なぜ日本人はペコペコするの?「お辞儀」に隠された、相手を想う心のカタチ
やっほー! こんにちは。日本で二人の子育てに奮闘中の主婦、Ayaです。
そちらの生活にはもう慣れましたか? 海外での子育てや生活って、本当にエキサイティングなことも多い反面、「え、これが普通なの!?」ってカルチャーショックを受けることも日常茶飯事ですよね。
私が海外旅行に行った時や、日本で外国人の友達と会う時にいつも新鮮だなって思うのが、挨拶の「距離感」。
欧米の友人たちは、会った瞬間「Hi!」って言いながら、パッと手を広げてハグしてくれたり、初対面でもニッコリ笑って力強く握手してくれたり。あのストレートな「会えてうれしい!」っていう体温が伝わる感じ、すごく素敵だなって思うんです。心がパッと開く感じがしますよね。
で、翻って私たち、日本人。
私たちはどうでしょう?
そう、**「お辞儀」**です(笑)。
会った時も、別れ際も、感謝する時も、謝る時も、とにかくペコペコ、ペコペコ。
海外に住んでいる皆さんも、現地のご友人に「なんで日本人はあんなに頭を下げるの?」「あれはどういう意味?」なんて聞かれたこと、一度や二度じゃないんじゃないでしょうか。
「ありがとう」も「ごめんなさい」も「こんにちは」も、全部同じ「お辞儀」で表現するなんて、確かに不思議に見えるかもしれません。「YESなの?NOなの?どっち!?」って(笑)。
以前、友人がアフリカのケニアに行った時の話を聞いたんですが、ケニアにも独特の挨拶文化があるそうなんです。例えば、挨拶の握手にも「ハンドシェイク・ヒエラルキー(握手の階層)」みたいなものがあって、相手との関係性や年齢によって、握手の仕方や触れる場所が微妙に変わるんだとか。
それを聞いた時、「あ、それって日本の『お辞儀』とそっくりかも!」って思ったんです。
私たち日本人は、別に誰かに「この人にはこの角度でお辞儀しなさい!」なんて厳しく教わったわけでもないのに、無意識のうちに**「お辞儀の角度」を使い分けている**んです。まさに「お辞儀ヒエラルキー」!
これって、日本で暮らしていると当たり前すぎて誰も意識しないんですけど、実はこの「お辞儀」というシンプルな動作(Non-verbal cue)こそ、日本の社会の考え方や、人間関係をスムーズにするための「人生術」がぎゅぎゅっと詰まった、ものすご〜く奥深い文化なんです。
今日は、この「お辞儀」をテーマに、日本人が無意識に大切にしている「見えないルール」について、私の実体験ベースでお話ししてみたいと思います。
1. 私の日常は「お辞儀」であふれている
ちょっと私の一日を思い出してみただけでも、どれだけお辞儀してるんだろうって笑っちゃいます。
朝、マンションのゴミ捨て場で、同じマンションの顔見知りだけど名前は知らない奥さんと会ったら。「おはようございます」って言いながら、軽く「ぺこり」(角度15度くらい)。
子どもを幼稚園バスまで送っていく時、他のママ友と会ったら。「昨日はどうも〜」なんて言いながら、さっきよりは少しだけ深く**「ぺこん」(角度20度くらい)**。
日中、宅急便のお兄さんが重たいお水やお米を玄関先まで運んでくれたら。「ありがとうございます、助かります〜!」って言いながら、自然と**「深々」(角度40度くらい)**と頭を下げてる。
スーパーのレジで、店員さんが「ありがとうございましたー」って言いながら、私なんかいち消費者なのに、**マニュアル通りの完璧な「30度」**でお辞儀をしてくれる。
夕方、学校から帰ってきた息子の担任の先生から電話。「いつもお世話になっております」って言いながら、相手には絶対に見えていないのに、なぜか**電話に向かって「ペコペコ」**している自分(笑)。これ、日本在住経験のある方なら「あるある!」って思ってくれませんか?
極めつけは、子どもが何かお友達に迷惑をかけてしまって、相手の親御さんに謝る時。
「本当に申し訳ありませんでした!」という言葉と同時に、自然と体は**90度近く(の勢い)**で曲がっています。
ほら、この通り。
私たちは「言葉」だけでコミュニケーションを完結させていないんです。言葉に「お辞儀」という「態度」をセットにすることで、言葉の温度や本気度を調節しているんですね。
2. 学校では習わない「お辞儀の階層」という名の常識
じゃあ、この「角度」。
私たちはどうやって使い分けてるんでしょう?
日本のビジネスマナー本なんかを開くと、よくこんな風に分類されています。(私もこの記事を書くにあたって、ちょっと調べてみました!)
