触れない国の「こんにちは」— フランス・ブラジルとの“距離”
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皆さん、こんにちは!
日本で二人の子育てに奮闘中の主婦ブロガー、Ayaです。
海外で暮らす皆さん、毎日本当にお疲れ様です!
そちらの生活には慣れましたか? きっと、日本では経験できないような刺激的な毎日を送られていることと思います。と同時に、文化や習慣の違いに「えっ!?」と驚いたり、戸惑ったりすることも、まだまだたくさんあるんじゃないでしょうか。
私、最近すごく面白いトピックに触れたんです。
それは「挨拶」。
世界にはいろんな挨拶がありますよね。
例えば、フランスの「ラ・ビズ(La bise)」。
頬と頬を合わせてチュッチュッと音を立てる、あのオシャレな挨拶です。
でも、あれってすっごく複雑なんですね!
友人に聞いたら、地域によってキスの回数が2回だったり、4回だったり。しかも、どっちの頬から先に差し出すかまで決まりがあるとか!
さらに、相手との関係性(家族なのか、ただの知り合いなのか)で、ビズをするかしないか、するなら何回か…という暗黙のルールが渦巻いているそうで。
「あ、この人とは3回ね」
「この人は握手だけ」
みたいな判断を瞬時にしているなんて、もうそれだけで一つの「術」ですよね。
かと思えば、ブラジル。
こちらはもっと情熱的!「ベイジーニョ(beijinho)」(軽いキス)や、「アブラッソ(abraço)」(ハグ)が、もう日常のスタンダード。
「おはよう」も「久しぶり!」も、ぎゅーっと抱きしめ合って、体温を丸ごと伝え合うような温かさ。
ブラジル人の友人が言っていました。
「ハグしないなんて、心が通ってないみたいで寂しいじゃない!」
と。
なるほど、彼らにとって「触れ合うこと」は、「あなたを信頼していますよ」「会えて嬉しいよ」という気持ちを伝える、一番ストレートで大切なコミュニケーションなんですね。
さて、ここで、ひるがえって私たち「日本」です。
このフランスやブラジルの話を聞いて、海外に住む皆さんは、日本に帰省した時の「あの感覚」を思い出しませんか?
そう。
日本って、びっくりするくらい「触れない」国ですよね(笑)
空港の到着ゲートで、久しぶりに会う家族や友人と再会する時。
欧米の映画なら、泣きながら抱き合い、キスし合う感動のシーンです。
でも、日本だと…
「あ、久しぶり」
「うん、元気だった?」
「荷物、重かったでしょ」
「車、あっちに停めてるから」
…みたいな。
感動の再会なのに、お互い数メートルの距離を保ったまま、ペコペコと頭を下げ合ったりして。
あの、なんとも言えない「距離感」。
私、忘れられない実体験があるんです。
まだ結婚して間もない頃、夫のアメリカ人の友人(男性)が、夫婦で日本に遊びに来てくれた時のこと。
私と彼は初対面です。
空港で夫から「妻のAyaです」と紹介された瞬間、彼は満面の笑みで「ワオ!ナイス・トゥ・ミーチュー!」と近づいてきて、両手を大きく広げたんです。
そう、100%、「ハグ」の体勢でした。
私、固まりました。
文字通り、フリーズです(笑)
だって、当時の私にとって、夫以外の男性、しかも初対面の外国の方とハグするなんて、人生の想定外!
パニックになった頭で「え、これ、どうするのが正解!?避けるのは失礼?でも、抱きつくのも変だよね?!」と、0.3秒くらいで猛烈に考えました。
結局、私がぎこちなく会釈…というか「お辞儀」の体勢に入ろうとした瞬間、彼の大きな腕が私の背中に回り、ポンポン、と。
私の方は、両腕のやり場に本当に困って、彼の脇腹あたりで小さくウロウロ…(今思い出しても赤面モノです)。
それはもう、「ハグ」と「お辞儀」が衝突事故を起こしたような、世にも奇妙な「何か」が爆誕した瞬間でした。
彼の奥さんも、私の夫も大爆笑。
彼は「アッハッハ!ごめんごめん!日本の挨拶はハグじゃないんだったね!」と明るく謝ってくれましたが、私にとっては「文化の壁に、物理的に激突した」衝撃的な体験でした。
フランスの「ビズ」が、お互いの関係性を確認する儀式だとしたら。
ブラジルの「アブラッソ」が、感情をストレートに伝えるバロメーターだとしたら。
じゃあ、日本人が多用する「お辞儀」って、一体何なんでしょう?
