「スマホ疲れ」してない? 日本の主婦が「今、ここ」を取り戻すために始めた、ささやかなデジタルリセット術

「あれ、私、今なにしてた?」―― 手の中の四角い画面が奪う「今」

「あ、そうだ。今日の夕飯のレシピ、アレ見なきゃ」

そう思ってスマホを手にしたはずなのに、気づいたら15分が経過。

…あれ? 私、今、何してたんだっけ?

開いていたのは、レシピアプリじゃなくて、Instagramのリール動画。自動再生される、どこかの誰かのおしゃれな暮らし。次から次へと流れてくる、キラキラした(ように見える)日常。

ハッとして我に返った時、シンクには洗うべき野菜が置かれたまま。コンロの火は、弱火にしたままでお湯がコトコトと煮詰まりそうになっている。

そして、リビングからは「ママ、これ見てー!」と呼ぶ子どもの声。

「ごめん、今行くー!」

口ではそう答えながらも、指はまだスマホの「戻る」ボタンを探してる。

「ママ、あのね、今日ね…!」

必死に何かを伝えようとしてくれている子どもの顔を、ちゃんと見ているようで、見ていない。頭の中は、さっき見た「誰かの素敵なディナー」の写真でいっぱい。

(うちの今夜のメニュー、なんだか地味だな…)

そんなことを無意識に比べてしまっている自分に気づき、ズーンと心が重くなる。

これこそが、「常時接続の隠れたコスト」なんだと、私は痛感しました。

フックにあったように、それは「ストレス」や「不安」、そして「失われた瞬間」。

海外で暮らす皆さんなら、もっと複雑かもしれません。

日本にいる家族や友だちが、今何をしているのか。タイムラインをスクロールすれば、楽しそうなランチや、実家の近所の風景が流れてくる。

「いいな」と思う気持ち。

「私は今、ここで頑張ってるのに」という少しの孤独。

「あ、お母さん、昨日LINEくれたのに返してない」という小さな罪悪感。

スマホは「つながり」をくれる便利な道具であると同時に、私たちの心を休む暇なく揺さぶり続けてきます。

日本に住んでいる私でさえ、朝起きて一番に手に取るのはスマホです。

天気予報、今日のニュース、溜まったLINEの通知、仕事(ブログ)のメールチェック。

ベッドから出る前に、すでに頭の中は情報でパンク状態。

「今日も一日がんばるぞ!」という清々しい気持ちよりも先に、「ああ、あれもこれもしなきゃ」という「タスク」に追われる感覚で一日がスタートするんです。

これって、すごく「もったいない」ことだと思いませんか?

日本には昔から、「間(ま)」を大切にする文化があります。

会話と会話の「間」。

絵画の中の「余白」。

忙しい日々の中の、ふとした「何もしない時間」。

この「間」があるからこそ、私たちは物事を深く感じたり、心をリセットしたりできる。

でも、現代の私たちは、その「間」をすべてスマホで埋め尽くそうとしてしまいます。

電車を待つ数分間。

お茶が沸くまでの1分間。

子どもが一人で遊んでいる、ほんの束の間の静かな時間。

そのすべてで、私たちは無意識にスマホを手に取り、情報を「摂取」し続けている。

その結果、何が起きるか。

常に「刺激」にさらされた脳は、ゆっくりと「今、ここ」で起きていることを感じる能力を失っていきます。

窓から入ってくる風の匂い。

淹れたてのお茶の温かさ。

「ママ」と呼んでくれる、子どもの声のトーン。

そういう、人生にとって一番大切かもしれない「瞬間」が、指先からこぼれ落ちていく。

これが、私が感じた「デジタルの落とし穴」です。

「もうスマホなんて捨ててしまいたい!」

そう思ったことも一度や二度ではありません。

(でも、現実的に無理ですよね。特に海外生活では!)

だから、私が提案したいのは「我慢」としてのデジタルデトックスではありません。

フックの言葉を借りるなら、それは「心の平穏への道」。

「 deprivation(剥奪)」ではなく、「 peace(平和)」なんです。

スマホに「使われる」んじゃなくて、私たちが「使いこなす」。

情報に「振り回される」んじゃなくて、私たちが「選んでいく」。

これは、情報社会という新しい時代を生き抜くための、現代版「生活の知恵」であり「人生術」なんだと、私は思うようになりました。

大げさなことじゃなくていいんです。

ほんの少し、意識を変えるだけ。

それは、日本人が昔から大切にしてきた「丁寧な暮らし」の感覚を取り戻すことにも似ています。

このブログでは、私が日本での主婦生活の中で実際に試してみて、「あ、これいいな」と感じた、ささやかな「デジタルリセット」の体験談をお話ししていこうと思います。

無限スクロールの先にあったのは、「私」の消失

「起」でも少し触れましたが、私が一番「ヤバいな」と感じた瞬間は、やっぱり子どもとの時間でした。

あれは、娘がまだ幼稚園の年中さんだった頃。

公園で、娘がそれはもう必死に、鉄棒の「逆上がり」の練習をしていたんです。

「ママ、見てて! 今度こそうまくいくから!」

何度も何度も、泥だらけになりながら挑戦する娘。

私は「はーい、見てるよー! 頑張れー!」とベンチから声をかけていました。

…口では。

でも、私の目線は、手の中のスマホ。

ちょうどその時、ママ友グループのLINEがピコンピコンと鳴り止まなくて。

(内容は、次の週末のランチ会のお店選び。どうでもいい、と言ったら怒られるけど、正直「今じゃなくていい」内容でした)

でも、日本特有のあの「早く返信しなきゃ、話についていけなくなる」という焦り。

私がそのLINEのやり取りに気を取られていた、ほんの数十秒。

「ママ! できた! できたよ! 見てた!?」

娘の、人生で一番嬉しそうな、弾けるような声。

ハッと顔を上げた私が見たのは、逆上がりが成功して、鉄棒の上で満面の笑みを浮かべている娘の姿…ではなく。

私が顔を上げた時には、娘はもう鉄棒から下りていて、目を潤ませながら私のところに駆け寄ってくるところでした。

「…見てなかったでしょ」

その一言が、グサリと胸に刺さりました。

「ご、ごめん! 見てたよ! すごかったね!」

慌てて取り繕う私に、娘は首を横に振って、こう言ったんです。

「ううん。ママ、スマホ見てた。できた瞬間、見てなかった」

もう、返す言葉がありませんでした。

その日の夜、娘の寝顔を見ながら、猛烈に自己嫌悪に陥りました。

私は、何をやっているんだろう。

娘が「今、この瞬間」に達成した、人生の宝物のような一瞬を、私は「ランチ会のお店選び」の通知のために見逃した。

これこそが、フックにあった「失われた瞬間(Lost moments)」そのものでした。

海外で暮らす皆さんの中にも、似たような経験があるかもしれません。

日本にいるご両親とのビデオ通話中。画面越しに「ねえねえ、聞いて!」と話しかけてくれる親の顔を見ながら、手元のキーボードで別の作業をしちゃったり。

遠くにいるからこそ、その「つながっている時間」は貴重なはずなのに、私たちは「ながらスマホ(作業)」で、その時間の「濃度」を無意識に薄めてしまっている。

「常時接続」は、私たちを「常時、上の空」にしてしまうんです。


そして、もう一つの「隠れたコスト」。

それは、**「自己肯定感のダダ下がり」**です。

海外で暮らしていると、現地のキラキラした生活や、逆に日本で充実している友人たちの姿が、SNSを通じて否応なしに入ってきますよね。

日本に住んでいる私も、もちろん同じです。

Instagramを開けば、「#丁寧な暮らし」。

ピカピカに磨かれたキッチン、手作りの発酵調味料、完璧なバランスの「和ンプレート」朝ごはん。

(一方、私の朝ごはんは、昨日の残りの味噌汁にご飯ぶち込んだやつ…)

YouTubeを開けば、「#Vlog」。

朝5時に起きて、ヨガをして、白湯を飲んで、自分の時間を楽しんでから、笑顔で家族を送り出すママ。

(一方、私は朝、布団から出られず、子どもに「早く起きなさい!」と怒鳴ってる…)

見るつもりはなくても、情報が勝手に「比較」の物差しを突きつけてくる。

「みんな、こんなに頑張ってるのに、私ときたら…」

「主婦として、母親として、私は全然ダメだ」

スマホを見るたびに、小さなトゲが心にチクチクと刺さっていく。

特に、日本には「察する文化」と「謙遜の文化」がありますよね。

表立って「私、すごいでしょ!」とは言わないけれど、投稿された写真や動画の「裏」にある努力や完璧さを、私たちは勝手に読み取って、勝手に落ち込む。

海外生活が長くなると、そういう日本の「行間を読む」感覚からは少し解放されるかもしれません。

でも、今度は「海外で頑張る、素敵な私」を無意識に演じようとして疲れてしまったり、「日本にいたら、もっとラクだったかも」と、ないものねだりをしてしまったり…。

どちらにしても、スマホの中の「他人のハイライト(一番輝いている瞬間)」と、「自分の日常(舞台裏)」を比べてしまう限り、この「比較地獄」からは逃れられません。

この「罪悪感(子どもとの時間をちゃんと見なかった)」と「自己嫌悪(他人と比べて落ち込む)」のダブルパンチ。

これが、私が「デジタル・オーバーウェルム(情報の洪水)」の中で支払っていた、一番大きな「代償」でした。

私たちは、スマホに平穏な心を奪われていたんです。

ただ、ここで一つ、声を大にして言いたい。

「これ、私たちのせいじゃない!!」

そう思えるようになったんです。

私たちが弱いからでも、意志が足りないからでもない。

今のテクノロジーやアプリは、私たちを「できるだけ長く画面に釘付けにする」ように、世界中の優秀なエンジニアたちが知恵を絞って設計されています。

(フックにあった「Digital Dread」も、そういう設計の結果ですよね)

「無限スクロール」は、わざと終わりが来ないように作られている。

「通知の赤いマーク」は、私たちの不安を煽って「早く押しなさい」と命令してくる。

私たちは、そういう「仕組み」と戦っていたんです。

そりゃ、疲れるに決まってる。

日本には「根性論」がまだ根強く残っていて、「スマホぐらいいじらないで我慢すればいい」とか、「だらしない」とか、すぐに個人の「精神力」の問題にしがちです。

でも、違う。

これは「精神力」の問題じゃなくて、「距離感」の問題。

包丁が便利な道具だけど、四六時中振り回していたら危ないのと同じ。

スマホも、私たちの生活に必要だけど、ずっと握りしめていたら、心を怪我してしまう。

この「疲れの正体」と「仕組み」に気づくこと。

これが、「起」の最後でお話しした「我慢じゃない、心の平穏を取り戻すための人生術」の、本当のスタート地点でした。

さらば「通知地獄」。私が取り戻した、人生の「余白」

「承」の最後で、「これは私たちのせいじゃなく、アプリの『仕組み』のせいだ!」と気づいた私。

「犯人(?)」がわかったからには、対策です。

とはいえ、最初は何をしたらいいかわからない。

「デジタルデトックス」と検索すると、出てくるのは「週末はスマホの電源を切りましょう」とか「デジタル断食合宿に参加しよう」とか、なんだかすごくハードルが高いものばかり。

いやいや、無理だから!

海外で暮らす皆さんなら、なおさらですよね。

「週末、連絡つきません」なんて、日本にいる家族を心配させるだけ。

私だって、日本に住んでいても、学校からの緊急連絡網はアプリだし、夫との連絡もLINE。ピタッと止めるなんて、現実的じゃありません。

そこで、まず私が試したのは、一番安直な「我慢」でした。

「よし、平日の昼間は、SNSを絶対に見ない!」

そう決意して、アプリをフォルダの奥深くに隠したりしてね(笑)。

…結果、惨敗。

見ちゃダメだ、と思えば思うほど、見たくなるのが人間。

「あ、今日の特売なんだっけ」とスーパーのアプリを開いたついでに、指が勝手にInstagramのアイコンをタップしてるんです。もう、無意識。

そして、開いてしまった自分に「あーあ、またやっちゃった」と、さらに自己嫌“悪”。

「我慢」は、私にとって「ストレス」でしかありませんでした。

フックの言葉で言う「Deprivation(剥奪)」そのもの。心がギスギスするだけでした。

「ダメだ、このやり方じゃ続かない…」

そう思って、一度ぜんぶリセットして考え直したんです。

私が求めているのは、スマホのない生活じゃない。

スマホに「振り回されない」生活だ。

私が辛かったのは、

  1. 「今、ここ」にいないこと(娘の逆上がりを見逃した)。
  2. **「他人と比べて落ち込む」**こと(SNS疲れ)。
  3. **「常に追われている感覚」**があること(通知地獄)。

これらを解決すればいいんだ、と。

そこでヒントになったのが、日本の「禅」や「茶道」の世界で大切にされている、「間(ま)」という考え方でした。

ぎゅうぎゅうに詰め込むんじゃなくて、あえて「何もない空間」や「何もない時間」を作る。

日本画に「余白」があるからこそ、描かれたものが際立つように。

会話に「間」があるからこそ、言葉の重みが増すように。

私の生活にも、スマホに邪魔されない「聖域(サンクチュアリ)」としての「間」が必要なんじゃないか。

「我慢」するんじゃなくて、「棲み分け」する。

そう考え方を変えたら、すごく楽になりました。

私が「デジタルリセット」として具体的に始めた、ささやかな「間(ま)」の作り方。

これは、今も続けている、本当に効果があった「人生術」です。


術その1: 「空間の間」を作る(物理的距離)

まずやったのは、スマホと「物理的に」距離を置くこと。

その名も**「スマホの定位置(おうち)を決める」**作戦です。

すごく単純なんですけど、効果は絶大でした。

今までは、家中どこへ行くにもスマホと一緒。

キッチンで料理しながら。

トイレに座りながら。

そして最悪なのが、寝室のベッドの中。

これを、ぜんぶやめました。

「スマホのおうちは、リビングの棚の上」

こう決めたんです。

充電も、必ずそこで。

だから、料理中はキッチンにスマホはありません。

(レシピを見たい時は、一回一回、手を洗ってリビングまで見に行く。面倒くさいけど、その面倒くささが「ダラ見」を防いでくれる)

トイレにも、もちろん持ち込まない。

(おかげで、無駄に長居しなくなりました・笑)

そして、一番変わったのが「夜」です。

「寝室には、絶対にスマホを持ち込まない」

これを徹底しました。

「でも、目覚ましどうするの?」って思いますよね。

買いましたよ、500円の、小さな目覚まし時計を(笑)。

これがね、本当に、劇的に、睡眠の質を変えました。

今までは、ベッドに入ってからが「魔の時間」でした。

電気を消した暗闇の中、煌々(こうこう)と光る画面。

SNSをスクロールし、ネットニュースを読みふけり、気づけば夜中の1時、2時…。

脳はギンギンに冴えわたり、さっき見た誰かのキラキラ投稿にモヤモヤしながら眠りにつく。

朝は、スマホのアラームを止めた勢いで、そのままニュースとLINEをチェック。

…最悪のスタートですよね。

それが、寝室にスマホがないだけで、どうなったか。

ベッドに入ったら、することがないんです。

仕方がないから、枕元に置いておいた文庫本でも読むか、となる。

数ページ読んだら、自然と眠くなる。

朝は、目覚まし時計の「ジリリリ!」で起きる。

スマホをチェックしようにも、リビングまで行かないとない。

だから、とりあえず顔を洗って、カーテンを開けて、白湯を飲む。

この「朝起きてから、スマホを触るまでの時間」が、私にとっての「心の“間”」になりました。

誰にも邪魔されず、情報に汚染されていない、自分だけの静かな時間。

それだけで、一日を「追われる」んじゃなくて、「自分から始める」感覚が持てるようになったんです。


術その2: 「時間の“間”」を作る(意識的距離)

物理的に離すのに慣れてきたら、次は「意識」です。

「この時間だけは、絶対にスマホを触らない」という聖域を決めました。

私の場合は、二つ。

1. 「食事中」

家族団らんの時も、一人でランチを食べる時も、スマホはテーブルに置かない。

ただ、ひたすら「食べる」に集中する。

日本には「いただきます」という素晴らしい言葉がありますよね。

命をいただくことへの感謝。

作ってくれた人への感謝。

それなのに、スマホを見ながら「ながら食い」するなんて、あまりにも失礼だし、何より「もったいない」。

熱いお味噌汁の湯気、お米の甘み、野菜の歯ごたえ。

そういう「今、ここ」にある美味しい感覚を、全部見逃していたんだな、と。

そして何より、子どもとの会話が生まれました。

「ママ、今日ね…」

娘の話を、今度はちゃんと「目を見て」聞けるようになりました。

(逆上がり事件の、最大のリベンジです!)

2. 「“見てて”待ち」の時間

これは、公園のベンチでの話です。

子どもが遊んでいる間、以前はスマホを見て時間を潰していました。

でも今は、スマホはバッグの奥底にしまいます。

そして、ただ、ぼーっと子どもを眺める。

最初はね、正直、手持ち無沙汰でソワソワするんです。

「あ、LINE返さなきゃ」「ニュース見たい」って禁断症状が出る(笑)。

でも、そこでグッと我慢。

代わりに、空の雲の流れを見たり、風の音を聞いたり、他の親子が遊んでるのを微笑ましく眺めたり。

そうやって、「何もしない時間」=「間」を過ごしていると、心がスーッと凪(な)いでいくのがわかるんです。

そして、娘の「ママ、見てて!」が飛んできた時。

私は、100%の体制で「見てるよ!」と応えられる。

「常時接続」を切ることで、「常時待機(子どものために)」ができるようになった。

これは、私にとって大きな大きな進歩でした。


術その3: 「心の“間”」を作る(通知との決別)

そして、最後にして最強の術。

これが、私を「追われる感覚」から解放してくれた、一番の立役者です。

それは、**「ありとあらゆる『通知』をオフにする」**こと。

「承」でも言いましたが、私たちを疲れさせる最大の犯人は、あの「ピコン!」という音と、アプリアイコンの右上に付く「赤い丸(バッジ)」です。

あれは、私たちの脳に「早く見なさい!」「あなた、見逃してますよ!」と命令してくる、緊急サイレンみたいなもの。

だから、私は、それらを「黙らせた」んです。

LINE(家族や学校の連絡網など、本当に緊急性が高いもの)以外、すべてのアプリの通知設定を「オフ」にしました。

Instagram、X(旧Twitter)、Facebook、ニュースアプリ、ショッピングアプリ…ぜんぶ。

プッシュ通知も、赤いバッジも、全部「オフ」。

結果、どうなったか。

私のスマホは、私が「見たい」と思うまで、うんともすんとも言わなくなりました。

今までは、「通知が来たから、見る」(受動的)。

これからは、「私が今から見たいから、開く」(能動的)。

この「受動的」から「能動的」への転換が、驚くほど心の平穏をもたらしました。

「情報が向こうから押し寄せてくる」のではなく、「私が情報を『取りに行く』」。

たったこれだけのことで、私は人生の「主導権」を取り戻したような感覚になれたんです。


「デジタルデトックス」なんて大げさなものじゃありません。

やったことは、

  1. スマホの「寝床」を決める(空間の間)
  2. 「食事中」と「公園」では触らない(時間の“間”)
  3. 「通知」を切る(心の“間”)

たったこれだけ。

でも、この「余白」を作ったことで、私の日常は劇的に変わりました。

スマホを「ご主人様」から、便利な「道具くん」へと格下げ(?)することに成功したんです。

これは、情報を詰め込むだけ詰め込んできた私にとって、あえて「引き算」をするという、日本的な「人生術」の発見でもありました。

「ない」を選んだら、「ある」が見えた。―― 私たちの「今、ここ」こそが、人生

「転」でお話しした、ささやかな3つの「間(ま)」づくり。

  1. スマホの「寝床」を決める(空間の間)
  2. 「食事中」と「公園」では触らない(時間の“間”)
  3. 「通知」を切る(心の“間”)

これを始めて、もう半年ほどが経ちました。

あんなに「無理だ」「我慢できない」と思っていたのに、人間って不思議なもので、3週間も続ければすっかりそれが「当たり前」になるんですね。

今では、リビングの定位置にスマホがちょこんと座っているのが日常の風景です。

私が家中どこへでもスマホを持ち歩いていた頃のことなんて、もう思い出せないくらい。

じゃあ、私の生活はどう変わったのか。

一言でいうと、**「時間に追われなくなった」**んです。

もちろん、主婦の毎日は相変わらず忙しい。

朝はバタバタだし、夕方は戦争だし、やるべき「タスク」の量は何も変わっていません。

でも、あの頃感じていた、常に背中を誰か(何か)に押されているような、息苦しい「焦り」が、キレイさっぱり消え去りました。

なぜか。

「転」でも書いたように、私は「通知」という名の「緊急サイレン」を黙らせました。

それによって、私の時間は「細切れ」にされなくなったんです。

今までは、

料理中に「ピコン!」→(手を止めてLINEチェック)

掃除機かけながら「ピコン!」→(掃除機止めてインスタチェック)

子どもの宿題を見ている最中に「ピコン!」→(「ちょっと待ってて」とメールチェック)

…ひどいですよね。

一つのことに集中できず、常に脳が「マルチタスク」状態。そりゃ疲れるし、イライラもするわけです。

でも今は、スマホが鳴らない。

だから、料理なら料理に、掃除なら掃除に、「今やっていること」に没頭できる。

一つ一つを、ちゃんと「終わらせる」ことができる。

この「集中」と「完了」の積み重ねが、どれだけ心に余裕(=余白)を生むか、私は身をもって知りました。

心が「今、ここ」にあるから、イライラしないんです。

子どもが「ママ、あのね」と話しかけてきた時、スマホから目を引き剥がす必要がないから、心の底から「なあに?」と笑顔で向き合える。


そして、もう一つ、とても大きな変化がありました。

それは、「承」であれほど私を苦しめた、「他人との比較地獄」からの生還です。

通知が来ないから、私が見たい時(=心が元気な時)にしか、SNSを開かなくなりました。

疲れてヘトヘトな夜に、ベッドの中で他人の「キラキラ投稿」を見て、勝手に落ち込む…なんていう最悪の自傷行為(!)も、寝室にスマホを持ち込まなくなったことで、物理的に不可能になりました。

たまに開くInstagramは、やっぱり相変わらず「丁寧な暮らし」で溢れています。

でもね、不思議なことに、あれほどザワザワしていた私の心が、今は「凪(なぎ)」なんです。

(ああ、すごいなあ。この人、こんなに素敵なお料理作って)

(このおうち、ピカピカだなあ。うちも週末、あの棚だけ片付けようかな)

以前は「それに比べて私は…」という「減点法」で自分を責めていたのに、今は「すごいね!」「参考にしよう!」と、素直に思える自分がいる。

なぜだと思いますか?

それは、私が私の日常にある「幸せ」を、ちゃんと自分の目で見られるようになったから。

スマホから目を離したことで、私自身の「今、ここ」にある「宝物」に、ようやく気づけたんです。

それは、

娘が私の耳元でこっそり教えてくれる、幼稚園の秘密の話。

夫が「これ美味いな」と呟く、いつもの(地味な)きんぴらごぼうの味。

ベランダで干した洗濯物が、お日様の匂いを含んでフカフカになっている感触。

夕焼け空が、息をのむようなグラデーションに染まっていく、ほんの数分間のマジックアワー。

全部、スマホを見ていたら見逃していた、

「なんでもないけど、かけがえのない瞬間」。

私たちの人生って、こういう「なんでもない瞬間」の積み重ねで出来ているんですよね。

日本には「足るを知る」という、とても好きな言葉があります。

(これも禅の言葉ですね)

「ない」もの(=他人のキラキラ)を数えて嘆くんじゃなくて、「ある」もの(=自分の足元にある幸せ)に満足し、感謝する。

私は、スマホを「見ない」時間を選んだことで、皮肉にも、自分がすでに持っていたたくさんの「ある」に気づくことができたんです。


ブログの冒頭で紹介したフック。

Introducing the concept of digital detoxing, not as deprivation, but as a path to peace.

(デジタルデトックスという概念の紹介。それは「剥奪」としてではなく、「心の平穏への道」として)

まさに、これでした。

私がやったことは、スマホを「我慢」すること(Deprivation)じゃなかった。

スマホによって「奪われていた」私の時間と、心の余裕と、自己肯定感を、「取り戻す」こと(Peace)だったんです。

これは、テクノロジーに支配される現代社会を生き抜くための、日本に古くから伝わる「間(ま)」や「足るを知る」といった考え方を取り入れた、私なりの「人生術」です。

海外で暮らす主婦の皆さん。

そちらでの生活は、日本にいる私には想像もできないようなご苦労や、逆に素晴らしい刺激に満ちていることと思います。

そして、日本にいる私たち以上に、スマホが「命綱」であり、故郷と自分を繋ぐ「窓」であることも、痛いほどわかります。

だから、「スマホを捨てろ」なんて、絶対に言いません。

でも、もし。

あの頃の私のように、「なんだかずっと疲れてる」「常に何かに追われている」「他人が羨ましくて仕方ない」…そんな「デジタルドレッド(恐怖)」を感じているなら。

ほんの少しだけ、「間(ま)」を作ってみませんか?

寝室に持ち込まない。それだけでもいい。

家族との食事中、テーブルの隅に裏返しておく。それだけでもいい。

その「ささやかなリセット」が、スマホの中の「誰か」の人生じゃなく、あなたの目の前にある、かけがえのない「今、ここ」を照らし出してくれるはずです。

日本には「一期一会(いちごいちえ)」という言葉もあります。

「この瞬間は、二度と繰り返されない、たった一度きりのもの」。

あなたの今日の「一期一会」を、どうか、スマホ画面なんかに奪われないで。

私たちは、大丈夫。

情報に振り回されなくても、自分の足でちゃんと立って、目の前の幸せを味わいながら、毎日を丁寧に生きていける。

だって、私たちはそういう「暮らしのプロ」なんですから。

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