完璧主義の崩壊と「トルネード」の襲来
~日本の「整える文化」の中で、私たちが直面するカオス~
おはようございます、あるいはこんにちは。日本の片隅にある小さな町で、二人の怪獣…いえ、愛すべき子供たちと暮らしている主婦です。
今、あなたの家のリビングルームはどんな状態ですか?
淹れたてのコーヒーの香りが漂い、雑誌の1ページのように整然としていますか? それとも、まるで小さな竜巻が通り過ぎた直後のように、色とりどりのプラスチック片(我が家ではこれを「レゴ」と呼びます)や、脱ぎ捨てられた靴下、謎の紙切れが散乱しているでしょうか。
もし後者なら、おめでとうございます。あなたは一人じゃありません。そしてここは、そんなあなたのための安全地帯です。
今日は、私たち母親が日々直面するこの「散らかり(Mess)」について、少し深い話をさせてください。それも、ここ日本という、世界でも稀に見る「整頓」に取り憑かれた国の視点から。
畳と静寂、そして現実のギャップ
皆さんは「日本」と聞いてどんなイメージを持ちますか?
おそらく、禅寺の美しく掃き清められた石庭や、塵一つない畳の部屋、あるいは「こんまり(Marie Kondo)」さんのような、ときめくものだけを残す完璧な整理術を思い浮かべるかもしれません。
実際、私たち日本人は、子供の頃から徹底的に「整えること」を叩き込まれます。
日本の学校には清掃員がいません。子供たちが自分たちで教室を掃除します。「来た時よりも美しく」という言葉は、遠足のスローガンではなく、人生の指針のように教えられます。靴を脱ぐ玄関(Genkan)では、靴のつま先を外に向けて揃えることが礼儀とされ、部屋の乱れは心の乱れであると、まるで呪文のように聞かされて育つのです。
「清浄(Seijo)」であること。それは単に清潔であるだけでなく、精神的な正しさの象徴でもあります。
だからこそ、私たち日本の母親にとって、家が散らかっていることは、単なる「家事の遅れ」以上の意味を持ってしまいます。それはまるで、主婦としての、いや、人間としての能力が欠如しているかのような、重苦しい罪悪感としてのしかかってくるのです。
私もそうでした。
長女が生まれ、次女が歩き始めた頃、私は「完璧な日本の母親」を目指して必死でした。
毎朝、夫を送り出した後は掃除機をかけ、床を拭き、おもちゃを色別に分類して箱に収める。SNSで流れてくる「丁寧な暮らし」というハッシュタグがついた、生活感の一切ない美しいリビングの写真を見ては、「私もこうあらねばならない」と自分を追い込んでいたのです。
しかし、現実はどうでしょう?
リビングに吹き荒れる「創造のトルネード」
朝10時。掃除を終えて一息ついたのも束の間、我が家の小さな破壊神たちが活動を開始します。
おもちゃ箱をひっくり返す音は、私にとってゴングの音と同じでした。「ジャラジャラジャラ!」というプラスチックが床にぶちまけられる音と共に、私の心の平安は崩れ去ります。
「ママ、見て! お城を作ってるの!」
「こっちは海だよ! お魚が泳いでるの!」
彼女たちは目を輝かせて叫びます。でも、私の目に見えているのは「お城」でも「海」でもありませんでした。
私の目には、足の踏み場もないカオス、次に片付けるべきタスクの山、そして「ああ、また部屋が汚れてしまった」という徒労感しか映っていなかったのです。
「遊ぶなら一つ出して、片付けてから次を出しなさい!」
「どうしてそんなに散らかすの!」
気づけば、私は一日中、警察官のように家の中をパトロールし、怒鳴っていました。
日本の伝統的な概念に「躾(Shitsuke)」という言葉があります。これは「しつけ(discipline)」を意味しますが、漢字で書くと「身(body)」を「美(beautiful)」にすると書きます。つまり、立ち振る舞いを美しくすることが躾の本質なのです。
私は焦っていました。「私がちゃんと躾をしないと、この子たちはだらしない人間になってしまう」「家が汚いのは、私の躾がなっていないからだ」。
そんな強迫観念が、私から笑顔を奪っていたのです。
完璧主義の限界点
ある雨の日のことでした。