- 会釈(えしゃく) – 角度15度
- 一番カジュアルなお辞儀。廊下ですれ違う時とか、ご近所さんへの「どうも」レベル。さっきの私のゴミ捨て場パターンですね。
- 敬礼(けいれい) – 角度30度
- 一番スタンダードで丁寧なお辞儀。お客様への挨拶(スーパーの店員さんとか)、目上の人への挨拶。汎用性が一番高いです。
- 最敬礼(さいけいれい) – 角度45度〜
- 最も敬意を示すお辞儀。心からの感謝や、深い謝罪の時に使います。宅急便のお兄さんへの感謝や、謝罪の時のお辞儀がこれにあたります。
すごくないですか?(笑)
こんなの、義務教育で習った記憶なんて一切ないんです。
でも、日本で生まれ育つと、親の姿を見たり、周りの大人の様子を見たり、テレビドラマを見たりしているうちに、**「あ、この場面では、このくらいの角度が『適切』だな」**っていう感覚が、肌感覚でインストールされていくんです。
これを「空気を読む」と言ったりもしますが、まさにこれが日本の「生活の知恵」の第一歩。
この「適切な角度」を間違えると、なんだか「失礼な人だな」とか、逆に「丁寧すぎて他人行儀だな」とか、言葉にはされない「違和感」を相手に与えてしまう。
つまり、お辞儀の角度を使い分けるっていうのは、**「私はあなたとの『関係性』と、この『場の空気』をちゃんと理解していますよ」**という、大切なサインを送る行為なんです。
3. 「頭を下げる」ことに込めた、日本人の人生観
じゃあ、なんでわざわざそんな面倒(?)なことをするのか。
なぜ、握手やハグじゃダメだったのか。
ここからが本題。私が考える、お辞儀に隠された日本人の「人生観」です。
① 相手の「領域(テリトリー)」を尊重する、という思いやり
まず、ハグや握手と、お辞儀の決定的な違い。それは、**「相手に触れない」**ことです。
これって、日本人の「距離感」を象徴していると思うんです。
日本文化は、良くも悪くも「相手との境界線」をすごく大切にします。いきなり相手のパーソナルスペースにグイグイ踏み込むのは、ちょっと「品がない」とか「馴れ馴れしい」と感じられがち。(もちろん、親しい間柄なら別ですよ!)
お辞儀は、相手に触れずに、相手との間に「間(ま)」を保ったまま、最大限の敬意を払うことができる、すごく洗練された挨拶方法なんです。
「私はあなたの領域を尊重していますよ」という、**見えないバリアを認めた上での「敬意」**の示し方なんですね。
② 「頭を下げる」=「あなたを立てます」という意思表示
次に、「頭を下げる」という行為そのもの。
文化によっては、「頭(こうべ)を垂れる」のは「服従」や「敗北」のサインと捉えられることもあるかもしれません。
でも、日本ではちょっと違います。
自分の一番大切で弱点でもある「頭」を相手の前に無防備に差し出す(下げる)ことで、**「私はあなたに対して敵意がありません」「あなたの存在を、私よりも上に立てています(尊重しています)」**という意思表示になるんです。
日本社会は「和(わ)」、つまりハーモニー(調和)をすごく重んじます。
自分が自分が!と主張し合うよりも、お互いが「どうぞどうぞ」と一歩引いて譲り合い、全体の空気が丸く収まることを「美徳」とする文化があります。
お辞儀は、その「譲り合い」の精神、「相手を立てる」という人生術の、一番わかりやすい「型」なんだと思います。
③ 「言葉」を「態度」で補強する、安心社会の知恵
そして最後に。
日本は「言霊(ことだま)」と言って、言葉には魂が宿ると信じてきた文化がある一方で、「言葉(口約束)だけじゃ信用できない」とか、「言葉にしなくても察してよ」という、非常にあまのじゃくな文化も持っています(笑)。
だから、私たちは「言葉」に「態度」をプラスして、自分の気持ちの「本気度」を証明しようとするんです。
「ありがとうございます」と口で言うだけより、そこに深々としたお辞儀が加わることで、「ああ、この人は本当に心の底から感謝してくれているんだな」と相手は**「安心」します。
「ごめんなさい」と口で言うだけより、頭を下げることで、「本当に反省しているんだな」と相手の怒りが少し「鎮まる」**。
お辞儀は、言葉の信頼度を補強し、人間関係の摩擦を減らすための、日本人が長い歴史の中で生み出してきた、最高にして最強の「人生術(処世術)」なんだと、私は思うんです。
…と、たかが「お辞儀」一つで、こんなに語ってしまいました(笑)。
でも、それくらい、このシンプルな動作には、日本人の「相手を思いやる心」や「場の調和を大切にする考え方」が詰まっているんです。
海外でストレートな愛情表現やコミュニケーションに触れるのも素晴らしい経験ですが、たまにはこの「一歩引いて、相手を立てる」という日本のコミュニケーションスタイルを思い出してみるのも、面白いかもしれません。
さて、「起」はここまで。
この「お辞儀」という文化は、実はもっと奥深い、日本独特の「察する」文化の入り口にすぎません。
次回、「承」のパートでは、この「空気を読む」文化がさらに進化した(?)、「本音と建前」という、海外の皆さんを一番混乱させるであろう(笑)、あのテーマに切り込んでみたいと思います!
