鳴りやまない電子音と、静かすぎる「森の誘い」
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「ピコン!」「ピコン!」「(ゲームの派手な爆発音)」「(動画クリエイターの甲高い笑い声)」…。
こんにちは!
日本で、夫と二人の子供(10歳と8歳)とのんびり(いや、ドタバタと?)暮らしています、主婦のミカです。海外で暮らす皆さん、お元気ですか?そちらの生活はいかがでしょう。
今、私が文字にしたのは、今日の夕方、我が家のリビングで鳴り響いていた「音」の数々です。
そう、何を隠そう、世界共通(だと私は信じている)の、あの問題。
**「家族のスクリーンタイム、長すぎ問題」**です。
夕方、学校から帰ってきた子どもたち。
「ただいまー!」の元気な声と同時に、玄関にランドセルが放り投げられる。その音が止むか止まないかのうちに、もうリビングのソファには「何か」に夢中になっている二つの小さな背中があります。
一人はタブレットで動画。もう一人は携帯ゲーム機。
私は私で、夕飯の支度をしながらスマホでレシピ検索…と見せかけて、つい流れ着いたニュースサイトや、友人のSNSをチェックしてしまっている。
ふと我に返ると、リビングに家族4人(夫はまだ帰宅前ですが)のうち3人が揃っているのに、誰も顔を合わせていない。会話もない。あるのは、それぞれの電子機器から一方的に流れてくる、カラフルで、刺激的で、ちょっと騒々しいBGMだけ。
「ちょっとー、目、悪くなるよ!」
「ご飯できるまで、少し休んだら?外、まだ明るいよ」
声をかけても、「んー」「あとでー」「今いいところー」という、上の空の返事。
ああ、今日もか…。
この光景に、胸がチクッと痛むんです。
これって、多分うちだけの話じゃないですよね。
ここ日本でも、電車に乗れば、乗客の8割以上がスマホの画面を覗き込んでいます。カフェでお茶しているカップルも、目の前の相手ではなく、お互いスマホ。これが「現代の風景」と言われればそれまでなんですが、特に子どもたちに関しては、本当にこのままでいいのかなって。
彼らが見ている世界は、指先一つで瞬時に切り替わって、すぐに「いいね!」や「クリア!」という報酬(リワード)がもらえる世界。それ自体は、今の時代を生きるスキルとして、ある程度は必要なのかもしれません。
でも、ふと思うんです。
私が子どもの頃に感じていた、あの**「猛烈に退屈な時間」**って、どこに行っちゃったんだろうって。
テレビもチャンネル数が少なくてすぐ見飽きる。ゲームも持っていなかった。だから、やる事がないと、本当に「何もない」時間があったんです。
ぼーっと空を眺めたり、道端のアリの行列を、親に「早くして!」と怒られるまで何十分も眺めたり。雨の日に、窓についた水滴がどっちが早く下に落ちるか競争させたり。
あの「何もない」時間、親から見れば無駄でしかない「余白」があったからこそ、自分で「何か」を見つける力、くだらないことを考える力、想像する力が育ったんじゃないかなって。
今の子供たちは、その「退屈」という名の「心の余白」を、全部スクリーンに奪われているんじゃないか。
そんなモヤモヤを抱えていた時、近所の本屋さんで、ふとある言葉が表紙になった雑誌を見かけました。
それが、**「森林浴(しんりんよく)」**です。
海外の皆さんには、もしかしたら「Shinrin-yoku」として、すでに知られているかもしれませんね。
これは、1980年代に日本で生まれた言葉(そして、考え方)です。
文字通り、「森林」の空気を「浴びる」こと。
「え?それって、ただのハイキングやピクニックと何が違うの?」って、最初は私も思いました。
でも、調べてみると、これが結構奥深いんです。
森林浴は、山頂を目指す「登山」のように、明確なゴール(目的)を達成することがメインではありません。