外に遊びに行けず、エネルギーを持て余した子供たちは、いつも以上に盛大に家の中を「爆発」させていました。
クッションは床に投げ出され「飛び石」になり、毛布はテーブルに掛けられて「秘密基地」になり、絵本は道路のように長く並べられていました。
私は洗濯物を畳みながら、沸々とした怒りを感じていました。
「もういい加減にして!」
そう叫ぼうとして、ふと、子供たちの顔を見たのです。
5歳の息子は、汗だくになりながら、並べた絵本の道路の上でミニカーを走らせていました。その表情は真剣そのもので、完全に自分の世界に入り込んでいます。
7歳の娘は、秘密基地の中で懐中電灯をつけ、ぬいぐるみに本を読み聞かせていました。
その時、私の脳裏にふと、ある言葉が浮かびました。
「散らかっているのではない。彼らは今、世界を構築しているのだ」
部屋は確かに、物理的には「Mess(散らかった状態)」でした。日本の美意識である「整然とした美」からは、何万光年も離れた状態です。
しかし、そこには圧倒的な「生(Life)」のエネルギーがありました。
私はハッとしました。
私はこれまで、家を「モデルルーム」にしようとしていたのではないか? 誰のために? 突然訪ねてくるかもしれない誰か(実際にはほとんど来ない)のために? それとも、SNSの向こう側の見知らぬ誰かのために?
目の前にいる子供たちは、この「散らかり」の中で、とてつもないクリエイティビティを発揮しています。
クッションが岩になり、毛布が屋根になり、床がお城になる。大人が「散らかり」と呼ぶその無秩序な状態こそが、彼らにとっては可能性に満ちたキャンバスだったのです。
「片付けなさい」の前にできること
日本には「余白(Yohaku)」という美学があります。絵画でも文章でも、何も描かれていない白いスペースにこそ、意味や美しさを見出す考え方です。
私は家の中に物理的な「余白」を作ることばかりに執着し、子供たちの心の中に広がる「創造の余白」を、自分の完璧主義で塗りつぶそうとしていたのかもしれません。
「散らかり」は、本当に悪なのでしょうか?
もしかすると、私たちは「片付け」という行為を通して、何か大切な「現在(The Present)」の瞬間を掃除機で吸い取ってしまっているのではないでしょうか?
私がその日、怒鳴るのをやめて、ただ呆然と(あるいは少しの諦めと共に)そのカオスを眺めていた時、不思議なことが起こりました。
私のイライラが、ふっと軽くなったのです。
完璧であることを諦めた瞬間、心にスペースが空いたような感覚でした。
ここからが、今日の本題です。
私はその日以来、実験を始めました。
それは、日本の伝統的な「きちんとする」というプレッシャーを手放し、あえて「Mess(散らかり)」を受け入れるという、私にとってはバンジージャンプのような挑戦です。
これからお話しするのは、単なる「掃除をサボる言い訳」ではありません(まあ、半分はそうかもしれませんが!)。
これは、「Joyful Observation(喜びに満ちた観察)」というテクニックを通して、カオスの中に子供たちの成長と、私たち自身の心の平安を見つけ出すための、新しい視点の提案です。
完璧な部屋よりも、笑い声のある部屋を。
整列されたおもちゃよりも、物語が生まれた痕跡を。
さあ、深呼吸をしてください。
そして、目の前の散らかった部屋を、少しだけ違うフィルターを通して見てみましょう。
そこには、私たちが忘れかけていた「今を生きる喜び」が、レゴブロックの下に隠れているかもしれません。
「観察」という名の静かな革命
~「見守る」ことで見えてくる、散らかりの中に隠された宝石~
さて、前回の話で、私はリビングに広がる「創造のトルネード」を前に、掃除機を捨てて(比喩です、実際にはクローゼットにしまいました)、ただ立ち尽くすことを決意しました。
ここで私が実践し始めたのが、英語圏の育児書でもよく見かける**「Joyful Observation(喜びに満ちた観察)」**というテクニックです。
でも、これを日本の文脈で語るとき、私はある美しい日本語を思い浮かべます。
それは**「見守る(Mimamoru)」**です。
