「完璧なバランス」という神話:日本の主婦がこっそり教える「ほどほど」の美学

雑誌から飛び出た「理想の主婦」と、私のごちゃごちゃな現実

(※ご要望に基づき、本日は「起」の部分のみを執筆します)

海外で暮らしていると、日本での生活って、なんだかすごく「ちゃんとしてる」イメージ、ありませんか?

特に最近は、SNSや雑誌を開けば、「丁寧な暮らし」とか「理想のワークライフバランス」なんて言葉が、キラキラした写真と一緒に踊っていますよね。

日本に住む主婦として、私が見かける「理想のバランスが取れた主婦(あるいは働くママ)」のイメージって、だいたいこんな感じです。

朝は5時に起床。

まずは白湯を一杯飲んで、静かなリビングでヨガと瞑想を30分。心と体を整えます。

それから、出汁から丁寧にとったお味噌汁と、完璧な「まごわやさしい(※日本の健康食の合言葉。豆、ごま、わかめ、野菜、魚、しいたけ、芋)」を体現した朝ごはん。

旦那さんと子供を笑顔で送り出し、ピカピカに磨き上げられた、モノが一つもないミニマルなキッチンをリセット。

午前中は、資格の勉強や、自宅でフリーランスの仕事(もちろんやりがいMAX)。

午後は、オーガニック野菜を買い出しに行き、手作りの発酵調味料(自家製味噌とか!)を使って、夜ご飯の下ごしらえ。

子供が帰ってきたら、手作りおやつを出して、宿題を優しく見てあげる。

夜は、品数豊富な、まるで料亭のような晩ごはんを家族で囲み、子供の寝かしつけの後は、夫婦でハーブティーでも飲みながら、将来の夢を語り合う…。

……。

……書いているだけで、眩暈がしてきました(笑)

これが、社会が、あるいはメディアが私たちに見せてくる「完璧なバランス」の“理想のビジュアル”です。

仕事も、家庭も、育児も、自分のための時間も、すべてが100点満点。すべてが完璧にコントロールされている、美しい世界。

さて。

ひるがえって、今朝の私、日本のとある主婦の「現実」をお話ししましょうか。

朝。けたたましいアラームの音で目が覚めたのは、7時15分。はい、寝坊です。

「ママ、起きて!」「パパ、先シャワー入って!」という家族の怒号が飛び交う中、ベッドから転がり落ちるように起床。

ヨガ?瞑想?そんな時間があるなら、あと5分寝たい。

朝ごはんは、昨日の残りのご飯に納豆をかけたもの。子供は食パンを口にくわえたまま、テレビに夢中。「早く着替えなさい!」と朝から何度叫んだことか。

キッチンは、昨夜力尽きて洗えなかった食器がシンクに山積み。

洗濯機は、回し終わったまま放置されて、ちょっとシワが寄り始めている。

「あ、今日ゴミの日じゃん!」と、パジャマの上からコートだけ羽織って、慌ててゴミ袋を持ってダッシュ。

旦那は「いってきます」と嵐のように出ていき、子供は「靴下がない!」と玄関で泣き叫ぶ。

(いや、昨日そこ置いたのあなたでしょ…)

なんとか子供を学校に送り出し、リビングに戻れば、おもちゃは散乱し、脱ぎっぱなしのパジャマが床に落ちている。

……。

これが、私の「ごちゃごちゃな現実」です。

理想のビジュアルとは、あまりにもかけ離れていますよね。

でもね、海外で暮らす皆さんも、きっと似たような朝を迎えているんじゃないでしょうか?