そして、私たちが無意識に保っている、この絶妙な「距離感」。
あえて「触れない」ことで、私たちは何を伝えようとしているのか。
海外に住んでいる皆さんだからこそ、この「触れない」日本のコミュニケーションを、外から客観的に見て「不思議だな」「でも、もしかしたら、こういう意味があるのかな?」と感じることも多いのではないでしょうか。
この「触れない」文化の中には、冷たさや他人行儀さとは違う、日本特有の「敬意」や「配慮」、そして深い「人生観」みたいなものが、実はぎゅっと詰まっているんじゃないか…と、私は思うんです。
今回のブログでは、そんな日本の「当たり前」に隠された心の動きを、じっくりと掘り下げてみたいと思います。
触れない代わりに、私たちは「何」でコミュニケーションを取っているのか。
「距離」があるからこそ、育まれる「何か」とは。
まずは、この「起」の部分で、皆さんに問題提起をしてみました。
皆さんが今お住まいの国では、挨拶はどうですか? ビズやハグ、日常茶飯事ですか?
よかったら、皆さんの「ビックリ挨拶体験」もコメントで教えてくださいね!
さて、次回【承】のパートでは、あの空港での「お辞儀」に注目して、日本人が頭を下げる時、その角度にどんな「心のグラデーション」を込めているのか、深掘りしていきますよ!
「お辞儀」のグラデーション — 角度に込めた敬意と親密さ
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皆さん、こんにちは!Ayaです。
「起」の記事、読んでいただけましたか?
フランスの「ビズ」やブラジルの「アブラッソ」…。
愛情や親しみを「触れ合う」ことで表現する文化って、とっても素敵で、正直うらやましくもありますよね。
前回、私が夫のアメリカ人の友人に初対面でハグされ、カチコチに固まってしまった「お辞儀・衝突事故」の話をしました(笑)。
あの時、パニックになった私が、とっさに、無意識に取ろうとした行動。
それが「お辞儀」でした。
海外に住む皆さんは、今、現地の人たちとハグやビズ、握手を交わす毎日のなかで、逆にこの日本の「お辞儀」という習慣を、どう感じていますか?
日本に帰省した時、空港で深々と頭を下げる職員さんや、実家の両親と「どうもどうも」なんて言いながらペコペコする自分自身に、不思議な感覚を覚えることはありませんか?
そう、私たち日本人は、この「お辞儀」というシンプルな動作に、信じられないほど多様な「心のグラデーション」を込めて使い分けているんです。
これ、海外の友人によく言われるんです。
「日本人は、なんであんなにしょっちゅう頭を下げてるんだ? 謝ってるのか? 感謝してるのか? それともただの挨拶か? 全部同じに見える!」って。
いやいや、違いますよね!
私たち日本人からすれば、「全部、全然違う!」わけです。
今日は、この「お辞儀」に隠された、日本の「生活の知恵」と「人生術」について、私の実体験を交えながら、じっくり解剖してみたいと思います。
1.「ペコッ」— 15度の会釈に込めた「あなたの存在、認めてます」
まず、一番ライトなお辞儀。「会釈」です。
角度にして、だいたい15度くらい。
どんな時に使うかというと、
- 会社(あるいはパート先)の廊下で、すれ違う同僚に「お疲れ様です」と。
- マンションのエレベーターで、一緒になっただけのご近所さんに「こんにちは」と。
- 宅配便の配達員さんから荷物を受け取る時に「ありがとう」と。
日常生活で、もう呼吸をするのと同じくらい、無意識にやっていますよね。
これ、実はすごい発明だと思うんです。
先日、私が住んでいるマンションのエレベーターでのこと。
私と、あまり話したことのない、たぶん上か下の階に住んでいるであろう女性と二人きりになりました。
一瞬、気まずい沈黙が流れます。
ここで、フランス式に「ビズ」を交わす?…あり得ません(笑)。
かといって、ブラジル式に「ハーイ!」とハグ?…通報されかねません(笑)。
でも、そこで「完全な無視」を決め込むのも、なんだか空気が重い。私たちはこの後、目的の階に着くまで、数十秒間この「密室」に一緒にいるわけですから。
そんな時、私たち日本人はどうするか。
相手の目をチラッと見て、**「ペコッ」**と、ほんの少し頭を下げるんです。
相手も「ペコッ」と返してくれる。
たったこれだけ。
言葉は「こんにちは」と交わすかもしれないし、交わさないかもしれない。
でも、この15度の「ペコッ」だけで、私たちは一瞬で「私はあなたに敵意はありません」「同じ空間にいることを認識していますよ」「この数十秒、どうぞよろしく」という大量の情報を交換しているんです。
これぞ、「触れない」国の「和」を保つための生活の知恵。
直接的な干渉(ハグや握手)はしない。
でも、排他的な無視もしない。
「あなた」と「私」の間に、気まずくない、快適な「空気のクッション」を置くための、魔法の動作なんです。
スーパーのカートがぶつかりそうになった時に、お互い「ペコッ」と会釈するのも、これと同じですよね。謝罪というより、「交通整理」のための合図です。
2.「ペコリ」— 30度の敬礼は「関係性」の確認作業
次は、もう少し深くなる、30度の「敬礼」。
これは「会釈」よりも、もっとはっきりとした「意図」が乗っかってきます。
- お客様を迎える時。「いらっしゃいませ!」
- 先生や上司、目上の人に対して。「おはようございます」
- そして、私が多用する場面…そう、「ママ友」との関係!