私の大失敗エピソードも交えながらお話しする予定なので、お楽しみに!
なぜ日本人は「NO」と言えないの? 「本音と建前」という名の、ややこしすぎる(?)思いやり
やっほー! Ayaです。
前回の「起」のパートでは、「お辞儀」という日本独特の文化について、あれこれ語らせてもらいました。
「ありがとう」も「ごめんなさい」も、全部「お辞儀」で表現しちゃう私たち。
その角度を無意識に使い分けることで、「私はあなたとの関係性を理解してますよ」「あなたを尊重してますよ」っていうサインを送っている。それが日本人の「空気を読む」第一歩であり、人間関係の摩擦を減らす生活の知恵(人生術)なんだよ〜、なんて話をしました。
覚えてますか?(笑)
さて、この「空気を読む」というスキル。
これがレベルアップすると、海外の皆さんを(そして時々、私たち日本人自身をも)盛大に混乱させる、あの文化にたどり着きます。
そう、何を隠そう、今回のテーマ。
**「本音(ほんね)と建前(たてまえ)」**です。
出た〜!って思った人、いませんか?(笑)
海外の友人に「日本人の一番理解できないところは?」って聞くと、だいたいトップ3に入ってくるのがコレ。
「日本人の友達に『今度ご飯行こうよ!』って言われたから、翌日『いつにする?』って聞いたら、すごく困った顔をされた。あれは嘘だったの?」
「上司に『何か意見ある?』って聞かれたから正直に言ったら、後ですごく空気が悪くなった。なぜ?」
「日本人はいつもニコニコしてるけど、本当は何を考えているかわからなくて、ちょっと怖い」
あちゃー…。わかります、わかりますよ、その気持ち!
私たち日本人は、なぜこんなにもストレートに「YES/NO」を言わず、ややこしい(?)コミュニケーションを取るんでしょうか。
今日は、この「本音と建前」の正体と、私がこの文化のせいで大失敗した恥ずかしい実体験(笑)、そして、この文化が教えてくれる「意外な人生術」について、深掘りしていきたいと思います!
1. そもそも「本音と建前」って、なんなのさ?
まずは言葉の整理から。
- 本音(Honne)
- その人の「本当の気持ち」「偽らざる本心」。
- (例:あー疲れた、もう帰りたい。正直、この話には興味ないな。あの人、ちょっと苦手かも…)
- 建前(Tatemae)
- 社会的な立場や、その場の「調和(ハーモニー)」を保つために言う、「表向きの意見」や「態度」。
- (例:あー疲れた → 「今日は充実してましたね!」 / 興味ない → 「へぇー、そうなんですね、勉強になります!」 / 苦手 → 「いつもお世話になっております(ニコッ)」)
こうやって書き出すと、ひどいですね(笑)。「嘘つきじゃん!」って言われても仕方ないかもしれません。
でも、私たち日本人(の多く)は、これを「嘘」だとはあまり思っていないんです。
これは「社会でうまくやっていくための、必要な『潤滑油』」であり、「相手を不必要に傷つけないための『配慮』」だと捉えています。
前回の「お辞儀」が、相手の領域を尊重する「態度」での配慮だとしたら、「建前」は「言葉」を使った配慮、とでも言いましょうか。
例えば、誰かに手料理を振る舞ってもらったとします。
正直、あんまり口に合わなかった…(本音)。
でも、そこで「うわ、これマズイね!」なんてストレートに言ったら、どうなりますか?
相手は深く傷つくし、その場の空気は最悪。もう二度とご飯には誘ってもらえないかもしれません(笑)。
だから、私たちは「建前」を使います。
「わあ、すごく手が込んでるね!」「こんな料理、初めて食べた!」
これは嘘でしょうか?