私たちは、毎日必死です。

家族のために、自分のために、異国の地で、あるいは日本で、目の前のタスクを一つ一つ、必死で片付けている。

それなのに、あの「完璧なバランス」というキラキラした“神話”が、常に私たちを責め立てるんです。

「どうして私は、あの人みたいにできないんだろう」

「もっと効率よくやらないと」

「ちゃんとした母親(妻)じゃないかも…」

この、「完璧」を追い求め続けるプレッシャーこそが、私たちを疲れさせ、燃え尽きさせ、日々の小さな幸せさえ見えなくさせているんじゃないか。

そう思うんです。

「バランスを取らなきゃ」と焦れば焦るほど、現実はどんどんごちゃごちゃになって、自己嫌悪に陥る。

この悪循環、本当にしんどいですよね。

そもそも、あの「完璧なバランス」って、本当に存在するんでしょうか?

もしかしたら、それこそが、私たちを不幸にする「神話」なんじゃないか?

このブログ連載では、そんな「完璧なバランス」という呪いから、どうやって自分を解放していくか。

そして、日本に古くからある「完璧じゃなくていい」「ほどほどでいい」という考え方、例えば「腹八分目」みたいな人生の知恵を、私自身のドタバタな日常の中からどうやって見つけていったか。

そんな「人生術」を、これから「承」「転」「結」と、じっくりお話ししていきたいと思います。

これは、キラキラした理想論じゃなくて、泥臭い、リアルな格闘の記録です。

「ちゃんとしなきゃ」の呪い。日本社会が求める見えない「完璧さ」

(※「承」の部分)

さて、前回の「起」では、朝のドタバタな我が家の「現実」と、世間が求めるキラキラした「理想のバランス」とのギャップについてお話ししました。

「あー、うちもだわ」「わかる!」と思ってくださった海外組の皆さん、ありがとうございます。仲間です(笑)

じゃあ、なんで私たちは、あの「ごちゃごちゃな現実」を目の前にしながらも、いまだにあのキラキラした「完璧なバランス」という神話に囚われ続けてしまうんでしょうか。

それは、日本で暮らしていると、老若男女問わず、常にささやかれ続ける「ある呪い」のせいだと私は思っています。

それが、何を隠そう、今回のサブタイトルにもした**「ちゃんとしなきゃ」の呪い**です。

海外で暮らしている皆さんも、日本の外に出たからこそ、この言葉の「重み」や「特殊性」を、より客観的に感じているかもしれませんね。

これは、単に「タスクを完了させなきゃ」というTo Doリスト的なプレッシャーじゃないんです。

もっと根深く、私たちの自尊心にまで食い込んでくる、見えない「評価基準」なんです。

「ちゃんとした」お母さん。

「ちゃんとした」奥さん。

「ちゃんとした」社会人。

「ちゃんとした」暮らし。

この「ちゃんとした」の定義、誰がいつ決めたんでしょう?

法律で決まっているわけでも、教科書に載っているわけでもない。

それなのに、私たちはまるで「見えない採点官」に常に監視されているかのように、この基準に自分を合わせようと必死になってしまう。

これが、フックにあった「社会的な圧力(societal pressure)」の正体です。

日本におけるこの圧力は、欧米のように「自己実現」や「成功」へ向かう圧力とは少し違って、「他者からの期待に応えること」「平均点以上であること」「和を乱さないこと」への圧力が強い気がします。

例えば、私の実体験で言えば…。

実体験1: 恐怖の「玄関先」

日本で主婦をしていると、地味にストレスなのが「宅配便の受け取り」です。

ピンポーン、と鳴った瞬間。

(あ、ヤバい!今日の私、眉毛描いてない!)

(ていうか、リビング、めっちゃ散らかってる…!)

たった1分、荷物を受け取ってサインするだけ。相手は私のことなんて気にも留めていないかもしれない。

なのに、その一瞬、玄関の隙間から見える家の中が「ちゃんとしていない」と思われるのが、ものすごく怖いんです。

「あそこの奥さん、家、汚いのね」

そんな風に思われるんじゃないか、と。

だから、本当はパジャマのままでいいはずなのに、慌ててカーディガンを羽織り、髪を手ぐしで整え、「完璧じゃない自分」を必死で隠そうとしてしまう。

これぞ、見えない「世間体」という名の呪いです。

実体験2:「手抜き」という名の罪悪感

毎日のご飯作り。本当に、本当にお疲れ様です。

「理想」は、前回も書いたような「まごわやさしい」一汁三菜ですよね。栄養バランスを考え、彩りも良く、出汁から丁寧にとった和食…。

でも、現実は?

