「完璧」じゃなくても大丈夫。日本の主婦がこっそり教える、心が楽になる「わびさび」の魔法

完璧な暮らしの幻想と、欠けたお茶碗が教えてくれたこと

カタカタカタ…(キーボードを打つ音)。

こんにちは!七転八倒しながらも、なんとか日本で主婦業とブログ執筆に励んでおります、ユキと申します。

海外でこのブログを読んでくださっている皆さん、今日も一日、本当にお疲れ様です。異国の地での暮らし、いかがですか?きっと、日本に住む私が想像する以上に、言葉の壁や文化の違い、日々の細々としたタスクに奮闘されていることと思います。

…今、私、ちょっとカッコつけました。「奮闘されていることと思います」なんて。

正直に言いますね。今朝、私、盛大にやらかしました。

お気に入りの、淡い空色をした信楽焼(しがらきやき)のお茶碗。朝食の片付け中、うっかり手が滑って、キッチンの大理石(風の)カウンターの角に、カツン!

「あっ」

時すでに遅し。お茶碗のフチが、ほんの小さく、三日月みたいに欠けてしまいました。

「あーーーー、もう!なんでこうなるの!」

別に、高価なものじゃありません。でも、すごく手に馴染んでいて、これにご飯をよそうと、いつもの納豆ごはんがちょっとだけ「丁寧な暮らし」になった気がして(笑)、大好きだったんです。

その瞬間、私の頭をよぎったのは「あーあ、完璧じゃなくなった」という、すごくネガティブな感情でした。

皆さん、どうですか?特に海外のライフスタイルって、なんだかすごく「完璧」を求められている気がしませんか?

私がフォローしている海外の素敵なママさんたちのSNS。そこには、チリひとつないピカピカのキッチン、まるで雑誌から抜け出たようなインテリア、栄養バランスが完璧に計算された家族のディナー、そして、どんな時も輝くような笑顔、笑顔、笑顔…。

「すごいなぁ」と憧れると同時に、ズーンと心が重くなるんです。「それに比べて、私は…」って。

今朝だって、お茶碗を割るし、洗濯物はまだ畳んでないし、昨日の夜に食べたお菓子の袋がテーブルに出しっぱなし。

「ちゃんとしなきゃ」「完璧な主婦でいなきゃ」「海外で頑張ってる友達に、日本でダラけてるって思われたくない」

そんな、誰に言われたわけでもない「完璧主義」の呪いに、私はもう何年もがんじがらめになっていた気がします。

でも、日本で暮らしていると、そんなガチガチの完璧主義から、ふっと力を抜いてくれるような、不思議な「おまじない」みたいな言葉に出会うことがあります。

それが、今日のブログのテーマ、**「わびさび(Wabi-Sabi)」**です。

「わびさび」。

聞いたことはあるけど、イマイチよくわからない、という方も多いかもしれません。「禅」とか「茶道」とか、ちょっと難しそうなイメージもありますよね。

でも、専門的な解説は専門家の先生にお任せするとして(笑)、私なりに、主婦目線で超・簡単に解釈してみると、

**「わび(侘び)」**は、元々「わびしい」という言葉から来ているように、質素で、静かで、ちょっと足りないくらいシンプルな状態。でも、その「足りなさ」の中に、心の豊かさを見つける感覚。

**「さび(寂び)」**は、時間が経って古びたり、色褪せたりすること。でも、それを「劣化」と捉えるんじゃなくて、時間が刻んだ「味わい」や「深み」として、ポジティブに捉える感覚。

この二つが合わさって、**「完璧じゃないもの、移り変わっていくものにこそ、美しさや価値を見出す」**という、日本の独特な美意識になっているんです。

さて。ここで、今朝欠けさせてしまった、あのお茶碗の登場です。

以前の「完璧主義」の私だったら、もう、即「ゴミ箱行き」でした。

「欠けた食器なんて、縁起が悪い」「みすぼらしい」「お客様に出せない」

そうやって、自分の「失敗」の証拠を、一刻も早く隠蔽しようとしていたはずです。

でも、「わびさび」のメガネをかけて、このお茶碗をもう一度、じーっと見てみると…。

確かに、ツルンとしていたフチは、欠けています。完璧な「円」ではありません。

でも、この欠けた部分、なんだか、私がうっかり手を滑らせた「あの瞬間」が閉じ込められているみたい。

このお茶碗と一緒に、何回朝ごはんを食べたっけ。疲れて帰ってきた夜に、これでお茶漬けをかきこんだ日もあったな。

この「欠け」は、私とこのお茶碗が確かに一緒に過ごしてきた「時間」の証であり、新品ピカピカのお茶碗には絶対にない、「私だけの物語」が刻まれた瞬間なんです。

そう思うと、不思議ですよね。

さっきまで「失敗作」にしか見えなかったこのお茶碗が、なんだか急に愛おしく、世界に一つだけの「アート作品」みたいに見えてくる。

(もちろん、口が切れるような危ない欠け方だったら使えませんが、幸い、ほんの小さな欠けでした)

私たちは、いつの間にか「新品=善」「完璧=美」という、ひとつの価値観に縛られています。でも、それって、自分自身を苦しめていないでしょうか?

このブログでは、

**「承」**で、この「わびさび」の考え方が、いかに私たちの日常生活(特に家事や育児!)に役立つか、具体的な「心の持ちよう」を探っていきます。

**「転」で、完璧主義を手放したことで、私自身の生活がどう変わったか、ちょっと恥ずかしい失敗談も交えながら(笑)、リアルな変化をお話しします。

そして「結」**で、海外で頑張る皆さんが、その土地の文化を楽しみつつ、日本の「わびさび」な知恵をどうやって「いいとこ取り」できるか、一緒に考えていきたいと思います。

完璧な主婦じゃなくても、完璧な人生じゃなくても、大丈夫。

あなたの「欠け」や「足りなさ」こそが、あなたを深く、美しく見せている。

そんな、ちょっと心が軽くなる日本の知恵、「わびさび」の世界へ、ようこそ。

ピカピカ信仰と「あるべき姿」からの卒業。わびさび的・家事と育児の「手抜き」術

改めまして、こんにちは!ユキです。

「起」のパートでは、私のお気に入りだったお茶碗が欠けちゃった話から、「完璧じゃないものに美しさを見出す」っていう「わびさび」の入り口についてお話ししました。

(読んでない方は、ぜひそちらもチラ見していただけると嬉しいです!)

あの「欠けたお茶碗」事件以来、私、「わびさび」っていうフィルターを通して世界を見る練習をしているんです。

そうしたら、まあ、見えるわ見えるわ(笑)。

私たちが、いかに「完璧」という名の呪いに縛られていたか!

特に、主婦業を営む私たちにとって、その呪いは強力です。

だって、「家事」「育児」「そして自分自身」という、人生のメインステージ全部に、重くのしかかってきませんか?

「わびさび」なんて、お茶の世界の小難しい話でしょ?

いいえ、とんでもない!

これほどまでに、日々の主婦業をサバイブするために実用的な「心の武器」はないんじゃないか、とすら私は思っています。

今日は、私がこの「わびさび」のメガネをかけてみて、いかに日々の生活(特に家事と育児!)に対する見方が変わったか、その具体的な「心の持ちよう」の変化について、熱く語らせてください!