いいえ、「マズイ」とは言わないけれど、「手が込んでいる」ことや「初めて食べた」ことは「事実」ですよね。
相手を傷つける「本音(マズイ)」は隠し、相手が喜ぶであろう「事実(建前)」をピックアップして伝える。
これが、日本の「和を以て貴しとなす(わをもってとうとしとなす)」、つまり「みんな仲良く、調和を保つことが一番大事よ」という社会で生き抜くための、高度なコミュニケーション術なんです。
2. 私の赤面失敗談:「いつでも遊びに来て」を信じすぎた日
とはいえ。
この「建前」を、私も最初から完璧に使いこなせていたわけじゃありません。
特に、まだ社会経験も浅く、「言葉は額面通り受け取るものだ」と信じて疑わなかった新婚時代に、手痛い失敗をしました。
結婚して新しいマンションに引っ越したばかりの頃。
お隣にご挨拶に行ったんです。私より少し年上の、とても感じが良くて素敵な奥様でした。
立ち話で「私、お菓子作りが趣味なんです」なんて話をしたら、その奥様、パァッと笑顔になって、
「奇遇! 私もなの! えー、今度ぜひ教えてほしいわ。Ayaさん、本当に『いつでも』気軽に遊びに来てね! お茶しましょう!」
と言ってくれたんです。
もう、私は嬉しくなっちゃって。
「なんて良い人なんだろう! よーし、早速仲良くなるチャンス!」と舞い上がりました。
そして、その言葉を100%本気で信じた私は、数日後。
張り切って前日から仕込んだ自慢のシフォンケーキをホールで抱え、ウキウキしながらお隣のチャイムを鳴らしました。「ピンポーン♪」
「…はーい」と出てきた奥様。
明らかに、部屋着。ちょっと髪もボサっとしてる。
そして、ケーキの箱を持った私を見て、一瞬、**「えっ」**という顔で固まりました。
「あ、あの、こんにちは! この間『いつでも』って言ってくださったから、ケーキ焼いてきたんです! お茶しませんか?」
私の能天気な言葉に、奥様は引きつった笑顔でこう言いました。
「あ、あぁ…Ayaさん、わざわざごめんなさい…。ありがとう。
でも、ごめんなさいね、**今、ちょっと家の中が散らかってて…。**せっかくだけど、ケーキだけ頂いておくわね。本当にありがとう」
ガチャン。
玄関先でケーキだけ受け取られ、ドアは閉まりました。
私はホールケーキが消えた手元と、閉まったドアを前に、ポカーン。
「え……???」
「『いつでも』って言ったじゃん……???」
「散らかってるって言ったって、お茶飲むくらいできるじゃん……???」
頭の中は「?」だらけ。
嬉しいはずだった気持ちが、一気に冷水を浴びせられたように冷たくなって、なんだか「拒絶された」とすら感じて、すごくショックだったのを覚えています。
3. 「建前」の翻訳術:日本人が本当に言いたいこと
その夜、実家の母に電話して「今日こんなことがあって、ひどくない!?」と愚痴ったら、母は電話口でケラケラ笑ってこう言いました。
「あんた、バカねぇ(笑)。そりゃ相手も困るわよ」
「『いつでも遊びに来てね』は、**『あなたと仲良くしたいという“意思”はありますよ』**っていうご挨拶(建前)なの!」
「本当に『今すぐ家に来い』なんて意味じゃないのよ」
母曰く、それが日本の「大人の対応」なんだとか。
- 「いつでも遊びに来てね」
- (建前)→ 本当にいつでも来ていいよ!
- (本音)→ あなたと良好な関係を築きたいです。でも、私にも都合があるので、いきなり来られても困ります。
- 「今、ちょっと散らかってて…」
- (建前)→ 家が汚いから、上がってもらうのは恥ずかしいわ。
- (本音)→ 今はあなたを家に入れる準備(心の準備も、部屋の準備も)ができていません。察して、帰ってください。
ガーーーン。
そう、「いつでも」は「NEVER(絶対に来るな)」ではないけれど、「ANYTIME(今すぐOK)」でもなかったんです!
それは、「お互いのタイミングが合えば、いつかね(IF)」くらいの、ふんわりとした「意思表示」に過ぎなかったんですね。
じゃあ、どうすればよかったのか?
母のアドバイスはこうでした。
「そういう時は、『わあ、嬉しいです! ありがとうございます! また近いうち、こちらからもお誘いしますね』って一旦持ち帰るの。
それで後日、『今度の日曜日の午後とか、もしご都合よければお茶でもどうですか?』って、相手がYES/NOで答えられる具体的な提案をするのよ。
そこで相手が『あー、日曜はちょっと…』って濁したら、あ、今は乗り気じゃないんだなって察して、また引くの。
それが『距離感』よ」
…む、難易度高すぎません!?(笑)
でも、これが日本の「生活の知恵」なんです。
ストレートに「今来ないで!」と言うのは、相手に恥をかかせるし、角が立つ。
だから、「散らかってるから」という**「(相手ではなく)自分側の事情」を「建前」として提示する**ことで、相手のメンツを潰さずに、やんわりと「NO」を伝える。
お隣の奥様は、私を傷つけないように、最大限の「配慮」をしてくれたんですね。
ショックを受けていた自分が、なんだか恥ずかしくなりました。
4. 「建前」は、相手を守る「盾」であり、自分を守る「鎧」
この「本音と建前」文化。
確かに、海外のストレートなコミュニケーションに慣れていると、回りくどくて、不誠実で、疲れるものに見えるかもしれません。
でも、この文化で育った私からすると、これは**「究極の防衛術」であり、「平和維持活動」**なんだと思うんです。
もし、みんなが本音だけで生きていたら。
「あなた、今日の服似合ってないね」(本音)
「あなたのお子さん、ちょっとうるさいわね」(本音)
「あなたとの会話、退屈だわ」(本音)
…こんな社会、ギスギスしすぎて息苦しくないですか?(笑)