仕事でクタクタ、子供はギャン泣き。「もう無理!」って日、ありますよね。

そういう日、私はスーパーのお惣菜(デパ地下じゃなくて、普通のスーパーのです)や、冷凍餃子に頼ることも、もちろんあります。

でもね、それを食卓に出すとき。

心のどこかで、ものすごい罪悪感に苛まれるんです。

「ごめんね、今日は手抜きで」

家族は「わーい、唐揚げだ!」って喜んでいるのに、私一人が「ちゃんとしたご飯」を作れなかった自分を責めている。

「手抜き」って、すごい言葉だと思いませんか?

「効率化」とか「時短」じゃなくて、「手を抜く」。まるで、やるべき義務を怠ったかのような、ネガティブな響きです。

海外のスーパーに行くと、デリ(お惣菜)の種類の豊富さや、ディナーキットの充実ぶりに驚きます。それを活用することに、日本ほどの「罪悪感」はなさそうに見えます。(実際どうですか?)

日本で「ちゃんとした主婦」であろうとすると、「手を抜くこと」=「悪」という無言のプレッシャーと戦わなくてはならないんです。

実体験3: 子どもの持ち物戦争

これは、お子さんが現地の学校ではなく、日本人学校や幼稚園に通っている方なら、共感してもらえるかもしれません。

日本の幼稚園や学校って、とにかく「親の手作り」を求めるものが多い!

雑巾一枚縫うにしても、謎の細かいサイズ指定があったり。

遠足のお弁当は、タコさんウインナーくらいじゃ足りず、もはや芸術作品のような「キャラ弁」じゃないと子供が可哀想、みたいな空気感。

「完璧さ(Perfection)」の追求が、母親の愛情のバロメーターであるかのようにすり替えられているんです。

お弁当が凝っていれば、「ちゃんとしたお母さん」。

市販品が多ければ、「愛情が足りないお母さん」。

そんなわけない!

忙しい中、朝早起きして、お弁当を「作った」だけで、もう100点満点なのに。

なぜか私たちは、120点の「完璧さ」を自分に課して、勝手に燃え尽き(burnout)、勝手に不満(dissatisfaction)を募らせていくんです。


玄関先での一瞬の見た目。

一食のご飯。

子供のお弁当。

私たちの日常は、「ちゃんとしなきゃ」という見えない基準との戦いの連続です。

仕事と家庭生活の「物理的な時間配分」という単純な「ワーク・ライフ・バランス」の話じゃない。

私たちの心の中にある「完璧でなければならない」という強迫観念との戦いなんです。

この「完璧さ」の追求は、ゴールがありません。

だって、基準が「見えない」んですから。

どれだけ頑張っても、「まだ足りない」「もっとちゃんとできるはず」と、自分を追い詰めてしまう。

そりゃ、疲れますよ。

そりゃ、燃え尽きます。

そして、こんなに頑張っているのに誰も認めてくれない(だって「ちゃんと」やれて当たり前だと思われているから)、という不満が溜まっていくんです。

私も、この「ちゃんとしなきゃ」の呪いにがんじがらめになって、笑顔を失いかけていた時期が、長く続きました。

「理想のバランス」を追いかければ追いかけるほど、現実の自分とのギャップに苦しみ、どんどん不幸になっていったんです。

……でも、ある日。

疲れ果てて、全部どうでもよくなった日。(笑)

ふと、日本の昔ながらの「ある考え方」が、私をこの呪いから救い出してくれることに気づいたんです。

それは、完璧を目指すのとは真逆の、「ほどほど」を良しとする知恵でした。

燃え尽きる寸前で見つけた「八分目」という知恵

(※「転」の部分)