特に、子供の学校行事やPTAの集まり。
これはもう、「30度のお辞儀」が飛び交う、一大セレモニー会場です(笑)。
数年前、子供が小学校に上がったばかりの頃の保護者会での実体験です。
教室の後ろに集まったお母さんたち。
もう、お互いの「様子見」と「値踏み」の空気がすごい(苦笑)。
ここでどういう立ち位置で、どういう「キャラ」でいくか、最初の挨拶はめちゃくちゃ重要です。
同じ幼稚園だったママ友には「あ、どうも〜、よろしくね!」と15度の会釈でOK。
でも、初めてお会いする、他の学年の役員さん(先輩ママ)が来たとします。
その方が「〇〇の母です、今年度役員をします」と挨拶されたら…
私は、すっ、と立ち上がり(座ってたら)、相手の目をしっかり見て、
「Ayaです。〇〇の母です。右も左もわかりませんが、よろしくお願いします」
と、背筋を伸ばし、腰からきれいに「ペコリ」と30度、頭を下げます。
この30度には、
「私は、あなたを『先輩ママ』『目上の方』として、きちんとリスペクトしています」
「私は、この『PTA』という場で、礼儀をわきまえ、波風を立てるつもりはありません」
「どうぞ、これから1年間、良い『関係性』を築きましょう」
…という、もう、ありとあらゆる「私のスタンス表明」が込められているんです!
これは、自分を卑下しているわけじゃない。
むしろ、**「私は礼儀を知っている人間です」と表明することで、相手に安心感を与え、この先の人間関係をスムーズにするための、高度な「人生術」**なんですよ。
「個」をぶつけ合う前に、まず「場」の空気を整え、お互いの「立ち位置(敬意)」を確認する。
ハグで「イェーイ!よろしく!」と一気に距離を詰めるのが欧米式なら、お辞儀で「どうぞ、よろしくお願いいたします」と、まずはお互いの「適切な距離」を設定するのが日本式。
この30度のお辞儀がきちんとできるかどうかで、その後の「ママ友づきあい」の難易度が変わる…と言ったら、大げさでしょうか?
でも、海外から日本に戻ってきた時、この「絶妙な30度」がうまくできなくて、ちょっとギクシャクした経験がある方、いませんか?
3.「深々と」— 45度以上の最敬礼は「言葉にならない心」
そして、最後は、45度、あるいはそれ以上。「最敬礼」です。
これは、もう「挨拶」のカテゴリを超えています。
私たちが、腰を深く、深く折り曲げる時。
それは、言葉だけでは到底伝えきれない「何か」が、心から溢れてしまった時です。
主なシチュエーションは、二つ。
「心からの感謝」と、「心からのお詫び」です。
これは、私の人生でも忘れられない「感謝」のお辞儀体験です。
下の子がまだ3歳くらいの頃。
公園で遊んでいて、私がちょっと目を離した隙に、よろけて頭から転んでしまったんです。
運悪く、コンクリートの角に額をゴツン!