私たちは、この狭い島国で、ご近所さんやママ友、親戚と、この先何十年も(!)顔を合わせて生きていかないといけない。
一度こじれた関係を修復するのは、本当に大変なんです。
だから、直接的な対立を避けるために、「建前」という名の「クッション」や「鎧」を身につける。
相手の「本音」が自分に突き刺さらないように。
そして、自分の「本音」が相手を傷つけないように。
「ちょっと考えさせてください」(=実質NOだけど、相手の提案を一旦持ち帰るという体裁で、相手の顔を立てる)
「勉強になります!」(=意見は違うけど、あなたの話をちゃんと聞きましたよ、という敬意を示す)
これらはすべて、お互いが気持ちよく「NO」を言い合えるように、そして「YES」の関係性を壊さないように発明された、日本人の「共存のための人生術」なんですね。
…と、またしても熱く語ってしまいました。
「お辞儀」という態度の配慮から、「本音と建前」という言葉の配慮へ。
日本人がいかに「相手の気持ち」や「場の空気」を(過剰なまでに?)気にして生きているか、伝わったでしょうか。
でも、この「相手ファースト」な文化、もちろん良いことばかりじゃありません。
空気を読みすぎて、配慮しすぎて、自分の「本音」がどこにあるのかわからなくなってしまう…。
そんな「生きづらさ」と表裏一体でもあるんです。
次回、「転」のパートでは、この「建前」文化が行き着く先と、そんな社会の中で「自分」を見失わないために、私が実践している「心のデトックス術」について、お話ししてみたいと思います。
「ウチ」と「ソト」の境界線。「察してよ!」が夫に通じない、日本式コミュニケーション最大の落とし穴
やっほー! Ayaです。
日本の「お辞儀」文化(=態度の配慮)から始まり、前回「承」のパートでは、ついに日本のコミュニケーションの真髄(?)とも言える「本音と建前」についてお話ししました。
ご近所さんに「いつでも遊びに来てね!」と言われたのを真に受けて、手作りケーキ片手に突撃し、見事に撃沈した私の赤面失敗談(笑)。
あれは、「今すぐ来て!」という本音ではなく、「あなたと仲良くしたいですよ」という意思表示の「建前」だった、という話でしたね。
「建前」は、人間関係の潤滑油であり、お互いを不必要に傷つけないための「鎧」。
この狭い島国で、ご近所さんやママ友と「和(ハーモニー)」を保って生きていくための、日本人が編み出した高度な生活の知恵(人生術)なんです。
…と、ここまでは、なんだか「建前」を擁護するような、ちょっとイイ話っぽくまとめてきました。
でも。
でも、ですよ。
ぶっちゃけ、この文化…めっっっちゃ疲れませんか?
海外で、思ったことをストレートに(もちろん礼儀の範囲内で)言い合える文化に触れている皆さんなら、なおさらそう感じるんじゃないでしょうか。
そう。今回の「転」のパートでは、この「空気を読む」「建前を駆使する」という日本式コミュニケーションが持つ、**深刻な「副作用」と、私たちが陥りがちな「最大の落とし穴」**について、私のもう一つの(さらに恥ずかしい)失敗談とともにお話ししたいと思います。
1. 「建前」が顔に張り付く? 「空気読み」の息苦しさ
日本で「主婦」として、特に「母親」として生きていると、四六時中「空気」を読むことを要求されます。
ご近所さんとの立ち話。
ママ友とのランチ会。
幼稚園や学校の先生との面談。
親戚の集まり。
常にアンテナを張り巡らせて、「今、失礼なこと言ってないかな?」「私、この中で浮いてないかな?」「この発言、誰かを不快にさせてないかな?」と、脳内はフル回転。
例えば、ママ友ランチ会。
幹事のママが「駅前の、新しくできたオーガニックフレンチ予約しちゃった! ランチで3,500円なんだけど、たまにはいいよね!」とグループLINEで言ったとします。
(私の本音)
「えっ、高っ! 今月ピンチなのに…。ていうか、子ども連れでフレンチとか気遣うし、正直、近くのファミレスのドリンクバーでのんびりおしゃべりしたいんだけど…!」
(私が送る建前)
「わぁ、素敵なお店! 写真見たけど、すごくオシャレだね! 楽しみにしてまーす(キラキラの絵文字)」
…やっちゃうんですよねぇ、これ(笑)。
ここで「私、高いから無理!」と本音を言えば、場の空気を壊し、幹事ママの顔に泥を塗ることになってしまう。その後の関係性がギクシャクするかもしれない…。
そう考えると、「3,500円」と「ママ友との平和」を天秤にかけ、泣く泣く「平和」を選んでしまう。
こんな小さな「我慢(=本音を殺す)」を、私たちは毎日、毎日、何十回も繰り返している。
そうすると、だんだん「建前」が自分の顔に張り付いてしまって、自分が本当は何を感じていたのか、何をしたいのか、自分の「本音」がわからなくなってくるんです。
これが、日本社会で多くの人が感じる「生きづらさ」の正体の一つなんだと思います。
2. 最大の落とし穴:「ソト」で使い果たし、「ウチ」で爆発する
でも、本当に怖いのはここからです。
私たち日本人には、この「建前」文化とセットで、もう一つ、非常に厄介な(そして海外の方には理解されにくい)感覚が染み付いています。
それが、「ウチ(内)」と「ソト(外)」の境界線です。
- ソト(外)
- ご近所さん、会社の人、ママ友、先生など、「他人」の世界。
- ここでは「建前」を駆使し、完璧な「お辞儀(配慮)」をし、場の「和」を保つことが最優先される。エネルギー消費量・大。
- ウチ(内)
- 家族、身内。自分が「素」でいられる場所。
- ここは「ソト」とは違うルールが適用される(と、思い込んでいる)。
「ソト」の世界で、「建前」という名の重たい鎧を着て、一日中アンテナを張り巡らせ、空気を読みまくってエネルギーを使い果たした私たちが、家に帰って「ウチ」の空間に入った時。
どうなると思いますか?