日本語を勉強している方なら聞いたことがあるかもしれません。「見る(Miru = to see)」と「守る(Mamoru = to protect)」が合わさった言葉です。
これは、手を出したり口を出したりせず、しかし関心を失わずに、温かい眼差しで相手の安全と成長を見届けるという、非常に高度で、そして愛情深いアクションです。
日本の親にとって、これは究極の理想でありながら、最も難しい修行の一つでもあります。なぜなら、私たちはつい「転ばぬ先の杖(Providing a cane before they fall)」を渡したくなるからです。
しかし、散らかった部屋こそが、この「見守る」スキルを磨く最高の道場なのです。
テクニックとしての「Joyful Observation」
では、具体的にどうするのか。私が試行錯誤の末にたどり着いた「散らかりの中での見守り方」はこうです。
まず、カオスが最高潮に達した時、私はキッチンへ行き、自分だけのために温かいお茶(最近はほうじ茶がお気に入りです)を淹れます。
そして、部屋の隅にあるソファに座ります。ここが私の「特等席」です。
ルールは3つだけ。
- スマホを見ない。(逃避したくなりますが、目の前の現実を見ます)
- ジャッジしない。(「汚い」「片付けなきゃ」という心の声をミュートにします)
- 実況中継をする。(心の中で、子供の行動をスポーツキャスターのように実況します)
「さあ、5歳の息子選手、レゴの箱を大胆にひっくり返しました! まるで滝のような音です! そこから赤いブロックだけを選別しています。何を作るつもりでしょうか?」
「おっと、姉選手はソファのクッションを全て床に並べ始めました。これは…溶岩渡りゲームでしょうか? それとも新しいベッドでしょうか?」
こうやって客観的に「実況」を始めると、不思議なことに、イライラが「好奇心」に変わっていくのです。
目の前の光景は「散らかった部屋」から、「子供たちの実験ラボ」へと意味を変えます。
これを続けていると、私はある驚くべき事実に気づきました。
それは、「散らかり」と「集中力」は、常にセットでやってくるということです。
実録:段ボールとガムテープの悲劇(あるいは奇跡)
ある週末の実体験をお話ししましょう。
Amazonから大きな荷物が届きました。中身を取り出した後、残ったのは巨大な段ボール箱と、大量の梱包材(あのプチプチしたやつです)。
以前の私なら、すぐに解体して資源ごみの日に出せるよう、きっちりと紐で縛っていたでしょう。日本のゴミ出しルールは非常に厳格ですから、早めの処理こそが正義です。
しかし、その日は「見守る」モードでした。
子供たちはその箱を見つけるや否や、まるで宝箱を見つけた海賊のように目を輝かせました。
「ママ、これ使っていい?」
「いいわよ(Do whatever you want)」
そこからの1時間は、まさにカオスでした。
彼らはガムテープを持ち出し、ハサミで段ボールを切り刻み始めました。床には切り屑が散乱し、剥がしたガムテープの切れ端があちこちにくっついています。静電気で梱包材の発泡スチロールが部屋中に舞い散りました。
正直に言います。私の「片付けセンサー」は警報を鳴らしっぱなしでした。「ああ、あの発泡スチロール、掃除機で吸いにくいのに…」「ガムテープが床に張り付いたら跡が残る…」。
喉まで出かかった「気をつけてね!」「散らかさないで!」という言葉を、熱いお茶と一緒に飲み込みました。
私はただ、見守りました。
すると、どうでしょう。
息子は汗だくになりながら、段ボールに窓を開け、そこに「操縦席」を作っていました。
娘は余った切れ端で「制御パネル」を作り、クレヨンで細かいボタンを描き込んでいました。
二人の会話が聞こえてきます。
「ここはエンジンの場所だから、触っちゃダメだよ!」
「了解! ワープ準備、完了!」
彼らは協力し、交渉し、設計し、建設していました。
そこには、親が介入する余地など1ミリもなかったのです。彼らの集中力は、いわゆる「フロー状態」に入っていました。
もし私が、「ゴミになるからダメ」と箱を取り上げていたら?