「ちゃんとしなきゃ」

「もっと完璧に」

前回の「承」でお話しした、あの見えない呪い。

それにがんじがらめになっていた私に、決定的な「燃え尽き(バーンアウト)」が訪れた日のことを、今でも鮮明に覚えています。

それは、息子のための「完璧な」お誕生会の準備をしていた日のことでした。

当時の私は、「理想の母親」像に完全に取り憑かれていました。

海外(特に欧米)のインスタグラムで見るような、テーマカラーで統一されたバルーン、手作りのガーランド、そしてプロが作ったような三段重ねのデコレーションケーキ…。

「完璧なバランス」を追い求めるあまり、私の思考は「息子の笑顔」よりも「SNS映えする完璧なパーティー」を成功させることに支配されていたんです。

もちろん、全部手作り。

招待状もデザインし、料理も子供が喜ぶように全部キャラもの。

何週間も前から計画し、寝る間も惜しんで準備しました。

「私、ちゃんとしてる」「私、やれてる」と、自分に言い聞かせながら。

そして当日。

朝から飾り付けをし、料理を並べ、完璧なセッティングが(一応)完成しました。

でも、私はすでにHP(ヒットポイント)がゼロ。

笑顔なんて、とっくの昔に顔に貼り付ける気力も残っていません。

そこへ、主役の息子が走り込んできました。

そして、私の努力の結晶である三段ケーキ(もどき)に、ジュースのコップを倒して、ぶちまけてしまったんです。

ぐしゃぐしゃのケーキ。

びしょ濡れのテーブルクロス。

息子の泣き顔。

その瞬間、私の中で何かがプツンと切れました。

「なんで!!!!!」

息子の前で、人生で一番大きな声が出ました。

「ママがどれだけ頑張ったと思ってるの!もう知らない!」

そう叫んで、私は子供部屋に閉じこもって、一人で泣きました。

最悪のお誕生会です。

完璧を目指した結果、待っていたのは「最悪の現実」でした。

しばらくして。

泣き腫らした目で、ふと部屋の隅にある本棚が目に入りました。

そこにあったのは、昔、祖母がよく読んでいた健康雑誌の特集タイトル。

『腹八分目に医者いらず』

…はら、はちぶんめ。

その言葉が、雷のように私を打ちました。

そうだ。

日本の知恵は、昔から「100%を目指すな」と教えてくれていたじゃないか。

「腹八分目(はら はち ぶん め)」

これは、食事は満腹(100%)まで食べず、80%くらいでやめておくのが、胃腸に負担をかけず、健康に一番良い、という日本の古いことわざ、人生の知恵です。

満腹(100%)まで食べると、消化が大変で、体は疲れて、結局病気(医者いらず、の逆)になってしまう。

むしろ、少し「足りない」くらい(80%)が、一番効率よくエネルギーになり、体は健康を保てる。

これって……。

私の人生、そのものじゃないか?

私は、あの「完璧なバランス」という名の「満腹(120%)」を、毎日無理やりお腹に詰め込もうとしていたんだ。

・家事100%(ピカピカの部屋、完璧な料理)

・育児100%(常に笑顔で、手作りの知育)

・仕事100%(もし働いていたら、キャリアも完璧に)

・自分磨き100%(ヨガも勉強も)

全部を100%詰め込んで、胃もたれどころか、完全に消化不良を起こして、心が病気になって(燃え尽きて)いた。

もし。

もし、あの「腹八分目」を、生活のすべてに応用したら?