そう。鎧を脱ぎ捨て、タガが外れるんです。
「ソト」の人にはあんなに気を遣い、言葉を選び、ニコニコしていたのに、「ウチ」の人間(特に一番身近な夫や子ども)に対しては、途端にぞんざいになったり、不機嫌になったりする。
そして何より、「ソト」では決してやらない、最悪のコミュニケーションを発動させてしまうんです。
それが、**「察してよ!」**という名の、甘え(というか、もはや攻撃)です。
3. 私の(超)大失敗談:「なんでアナタは“察しない”の!?」
あれは、下の子がまだ小さくて、私が風邪をこじらせて高熱を出した日のこと。
土曜日で、夫は休み。
私は「ソト」のママ友たちからの「大丈夫?」「何か買っていくよ!」という優しいLINEには、「ありがとう!でも大丈夫、寝てれば治るから!(建前)」と気丈に返信していました。
でも、**(私の本音)**は「大丈夫なわけないじゃん! マジで死にそう! 誰か助けて!」でした。
リビングのソファで毛布にくるまり、ゲホゲホ咳をしながら、わざと「はぁ…しんどい…」と大きめのため息をつく私。
これは夫に対する**「察して」アピール**です。
(私が夫に「察して」ほしかったこと)
「おい、大丈夫か!? 熱高いんじゃないの?」
「(おでこに手を当て)うわ、熱いな!」
「何か温かい飲み物でも作ろうか? ポカリ買ってくる?」
「夕飯のことは心配すんな、俺がなんか適当に作る(か買ってくる)から、とにかく寝てろ!」
…これが、私の脳内にあった「理想の(=察する能力のある)夫」の姿です(笑)。
さて、現実の夫はどうだったか。
私がリビングで「しんどい…」アピールをしている横で、彼はヘッドホンをして、真剣な顔でゲームに没頭していました。
カチカチカチ…(マウスの音)
(私)「……(イライラ)」
「ゲホッ、ゴホッ!…はぁ…(ため息・第二弾)」
カチカチカチ…
(私)「……(殺意)」
しばらくして、夫はヘッドホンを外し、無言で立ち上がり、キッチンへ向かいました。
(私の期待)「お、やっと気づいたか? 私のために飲み物を…?」
夫は冷蔵庫を開け、麦茶をゴクゴク飲むと、棚からカップラーメンを取り出し、お湯を注ぎ始めました。
……プツン。
私の中で、何かがキレる音がしました。
「信じられない!!!」
私はソファからガバッと起き上がり、叫んでいました。
「私がこんなに高熱で苦しんでるのに! 『大丈夫』の一言もないの!? しかも、自分の分のカップ麺だけ作って平気な顔してるって、どういう神経!?」
夫は、お湯を注いだカップ麺を片手に、本気でキョトンとした顔で私を見ました。
そして、こう言ったんです。
「え? あ、体調悪かったの?」
「静かに寝てるから、そっとしておいた方がいいのかと思ってた」
「ていうか、そんなに辛いなら、なんでちゃんと言ってくれないの?」
……言・っ・て・く・れ・な・き・ゃ・わ・か・ら・な・い・だ・と…?