あるいは、BBQ(バーベキュー)のように、「みんなで何かをアクティブに楽しむ」ことがメインでもない。
目的は、ただ「そこにいる」こと。
森の静けさの中に身を置いて、自分の「五感」(見る、聞く、嗅ぐ、触る、味わう)を、ただただ解放することなんです。
- 木々の間から差し込む、キラキラした光。日本ではこれを「木漏れ日(こもれび)」と呼びます。
- 風が葉っぱを揺らす音(「さらさら」「ざわざわ」という音です)。
- 土と、湿った落ち葉と、木々が発する独特の、少し甘くてスッとする香り。
- 足の裏で感じる、アスファルトとは全く違う、柔らかくて弾力のある土の感触。
日本は、国土の約7割が森林という、とても緑豊かな国です。
だから、昔から人々は森や木々に、どこか特別な感情を抱いてきました。
すごく大きな木や、変わった形の岩には「神様」が宿る(御神木:ごしんぼく、磐座:いわくら)と考えたり、自然のあらゆるものに神様(というか、スピリット?)が宿るという「神道(しんとう)」の考え方が、私たちの文化や生活の根底に、今も淡く流れています。
だから、「森に癒しを求める」という感覚は、日本人にとってすごく自然なことなんですね。
最近では、この「森林浴」が、科学的にも「ストレスホルモン(コルチゾール)を減らす」とか、「木の香りの成分(フィトンチッド)が免疫細胞(NK細胞)を元気にする」とか、いろんな効果が証明されてきています。
それで、日本国内でも「森林セラピー」として、改めてブームになっているんです。
「これだ!」と思いました。
あの、常に「もっと!もっと!」と刺激を求めてくるデジタルの光(陽)とは真逆の、静かで、穏やかで、「何もしなくていい」森の陰(陰)。
この「陰陽のバランス」を取ることこそ、今のデジタル漬けの家族に必要な、「人生の知恵」かもしれない!
…と、主婦ミカ(40歳)、一人で盛り上がったわけです(笑)。
理論は完璧です。
現代のデジタル疲れを癒すのは、日本の伝統的な知恵「森林浴」しかない!
そうと決まれば、善は急げ。
ある週末の朝、私は家族に向かって、できるだけ明るく、高らかに宣言しました。
「ねえ!今度の週末、みんなで『森林浴』に行こうよ!最高にリフレッシュできるらしいよ!体にもいいんだって!」
リビングに響き渡っていた電子音が、一瞬、ピタリと止まりました。
子どもたちが、怪訝(けげん)そうな顔で私を見ます。
10歳の息子が、ゲーム機(マイ〇クラフトで巨大な建築中だったらしい)を一時停止しながら、心底面倒くさそうに言いました。
「しんりんよく…?なにそれ。面倒くさい。森って虫いるじゃん。最悪」
8歳の娘が、動画(カラフルなスライムを作っている動画)を止めて、ぷくーっと頬を膨らませました。
「えー。ヤダ。歩くの疲れるもん。それより、お友達と(オンラインゲームで)遊びたい」
夫は…スマホのニュース画面を見ながら、「あー、週末はちょっと仕事が溜まってるかもな…」と、決して私と目を合わせません。
……チーン。
ですよね。知ってました。
「五感を解放しよう!」とか「自然の香りがストレスをね…」なんていう大人の、それもちょっと哲学っぽい理屈(人生観)が、ピカピカ光る画面の即物的な楽しさに、勝てるわけがない。
室内(インドア)には、彼らを夢中にさせる無限のエンターテイメントが、コンセント一つで(充電一つで)待っているんですから。
無理やり連れて行っても、きっと道中は「まだー?」「疲れたー」「お腹すいたー」「帰りたいー」の大合唱になるのが、火を見るより明らかです。
さて、どうしたものか。
日本の素晴らしい知恵であり、家族の健康(と私の精神衛生)にも良いはずの「森林浴」。
これを、どうやったらこのデジタルネイティブな子どもたちに、「楽しい!」と体験させられるんだろう?