これが、私の「人生術」の大きな「転換点」でした。

<私の「人生八分目」宣言>

  1. 家事は「八分目」完璧にピカピカ(100%)は目指さない。「家族が健康で、そこそこ快適に暮らせる」(80%)で合格にする。残りの20%は? → 「あえてやらない時間」。その時間で、私はコーヒーを飲む。床に髪の毛が1本落ちていても、死なない。でも、ママの笑顔がゼロになったら、家庭は死ぬ。
  2. 料理は「八分目」一汁三菜の完璧な和食(100%)じゃなくていい。メインのタンパク質(お肉か魚)と、野菜たっぷりのお味噌汁(80%)があれば、もう満点。残りの20%は? → スーパーのお惣菜や、冷凍食品(=手抜き、ではなく「外部リソースの活用」と呼ぶ)。「手抜き」という罪悪感を捨てる。その20%の余裕で、子供の話を「ちゃんと」聞ける。
  3. 育児は「八分目」「完璧な母親」(100%)なんて、この世にいない。80%の愛情で(自分なりに)向き合えていればOK。残りの20%は? → ママが「母親」を休む時間。子供にイライラをぶつけてしまう(120%の反動)くらいなら、20%はアニメやゲームに頼って、自分のメンタルを保つ。

この「八分目」という考え方は、決して「諦め」や「怠惰」ではありません。

むしろ、**「最も賢く、持続可能な人生術」**なんだと気づいたんです。

「完璧なバランス」という神話は、私たちに「100% × 複数の領域」という不可能な要求を突きつけてきます。

でも、日本の「八分目」という知恵は、私たちに「全体で80%でいいんだよ」と教えてくれる。

残りの20%は、「サボり」じゃない。

それは、**「余白(よはく)」**です。

この「余白」こそが、不測の事態(子供の病気とか、まさにケーキをひっくり返すとか!)に対応するための「バッファ」であり、家族の笑顔や、自分自身の心の平穏を保つために、絶対に必要なたった一つの「栄養素」だったんです。

あの最悪だったお誕生会。

私は息子のところへ行き、ぐちゃぐちゃのケーキを見て、こう言いました。

「……ごめんね、ママ、怒鳴っちゃって。

よーし、こうなったら、このぐちゃぐちゃケーキ、みんなでスプーンで突っついて食べちゃおうか!」

完璧(100%)を手放した瞬間、私は20%の「余白」と「笑顔」を取り戻しました。

それは、インスタ映えはしないけれど、息子が一番笑ったお誕生会になりました。

バランスは「取る」ものじゃない。「今、ここ」を味わう私たちの人生術

(※「結」の部分)

「起」で直面した、理想と現実のギャップ。

「承」で苦しんだ、「ちゃんとしなきゃ」という見えない呪い。

そして「転」で、燃え尽きた私を救ってくれた『腹八分目』という、日本の古くからの知恵。

あの最悪だったお誕生会から数年が経ちました。

今、あの「ぐちゃぐちゃのケーキ」を思い出すと、笑えてきます。

あの時の私は、「完璧なバランス」という神話を、まるでシーソーのど真ん中でピタリと静止する「一点」のようなものだと思い込んでいました。

家事100%、育児100%、自分100%。

すべてが完璧に釣り合った、静かで、美しく、揺るがない「状態」。

それこそが「理想の人生」であり、目指すべきゴールだと信じて疑いませんでした。

でも、どうでしょう。

そもそも、生きている人生が、そんな「静止した状態」であることなんて、あり得るんでしょうか?

私たちの日常は、予測不可能なことの連続です。

子供は熱を出すし、仕事では急なトラブルが起きる。

自分の体調だって、毎日万全なわけじゃない。

(海外で暮らす皆さんなら、それに加えて、ビザの問題、言葉の壁、文化の違いという、さらに大きな「揺れ」と日々向き合っているはずです)

