「あれ、私、今日何してたっけ?」―― スマホに支配された日常の叫び
(ここから「起」の本文です)
「ピロン!」「ピロン!」
夕飯の支度で、まさに玉ねぎを炒めている、その瞬間。キッチンのカウンターに置いたスマホが、ひっきりなしに鳴るんです。
(あ、まただ…)
気にはなるけど、今、手が離せない。ジュージューと音を立てるフライパンを前に、「後で、後で」と自分に言い聞かせる。でも、その「ピロン!」は、近所のママ友からのLINEグループかもしれないし、日本の実家の母からかもしれない。子供の学校からの緊急連絡かも…。
結局、火を弱めてスマホを手に取ってしまう。
「えーっと、なになに?…あ、セールのお知らせか」
「こっちは…誰かのSNSの『いいね!』通知ね」
「うわ、ニュース速報まで…」
そうやって、一つの通知を確認したら最後。つい、溜まっていた他のメッセージを開き、SNSのフィードをなんとなく指でスクロールし始め…。
「あーーーーっ!!」
ハッと我に返った時、フライパンの玉ねぎは、いい感じの「あめ色」を通り越して、一部が「焦げ色」に。慌てて火を止め、換気扇を「強」にする私。
「ママ、お腹すいたー」
「あ、ごめん! 今やってるから!」
なんだかどっと疲れて、シンクに寄りかかりながら深いため息。
「私、今、何してたんだっけ…」
これ、ほんの数ヶ月前の私の日常です。大げさじゃなく、本当にこんな感じでした。
海外で暮らす主婦の皆さん。多分、私なんかよりもっと、スマホやPCが「命綱」になっているんじゃないでしょうか。
日本にいる家族や友人との大切な連絡手段。時差があるから、通知に敏感にならざるを得ない時もありますよね。
新しい土地での生活情報、子供の学校の連絡網、地域のコミュニティ。全部デジタルでやってくる。
現地の言葉が不安な時、翻訳アプリやマップは欠かせない相棒です。
それに、ちょっとした息抜きに、日本のドラマを見たり、SNSで日本の友達の近況をチェックしたり。
そう。私たち主婦にとって、特に海外で暮らす皆さんにとって、デジタル機器は「敵」なんかじゃなく、むしろ「最強の味方」のはずなんです。
でも…。
その「最強の味方」に、いつの間にか、私たちの「時間」や「意識」が乗っ取られていませんか?
主婦の仕事って、そもそも「マルチタスク」の連続ですよね。料理しながら洗濯機の音を気にして、子供の宿題を見ながら明日の献立を考える。私たちの脳は、常にフル回転です。
そこに、スマホからの「割り込み」が、1日に何十回、何百回と入ってくる。
「ピロン!」(あ、洗濯終わったかな)
「ピロン!」(あ、LINEだ)
「ピロン!」(あ、メールだ)
そのたびに、私たちの意識は中断され、集中力はリセットされます。
一日中、家事や育児に追われてクタクタ。
「今日も一日、すっごく忙しかった!」
…なのに、夜ベッドに入って、「今日、私、いったい何を成し遂げたんだっけ?」と振り返ると、なぜか焦げた玉ねぎのことしか思い出せない(笑)。
目の前のことに集中できず、常に何かに急かされているような感覚。
子供の話を「うんうん」と聞きながら、頭の中は「さっきのLINEの返信、なんて書こうかな」と考えている。
せっかく海外のきれいな公園を散歩しているのに、スマホの画面ばかり見て、道端に咲いている花には気づかない。
これって、すごく「もったいない」し、何より「心がすり減る」生き方だと思いませんか?
私、思ったんです。
これは、テクノロジーが悪いんじゃない。アプリが悪いんでもない。
ただ、私自身が、この便利な道具との「付き合い方」を知らないだけなんだ、と。
私たちは、スマホやPCの使い方(How to)は知ってる。でも、それらとどう「距離」を置くか、どう「共存」していくか、その「哲学」を持っていない。
そんな時、ふと、日本に古くからある「考え方」がヒントになるんじゃないか、と思ったんです。
それは、大げさに言えば「人生観」や「人生術」とも呼べるもの。
例えば、
余計なものをそぎ落とす「簡素(Kanso)」という美意識。
あえて「間(Ma)」を作ることで、豊かさを生み出す空間の考え方。
自然の中に身を置いて心をリセットする「森林浴(Shinrin-yoku)」という習慣。
これって、もしかして、ごちゃごちゃになった「デジタル生活」を整理整頓して、私たちのすり減った心に「余裕」を取り戻すための、最高の「禅の知恵」になるんじゃないか?