みるみるうちに血が滲んで、大泣きする息子。
私はパニックです。「どうしよう、救急車!?」「血が!」と大慌て。
その時、近くのベンチにいた、見知らぬおばあさんが、さっと駆け寄ってきてくれたんです。
「お母さん、落ち着いて!これ、ハンカチでまず押さえて!」「あそこの水道で冷やすよ、ほら、行くよ!」
と、泣きじゃくる息子を抱き上げ、冷静に、テキパキと応急処置をしてくれたんです。
幸い、傷は見た目ほど深くなく、血もすぐに止まりました。
私は、そのおばあさんに何てお礼を言ったらいいか…。
「ありがとうございました」
「本当に、助かりました」
言葉を尽くしても、このパニックから救ってくれた感謝は、とても足りない。
気づいたら、私は、そのおばあさんの手を握って、
「本当に、本当に、ありがとうございました…!」
と、自然と腰が90度近く曲がるくらい、深々と頭を下げていました。
もう、これは「マナー」じゃない。
「礼儀」でもない。
「ありがとう」という言葉の重さ、感謝の深さを、体が、魂が表現しようとした結果なんです。
逆に、もし子供が誰かに怪我をさせてしまったり、取り返しのつかないご迷惑をかけてしまった時。
「申し訳ありませんでした」と頭を下げる時も、同じです。
「ごめんなさい」という言葉では足りない、その「申し訳なさ」の分だけ、私たちの頭は深く、深く下がっていく。
フランスのビズやブラジルのハグが、「好き」「嬉しい」「会えて最高!」という、ポジティブな感情を「今、ここで」共有し、爆発させるのが得意なコミュニケーションだとしたら。
日本の「お辞儀」は、
「あなたを認めています」(会釈)
「あなたを敬っています」(敬礼)
「あなたへの感謝(謝罪)が言葉では足りません」(最敬礼)
…という、相手との「関係性」や「心の深度」を、物理的な「距離」を保ったまま、ミリ単位で調整し、伝えるための、世界でも類を見ない、繊細で奥深い身体言語なんです。
私たちは、触れ合わない代わりに、
相手の「目」を見て、
相手の「空気」を読み、
そして、自らの「角度」で、心を伝えている。
では、なぜ日本人は、こんなにも「触れない」ことで関係性を調整する、複雑な文化を築き上げてきたんでしょうか?
なぜ、言葉で「ありがとう!」とハグするよりも、「会釈」や「敬礼」で相手との「間(ま)」を測ることが、こんなにも重要になったんでしょう?
それは、私たちの根底に流れる、あの独特の「感覚」と無関係ではありません。
次回【転】のパートでは、この「触れない」文化の核心にある、日本人の「人生観」そのものとも言える…そう、「空気を読む」ということについて、その正体を深掘りしていきたいと思います!
海外で「空気読まなくていいからラク!」と感じている皆さんも、「やっぱり空気が読めないと不安!」と感じている皆さんも、ぜひお楽しみに!
「察する」文化の誕生 — なぜ日本人は言葉より空気を読むのか?
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皆さん、こんにちは!Ayaです。
「承」のパートでは、日本人の「お辞儀」がいかに繊細な「心のグラデーション」を表現するツールであるか、熱く語ってしまいました(笑)。
15度の会釈(ペコッ)で「あなたの存在、認めてますよ」という空気のクッションを作り、
30度の敬礼(ペコリ)で「あなたをリスペクトしています」という関係性の土台を築き、
45度以上の最敬礼(深々と)で「言葉にならない感謝や謝罪」という魂の重さを伝える…。
私たちは、肌で「触れ合う」代わりに、この「角度」という繊細なサインを使って、相手との距離をミリ単位で測り、調整しているんですよね。
でも、ここで一つの大きな疑問が湧いてきませんか?
「…なんで、そんな面倒なことするの?」
と(笑)。
ブラジルの「アブラッソ(ハグ)」みたいに、ぎゅーっと抱きしめて「大好き!」「会えて嬉しい!」って体温で伝えた方が、よっぽど早くて、ストレートで、気持ちいいじゃないか!と。
なぜ日本人は、あえて「触れない」という距離を保ち、相手の「角度」だの「表情」だの「声色」だの…そんな曖昧なものから、必死で相手の気持ちを読み取ろうとするのか。
そう、それこそが、今回のテーマ。
海外在住の皆さんにとっては、一番厄介で、でも一番「日本らしい」と感じるかもしれない、あの独特の文化。
「空気を読む」
という、日本社会に張り巡らされた、見えない「ルール」の正体です。
1.「私」が主語の国、「私たち」が主語の国
海外で暮らしていると、「言葉にしなきゃ伝わらない」という場面に、日々直面しますよね。
スーパーのレジで「袋はいらない(No bag, please.)」とちゃんと言わないと、ものすごい勢いで袋詰めされたり。
ホームパーティーで、黙って待っていても誰も飲み物を注いでくれず、自分で「Can I get something to drink?(何か飲んでもいい?)」と動かなきゃ始まらなかったり。
そこでは、「私(I)」が主語です。
「私は、こう思う(I think…)」
「私は、これが欲しい(I want…)」
「私は、反対だ(I disagree.)」
自分の意志を「言葉」にして、はっきりと相手に伝えることが、コミュニケーションの「第一歩」。
「起」で話した、夫のアメリカ人の友人が、初対面の私に両手を広げて「ハグ」しようとした行為。
あれも、彼にとっては「私は、あなたに会えて嬉しい!ウェルカム!」という、「私(I)」のポジティブな感情を、言葉と体でストレートに表現しただけなんですよね。
では、ひるがえって、日本。
私たちは、どうでしょう。
例えば、日本の会社(あるいはパート先)の飲み会を想像してみてください。
海外のパーティーが「個」の集まりだとしたら、日本の飲み会は「場(空気)」の集まりです。
席に着いたら、まず何を見ますか?