4. 「ウチ」と「ソト」のねじれが、一番大切な人を傷つける
もう、お分かりですよね。
これが、「察して文化」の最大の落とし穴です。
私たちは、「ソト」の世界(ご近所さん、ママ友)では、相手に配慮しすぎて「本音」を言えない。
「こんなこと言ったら迷惑かな」「わがままって思われないかな」と我慢する。
その反動で、「ウチ」の世界(家族、夫)に対しては、**「一番近しい存在なんだから、私のこの辛さ、言わなくてもわかるでしょ!」「私を愛してるなら、察してよ!」**という、非常識なまでの「甘え」と「期待」を抱いてしまうんです。
ご近所さんには、お茶に誘うタイミングまであんなに配慮(「承」参照)したくせに。
夫には、体調が悪いことすら「言葉」で伝える努力を放棄し、「態度」で察しろと要求する。
でも、考えてみれば当たり前。
夫は、私とは違う人間です。育った環境も違えば、体調不良の時に「そっとしてほしい」タイプかもしれない。何より、「ゲームに集中してる時は、他の情報がシャットダウンされる」生き物かもしれない(笑)。
彼がエスパーじゃない限り、「しんどい」というため息から、「ポカリを買ってきて、夕飯を作り、優しい言葉をかけろ」という超具体的な要求まで「察する」なんて、不可能です。
「ソト」の人には、「相手を傷つけまい」と「建前」という名の配慮をする。
「ウチ」の人には、「私をわかってくれない」と「本音(という名の不満)」をぶつけ、相手を傷つける。
この「ウチ」と「ソト」のコミュニケーションの「ねじれ」こそが、私たち日本人(特に主婦)が抱える、一番根深く、一番しんどい問題なんじゃないか。
私は、このカップラーメン事件で、痛いほどそう実感したんです。
お辞儀も、建前も、元は「相手を想う心」からスタートした、日本の美しい文化のはず。
でも、その使い方を間違えると、「ソト」で自分を殺し、「ウチ」で一番大切な人を攻撃する、ただの「生きづらさ」の元凶になってしまう。
…またしても、自分の恥を晒して熱くなってしまいました(笑)。
「ソト」では空気を読みすぎて疲れ果て、「ウチ」では「察して!」と期待して勝手にキレる。
あぁ、なんて面倒で、なんて不器用なんでしょう、私たちって。
じゃあ、どうすればいいの?
「ソト」でも「ウチ」でも我慢し続けろってこと?
それとも、全部「本音」でぶつかって、周りと摩擦を起こしながら生きろってこと?
いえいえ、どっちも違います。
次回、いよいよ最終回「結」のパートでは、この「建前文化」「察して文化」と上手に付き合いながら、自分も周りも大切にするために、私が実践している**「自分軸」の持ち方と、「ウチ」の平和を守るための「本音の伝え方」**について、お話ししたいと思います。
「察して」を卒業し、「伝える」勇気を持つ。それが最強の「和」を育む人生術
やっほー! Ayaです。
「お辞儀」から始まった、日本人のややこしい(?)コミュニケーション文化を巡る旅も、ついに最終回です。
「お辞儀」という態度の配慮(起)から、「本音と建前」という言葉の配慮(承)へ。
でも、その「配慮」も行き過ぎると、「ソト(他人)」で空気を読みすぎて疲れ果て、「ウチ(家族)」では「なんで察してくれないの!」と爆発する、最悪の「ねじれ」を生んでしまう(転)…という、私の恥ずかしい失敗談のオンパレードでした(笑)。
高熱で苦しんでいるのに「察して」アピールを繰り返し、ゲーム中の夫がカップ麺を食べ始めた瞬間にブチ切れた、あの日の私。
「ソト」ではあんなに「建前」を駆使して相手を思いやれる(と思い込んでいる)のに、「ウチ」の夫には「言わなくてもわかって!」と、エスパーであることを要求する。
なんて不器用で、なんて自分勝手で、なんてアンバランスなんでしょう。
この「察して文化」の呪縛。
そして「ウチ」と「ソト」の境界線が生む、この「生きづらさ」。
じゃあ、私たちはどうすればいいんでしょう?
「もう建前なんてやめて、全部本音で生きていきましょう!」…なんてこと、この日本では(たぶん)不可能です。そんなことをしたら、あちこちで摩擦が起きて、今とは違う「生きづらさ」が生まれるだけ。
「お辞儀」も「建前」も、元はと言えば「相手を不快にさせたくない」「この場の調和(和)を大切にしたい」という、日本人が持つ美しい「思いやり(Omoiyari)」の心から生まれた文化のはず。
それを「呪縛」や「生きづらさ」に変えてしまっているのは、もしかしたら、私たち自身の「使い方」なのかもしれない。
今日は、この面倒だけど美しい「日本文化」と上手に付き合いながら、自分も、そして一番大切な「ウチ」の家族もハッピーにするために、私がたどり着いた「人生術」をシェアしたいと思います。
1. ステップ1:「自分の本音」に、まず自分が気づいてあげる
私たちが「生きづらい」と感じる第一歩は、多くの場合、「自分の本音」を無視しすぎることから始まります。
「ソト」の空気を読むことに必死になりすぎて、「建前」が顔に張り付き、自分が本当にどうしたいのか、何を感じているのか、わからなくなってしまう。
あの3,500円のママ友ランチ会(「転」参照)で、「高いな…ファミレスがいいな…」と思った、あの心の小さな声。
まずは、その「本音」を、自分自身がキャッチして、認めてあげることがスタートです。
「あ、私、今『嫌だ』って思ってるな」
「『行きたくない』のが、私の本音なんだな」
それを無視して、「みんなが行くから」「空気を壊したくないから」と、自動的に「建前(楽しみー!)」を発動させてしまうから、心が疲弊するんです。
まずは、気づくこと。
「私の本音は、ここにある」と。
2. ステップ2:「ソト」では、「選んで」建前を使う
自分の「本音」に気づけたら、次はその「本音」をどう扱うか、です。
「本音」が「行きたくない」だとして、じゃあママ友全員に「高いから無理!」と本音をぶちまけるのか?
…それは、やっぱり角が立ちますよね(笑)。
ここで、「主体的に」建前を使う、という選択をします。
「自動的に(=我慢して)建前を使う」のではなく、「自分の意思で、今回は建前を選ぶ」んです。
「(本音:行きたくないけど)今回は、みんなとの関係性を優先して、この3,500円を**『平和維持費』として払おう**。その代わり、ランチ中は楽しむことに集中しよう!」
と、自分で選んで行く。
あるいは、
「(本音:行きたくないから)今回は、波風が立たないように『建前』を使って、賢く断ろう」
と決める。
「うわー、すごく行きたいんだけど、その日、あいにく親戚が家に来ることになっちゃってて(←建前)。本当にごめん! 次は絶対参加するね!」
と、相手の顔を立てつつ、自分の「本音(行かない)」も守る。
どちらも、自分の「本音」を一度受け止めた上で、**「自分がどうするかを選んでいる」**という感覚が大切。
「我慢させられた」ではなく「自分で選んだ」と思うだけで、心の負担は全然違うんです。
3. ステップ3:「ウチ」では、「本音」を「言葉」にして伝える勇気を持つ
そして、一番大切なのがこれ。
「ソト」で「建前」という名の鎧を着て頑張っている私たち。
でも、「ウチ(家族)」は、鎧を脱いで休む場所であって、「察して!」と甘えて攻撃する場所じゃないんです。
あの高熱でブチ切れた日の私(「転」参照)が、どうすればよかったのか。
「察して」アピール(ため息、咳)をするのではなく。
爆発して「信じられない!」と叫ぶのでもなく。
ただ、**「言葉」**にすればよかった。
「ごめん、ゲーム中に悪いんだけど」
「私、今、熱が39度近くあって、本当にしんどいんだ」(=これが私の「本音」と「現状」)
「だから、悪いんだけど、ポカリを買ってきてもらえるかな?」(=これが私の「具体的な要求」)
「あと、夕飯のことも、今日は考えられそうにないから、何か買ってきてもらうか、簡単なものですませてもらえると、すごく助かる」(=これも「要求」)
こう言われて、断る夫がいますか?(いや、いたら別の問題ですが…笑)
夫はキョトンとしながらも、「え、大丈夫か!? わかった、すぐ買ってくる!」と動いてくれたはずです。
「察してよ!」と相手に「答え」を丸投げするのは、一番の「甘え」であり、実は「不親切」。
だって、相手はエスパーじゃないんだから、何をすればあなたが助かるのかなんて、わかるわけがない。
「ウチ」の家族は、「ソト」の人たちとは違います。
「本音」を伝えたって、関係は壊れない(はず)。
むしろ、「本音」を「わかる言葉」で伝えてくれる方が、相手も「何をすればいいか」が明確になって、助けやすいんです。
「ソト」では、相手を傷つけない「建前」を賢く選ぶ。
「ウチ」では、相手が動けるように「本音」を具体的に伝える。
この使い分けこそが、私たちを「生きづらさ」から解放してくれる、最強の「人生術」なんだと、私は思います。
4. 本当の「思いやり」とは
「お辞儀」も「建前」も、根っこにあるのは「相手を想う心」。
だったら、その「思いやり」を、一番向けるべきは誰でしょう?
「ソト」の人たち? …もちろん、それも大事。
でも、まずは**「自分自身」**。
自分の「本音」を無視して、我慢ばかりさせていませんか? まずは自分の心の声を、自分が聞いてあげる。
そして、一番大切な「ウチ」の家族。
彼らに「察しろ!」と無理難題を押し付けて、勝手に失望して、傷つけていませんか?
あなたの「ウチ」の人は、あなたの「本音」を、ちゃんと言葉で伝えてくれるのを待っているかもしれない。
「言わなくてもわかる」関係は、確かに素敵です。
でもそれは、長年かけて「言葉」を尽くし、お互いの「本音」を伝え合ってきた先に、奇跡的に生まれるもの。
「察して」という甘えを卒業し、**「伝える」という勇気(=相手への本当の思いやり)**を持つこと。
それができれば、「お辞儀」も「建前」も、私たちを縛る「呪縛」ではなく、人間関係を豊かにする「美しい文化」として、誇りを持てるようになるんじゃないかな。
…と、4回にわたって、日本という国で生きていくための「生活の知恵」について、私の実体験ベースで語り尽くしてみました。
海外のストレートな文化の中で頑張っている皆さんには、もどかしく、面倒に映ったかもしれません。
でも、この「相手の気持ちを想像しすぎる」文化も、なかなかどうして、愛おしくないですか?(笑)
皆さんのいる場所では、どんな「挨拶」をしますか?
どんな「本音と建前」がありますか?
ぜひ、皆さんの「実体験」も聞かせてもらえたら、嬉しいです。
最後まで読んでくれて、本当にありがとうございました!

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