人生って、荒波の中を進む小舟みたいなものです。

それなのに、「完璧なバランス」という神話は、私たちに「凪(なぎ)の海の上で、一ミリも揺れるな」と言っているのと同じでした。

それは、不可能であり、非現実的で、だからこそ私たちを Exhausting(疲れ果て)させていたんです。

「八分目」の知恵は、私に「100%を目指さなくていい」ということと、もう一つ、もっと大切なことを教えてくれました。

それは、「転」でも書いた**「20%の余白」**の本当の意味です。

この20%の余白、あるいは「遊び」や「ゆとり」と呼んでもいいかもしれません。

この「余白」があるからこそ、私たちは「揺れる」ことができるんです。

シーソーの真ん中で静止することを目指すんじゃない。

人生というシーソーが、子供が乗ってガタンと傾いても、仕事が乗って反対にガタンと傾いても、その「揺れ」を楽しみながら、**「あ、今こっちに傾きすぎたな、よっと」**と、自分の重心を移動させて、また中心に戻ろうとする。

本当の「バランス」とは、「達成する静止点(=結果)」ではなく、傾きながらも中心に戻ろうとし続ける「動きそのもの(=プロセス)」だったんです。

英語で言うなら、「Balance(名詞)」を目指すんじゃなく、「Balancing(動名詞)」をし続けること。

これこそが、私たちの「人生術」なんだ、と。

「八分目」の家事、「八分目」の料理、「八分目」の育児。

これを実践し始めて、私の生活から「完璧」は消えました。

相変わらず、朝はドタバタです。リビングには、まあまあ物が散らかっています。

冷凍餃子の日も、もちろんあります。

でも、私の心には「20%の余白」が生まれました。

その余白があるから、

シンクに洗い物が残っていても(家事八分目)、「まあ、食洗機が明日やってくれるか」と笑って、子供のくだらないギャグに本気で付き合えるようになりました。

「ちゃんとしなきゃ」という呪いで自分を追い詰める代わりに、そのエネルギーを「今、この瞬間」を楽しむために使えるようになったんです。

「完璧なバランス」という神話に囚われていた時、私はいつも「未来の理想」か「過去の失敗」ばかり見ていました。

「ちゃんとした母親にならなきゃ」(未来)

「どうして昨日、あんなに怒ってしまったんだろう」(過去)

私には、「今、ここ」が、まったく見えていなかった。

でも、「八分目」という「余白」を手に入れた今、私は「今、ここ」を味わうことができるようになりました。

朝、寝癖だらけの息子の匂いを嗅ぐこと。

ごちゃごちゃのリビングで飲む、一杯のコーヒーが美味しいこと。

海外に住む友人と、「いやー、今日も大変だったね!」と愚痴を言い合えること。

これら一つ一つが、私の「バランシング(中心に戻る動き)」のエネルギーになっています。


海外で、日本とは違う文化やプレッシャーの中で、毎日を必死で頑張っている皆さんへ。

皆さんが感じている「ちゃんとしなきゃ」の重圧は、日本にいる私の想像を絶するものかもしれません。

「完璧な妻」「完璧な母」「完璧な現地の住人」…求められる役割が多すぎて、息が詰まりそうになる日もあると思います。

だからこそ、日本からエールを送らせてください。

「八分目」でいいんですよ。

いや、異国で頑張ってるんだから、「六分目」くらいで、もう満点、花丸です!

完璧なバランスなんて、存在しない。それは私たちを疲れさせるだけの「神話」です。

家が散らかっていても、ご飯が手抜きでも、あなたが笑顔でいられるなら、それが一番の「バランス」です。

私たちに必要なのは、「完璧さ」への強迫観念ではなく、ごちゃごちゃの現実の中で、揺れながら、傾きながら、それでも「ま、いっか」と笑って中心に戻ろうとする、しなやかな「八分目」の人生術。

あなたの「ごちゃごちゃな現実」を、丸ごと愛してあげてください。

それは、あなたが「今、ここ」を必死で生きている、何より美しい証拠なんですから。

私も日本の片隅で、相変わらずごちゃごちゃと、でも「八分目」で結構ご機嫌に暮らしています。

お互い、完璧じゃない今日を、味わい尽くしましょうね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました