんです。

いつもの日常に、ほんの小さじ一杯の「想像力」をふりかけるだけで、世界はもっと豊かで、もっと「ありがたい」場所に見えてくるはずです。

「ありがとう」は、平和への第一歩。

このささやかな日本の知恵が、遠く離れた皆さんの暮らしと、そして広い世界と、優しくつながっていくことを、心から願っています。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました!

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