…そう、「全体の空気」ですよね(笑)。
- 「あ、あそこの席が『上座』っぽいな。〇〇さん(上司)はあそこかな」
- 「最初のビールの乾杯、誰が音頭取るんだろう?」
- 「あ、部長のグラス、空きそう…。誰か気づいて!あ、私が瓶持って注がなきゃ!」
- 「唐揚げ来たけど、レモン、勝手に絞っちゃっていいかな…?誰か『絞っていいですか?』って聞かないかな…?」
- 「この話、今しちゃダメな空気かな?〇〇さん、さっきから黙ってるし…」
…どうですか?
息苦しくなってきましたか?(笑)
でも、これが私たちの「日常」でしたよね。
主語は「私」じゃないんです。
「私たちは、どう動くべきか」
「私たちは、この『場』の和をどう保つか」
なんです。
自分の「飲みたい」「食べたい」「話したい」という「個」の欲求よりも、まず「全体の空気」をレーダーで察知し、その「場」にふさわしい行動を瞬時に判断し、実行する。
これが、日本で求められる「社会性」であり、「空気を読む」能力の正体です。
2.なぜ「空気読み」が最強のスキルになったのか?
じゃあ、なんでこんな超高感度レーダーみたいなスキルが、日本でだけ異常に発達したんでしょう?
いろんな説がありますが、私はやっぱり、日本の「稲作文化」が根っこにあると、強く思うんです。
歴史の授業みたいで退屈かもしれないけど、これが私たちの「人生観」に直結してるんですよ。
麦やジャガイモを育てる「狩猟・畑作」文化は、極端な話、「個」の力でもなんとかなります。
でも、私たちが何千年も続けてきた「稲作(お米作り)」は、絶対に「個」の力だけでは完結しません。
お米作りには「水」が不可欠です。
その「水」は、川から引いてきた用水路を、集落(村)のみんなで共有します。
「今年はウチが日照りだから、水を独り占めするぞ!」なんてことは、絶対に許されない。
田植えも、稲刈りも、みんなで一斉にやらないと効率が悪いし、台風の時期を逃せません。
「ウチは今年、田植えサボるわ」
「ウチはみんなより早く稲刈りするから、水止めないでね」
…こんな「個」を主張する人が一人でもいたら、「村(コミュニティ)」そのものが崩壊し、全員が飢えてしまうんです。
つまり、日本という国は、
「私(I)」の意志よりも、「私たち(We)」の「和(ハーモニー)」を最優先しなければ、文字通り「生きていけない」土地だった。
これが、私たちのDNAに刻み込まれた、原初の「人生観」なんだと思うんです。
「和を以て貴しと為す」
聖徳太子のこの言葉は、ただの道徳じゃなくて、生きるための「生存戦略」そのものだったんですね。
3.「空気読み」が生んだ、究極のコミュニケーション「察する」
「和」を保つこと、つまり「村の秩序」を乱さないことが、社会の最優先事項。
となると、当然、コミュニケーションの形も変わってきます。
「和」を一番乱すものって、何でしょう?
それは、「意見の衝突」です。
「私はこう思う!」「いや、俺はこうだ!」という「個」と「個」のぶつかり合い。
これを避けるため、日本人は「直接的な言葉」で「個」を主張することを、極端に避けるようになりました。
「YES/NO」をはっきり言わない。
「好き/嫌い」を断言しない。
「反対です」とは言わず、「ちょっと検討します」と持ち帰る。
…じゃあ、本音はどうするの?
言葉で言わない代わりに、どうやって気持ちを伝えるの?
ここで登場するのが、「空気を読む」の進化形。
究極の日本的コミュニケーション術…
「察する」
です。
「言わなくても、わかるでしょ?」
「言わせないでよ、恥ずかしい」
「普通、こうするでしょ?」
言葉にしない「空気(サイン)」を発して、相手に「気づかせる」。
そして、相手もその「空気(サイン)」を全身のアンテナで受信して、「わかってあげる」。
この、阿吽(あうん)の呼吸こそが、日本の「美徳」とされてきたんです。
4.実録・我が家の「察して」クライシス(夫婦喧嘩)
これ、私、今でもやっちゃうんですよ…。
夫は日本人ですが、それでも時々、この「察して」が原因で、静かな(あるいは激しい)夫婦喧嘩が勃発します。
ある日の夜。
私は、日中のパートと、子供の習い事の送迎と、夕飯の支度で、もうヘトヘト。
夕飯が終わった後、シンクには食器の山。
夫は、リビングでスマホを見ながらリラックスしています。
私の心の声:「(あーーー疲れた…。洗い物、山盛りじゃん…。なんで気づかないの?私こんなに疲れてるのに…)」
ここで、海外式のコミュニケーションなら、
「Hey, I’m really tired tonight. Could you please do the dishes?(ねえ、私すごく疲れてるの。お皿、洗ってくれない?)」
と「言葉」で言えば、それで解決です。
でも、日本人の私は、そうしない(できない)時がある。
何を始めるかというと、「空気(サイン)」の発信です。
- **第一段階:**シンクの前で、わざと「はぁぁぁ…」と、リビングまで聞こえるくらいの「深いため息」をつく。(=「疲れた」アピール)
- **第二段階:**夫が気づかない。…よし、次はこれだ。お皿を、わざと「ガチャン!カシャン!」と、大きな音を立てて水に浸け始める。(=「私、今、不機嫌です」アピール)
- **第三段階:**夫、まだスマホに夢中。…キーーーッ!無言でシンクの掃除を始め、蛇口の水を「ジャーーーーッ!」と、これでもかと強く出す。(=「怒ってます!!早く気づけ!!」という最終警告)
…もう、お分かりですよね(笑)。
私、夫に対して「私、こんなに疲れて不機嫌なんだから、言われなくても『大丈夫?俺が洗うよ』って『察して』よ!!」と、全身全霊で訴えているわけです。
夫がここで、「あ、ごめん、疲れてるのに。代わるよ」と「察して」くれれば、我が家の「和」は保たれます。
でも、彼が「(なんか機嫌悪いな…)え、俺なんかした?」と、空気の読めない返事でもしようものなら…
「…別に!!(怒)」
という、日本で一番怖い「言葉」が飛び出し、家庭内クライシスに突入です(笑)。
「察する」というのは、「甘え」なんです。
でも同時に、「言わなくてもわかるくらい、私たちは深く理解し合っているはずだ」という、「関係性への信頼」…あるいは、「過度な期待」の表れでもあるんですよね。
「お辞儀」という「触れない」距離感。
それは、この「和」を重んじ、「空気」を読み、「察し合う」という、日本人の繊d細すぎるほどの「人生観」から生まれた、必然のコミュニケーション・スタイルだったんです。
私たちは、ハグで「個」の体温をぶつけ合う代わりに、
お互いの「空気」を読み合い、
お互いの「立場」を察し合い、
見えない「心の距離」を、今日も必死で測り続けている。
…でも、ちょっと待ってください。
この「察し合う」文化、素晴らしい「思いやり」の側面もありますが、同時に、ものすごい「息苦しさ(同調圧力)」も生み出しますよね。
「普通はこう」「みんなやってる」という「空気」に、どれだけ「個」を押し殺してきたことか。
海外という、「空気」よりも「言葉」が支配する世界で暮らす皆さんにとって、この「察して」文化は、時として「足かせ」になっていませんか?
「言わなくてもわかってよ!」がまったく通じない世界で、私たちは、どうやって「自分」と「相手」の心の距離を見つめ直せばいいんでしょう。
次回【結】のパートでは、この「距離」があるからこそ、日本人が育んできた「別の形の思いやり」、そして、私たちが海外の文化から学び、見つけ出すことができる「新しい心のハグ」の形について、お話ししたいと思います。
いよいよ最終章です。お楽しみに!
距離が生む「思いやり」— 私たちが見つけた“心のハグ”の形
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皆さん、こんにちは!Ayaです。
長い間、「お辞儀」と「ハグ」、そして「空気」を巡る旅にお付き合いいただき、本当にありがとうございます!
「起」では、私がハグとお辞儀の「衝突事故」を起こした話から始まり、
「承」では、お辞儀の「角度」に隠された、日本人の繊細な「心のグラデーション」を解剖し、
「転」では、その背景にある「和」を重んじる稲作文化と、「言わなくても察してよ!」という、あの独特の(そして、時として超・面倒な!)「察する」文化の正体を探ってきました。
「転」で書いた、私の「夫婦喧嘩(察してクライシス)」の話…
「はぁぁ…(ため息)」
「ガチャン!(食器の音)」
「ジャーーーッ!(水の音)」
…という、「空気」による猛アピール(笑)。
あそこまで読んで、「うわー、わかる!」「息苦しい!」「私もやっちゃう!」と、共感してくださった方、多いんじゃないでしょうか?
海外で暮らしていると、この「察してよ!」がまったく通じない世界に、最初は本当に戸惑いますよね。
「疲れてるなら、Tiredだって言ってよ」
「手伝ってほしいなら、Help meって言ってよ」
「なんで怒ってるの? 言わなきゃわからないよ!」
…そう、彼らは、私たちが発信する「空気(サイン)」なんて、まったく受信してくれない(笑)。
でも、同時に、気づきませんでしたか?
「言えば、伝わる」
「言葉にすれば、わかってくれる」
という、驚くほどの「ラクさ」と「シンプルさ」に。
「察して」アピールを重ねて、相手が気づいてくれるのをイライラしながら待ち、結局気づいてもらえなくて大爆発…という、あの不毛なエネルギーを使わなくていい。「私、今、こう思ってるの」と「言葉」でパスを投げれば、相手がちゃんと受け取ってくれる。
なんて、クリアなんだろう!と。
1.「察する」ために、私たちは何をしていたか?
じゃあ、この「察する」文化って、ただの「面倒」で「息苦しい」だけの、捨て去るべき古い習慣なんでしょうか?
私は、そうは思わないんです。
「転」で、私は「察する」とは、「言わなくてもわかるでしょ?」という「甘え」であり、「関係性への過度な期待」だと書きました。
それは、確かに真実の一面です。
でも、もう一つの真実。
私たちが、誰かの気持ちを「察しよう」とする時、一体何をしているか、思い出してみてください。
…そう。
私たちは、五感をフル稼働させて、相手を「観察」しているんです。
「あ、〇〇さん、今日は声のトーンが低いな。何かあったのかな?」
「さっきからため息が多いけど、疲れてるのかな?」
「あの子、給食の時間、ずっと箸が進んでない。お腹痛いのかな?」
肌を触れ合わせる(ハグ)代わりに、私たちは、相手の「目」を見て、「声」を聴き、「表情」を読み、「仕草」を追い、その場の「空気」を感じ取ろうとする。
そして、その観察データをもとに、頭の中で必死に「想像」するんです。
「彼は今、何を思い、何に困り、本当はどうしてほしいんだろう?」と。
これこそが、日本人が世界に誇る「おもてなし」や「気遣い」の原点なんじゃないでしょうか。
ハグや「I love you」という言葉で、ドーン!と愛情をぶつけるのは、少し苦手かもしれない。
その代わり、相手の「領域(テリトリー)」には、あえて一歩踏み込まない「距離」を保つ。
でも、その「距離」の外側から、誰よりも深く相手を「想い(想像)」、そっと先回りして「何か」をする。
例えば、
- 落ち込んでいる友人に、あえて「どうしたの?」「元気出して!」と声をかけ、無理やり「個」を引きずり出そうとはしない。その代わり、何も言わずに温かいお茶を淹れて、隣にそっと座る。(「今はそっとしておいてほしい」という空気を「察する」から)
- 疲れて帰ってきた家族に、マシンガントークで「今日ね!」と迫るのではなく、まず「お疲れ様」と声をかけ、そっと一人になれる時間と空間をプレゼントする。
- 日本のお土産の定番、「個包装」のお菓子。あれも、すごい「察する」文化の結晶ですよね。「みんなで分けやすいように」「手を汚さずに食べられるように」「好きなタイミングで食べられるように」…という、渡す相手の「状況」を先回りして「想像」した、究極の「気遣い」です。
これは、ブラジルの「アブラッソ」のような、情熱的な体温の交換とは違います。
でも、これも間違いなく、一つの「愛」の形。
物理的には「触れない」けれど、心は誰よりも深く相手に寄り添おうとする、「静かなる、心のスキンシップ」なんだと、私は思うんです。
2.「ハグ」と「お辞儀」、両方知っている私たち
さて、ここで、私たち「海外在住の主婦」という存在です。
私たちは、今、すごくラッキーな立ち位置にいると思いませんか?
私たちは、
「言わなくても察してよ!」という、日本の「お辞儀」の心(=繊細な観察と思いやりの文化)と、
「言わなきゃ伝わらないよ!」という、海外の「ハグ」の心(=ストレートな言葉と愛情表現の文化)、
その両方を、肌で知っている。
「察する」ことの美しさと、「察して」アピールの面倒くささ。
「言葉にする」ことのクリアさと、「言葉にしすぎる」ことの(時としての)強引さ。
その両方の「良い面」も「悪い面」も、私たちは実体験として理解しているんです。
だったら、私たちにできることがあるはず。
どちらか一方を選ぶ、じゃない。
両方の「いいとこ取り」をした、最強のコミュニケーション術を、私たちが身につければいい。
私は、それを「ハイブリッド・コミュニケーション」、あるいは「言葉に乗せた、お辞儀の心」と呼んでいます。
具体的にどういうことか?
すごく簡単です。
まず、日本の「察する」文化の素晴らしい部分…
「相手をよく観察し、状況を想像する」
…これは、絶対に続けます。この繊細なアンテナは、私たちの宝物です。
でも、
「『察して』アピール(ため息、音立て、不機嫌な態度)」
…これは、もう、きっぱりと手放しませんか?(笑)
そして、相手に「気づけ!」と念を送る代わりに、
「想像」した結果を、海外式の「ストレートな言葉(I message)」に乗せて、相手に手渡すんです。
あの日の、ヘトヘトだった夜の私。
「察して」クライシスを起こした、あの瞬間に戻れるなら。
ハイブリッド式の私は、こう動きます。
夫がスマホを見ている。
(観察)「あ、彼は今、仕事から帰ってきてリラックスしたいモードなんだな」
(想像)「ここで私が不機ien機嫌な『空気』を出しても、彼は『なんで怒ってるんだ?』と混乱するだけで、食器を洗うという発想には至らないだろうな」
(察してアピール)「はぁ…(ガチャン!)」
…を、やめる。
代わりに、夫のそばに行き、
「お疲れのところごめんね。(←これは日本的な「気遣い」のクッション言葉)」
「私(I)、今日パートと送迎で、もう本当にヘトヘトで立ってるのがやっとで」
(↑「疲れてる私を察して!」ではなく、「私」を主語にして「事実」を伝える)
「だから、もしよかったら、洗い物をお願いしてもいいかな?」
(↑「やってよ!」という「命令」ではなく、「どう?」という「リクエスト」で渡す)
どうでしょう?
これなら、夫も「空気」に戸惑うことなく、「OK,
わかった。それだけ疲れてるなら俺がやるよ」と、気持ちよく受け取ってくれるはずです。
「察する」という日本の「思いやり(お辞儀の心)」を、
「言葉にする」という海外の「クリアさ(ハグの心)」に乗せる。
これこそ、物理的な距離は「触れない」かもしれないけれど、確実に相手の心に届く、私たちが手に入れた最強の「心のハグ」の形なんじゃないでしょうか。
3.あなたが見つけた「距離感」は?
「触れない」お辞儀の国と、「触れ合う」ハグの国。
どちらが上で、どちらが下かなんて、もちろんありません。
どちらも、その土地で人々が生き抜くために育んできた、尊い「知恵」であり「人生観」です。
大切なのは、物理的な「距離」が近いか遠いか、じゃない。
その「距離」を保ちながら、いかに相手の心を「想い(想像)」し、そして「伝える」か。
海外という、文化の交差点で、日々、家族のために、子供たちのために奮闘している皆さん。
皆さんは、この「日本」と「海外」の、二つの異なる「距離感」の狭間で、きっと、皆さんだけの「新しい心のハグ」の形を、毎日、必死で築き上げている最中だと思います。
それは、子供をぎゅーっと抱きしめながらも、「(あ、この子、今学校で嫌なことあったな)」と「察して」、あえて何も聞かずに背中をさすってあげることかもしれません。
それは、現地の友人に「ビズ」をしながらも、「(あ、彼女、今ネイル変えたな)」と「観察」し、「そのネイル、すごく素敵ね!」と、言葉にして褒めてあげることかもしれません。
触れなくても、伝わる思いやりがある。
触れるからこそ、深く伝わる言葉がある。
皆さんが、今暮らしている国で、あるいは日本に帰省した時に感じた、「距離感」の不思議や、あなたが見つけた「心のハグ」の形。
もしよかったら、コメントで、あなたの「実体験」もぜひ教えてください。
遠い日本から、皆さんの奮闘に、心からの「お辞儀」と「エア・ハグ」を送ります!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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