もし私が、「床が汚れるから新聞紙を敷いて」といちいち指図していたら?
この素晴らしい宇宙船は完成せず、彼らの「自分たちで作り上げた」という達成感も、兄弟で協力した記憶も生まれなかったでしょう。
散らかった床の切り屑は、ただのゴミではなく、彼らの**「創造の副産物」**だったのです。
散らかりが育てる「自立(Jiritsu)」
日本には「自立(Jiritsu)」という言葉があります。Independentという意味ですが、文字通り「自ら立つ」ことです。
私たちは子供に自立してほしいと願いますが、皮肉なことに、親が環境をコントロールしすぎると、子供は自立する機会を失います。
「Joyful Observation」を通じて私が学んだのは、「親が管理しない時間(=散らかる時間)」こそが、子供が自分の頭で考え、遊ぶ時間になるということです。
別の日のことです。
夕食の準備中、子供たちが静かだなと思ったら、小麦粉粘土(Play-doh)を全て混ぜ合わせ、さらにそこにビーズやパスタを埋め込んで、「謎のオブジェ」を作っていました。色はどす黒く、テーブルは粉まみれです。
一瞬、めまいがしました。
でも、ぐっとこらえて「わあ、すごいね。それは何?」と聞きました。
息子は誇らしげに言いました。
「これはね、怪獣の晩御飯だよ。栄養満点なんだ」
私が「汚いからやめて」と言わなかったことで、彼らは自分のアイデアを形にすることへの恐れを持たずに済んだのです。
自分がやりたいようにやってみる。失敗しても(色が汚くなっても)、それは自分の責任。
この小さな積み重ねが、誰かの指示を待つのではなく、自分で楽しみを見つける「自立心」を育んでいるように感じました。
完璧主義を手放すことで生まれる「つながり」
そして、「見守る」ことの最大の恩恵を受けたのは、実は子供たちではなく、私自身でした。
以前の私は、常に「次のタスク」を考えていました。
子供が遊んでいる最中も、「終わったら片付けなきゃ」「次は夕食の準備」「明日の学校の用意」…頭の中はTo-Doリストでいっぱいで、心は常に「未来」にありました。
でも、散らかりを受け入れて「観察」を決め込むと、強制的に「現在(The Present)」に引き戻されます。
目の前で起きていることだけに集中する。
すると、今まで見逃していた子供たちの細かい表情や、成長の瞬間に気づくことができるようになったのです。
「あ、お姉ちゃんが弟に貸してあげた。優しいな」
「弟は、うまくいかなくても泣かずにやり直してる。強くなったな」
私がガミガミ言わずにニコニコ(あるいはニヤニヤ)見ていることで、子供たちも安心して私に話しかけてくるようになりました。
「ママ、見て!」の回数が増えました。
私が「完璧な管理者」から「共感する観客」に変わったことで、親子の間に流れる空気が、張り詰めたものから、柔らかく温かいものへと変化したのです。
日本の茶道には「一期一会(Ichigo Ichie)」という言葉があります。
「この瞬間は二度と戻らない、一生に一度の機会だ」という意味です。
散らかった部屋で、子供たちが夢中で遊んでいるこの瞬間。
それは、モデルルームのように綺麗な部屋よりも、はるかに価値のある「一期一会」の光景なのかもしれません。
レゴを踏んで痛い思いをするのも、今だけの特権…そう思うことにはまだ修行が必要ですが(笑)。
観察の先にあるもの
しかし、ここで一つの疑問が浮かびます。
「見守るのはいいけど、じゃあ家はずっと汚いままなの?」
「日本の『整える文化』はどうなるの?」
ご安心ください。
私たちは散らかりを「愛する」ようになりましたが、ゴミ屋敷に住みたいわけではありません。
実は、「散らかすこと」を十分に許された子供たちは、不思議なことに「片付けること」への抵抗感も変わってくるのです。
次回の【転】では、このカオスを受け入れた先に待っている、日本的な美意識「わびさび」と通じる意外な展開、そして「片付け」に対する新しいアプローチについてお話しします。
完璧ではないからこそ美しい。そんな境地が、育児にもあるのです。
日本の美意識「わびさび」と育児の意外な共通点
~不完全さの中に美を見る。散らかった部屋は「生活の芸術」かもしれない~
「見守る(Mimamoru)」を実践し、子供たちの創造の爆発をコーヒー片手に眺めるようになった私。
しかし、ここで現実的な問題が一つ残ります。
「でも、最終的にこの部屋、汚いよね?」
遊び終わった後のリビングは、まさに祭りの後。段ボールの残骸、乾きかけた小麦粉粘土、部屋の隅に転がる片方の靴下。
私の心の中の「日本の主婦魂」が、また小さく疼き始めます。「やっぱり、きっちりしていないと落ち着かないのではないか?」「これは単なる怠慢ではないのか?」
そんな迷いの中にいたある日、私はふと、実家の祖母が大切にしていた古い茶碗のことを思い出しました。
それは歪な形をしていて、色も均一ではなく、飲み口には小さな欠けがありました。
でも、祖母はそれを「景色がいい」と言って愛でていたのです。
その時、雷に打たれたように点と点が繋がりました。
**「ああ、これだ。私のリビングに必要なのは、掃除機ではなく『わびさび』の心だ」**と。
「Wabi-Sabi」をリビングルームに持ち込む
海外の皆さんも「Wabi-Sabi(わびさび)」という言葉を耳にしたことがあるかもしれません。
これは日本の美意識の根幹をなす哲学ですが、現代の私たち日本人でさえ、言葉で説明するのは難しい概念です。
あえて簡単に言うならば、**「不完全なもの、永続しないもの、未完成なものの中に美しさを見出す心」**です。
西洋の美学が、左右対称で完璧な「ピカピカの美(Perfection)」を目指すとするなら、日本の美学は、古びて苔むした石や、枯れゆく紅葉のような「移ろいゆく美(Imperfection)」を尊びます。
私は、目の前の散らかった部屋を「Wabi-Sabiメガネ」をかけて見直してみました。
床についた小さな傷。これは、息子がミニカーを激しく走らせた歴史です。
テーブルに残ったマジックの消えない跡。これは、娘が画用紙からはみ出すほど情熱的に絵を描いた証拠です。
散乱するおもちゃ。これは、彼らが「今」という瞬間を全力で生きた残像です。
モデルルームのような生活感のない部屋は、確かに美しい。でも、それは「静止した(Dead)」美しさです。
一方で、子供たちが遊び散らかした部屋は、混沌としているけれど、圧倒的に「生きている(Alive)」美しさがある。
不完全であること。
それは「劣っている」ということではなく、そこに「物語がある」ということなのです。
「金継ぎ」の精神で心を修復する
もう一つ、日本には**「金継ぎ(Kintsugi)」**という素晴らしい伝統技術があります。
割れてしまった陶器を捨てるのではなく、漆で継ぎ、その継ぎ目を金粉で装飾して、以前よりも芸術的な価値のあるものとして蘇らせる技法です。
これは、「傷を隠す」のではなく、「傷を歴史として受け入れ、祝う」という哲学です。
私はこれまで、育児における失敗や、家事が追いつかない現実(=心のひび割れ)を、恥ずかしいことだと思って隠そうとしてきました。
「もっとちゃんとしたお母さんに見られなきゃ」と、必死で見栄という接着剤で繕っていたのです。
でも、金継ぎの精神は教えてくれます。
「壊れてもいい。散らかってもいい。その『綻び』こそが、あなたの家族だけのオリジナルの模様になるんだよ」と。
今日、予定通りに家事が終わらなかったとしても、その代わりに子供と大笑いした時間があったなら、それは「失敗」ではありません。
その「できなかったこと」の隙間(Cracks)を、笑顔という「金(Gold)」で継いだのです。
そう考えると、散らかった部屋の中に座っている自分が、なんだか少し誇らしく思えてきました。
「片付け」の意味を変える儀式
意識が変わると、行動も変わります。
「Wabi-Sabi」と「Kintsugi」の精神を取り入れた私は、毎日の最大の難関である「お片付け(Cleanup time)」のアプローチを劇的に変えました。
以前の私は、片付けを「マイナスをゼロに戻す作業」だと思っていました。
散らかった(マイナス)状態を、元の綺麗な(ゼロ)状態に戻す。これは徒労感しか生みません。なぜなら、明日にはまたマイナスになるからです。賽の河原の石積みのように、終わりのない苦行です。
しかし、今の私は違います。
片付けは、**「今日の祭りを惜しみ、感謝する儀式」**へと変わりました。
夕方、子供たちと一緒に「お片付け」をする時、私はこう声をかけます。
「さあ、おもちゃたちを家に帰してあげよう。彼らも一日働いて疲れたからね」
日本には八百万(Yaoyorozu)の神という考えがあり、すべての物に魂が宿ると考えます。
「おもちゃを箱に放り込む」のではなく、「おもちゃを寝かしつける」。
「レゴさん、今日はお城になってくれてありがとう」
「クレヨンさん、素敵な絵を描かせてくれてありがとう」
そう心の中で(時には声に出して)唱えながら片付けると、不思議なことに、子供たちも乱暴に扱わなくなります。
そして、完全にピカピカにならなくても良しとします。
少しブロックが残っていても、絵本が斜めになっていても、「それもまた景色(Wabi-Sabi)」と捉えるのです。
「完璧に元通りにする」ことを手放した結果、私たちの片付け時間は、怒号が飛び交う時間から、一日の出来事を振り返る穏やかな「クールダウンの時間」になりました。
「ほどほど」という生活の知恵
日本にはもう一つ、忙しい主婦を救う魔法の言葉があります。
それは**「ほどほど(Hodo-hodo)」**です。
英語で言うなら “Moderation” や “Good enough” に近いですが、もっと肯定的なニュアンスを含んでいます。
「やりすぎないことの良さ」「ちょうどいい加減」という意味です。
現代の日本社会、そしておそらく皆さんの住む社会も、「もっと(More)」を求めすぎている気がします。
もっと効率的に、もっと清潔に、もっと良い教育を。
でも、昔の日本の暮らしは、もっと「ほどほど」で、自然のサイクルに寄り添っていました。
家の中に少し埃があっても、死ぬわけではありません。
夕食が一品少なくても、家族が笑顔ならそれが最高のご馳走です。
私は、日本の伝統的な「完璧な主婦像」を目指して苦しんでいましたが、実は日本の伝統文化の奥底には、この「不完全さを許容し、ほどほどを愛する」という、もっと深くて優しい知恵が眠っていたことに気づいたのです。
未来の私たちが懐かしむ景色
今、目の前にあるこのカオス。
踏むと痛いレゴ、乾かない洗濯物の山、テーブルの下の食べこぼし。
これらは永遠には続きません。
「諸行無常(Shogyo Mujo)」――すべてのものは移ろい変わります。
いつか必ず、子供たちは成長し、家を出て行きます。
その時、我が家は「こんまり」メソッドで片付いた、静かで、清潔で、完璧なモデルルームになるでしょう。
床に傷もつかず、クッションは定位置にあり、静寂が支配する部屋。
想像してみてください。
その未来の完璧な部屋で、私はきっと、今のこの「散らかった、騒がしい、生気に満ちた部屋」を思い出して、泣きたくなるほど懐かしむはずです。
今のこの「Mess」は、トラブルではありません。
それは、期間限定の、二度と手に入らない「家族の熱量」そのものなのです。
そう気づいた瞬間、私の肩から重い鎧が完全に落ちました。
散らかり上等。
これは今しか見られない、我が家の美しい景色なのだから。
さて、完璧主義を手放し、散らかりの中に美学を見出した私たち。
心は軽くなりましたが、現実問題として、ママ自身のエネルギーチャージはどうすればいいのでしょうか?