1. 「家事」とわびさび:潔癖症と“見栄”からの解放

まず、主婦の最大の敵(であり、戦場)、「家事」。

皆さん、お掃除、お好きですか? 私は…(遠い目)。

海外の暮らしって、特にインテリア雑誌やSNSを見ていると、本当に素敵ですよね。広々としたリビング、センス良く配置された家具、そして、塵ひとつない床…。

「それに比べて、うちのこの狭いアパートは…」

「あー、また子供がジュースこぼした!キーッ!」

「友達が家に来る!掃除しなきゃ!でもどこから手をつけていいか…(絶望)」

以前の私は、まさに「ピカピカ信仰」の信者でした。

家が散らかっている=私が主婦として失格

という、謎の方程式にガッチガチに縛られていたんです。

だから、掃除を始めると、もう止まらない。

床の隅のホコリ、窓のサッシの汚れ、水回りの水垢…。全部が「敵」に見えるんです。

「完璧にキレイにしなきゃ」

そう思って一日中掃除して、結局ヘトヘト。なのに、夕方には夫が脱ぎっぱなしにした靴下や、子供が持ち帰った砂だらけの体操服を見て、またイライラが爆発する。

「私だけがこんなに頑張ってるのに!!」

…最悪の悪循環ですよね。

でも、「わびさび」のメガネをかけたら、どうでしょう。

「わび(侘び)」=質素で、ちょっと足りないくらいシンプルな状態

「さび(寂び)」=時間が経って古びたり、色褪せたりした味わい

まず気づいたのは、「ピカピカの新品状態」だけが美しいわけじゃない、ということ。

例えば、毎日使っている木のまな板。

新品の頃はツルツルだったけど、今は無数の包丁の傷がついています。以前は「あーあ、傷だらけ」としか思えなかった。

でも、この傷って、私が家族のために、何百回、何千回と野菜やお肉を切ってきた「証拠」なんです。家族の胃袋を支えてきた「歴史」そのもの。

そう思うと、この傷だらけのまな板が、なんだかとても誇らしく、愛おしく見えてくる。これぞ「さび」の美しさ!

フローリングの床だって、そうです。

子供がオモチャを落としてつけた小さなへこみ傷。

以前は「キーッ!」案件でした。でも、これも「わびさび」フィルターを通すと、「ああ、ここで元気に遊んでたんだな」「この家で、家族の時間が確かに刻まれてるんだな」という「味わい」に見えてくる。(…と、思うように努力中です。正直、新しい傷はまだちょっと凹みますけどね!笑)

「わび」の視点も、すごく楽にしてくれます。

「完璧に片付いていなくてもいい」

「物が何もない=美しい」ではなく、「そこにあるべき物が、そこそこに整っている=心地よい」という感覚。

毎日、ホテルのスイートルームみたいに完璧に整える必要なんてないんです。

だって、私たちは「生活」してるんだから。生活感があって当たり前。

この「わびさび」的・家事術を導入してから、私のイライラは激減しました。

掃除のゴールを「ピカピカの完璧」から、「家族が健康に、そこそこ快適に過ごせるレベル」に、思いっきり引き下げたんです。

ホコリは…まあ、人が死ぬほどじゃなきゃ、明日でもいっか(笑)。

料理だって、毎食「一汁三菜、栄養バランス完璧!」を目指すのをやめました。

時には、買ってきたお惣菜がドーン!の日もある。「足りない」ことを恐れない(=わび)。

その代わり、盛り付けるお皿(あの欠けたお茶碗、今も現役です!)にちょっとこだわってみたり、テーブルに小さな花を飾ってみたり。

それだけで、心はすごく豊かになるんです。

「完璧な家事」でイライラする主婦より、「そこそこの家事」でニコニコしてる主婦。

家族は、どっちがいいでしょうね?答えは、明らかですよね。


2. 「育児」とわびさび:「理想のママ」という呪いからの解放

そして、もう一つの巨大な呪い。「育児」。

「理想の母親像」って、ありませんか?

いつも笑顔で、子供の話に優しく耳を傾け、決して感情的に怒らず、子供の才能をぐんぐん伸ばす…。

ああ、書いてるだけで息苦しい(笑)。

海外で子育てされている皆さんは、さらにプレッシャーがあるかもしれません。

「グローバルな子に育てなきゃ」とか、「現地の子たちに負けないように」とか。

「〇歳までにこれができないとヤバい」

「あそこのお子さんは、もう英語がペラペラなのに、うちの子は…」

ついつい、他人と比べて、自分の子供の「足りない部分」ばかりに目がいってしまう。

私もそうでした。

子供が公園で泥だらけになって帰ってくると、真っ先に「あーあ、洗濯大変なのに!」と思ってしまったり。

壁に描かれたクレヨンのラクガキ(本人は大作のつもり)を見て、頭ごなしに叱ってしまったり。

でも、これも「わびさび」が助けてくれました。

「わびさび」の根底には、「無常(むじょう)」という考え方があります。

「すべてのものは、移り変わっていく」

そう。子供なんて、まさに「無常」のかたまり!