私の「Escape the Screen, Embrace the Green(スクリーンから逃れて、緑を抱きしめよう)」計画は、スタートラインに立つ前から、とんでもなく大きな「デジタルの壁」にぶち当たってしまったのです。
失敗だらけの「強引なピクニック」と、夫の意外な一言
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さて、「起」のブログ(前回の記事ですね)で、私、ミカは高らかに宣言しました。
「家族のデジタル漬けを救うのは、日本の知恵『森林浴』だ!」と。
そして、その宣言は、当の家族たち(子ども二人と夫)によって、それはもう見事に、一瞬で、木っ端微塵に撃墜されました。
「面倒くさい」「虫」「疲れる」「仕事あるかも」。
ですよねー。
でも、皆さん。
ここで引き下がる私ではありません(笑)。
海外で生活されている皆さんも、きっと日々の暮らしの中で、文化の違いや言葉の壁にぶつかりながらも、「エイや!」と一歩を踏み出す瞬間にたくさん出会っていると思います。
あの「エイや!」の精神です。
今回の私の「エイや!」は、いささか強引なものでした。
私は、作戦を変えました。
「森林浴」という、なにやら高尚で、ちょっと説教くさい(?)言葉を封印したのです。
代わりに、日本の家庭における「伝家の宝刀」を抜きました。
「今度の日曜日、すごい美味しいお菓子とジュースをいっぱい買って、ピクニックに行きます!」
そう。「お菓子」と「ジュース」です。
この二つの魔法の言葉に、あれほど「ヤダヤダ」言っていた子どもたちの耳が、ピクッと動きました。
「…どこ行くの?」
「いつもの公園?」
すかさず、畳みかけます。
「ううん、もっと広くて、涼しいところ!あ、それと…特別に、ゲーム機(携帯用)も持って行っていいことにします!」
これは、私にとっては苦渋の決断でした。
だって、目的は「スクリーンから離れる(Escape the Screen)」ことだったはず。なのに、そのスクリーン(ゲーム機)を、わざわざ自然の中に持ち込むなんて!
これはもう、森林浴の「理念」に反している!
でも、背に腹は代えられません。
日本のことわざに、「毒を食らわば皿まで」という、ちょっと物騒なものがありますが(笑)、私の心境はまさにそれ。
どうせ理念に反するなら、徹底的にハードルを下げてやろう。
まずは、あの「無音で無表情なリビング」から、彼らを引きずり出すこと。それが最優先だ!と。
かくして。「お菓子」と「ゲーム持参OK」という二枚の切符を手にした私は、半ば強引に、家族を車に詰め込むことに成功したのです。
向かったのは、家から車で1時間ほどの、ちょっとした丘陵地にある県立公園。
「森林セラピーロード」なんていう看板も立っている、まさに「森林浴」にうってつけの場所です。
…が。
このピクニックが、見事に「失敗だらけ」だったことは、皆さんのご想像通りかもしれません。
まず、車を降りた瞬間。
娘(8歳)が、この世の終わりのような声で叫びました。
「ギャーッ!虫ぃぃぃぃ!!」
まあ、森ですからね。いますよ、虫。
都会のアスファルトしか歩いていない娘にとって、自分の周りを小さな羽虫(多分、コバエみたいなもの)が飛んでいるだけで、すでにパニックです。
「ヤダ!帰る!車に戻る!」
いきなりの大号泣。
次に、息子(10歳)。
彼は、お気に入りの、真っ白なスニーカーを履いてきていました。
「うわっ、土じゃん…」
一歩踏み出した遊歩道が、昨日の雨で少しぬかるんでいたのを見て、露骨に顔をしかめます。
「靴、汚れるじゃん。最悪。なんでこんなとこ来たの」
私、思わずカチンときて、
「汚れたら洗えばいいでしょ!そんなことより、ほら、空気見てみなさいよ!美味しいから!」
「……空気は、見えないし」
「そ、そうじゃなくて!吸って!五感で感じて!」
「はいはい」
ダメだ。会話が成立しない…。
気を取り直して、遊歩道を歩き始めます。
私は、「ほら見て!木漏れ日(こもれび)がキレイだねえ」「鳥の声、聞こえる?」と、必死に「森林浴」のガイドブックに書いてあったようなことをアピールします。
しかし、子どもたちの反応は。
娘「ねえ、まだ歩くの?疲れた。あのお菓子どこ?いつ食べるの?」
息子「…(下を向いて、無言でゲーム機の電源を入れる)」
出たー!ゲーム!!
「こらー!ゲームは後でって言ったでしょ!前見て歩きなさい!」
「だって、暇なんだもん」
「暇じゃないでしょ!周りを見てごらんよ!緑がいっぱいだよ!」
「緑見ても、面白くない」
…ぐうの音も出ません。
「緑は、面白いもの」というのは、完全に大人の、それも「自然が好き」という特定の価値観を持った人間の思い込み(エゴ)でしかありませんでした。
彼らにとって、「面白い」とは、ゲームのレベルが上がったり、動画で派手なリアクションが起きたりすること。
ただ静かにそこにある「緑」は、「面白い」のカテゴリーには入らないのです。
結局、30分も歩かないうちに、景色の開けたベンチを見つけて、早々にお菓子タイムに突入しました。
子どもたちは、お菓子を食べる時だけはご機嫌。
そして、食べ終わると、娘は足元の土をいじりながら「早く帰りたい」のブツブツモード。息子は、待ってましたとばかりにゲームに没頭。
私は?
私は、もう、怒りを通り越して、虚無感に襲われていました。
(私、何やってるんだろう…)
こんなにイライラしながら森に来て、子どもたちを叱りつけて。
これじゃ、ストレスホルモン(コルチゾール)減らすどころか、爆増だよ…。
理想(家族みんなで五感を解放し、自然の素晴らしさを共有♪)と、現実(虫に泣き、土にキレ、ゲームに逃避する子どもたち)のギャップ。
この「良かれと思って」が空回りする感覚、海外で子育てされている皆さんも、きっと一度は経験がありませんか?
「日本の良さ」を伝えたくて、ひな祭りや七夕を頑張って準備したのに、お子さんの反応がイマイチだったり…(うちだけでしょうか?)。
「大人の『理想』や『正論』は、そのまま子どもに渡しても、『退屈』という名の『苦痛』にしかならない」
この現実を、私はこの失敗ピクニックで、骨身にしみて理解しました。
日本には「良薬は口に苦し」ということわざがありますが、いくら体に良くても、苦いままでは飲んでもらえない。特に、甘くて刺激的な「スクリーン」というお菓子を知ってしまった現代っ子には。
結局、私たちは、滞在時間わずか1時間半ほどで、その「森林セラピーロード」を後にしました。
帰り道。
車の中は、疲れて眠ってしまった子どもたちの寝息と、気まずい沈黙だけが流れていました。
私の「森林浴」計画は、完全なる、完膚なきまでの、大失敗に終わったのです。
重い空気に耐えかねて、私がポツリとつぶやきました。
「…あーあ。大失敗。もう、二度と『行きたい』なんて言ってくれないだろうな」
運転している夫に、半分は愚痴、半分は「あなたも非協力的だったじゃない!」という八つ当たりを込めて。
夫は、今回のピクニックで、一番の「被害者」だったかもしれません。
休日に無理やり運転させられ、子どもたちのブーイングを聞かされ、おまけに妻(私)のイライラまで浴びせられていたのですから。
「だから言っただろ、無理だって」
そう責められることを、私は覚悟していました。
ところが。
夫は、前を見たまま、しばらくしてから、意外な言葉を口にしたんです。
「うーん。でもさ、思ったより『うるさく』なかったな、森って」
「え?」
私は、一瞬、意味が分かりませんでした。
だって、あんなに子どもたちが「ヤダヤダ」「虫!」「帰る!」と大騒ぎしていたのに。うるさくなかった、ですって?
夫は、続けました。
「いや、もちろん、子どもたちのブーイングはうるさかったけど(笑)。
そうじゃなくて、なんていうか、『人工的な音』が一切なかっただろ」
「人工的な音…」
「そう。車が走る音とか、遠くの工事の音、店の呼び込みの声、家の中の家電のモーター音。そういうのが、全部なかった。
聞こえるのって、風の音と、鳥の声と…あと、お前が怒ってる声だけ(笑)」
「…最後のは余計です」
「いや、マジで。普段、家や会社にいると、どんだけ『関係ない音』に囲まれてるか分かったよ。
あれは…うん。思ったより、悪くなかったかも」
私は、ハッとしました。
夫も、私と同じくらい(いや、それ以上に)デジタル機器に触れている人間です。
家ではスマホでニュースか動画。会社では一日中パソコン。
そんな彼が、意識して「五感を研ぎ澄まそう」なんて思ってもいないのに、自然と「耳」が、デジタルデトックスされていたのです。
彼は「森林浴の効果」なんて、1ミリも期待していませんでした。
ただ、「妻の機嫌をとるため」に、仕方なくそこにいただけ。
それなのに、彼の五感は、ちゃんと森の「静けさ」(=人工音のなさ)を受け取っていた。
目的は達成できませんでした。ピクニックは大失敗でした。
でも。
日本には「七転び八起き(ななころびやおき)」という、素敵な言葉があります。
失敗しても、また起き上がればいい、という意味です。
まさに、これが私たち家族の「一転び目」。
夫のこの「意外な一言」のおかげで、私は気づきました。
私のやり方は、完全に間違っていた。
「健康のため」「五感のため」なんていう大人の理屈(正論)を、上から押し付けるのは、最悪のスタートだったんだ、と。
じゃあ、どうする?
子どもたちに「苦い薬」を飲んでもらうには、どうやって「甘いシロップ」を混ぜたらいいんだろう?
夫の「悪くなかった」という小さな種火と、子どもたちの「二度と行かない」という巨大な壁。
この両方を抱えて、私の「森林浴」リベンジ計画が、静かに(でも、今度はもっとしたたかに)再始動することになるのです。
「探す」から「見つける」へ。子どもが変わった、小さなキノコの大発見
(ここから本文)
前回の「承」のブログ。
私の「良かれと思って」の森林浴計画は、見事に玉砕しました。
「虫ヤダ!」「土キライ!」「ゲームしたい!」…子どもたちの強烈な拒否反応と、イライラする私。
あのピクニックは、家族のストレスホルモンを減らすどころか、確実に増やして終わりました(苦笑)。
ただ、一つだけ。
たった一つだけ、小さな「種火」が残っていました。
それは、あの気まずい帰りの車の中で、夫がポツリと漏らした、
「思ったより『うるさく』なかったな、森って」
という一言。
デジタル漬けの夫が、無意識のうちに感じ取っていた「人工音のない静けさ」。
大人の五感は、理屈抜きでちゃんと「癒し」を受け取っていたんです。
(…大人は、これでいいのかもしれない。問題は、子どもたちだ)
私は、あの失敗ピクニックの後、作戦を根本から練り直しました。
「承」での失敗は、私が「健康」とか「五感」とか、大人の「正論(ある種の人生観)」を押し付けすぎたこと。
子どもたちにとって、それは「苦い薬」でしかなく、甘くて刺激的な「スクリーン」には到底太刀打ちできませんでした。
じゃあ、どうするか。
「苦い薬」に、「甘いシロップ」を混ぜるしかない。
それも、お菓子やジュースといった「その場限り」のシロップではなく、森(自然)そのものに「甘さ=楽しさ」を感じてもらう必要がありました。
どうすれば、ただの「緑」や「土」が、彼らにとって「面白いもの」に変わるんだろう?
ヒントになったのは、意外にも、日本の昔ながらの「文化」というか「習慣」でした。
海外でも、フリーマーケットやアンティーク市などで「掘り出し物を探す」楽しみってありますよね。
日本人も、そういう「収集」や「採集」が、昔から大好きなんです。
春になれば、山で「山菜(食べられる野草)」を採る。
夏になれば、森で「昆虫採集」をする。
秋になれば、「キノコ狩り」や「どんぐり拾い」。
海に行けば、「潮干狩り(貝殻拾い)」…。
これって、全部「自然」が舞台ですよね。
そして、共通しているのは、**「見つける喜び」**があること。
これだ!
「森林浴」なんていう、目的があいまいで高尚すぎる(?)ものを目指すからダメだったんだ。
「ただ、そこにいる」なんていう玄人(くろうと)向けの楽しみ方は、子どもたちには早すぎた。
**「探し出して、見つける(ゲットする)」**という、ゲーム性。
「クエスト(任務)」や「アイテム集め」に近い感覚。
これなら、あの子たちも乗ってくるかもしれない!
私は、夫にもこっそり相談して、「リベンジ計画」を立てました。
失敗から2週間後のある週末。
私は、またしても、あの二人(息子10歳、娘8歳)に声をかけました。
「ねえ、今度の日曜、またちょっとお出かけしない?」
案の定、二人はソファに転がったまま、スマホとゲーム機から顔も上げずに言いました。
「えー、ヤダ。またあの山?虫いるとこ?」
「絶対行かない。疲れるだけじゃん」
(よし、食いつきは想定内…)
私は、ニヤリと笑って、切り札を出しました。
「ふふふ。今度はね、『ミッション』があるんだ」
「「…ミッション?」」
二人の動きが、わずかに止まります。
「そう。今度の場所は、『森の宝物』が隠されているらしい、という情報を入手しました」
「宝物…?お金?」
「それは、見つけてのお楽しみ。レベルの高い『レアアイテム』を見つけたら、今日の晩御飯、Aランクのハンバーグにしてあげよう!」
「ハンバーグ…」
食べ物で釣るのは「承」と同じですが、今回は「アイテム探し」というゲーム性を絡めました。
夫も、横から援護射撃します。
「お父さんも、今回は本気で探すぞ。お前らなんかに、レアアイテムは渡さないからな」
「は?意味わかんないし。どうせまた、ただの葉っぱとかでしょ」
息子は悪態をつきながらも、どこか「勝負」という言葉に反応しているのが分かりました。
そして、当日。
私たちは、前回とは違う、もう少し里山に近い、小さな雑木林(ぞうきばやし)に来ていました。
もちろん、ゲーム機は「宝探しの情報収集用(という名目)」で持参OK。お菓子もOK。ハードルは、とことん下げます。
さあ、リベンジ・ピクニックの始まりです。
最初は、やはり「承」の再現フィルムを見ているかのようでした。
「なんか、ここも虫いるんだけど」
「歩きたくないー。ハンバーグ、もう今食べたい」
「あー、電波悪りぃ。ゲーム読み込まない…」
(くっ…焦るな、私。まだだ…)
私が「ほら、こういう木の根元とかに、宝物があるんだって!」と声をかけながら、必死に地面を探し始めた、その時です。
「あ」
私が、わざとらしく、でも、本当に驚いたように、小さな声を出しました。
「なに?お母さん、どうしたの?」
娘が、面倒くさそうに近づいてきます。
「しーっ。見て。これ…」
私が指さしたのは、腐りかけた切り株の根本に、ひっそりと生えている、真っ赤な、小さな、キノコでした。
大きさは、ほんの小指の先くらい。でも、その色は、周りの茶色い落ち葉の中で、異常なほど鮮やかでした。
「うわ…なにこれ。キモい」
「毒々しい色…」
息子も、ゲーム画面から目を離し、遠巻きにそれを眺めています。
私は、すかさず夫に目配せしました。
夫が、計画通り、息子の肩を叩きます。
「おい。お前の『アイテム(ゲーム機)』で、ちょっと調べてみろよ。こいつ、名前なんて言うんだ?」
「えー…俺が?面倒くさ…」
文句を言いながらも、息子はゲームを中断し、スマホのカメラを起動して、そのキノコをパシャリ。
画像検索にかけます。
数秒の沈黙。
そして、息子の目が、わずかに見開かれました。
「…うわ。出た」
「なんて名前?」
「えーと、『タマゴタケ』…じゃないな、こっちだ。『ベニテングタケ』…いや、違う。あ、これかも。『アカヌマベニタケ』?…わかんないけど、なんか『毒』って書いてある!」
「「どくキノコー!!」」
私と娘が、大げさに叫びました。
「えー!これ食べたら死んじゃうやつ!?」
「ヤバ!リアル『毒キノコ』じゃん!」
息子が、なぜか得意げにスマホの画面を見せてきます。
「こっちのサイトだと、『猛毒』だってさ。やっば」
あれほど「虫」で泣いていた娘が、毒キノコを(もちろん触りませんが)しゃがみ込んで、真剣な顔で観察しています。
「本当に真っ赤だ…」
「すげえ。こんなのが普通に生えてんだ…」
息子も、いつの間にかゲーム機をポケットにしまい、キノコの周りをぐるぐる歩き回っています。
…スイッチが、入った。
私が確信した瞬間、今度は娘が叫びました。
「あ!こっちにもなんかある!」
娘が指さしたのは、銀色に光る、丸い石でした。
「なにこれ、ギンギラギン!」
「おお、それは『雲母(うんも)』っていう石だよ。キラキラしてるだろ」と夫。
「あっちにも変な枝、落ちてる!」
「見て!この葉っぱ、裏側が紫!」
「うわ、でっかいミミズ!キモ!」
さっきまで「退屈」と「面倒くさい」しかなかった森が、一瞬にして**「発見されるのを待っているアイテムだらけのフィールド」**に変わったのです。
あれほど嫌がっていた「土」は、アイテムが隠されている「宝の山」に。
あれほど怖がっていた「虫」は、毒キノコと同じ、「リアルな森の住人(ちょっとキモいけど)」に。
気づけば、子どもたちは、私たちが何も言わなくても、自分たちからどんどん森の奥へ(もちろん遊歩道沿いですが)走っていきました。
「ねえ、あっちの木のウロ(穴)!絶対なんかいるって!」
「待ってよ!私、もっとすごいキノコ見つけるから!」
その顔は、「承」の時の、あの「つまらない」とふてくされた顔とは全く違いました。
目をキラキラさせて、獲物を探すハンターの顔。
あるいは、ゲームのレアアイテムを探す、冒険者の顔です。
日本には、「木を見て森を見ず」ということわざがあります。
(細かい部分に気を取られて、全体を見るのを忘れるな、という意味です)
でも、子どもたちに必要なのは、その逆でした。
「森(という漠然とした全体)」を見せるのではなく、**「一本の木(あるいは、一本のキノコ)」**という、具体的で、面白くて、ちょっと「ヤバい」ものを見せること。
そこからじゃないと、彼らの興味は始まらなかったのです。
私は、この「アカヌマベニタケ(仮)」の大発見に、一つの「人生術」を見た気がしました。
(ちょっと大げさかもしれませんが!)
「幸せ」とか「面白いこと」って、きっと、どこか遠くにある「大きな森」みたいなものじゃない。
それは、スクリーンの中の誰かが「ほら、面白いよ」と見せてくれるものでもない。
本当は、自分の足元に、今日の日常の中に、ひっそりと隠れている、あの「小さな赤いキノコ」みたいなものなんじゃないか。
「退屈だ」「つまらない」と下を向いてゲームをしているだけじゃ、絶対に見つからない。
でも、ほんの少し目線を変えて、自ら「見つけよう」とした瞬間に、世界は「アイテム」だらけになる。
「探す(Have to)」から、「見つける(Want to)」へ。
この視点の「転換」こそ、デジタル社会で忘れがちな、でも一番大切な「生きる知恵」なんじゃないかなって。
ふと見ると、あれほど鳴り響いていたゲームの電子音は、すっかり止んでいました。
代わりに聞こえるのは、子どもたちのはしゃぐ声と、それを追いかける夫の笑い声、そして、風が葉っぱを揺らす音だけ。
私の「森林浴」リベンジ計画は、こうして「森のリアル・アイテム探しゲーム」という、全く別の姿に「転」じて、ようやく、ようやく成功の第一歩を踏み出したのです。
森林浴は「イベント」じゃない。我が家の「日常」になった日
(ここから本文)
こんにちは!ミカです。
さて、長い長い(笑)我が家の「スクリーンタイム問題」と「森林浴」をめぐる戦いの記録も、今回でいよいよ最終回です。
前回の「転」のブログでは、私が「健康のため」「五感のため」という大人の正論(という名の苦い薬)を押し付けるのをやめ、「アイテム探し」というゲーム性(甘いシロップ)に切り替えたお話をしました。
あの腐った切り株に生えていた、鮮やかな「毒キノコ(仮)」。
あれが、我が家のゲームチェンジャーでした。
あれ以来、どうなったか。
結論から言うと、我が家は、週末に「森へ行く」家族になりました。
…というと、なんだかすごく「意識高い系」というか、ナチュラル志向の素敵なファミリーに生まれ変わったように聞こえるかもしれませんね。
でも、実態は、そんなキラキラしたものとは程遠いものです(笑)。
相変わらず、家での子どもたちは、リビングのソファでゴロゴロしながら動画を見てゲラゲラ笑っていますし、ゲームのレベルアップに一喜一憂しています。
私も、夕飯の支度をしながらSNSのチェックがやめられません。
リビングに鳴り響く電子音は、正直、あの頃とあまり変わっていません。
そう。「スクリーンタイム」自体は、ゼロにはならない。
多分、現代に生きる以上、ゼロにする必要もないんだと思います。
でも、決定的に変わったことが一つだけあります。
それは、週末の朝、子どもたちの口から出る言葉です。
以前は、「今日、何するー?(=家で何のゲームする?)」だったのが、
「お母さん、今日、**『あそこ』**行く?」
に変わったんです。
「あそこ」とは、もちろん、あの雑木林のこと。
彼らにとって、森はもはや「虫がいて疲れる面倒くさい場所」ではなく、**「まだ見つけていないレアアイテムが眠る、攻略待ちのフィールド」**になったのです。
「今日は、前回見つけた『ギンギラギン(雲母)』よりデカいの見つける!」
「俺、この前図鑑で見た『光るキノコ』探すわ」
(※光るキノコは、残念ながら、あの里山には生えていませんでしたが…笑)
面白かったのは、あれほど「電波が悪い」と文句を言っていた息子のスマホ(ゲーム機)の使われ方です。
森にいる間、彼はゲームをしなくなりました。
代わりに、「発見したアイテム」を片っ端から写真に撮り、その場で画像検索して「同定(名前を調べること)」するようになったんです。
「うわ!この毛虫、毒針持ってるってよ!ヤバ!」
「この花、『シャガ』っていうらしい。アヤメの仲間だってさ」
「この鳥の声、録音できた。…あ、『シジュウカラ』だ」
デジタル機器(スクリーン)は、「現実」から目をそらすための「逃避先」でした。
でも、今は、「現実(森)」で発見したものを、より深く知るための「最強の図鑑(ツール)」に変わったんです。
「デジタル」と「アナログ(自然)」は、敵対するものじゃなかった。
使い手(私たち)の意識一つで、いくらでも「共存」できるし、むしろお互いを「もっと面白くする」関係になれるんだ!
この発見は、私にとって、あの毒キノコと同じくらいの大発見でした。
あれほど嫌がっていた「土」も、今では「アイテムの宝庫」です。
雨上がりのぬかるみは、前回は「白いスニーカーが汚れる最悪の場所」でしたが、今では「珍しいカエルやキノコの出現率が上がる、ボーナスステージ」に昇格しました。
(さすがに、白いスニーカーで行くのはやめましたけどね。笑)
娘も、もう「虫!」と泣き叫ぶことはありません。
もちろん、今でも得意ではありませんが、「あ、これ、この前の図鑑に載ってた『ナナホシテントウ』じゃない?」と、自分から観察しに行くまでになりました。
そして、夫。
彼は、相変わらず「健康のため」とか「五感のため」とか、そんな小難しいことは一切言いません。
でも、森を歩きながら、子どもたちと一緒にキノコを探している時の彼の顔は、家でスマホを見ている時より、なんだかずっと「素」の顔をしている気がします。
「お、あそこの木の上、なんか鳥の巣っぽくないか?」
そんな彼の声を聞きながら、私は思います。
ああ、これが、我が家にとっての「森林浴」なんだなって。
私が最初に目指していた「森林浴」は、どこか「高尚なイベント」でした。
静けさの中で五感を研ぎ澄まし、ストレスホルモンを減らし、人生を見つめ直す…。
そんな、雑誌の特集記事に出てくるような、非日常の「体験」。
でも、私たちは、そんな「高尚な癒し」を求めていたんじゃなかった。
私たちが欲しかったのは、家族全員が「同じ方向」を向いて、「同じもの」にワクワクできる、そんな当たり前の「日常」だったんです。
リビングで、家族4人が、それぞれ別々の「小さな画面」を見ていた、あのバラバラな時間。
それに対抗できる、たった一つの「大きなフィールド」が欲しかった。
日本で生まれた「森林浴(Shinrin-yoku)」という考え方。
それは、もしかしたら、「森に入って癒されなさい」という教えなんかじゃないのかもしれません。
それは、**「あなたの日常のすぐそばに、あなたを夢中にさせる『小さな何か』が、無限に隠されているよ」**という、昔の人からの「人生の知恵(ヒント)」なんじゃないかなって。
「木を見て森を見ず」ということわざがありますが、私は、あの「転」の日以来、逆だと思っています。
「森(全体)」なんていう漠然としたものを、いきなり愛そうとしなくていい。
まずは、足元に隠れている「一本の木」、いや、「一本の小さなキノコ」でいい。
それを「見つける」ことができた時、初めて、その人にとっての「森」が始まる。
私たちの「Escape the Screen, Embrace the Green(スクリーンから逃れて、緑を抱きしめよう)」計画は、
「スクリーンを捨てる(Escape)」ことでは、終わりませんでした。
それは、「スクリーンと共に、緑を楽しむ(Embrace with Screen)」という、もっと現実的で、もっと楽しい「我が家だけの答え」を見つける旅になりました。
海外で暮らす皆さん。
皆さんが今住んでいる国や街にも、きっと、素敵な「森」や「公園」があると思います。
そこにも、きっと、子どもたちが(そして、大人の私たちも)夢中になる「毒キノコ」や「ギンギラギンの石」が隠されているはずです。
もし、ご家族の「スクリーンタイム」に、私と同じようなモヤモヤを感じることがあったなら。
次の週末、ちょっとだけ視点を変えて、「森林浴」ならぬ「森のアイテム探しゲーム」に出かけてみませんか?
大切なのは、「健康のため」じゃない。
**「面白いもの、見つけるため」**です。
その「見つける」という小さなワクワクこそが、デジタル社会の「受け身の楽しさ」とは真逆の、「能動的な喜び」を教えてくれる。
そして、それこそが、知らず知らずのうちに、私たちの五感を、そして家族の空気を、一番リフレッシュさせてくれる「最高の森林浴」になるんじゃないかなって。
私は、あの小さな赤いキノコに、そう教わった気がします。

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