最後の【結】では、家族の太陽である「お母さん」が、自分自身を大切にするための「引き算の愛」と、明日への具体的なステップについてお話しします。
そう、まずはあなたが幸せになること。それが、日本流の「家内安全(Well-being of the family)」の秘訣なのです。
心の余白を作る「引き算」の愛
~お母さんが笑えば、家は最強のパワースポットになる~
ここまで、私の長い旅にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
完璧主義という名の重い鎧を脱ぎ捨て、「見守る」という新しい眼鏡をかけ、散らかった部屋を「わびさび」の景色として愛でる。
これだけで、私たちの肩の荷はずいぶんと軽くなったはずです。
しかし、最後の仕上げとして、最も大切なピースを埋めなければなりません。
それは、このカオスな王国を統べる女王、つまり**「あなた自身の幸せ」**についてです。
日本の美学「引き算(Hikizan)」の魔法
私たちは、母親になった瞬間から、無意識のうちに「足し算(Addition)」の育児をしてしまいがちです。
もっと栄養のある食事を、もっと知育に良いおもちゃを、もっと綺麗な部屋を、もっとたくさんの愛情を…。
「もっと、もっと(More and more)」と積み重ねることが、良い母親の条件だと思い込んでいます。
しかし、日本の伝統的な美意識は、真逆のアプローチをとります。
それが**「引き算(Hikizan)」**です。
日本の生け花(Ikebana)を見てください。
西洋のフラワーアレンジメントが、隙間なく花を埋め尽くして豪華さを表現する「足し算」の美だとしたら、日本の生け花は、不要な枝や葉を極限まで切り落とし、残された一本の枝の曲線や、何もない空間(Space)に美しさを見出す「引き算」の芸術です。
余計なものを削ぎ落とすことで、本質を際立たせるのです。
私はある日、疲れ果ててソファに沈み込みながら思いました。
「私の育児には、枝葉が多すぎるのかもしれない」と。
「毎日手作りの夕食でなければならない」
「寝る前には必ず絵本を3冊読まなければならない」
「子供の服は常に清潔でなければならない」
これらはすべて、私が勝手に自分に課した「ねばならない(Must)」という枝葉でした。
そして、その重みで、私という幹(Trunk)が折れそうになっていたのです。
そこで私は、勇気を出して「引き算」を始めました。
今日は疲れているから、夕食はデリバリーにする(料理を引き算)。
部屋が散らかっているけど、今日は子供と一緒に早く寝る(掃除を引き算)。
アイロンがけ? 今週はパス!(完璧さを引き算)。
するとどうでしょう。
やるべきこと(To-Do)を減らした分だけ、心に「余白(Yohaku)」が生まれました。
その余白は、イライラで埋め尽くされていた私の心に、新鮮な空気と、子供に向けられる笑顔を取り戻してくれたのです。
「しないこと(Not-to-do list)」を決めることは、「すること」を決めるより勇気がいります。
でも、日本の禅(Zen)の教えはこう囁きます。
「手放しなさい。そうすれば、本当に大切なものだけが手に残るから」と。
お母さんは家の「天照大神(アマテラス)」
日本神話に、天照大神(Amaterasu-Omikami)という神様が登場します。
彼女は太陽の女神であり、日本の最高神とされています。
ある時、彼女が怒って岩戸(Cave)に引きこもってしまったことがあります。すると、世界は闇に包まれ、災いが起こり、植物は枯れ、神々も困り果ててしまいました。
彼女が岩戸から出てきて再び笑った時、世界に光と秩序が戻ったというお話です。
これは単なる神話ですが、家庭における真理を突いていると思いませんか?
家庭において、お母さんは太陽(Sun)そのものです。
部屋がどれだけモデルルームのように綺麗でも、太陽であるお母さんが曇った顔をしていたり、イライラして雷を落としてばかりいては、その家は暗くて寒い場所になります。
逆に、部屋におもちゃが散乱していても、夕食が冷凍ピザでも、お母さんがガハハと笑って輝いていれば、その家は明るく、温かく、生命力に満ちた場所になります。
日本では昔から「家内安全(Kanai Anzen)」というお守りがありますが、私が思うに、家内安全の最強のセキュリティシステムは「お母さんの機嫌が良いこと」です。
だからこそ、あなた自身を犠牲にしてまで、部屋を綺麗にする必要はないのです。
あなたが笑顔でいるために、部屋が散らかることが必要なら、迷わず散らかりを選んでください。
あなたの光が消えてしまうことこそが、家族にとって最大のリスク(Emergency)なのですから。
自分自身への「おもてなし(Omotenashi)」
では、どうやって太陽の輝きを保つのか。
ここで、日本が世界に誇るホスピタリティ**「おもてなし(Omotenashi)」**の精神を使いましょう。
ただし、お客様に対してではありません。あなた自身に対してです。
私たちは普段、家族やゲストのために一生懸命尽くします。
でも、一番頑張っている自分自身のことは、いつも後回しにしていないでしょうか?
私は「散らかり」を受け入れるようになってから、1日の中で15分だけ、**「自分をおもてなしする時間」**を作ることにしました。
子供たちがテレビに夢中になっている隙に、あるいは少し早起きして。
とっておきの茶葉で日本茶を淹れます(ティーバッグではなく、急須で丁寧に)。
お気に入りの和菓子(あるいは隠しておいた高級チョコレート)を、綺麗な小皿に乗せます。
そして、スマホを置いて、ただその味と香りを楽しみます。
散らかった部屋の真ん中でも、目を閉じてお茶を一口飲めば、そこは私だけの聖域(Sanctuary)になります。
「よく頑張ってるね、私」
そう自分に声をかける。これは決して利己的なことではありません。
太陽が輝き続けるための、必要な燃料補給(Maintenance)なのです。
カオスという名の「今」を愛する
旅の終わりに、もう一度リビングを見渡してみます。
かつては「敵」に見えた、床に広がるおもちゃの海。
今はどう見えるでしょうか?
それは、子供たちが安心して自己表現できている「証(Proof)」です。
家族が健康で、活発に生きている「痕跡(Trace)」です。
そして、私たちが完璧主義を手放し、心の平安を手に入れた「勲章(Medal)」でもあります。
日本には「ケ・セラ・セラ(Que Sera, Sera)」に似た言葉で、**「なんとかなる(Nanto-ka naru)」**という言葉があります。
「どうにかなるさ(It will work out somehow)」という意味ですが、これは投げやりな言葉ではありません。
「やるだけのことはやった。あとは流れに身を任せよう」という、天への信頼と肯定を含んだ言葉です。
部屋が汚くても、なんとかなります。
夕飯が手抜きでも、なんとかなります。
子供が言うことを聞かなくても、愛してさえいれば、絶対になんとかなります。
だから、深呼吸をして。
散らかった部屋の真ん中で、胸を張ってください。
私たちは「完璧な掃除婦」になるために生まれてきたのではありません。
私たちは、この愛すべき、騒がしい、泥だらけの「人生」という経験を、子供たちと共に味わい尽くすためにここにいるのです。
読者の皆様への小さな宿題
最後に、私から海を越えて、同志であるあなたに小さな宿題(Challenge)を提案させてください。
今日、この記事を読み終えたら、部屋を見渡してください。
そして、一番散らかっている場所を見つけて、あえて掃除をするのをやめてください。
その代わりに、そのカオスを指差して、声に出してこう言ってみてください。
「あはは! なんて素晴らしい散らかりっぷり! 我が家は今日も生きている!」
(Wow! What a magnificent mess! Our home is alive today!)
そして、自分自身のために美味しい飲み物を用意して、そのカオスを「Joyful Observation」しながら、ゆっくりと味わってください。
その瞬間、あなたはきっと感じるはずです。
完璧ではないけれど、とても幸せな「今」がここにあることを。
日本から、愛と敬意を込めて。
あなたの毎日が、散らかりと笑いに満ちた、最高の日々でありますように。

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