昨日できなかったことが今日できたり、昨日まで大好きだったものを急に嫌いになったり。

その「移ろいやすさ」「不完全さ」こそが、子供時代の本質であり、美しさなんです。

泥だらけの服も、壁のラクガキも、食べこぼしだらけの食卓も、

「今、この瞬間」にしか見られない、二度と戻らない「不完全な美」なんです。

(そう思うと、壁のラクガキも…いや、やっぱり壁はダメか。笑 でも、写真には撮っておこう、と思えるようになりました)

シミがついたベビー服。

角が折れ曲がったお気に入りの絵本。

片方なくした小さな靴下。

以前は「ダメになったもの」として捨てていたかもしれません。

でも、これらはすべて、子供が確かに成長してきた「時間(さび)」が刻まれた、愛おしい宝物。

そして何より、「わび(足りなさ)」の受容。

子供は「完璧な存在」じゃなくていい。

というか、そもそも「完璧な子供」って何?

一人一人、デコボコがあって当たり前。その「足りない」部分こそが、その子の強烈な個性であり、愛すべきチャームポイント。

そして、それは、私たち「親」も同じなんです。

「完璧な母親」になんて、ならなくていい。なれるわけがない。

イライラして怒っちゃう日もある。

疲れてご飯が作れない日もある。

そんな「不完全な親」でいいんです。

むしろ、親が「完璧じゃなくてゴメンね」と自分の「足りなさ(わび)」を見せることで、子供も「そっか、完璧じゃなくてもいいんだ」「失敗してもいいんだ」と安心して、ありのままの自分を受け入れられるようになるんじゃないでしょうか。


3. 「承」のまとめ:私たちは「完璧」になるために生きているんじゃない

どうでしょう?

「わびさび」って、ただの美意識じゃなくて、すごく実用的な「人生の知恵」だと思いませんか?

家事も、育児も、私たちはいつの間にか「100点満点」を目指そうとして、勝手に苦しんでいた。

でも、「わびさび」は教えてくれます。

「60点でいいじゃん」

「その『欠け』や『足りなさ』が、あなたの『味わい』になるんだよ」って。

ピカピカのキッチンより、家族の笑い声がする、ちょっと散らかったダイニング。

「理想のママ」の仮面をかぶってイライラするより、「ゴメン、今日ママ疲れたー!」って子供と一緒にお惣菜を食べる夜。

どっちが「豊か」か。

「わびさび」のメガネをかけたら、その答えはもう、見えていますよね。

…なんて、偉そうなことを言っていますが!

頭でわかっても、長年染み付いた「完璧主義」のクセは、そう簡単には抜けません。

「よーし、わびさびだ!今日から手抜きするぞ!」と気合を入れた翌日には、やっぱりSNSのキラキラ投稿を見て落ち込んだり(笑)。

そう、この「わびさび」マインドを実践する道もまた、一筋縄ではいかないのです。

というわけで、続く「転」のパートでは!

この「わびさび」マインドを手に入れようと奮闘する中で、私がやらかした数々の失敗談(笑)と、完璧主義と「離婚調停」を進める中で(笑)、私の生活や心が「具体的にどう変わっていったのか」という、もっとリアルな実録をお届けしたいと思います。

「わびさび」は、一日にして成らず!

引き続き、この不完全な主婦の奮闘記にお付き合いいただけたら嬉しいです。

「わびさび」と「ただの怠惰」は違う。金継ぎが教えてくれた「本当の受容」

「わびさび」っていう最強の盾を手に入れたぞ!

もう、ピカピカ信仰にも、理想のママ像にも、私は振り回されない!

「起」と「承」を経て、すっかり「わびさび」マインドに目覚めた(つもりになった)私。

それはもう、怖いものなしでした。

「家事はそこそこでOK!」「不完全な私、万歳!」

まるで、長年着ていた重い鎧を脱ぎ捨てたような、とんでもない解放感に包まれていました。

…そう。あの日、あの事件が起きるまでは。

皆さん、こんにちは!

「わびさび」を盾に、今日もなんとか生き延びております、ユキです。

「承」のパートでは、「わびさび」マインドで家事や育児のプレッシャーから解放されよう!なんて、ちょっと優等生的なお話をしました。

でもね、現実はそんなに甘くなかったんです(笑)。

「転」のパートである今回は、私が「わびさび」を盛大に履き違え、大失敗をやらかした話、そして、その失敗から学んだ、本当の意味での「わびさび」との向き合い方について、包み隠さずお話ししようと思います。

正直、ちょっと(いや、かなり)恥ずかしい話も含まれますが、これもリアルということで!


大失敗:「わびさび」は「手抜き」の免罪符じゃなかった

「わびさび」マインドを手に入れた(と思い込んだ)私は、まず、あんなに私を苦しめていた「掃除」から手を引きました。

「ホコリが隅っこにあったって、それが『わび』の心よ」

「床に傷?これは家族の歴史という『さび』だから」

なんという都合の良い解釈!

掃除機をかける回数は、週3回から週1回に減りました。

お風呂上がりの水滴の拭き上げも、「ま、いっか」。

洗濯物も、「完璧に畳まなくていい」どころか、ソファの上に山積みに。

そんなある日の午後。ピンポーン。

「あ、ヤバい!」

何の連絡もなしに、近所に住むママ友が「近くまで来たから」と、おすそ分けを持って立ち寄ってくれたのです!

「ど、どうぞー…(汗)」

私は、慌ててソファの上の洗濯物の山を別の部屋に押し込み、なんとか座るスペースを確保。

でも、間に合わなかった。

床の隅には、確実に「わび」とは呼べないレベルのホコリ玉が転がり、テーブルの上には朝食のパンくずが「さび」れる間もなく、そのままに。

彼女は、何も言いませんでした。

でも、その一瞬、彼女の目が「あ…」と泳いだのを、私は見逃さなかった。

優しい彼女は、笑顔でおすそ分けを渡して、すぐに帰っていきました。

「わびさびだから、散らかってても平気なの♪」

なーんて、言えるわけがない!!

私は、ただただ、猛烈に恥ずかしかった。

その夜、夫にも言われました。

「なんか最近、家、荒れてない?」

「えっ、これは『わびさび』っていう、心の豊かさを…」

「いや、豊かさとかの前に、シンプルに不潔だよね?体操服のシャツ、生乾きの匂いしたんだけど」

ガーン。

…そう。私は、「わびさび」を「手抜き」の免罪符にしていただけだったんです。

「わびさび」が美しいのは、その背景に「手をかける」「心を配る」という前提があるから。

例えば、古くからあるお寺の庭。

一見、自然のままに見える(=わびさび)けど、実は庭師さんが毎日、それはそれは丁寧に手入れをして、その「あるがままの美しさ」を維持しているんですよね。

私がやっていたのは、その「手入れ」を放棄した「ただの怠惰」。

不完全さを受け入れる(わびさび)と、不完全さを放置する(怠惰)は、似ているようで、まったくの別物だったのです。


「欠けたお茶碗」の行方と、家族の「ノー・わびさび」

もう一つの失敗は、あの「欠けたお茶碗」事件です。

「起」で、「この欠けが愛おしい!」なんて語っていた私。

宣言通り、あの後も使い続けていたんです。

ある日の夕食時。

私は、ドヤ顔で、夫のご飯をその「欠けたお茶碗」によそって出しました。

「はい、どうぞ。この『欠け』がいい味出してるでしょ?わびさび、感じない?」

夫は、お茶碗をじーっと見つめ、私を見つめ、

「…うん。感じるけど、普通に食べにくくない?」

「え?」

「いや、こっち側(欠けてない方)で食べればいいんだろうけどさ。なんか、気分的に落ち着かないっていうか…」

追い討ちをかけたのは、5歳の息子でした。

「ママ、このおちゃわん、イヤだ!」

「えー、なんで?カッコいいじゃん、世界に一つだよ」

「ヤだ!こわれてるもん!〇〇ちゃん(息子)、こっちのツルツルのがいい!」

そう言って、彼はピカピカの(つまり、わびさびゼロの)アンパンマンのお茶碗を指差しました。

…惨敗でした。

私一人が「わびさびだ!」と盛り上がっても、家族にとっては、ただの「壊れた食器」でしかなかった。

美意識は、人それぞれ。

私が「美しい」と感じるものを、家族に押し付けてはいけない。

「わびさび」は、他人に強制するものではなく、まず、自分自身の心の中で静かに味わうものだったのです。

すっかり自信をなくした私。

「わびさびなんて、やっぱり私には早かったんだ…」

あの「欠けたお茶碗」は、私の「わびさびごっこ」の失敗の象徴として、食器棚のいっちばん奥に、そっと仕舞い込まれることになりました。


本当の「転」:金継ぎとの出会い

完璧主義もダメ。

かといって、ただの怠惰(なんちゃってわびさび)もダメ。

じゃあ、一体どうすれば?

途方に暮れていた私が出会ったのが、**「金継ぎ(Kintsugi)」**という、日本の伝統的な修復技術でした。

きっと、海外に住む皆さんの中にも、ご存知の方は多いですよね。

割れたり、欠けたりした器を、漆(うるし)で接着し、その継ぎ目を金(や銀)で装飾する技術。

金継ぎの哲学を知った時、私は、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けました。

「欠け」や「割れ」を、「なかったこと」にしない。

(=完璧な新品に戻そうとはしない)

かといって、「放置」もしない。

(=「怠惰」に流されない)

その「欠け」を、きちんと受け止め、丁寧に「手当て」をし、さらにその「傷跡」を「金」で美しく装飾して、前よりもっと価値のある「景色」として愛でる。

…これだ!!!!

これこそが、私が探し求めていた「わびさび」の、本当の実践じゃないか!

私は、食器棚の奥から、あのお茶碗を取り出しました。

そして、初心者でもできる「簡易金継ぎキット」を、ネットでポチったのです。

慣れない手つきで、欠けた部分に接着剤を塗り、パテで埋め、乾かし、ヤスリをかけ、そして、金色の粉を蒔く。

息を止めて、集中する時間。

それは、掃除をサボることとは全く違う、とても能動的で、豊かな「手入れ」の時間でした。

出来上がったお茶碗は…

正直、プロのようにはいきません(笑)。

金色のラインはちょっとガタガタだし、パテも少し盛り上がりすぎたかも。

でも、いいんです。

その「不格好さ」も含めて、今、私のお茶碗は、本当に「世界に一つだけ」の、私だけの「わびさび」の作品になりました。

あの「失敗」の象徴だった欠けが、今は、誇らしい金色の「勲章」に変わったんです。

この金継ぎの作業を通して、私はやっと気づきました。

完璧主義を手放すことは、「あきらめる」ことじゃない。

「どうせ私なんて」と「怠惰」に流されることでもない。

「不完全な自分(や、モノ)」を、ありのままに認め、

その上で、「じゃあ、どうしようか」と、丁寧に「手当て」をしてあげること。

そして、その「傷跡(=経験)」こそが、自分を深く、豊かにしてくれる「景色」になるんだと、信じること。


家事も、育T児も、自分自身の人生も、きっと同じ。

失敗(欠け)は、必ず起きる。

その時、隠したり、捨てたり、放置したりするんじゃなくて。

「ああ、やっちゃったね」と、まず自分がその「欠け」をちゃんと受け入れて、優しく「手当て」してあげる。

「転」のパートで、私は、失敗を経て、ようやく「わびさび」の本当の入り口に立てた気がします。

続く、最後の「結」のパートでは。

この「金継ぎマインド」を手に入れた私が、海外で頑張る皆さんに、日本の主婦として、心の底からお伝えしたい「人生の知恵」について、まとめてみたいと思います。

私たちの毎日は、きっと「金継ぎ」の連続です。

あなたの「傷」は、金色の勲章。不完全な私たちが歩む「わびさび」の道

こんにちは!

長い長い、私のお茶碗(と、人生)の奮闘記に、ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます。ユキです。

「起」では、お気に入りのお茶碗を欠かしてしまい、「完璧じゃなくなった」と落ち込むところから始まりました。

「承」では、「わびさび」という都合の良い言葉を見つけて、「家事も育児も完璧じゃなくていいんだ!」と、理想論を振りかざしました。

「転」では、その「わびさび」を「ただの怠惰」と履き違えて大失敗(笑)。恥ずかしい思いをして、家族にもそっぽを向かれ、どん底に。

そして、そこで出会ったのが、**「金継ぎ(Kintsugi)」**という、日本の素晴らしい知恵でした。

「欠け」や「傷」を、なかったことにしない。

かといって、放置もしない。

その「傷」をきちんと受け入れ、丁寧に「手当て」をし、その軌跡を「金」で彩ることで、世界に一つだけの「景色(=価値)」にする。

この「金継ぎマインド」こそ、「わびさび」の本当の実践なんじゃないか。

そう気づいた時、私はやっと、あのガチガチの「完璧主義」の呪いからも、その反動である「どうでもいいや」という「怠惰」の沼からも、抜け出せるような気がしたんです。

この「結」のパートでは、この「金継ぎマインド」が、特に海外という、ちょっとタフな環境で頑張っている皆さんの心を、どれだけ温かく照らしてくれるか、私なりの「答え」を、心を込めてお話ししたいと思います。


海外生活は、「金継ぎ」の連続だ

海外で暮らす。

それは、日本に住む私から見ても、本当にエキサイティングで、キラキラして見える瞬間がたくさんあると思います。

美しい街並み、新しい出会い、日本では手に入らない美味しいもの。

でも、きっと、それと同じくらい…いえ、もしかしたらそれ以上に、

日本にいたら経験しなかったかもしれない、たくさんの「欠け」や「割れ」に、日々、直面していませんか?

スーパーのレジで、相手の言っていることが聞き取れず、後ろに並んだ人の「チッ」という舌打ちが聞こえてしまった時の、あの「欠け」。

「日本ではバリバリ働いていたのに」…銀行の口座一つ開くのに、夫のサインが必要だった時の、アイデンティティの「割れ」。

子供が学校で、肌の色や言葉のことで、ちょっと意地悪を言われて帰ってきた日。何もしてあげられない無力感で、心がバリバリに「ひび割れ」た夜。

ママ友の輪に入ろうと頑張ってジョークを言ったら、まったくウケず、空気がシーンとなった時の、あの「傷」。

…ああ、書いてるだけで、胸が苦しくなります。

「完璧な私」でいたかったのに。

「ちゃんとやれる私」のはずだったのに。

ここでは、私はなんて「不完全」なんだろう。

SNSを開けば、現地でイキイキと活躍する日本人や、日本で変わらずキャリアを築いている昔の同僚たちの、ピカピカの「完璧」な姿が目に入る。

それに比べて、私は…。

その「欠け」や「傷」を、私たちはどうしていますか?

「転」のパートの私のように、「なんちゃってわびさび」で「どうでもいいや」と放置して、心を閉ざしてしまいますか?

それとも、昔の私のように、「完璧主義」の鎧をさらに厚く着込んで、「私は大丈夫」「私は平気」と、ひび割れた心を必死に隠して、笑顔の仮面を貼り付けますか?

どちらも、すごく苦しい。

だって、どちらも、その「傷」を「なかったこと」にしようとしているから。

「傷ついた私」を、自分自身が一番、受け入れてあげていないから。


あなたの「傷」こそ、あなたの「金色の景色」

ここで、もう一度「金継ぎ」です。

あの時、スーパーで感じた「悔しさ(=欠け)」。

それを、「なかったこと」にしないでください。

「放置」もしないでください。

まず、その夜、ゆっくりお風呂にでも浸かりながら、「ああ、私、今日、悔しかったな」「すごく恥ずかしかったな」って、自分の心の「傷」を、優しく「手当て」してあげてください。

それが「漆」の第一歩です。

そして、思うんです。

「よし、あの時聞き取れなかった『〇〇』っていう単語、今度こそ覚えてやる!」

「あのレジのおばちゃんに、次こそ笑顔で『サンキュー』って言ってやる!」

そうやって、ほんの小さな一歩を踏み出す。

その「悔しさ」という「欠け」は、あなたの語学力を伸ばす、とんでもないエネルギー源という「金色の継ぎ目」に変わります。

キャリアが中断した、あの「焦り(=割れ)」。

それを、「私なんて」と腐らせないでください。

「手当て」しましょう。

「そうか、私は『働くこと』が好きだったんだな」と、自分の本音をまず認めてあげる。

そして、「今、この場所で、できることは何だろう?」と、小さな「金継ぎ」を試みる。

地域のボランティアに参加してみる。オンラインで新しいスキルを学んでみる。このブログのように、自分の経験を発信してみる。

その「割れ」は、日本にいたままでは見えなかった「新しい価値観」や「新しい自分の才能」を発見する、美しい「金色の模様」になるかもしれません。

子供が受けた「傷」。

一緒に泣きましょう。ぎゅっと抱きしめて、「ママも悔しい」と「手当て」する。

そして、「じゃあ、どうしようか」と一緒に考える。

その「ひび割れ」は、親子の絆を、どんな「完璧」な家庭よりも強く、深く結びつける「金色のライン」になるはずです。


「わびさび」は、日本からあなたへのお守り

このブログを読んでくださっている、日本に興味を持ってくださる海外の皆さんへ。

これが、私たちの国に古くから伝わる「わびさび」という「人生の知恵」です。

それは、博物館に飾られている古くさい美意識なんかじゃなく、

今、この瞬間も、ストレス社会で戦う現代の日本人の心を、そっと支えてくれている、とても実用的で、温かい「おまじない」のようなもの。

「完璧」を目指さなくていい。

でも、「手入れ」をすることを、あきらめないで。

不完全な自分を、そのまま受け入れる。

失敗(=傷)を、恐れない。

むしろ、その「傷」こそが、あなたを他人とは違う、唯一無二の存在にしてくれる「勲章」なんだと、誇る。


さて。

あの「欠けたお茶碗」が、今どうなっているか、気になりますか?

「転」で、私の拙い「金継ぎ」によって修復されたあのお茶碗。

今、我が家の食器棚の、一番いい場所(一軍)に鎮座しています。

ガタガタの金色のラインが入った、完璧とは程遠い、不格好なお茶碗。

でも、夫も、あれだけ「イヤだ」と言っていた息子も、今ではそのお茶碗を「カッコいい」と言って、取り合うように使っています(笑)。

息子なんて、「このキンキラ(金キラ)は、ママがなおした『しょうこ』なんでしょ!」と、なぜか誇らしげです。

私は、朝、そのお茶碗で白湯を飲みながら、金色の継ぎ目をそっとなぞるのが日課になりました。

これを見るたびに、思うんです。

「ああ、今日も完璧じゃなくていいや」

「でも、丁寧に、手抜きじゃなく、ちゃんと『手入れ』をして生きよう」って。

海外で頑張る皆さん。

あなたは、あなたが思うより、ずっとずっとタフで、美しい。

あなたが「欠け」だと思っているその部分は、

あなたが「傷」だと隠しているその経験は、

誰の目にも明らかな、あなただけの「金色の勲章」です。

どうぞ、ピカピカの「完璧」になろうと頑張りすぎないで。

あなただけの、デコボコで、愛おしい「金色の景色」を、これからも、あなたのいる場所で、堂々と、描いていってください。

私も、日本というこの場所で、今日もお茶碗を片手に、あなたにエールを送っています。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

また、次のブログでお会いしましょうね!

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