そう考えたのが、私の「デジタル禅」生活の始まりでした。
このブログ記事は、そんな私の「実体験」の記録です。
海外生活という、日本とは違う環境で、情報も多く、孤独も感じやすいかもしれない。そんな中で頑張る皆さんにこそ、この「日本の知恵」を使ったデジタルとの付き合い方が、きっと役に立つと信じています。
この記事は「起承転結」の4部構成でお届けします。
今回は、まさにこの「起」の部分。
「わかるー!」「私もそれ!」という、皆さんの「叫び」と、私の「叫び」を共有するところからスタートです。
私たちは、スマホに支配されるために生きてるんじゃない。
私たちが「私たちの人生」を生きるために、スマホを使うんです。
そのための具体的な第一歩を、次の「承」の章から、一緒に見ていきましょう。
シンプルに、静かに。通知を「間引く」禅の教え、「簡素(Kanso)」
(ここから「承」の本文です)
さて、前回の「起」では、私が盛大に玉ねぎを焦がした話(笑)をしました。スマホの通知に振り回され、「私、今日一日、何してたんだっけ…」と、キッチンで途方に暮れた、あの日のことです。
あの時、私を現実に引き戻したのは、フライパンから立ち上る「焦げた匂い」と、娘の「ママ、お腹すいたー」という「声」でした。
そう、どちらも「リアル」な世界のシグナルです。
一方で、私を現実から引き離した、あの「ピロン!」という音。あれは一体、何だったのか。
「セールの通知」「SNSの『いいね!』」「どうでもいいニュース速報」…。
どれも、私の「今、この瞬間」を中断してまで、知る必要があったものでしょうか?
…答えは、もちろん「ノー」ですよね。
「もう、こんな生活は嫌だ!」
「私は、目の前の玉ねぎと、娘の空腹に集中したいんだ!」
そう固く決意した私が、まず最初に取り掛かったのが、まさにフックにあった**「簡素(Kanso)」の考え方。
私流に言えば、「怒涛の『通知』間引き大作戦」**です。
「簡素」って、言葉自体はちょっと固いですよね。
禅のお寺にある、石と砂だけで宇宙を表現する「枯山水(かれさんすい)」の庭とか、千利休の茶室みたいに、余計な装飾を一切そぎ落とした空間とか。
でも、私、思ったんです。これって、難しく考えることじゃないな、って。
要は、**「本当に大事なものだけ、残そうよ」**っていう、すっごくシンプルな哲学。
今の私のスマホの中は、どうでしょう。
枯山水とは真逆。あらゆるアプリが「俺を見ろ!」「私を先に!」と、色とりどりの花(というか雑草?)を咲かせまくって、通知音で大合唱している状態。これじゃあ、心が休まるわけがありません。
「よし、やるぞ。私のスマホに『禅』を取り戻す!」
そう意気込んで、スマホの「設定」→「通知」の画面を開いた私。
…そして、5秒で閉じました(笑)。
無理無理! 通知を許可してるアプリ、数えたら100個近くある!
これを一個一個「オン」だ「オフ」だなんて…考えただけで、また一日が終わっちゃう。
そう、ここで多くの人が挫折するんですよね。「面倒くさい」が勝ってしまう。
でも、私は玉ねぎを焦がした女。もう後には引けません。
そこで、作戦を変えました。
**「一個一個『オフ』にする」んじゃない。「原則『全部オフ』、必要なものだけ『オン』にする」**という、荒療治です。
これぞ「簡素」の極意。「まず、ゼロベースで考える」です。
震える指で、まず、ほとんどのアプリの通知を「すべてオフ」に設定しました。
ニュースも、SNSも、ショッピングも、ゲームも、ぜーんぶ。
まるで、大掃除の時に、部屋のモノをいったん全部廊下に出すような感覚です。
部屋(スマホの通知欄)が、シーンと静まり返った「空っぽ」の状態になりました。
…正直、最初の3時間は、めちゃくちゃ怖かったです。
手が空くたびに、無意識にスマホを手に取るんですが、画面は「シーン…」。
何の通知も来ていない。
(え、私、世界から取り残されてない?)
(日本の実家で何かあったらどうしよう)
(ママ友グループで、私だけ返信してないとか思われてない?)
いわゆる「FOMO(Fear Of Missing Out)」、取り残される恐怖、ですね。
海外で暮らす皆さんなら、この感覚、もっと強いかもしれません。日本とのつながりがスマホ頼りだったり、現地の情報収集が命綱だったりしますもんね。
だから、私も「空っぽ」のままにはしませんでした。
空っぽになった部屋に、「これだけは、本当にないと困る」という家具だけを、一つ一つ吟味しながら戻していくんです。
【私が「通知オン」を許可した、選ばれしアプリたち】
- 電話(最重要)
- 当たり前ですが(笑)。夫や両親、学校からの緊急連絡は、これです。
- メッセージアプリ(LINEなど)
- ただし、ここがキモです。「個人からのメッセージ」だけ通知オン。
- あのひっきりなしに鳴る「グループLINE」は、全部「通知オフ」にしました。これ、本当に大事! グループの会話って、大抵は緊急じゃないんです。読みたい時に、自分で見に行けばいい。
- 子供の学校の連絡網アプリ
- これは「命」です(笑)。「明日、お弁当です」とか「学級閉鎖です」を見逃したら、人生が終わる。
- カレンダー(スケジュール帳)
- 「15分後に、息子の懇談会」とか、忘れっぽい私には必須のアラームです。
…以上!
え、これだけ? と思うでしょ?
そう、これだけです。
ニュースは? 天気は?
→ 自分で「知りたい」と思った時に、アプリを開いて見に行きます。向こうから「知らせて」もらう必要はない、と判断しました。
SNSは?
→ これも同じ。休憩時間や寝る前に、「よし、今から見るぞ」と決めて、自分から見に行きます。「いいね!」がついた瞬間に知る必要は、全くありませんでした。
ショッピングのセールは?
→ これをオフにしたのが、一番、家計に貢献したかもしれません(笑)。「今だけ安い!」という「衝動」から解放されました。
この「簡素」通知クレンズを始めて、まず何が変わったか。
スマホが「鳴らなく」なりました。
当たり前なんですけど、これが想像を絶する「快適さ」だったんです。
料理中に「ピロン!」と鳴らない。
子供の宿題を見ている時に、机の上のスマホが「ブブッ」と震えない。
夫と話している時に、視線がスマホの光に奪われない。
私を呼ぶのは、「今、目の前にある現実」だけになりました。
これ、海外生活で頑張る皆さんにも、ぜひ試してみてほしいんです。
もちろん、皆さんにとっての「本当に大事なもの」は、私とは違うはず。
時差のある日本の家族との連絡は、絶対に「オン」じゃないと不安かもしれません。
現地の緊急速報(地震とか天気とか)は、むしろ「オン」にしておくべきです。
だから、「簡素」っていうのは、「全部捨てろ」ということじゃない。
**「あなたにとっての『本質』は、何ですか?」と、自分に問いかける『心の作業』**なんだと思います。
私たち主婦は、毎日、家族のこと、家のこと、地域のこと、色々な「タスク」や「情報」をさばいています。
そこに、スマホからの「どうでもいい情報」まで流れ込んできたら、そりゃパンクします。
「簡素」とは、自分を守るための「盾」であり、「フィルター」です。
余計なノイズをシャットアウトして、大切な音だけを聞き取るための。
通知を「間引く」ことは、単なるスマホのテクニックじゃありませんでした。
それは、「私の時間と意識は、何に使うべきか」という、『人生の優先順位』を決める作業だったんです。
「情報に振り回される」のではなく、「私が、情報を選ぶ」。
この感覚を取り戻せただけで、「デジタル禅」の第一歩としては、大成功。
こうして、私のスマホは「静けさ」を取り戻しました。
焦げた玉ねぎも、もう生まれていません(笑)。
でも、まだ課題はありました。
「通知」という「受け身」の攻撃は防げるようになった。
でも…私、気づいちゃったんです。
通知が来なくても、**自分でスマホを「見に行ってしまう」**という、恐ろしい習慣が残っていることに…。
「ちょっと手が空いたから、SNSでも見るか」
「あ、あの件、どうなったかな」
物理的な「音」は消せても、心の中に染み付いた「クセ」は、なかなか手ごわい。
「簡素」にして、スマホとの「物理的な距離」は取れた。
次は、「心理的な距離」をどう取るか?
そこで私が試したのが、次のステップ。
日本の「間(Ma)」と「森林浴(Shinrin-yoku)」という、もっと深い「心のデトックス」です。
「間(Ma)」と「森林浴(Shinrin-yoku)」で、心に余白と深呼吸を
(ここから「転」の本文です)
前回の「承」で、私はスマホの通知を「簡素(Kanso)」にし、人生から「ピロン!」の音を追放することに成功しました。
キッチンは静かになり、玉ねぎが焦げることもなくなりました(笑)。
…が、しかし。
敵は、外(通知)だけにいるんじゃなかった。本当のラスボスは、私の「心の中」にいたんです。
シーンと静まり返ったスマホ。
それなのに、私、気づいちゃったんです。
料理の合間に火を弱めた、ほんの30秒。
子供が一人でブロック遊びに集中し始めた、ほんの5分。
そんな「スキマ時間」が生まれるたびに、無意識に、吸い寄せられるようにスマホに手が伸びている自分に。
通知が来てないのは分かってる。でも、開いちゃう。
SNSを開き、特に見たいものもないのに、親指でフィードを「シュッ、シュッ」と無限にスクロール…。
「あ、やばい。これ、完全に『クセ』だ」
せっかく「簡素」にして物理的なノイズは減らしたのに、私の「意識」は、相変わらずスマホに囚われたまま。心が「手持ち無沙汰」になるのを、極端に怖がっている状態でした。
これじゃダメだ。根本的な解決になってない。
この「無意識のクセ」をどうにかしないと、私の時間は永遠に「シュッ、シュッ」に吸い取られてしまう。
そこで私が取り入れたのが、フックにあった次の二つの日本の知恵。
**「間(Ma)」と「森林浴(Shinrin-yoku)」**です。
【私のデジタル禅②:「間(Ma)」で心にブレーキをかける】
「間(Ma)」。
これって、すごく日本的な感覚ですよね。
例えば、日本画。西洋の絵画がキャンバスをびっしり色で埋め尽くすことが多いのに対して、日本画は、あえて何も描かない「余白(=間)」を大切にします。その「間」があるからこそ、描かれた花や鳥が、より一層引き立つ。
会話だってそう。「間が持てない」って言うとネガティブだけど、本当に心地いい会話って、急いで言葉を埋めようとせず、適度な「間」がありますよね。
要するに、「間」とは、**「あえて『何もない』空間や時間を置くことで、逆に豊かさを生み出す」**という、超ハイレベルな美意識なんです。
(…かっこいいこと言ったけど、要は「ぼーっとする時間を取り戻せ!」ってことだ、と私は解釈しました・笑)
私の日常は、この「間」がゼロでした。
レジの行列、電車の待ち時間、トイレの中まで(!)。ありとあらゆる「スキマ時間(=本来なら『間』になるはずの時間)」を、スマホの情報でびっしり埋め尽くしていたんです。
脳が、24時間、情報漬け。そりゃ疲れます。
そこで、私が実践した「心の『間』づくり」がこちらです。
<実体験①:「SNSフォルダ」の島流し>
まず、衝動を物理的に抑えることから。
ホーム画面の一番押しやすい場所に鎮座していた、SNSやニュースのアプリたち。
彼らを全部、一つのフォルダにまとめ、ホーム画面の3ページ目とか、一番奥の「島流し」にしました(笑)。
こうすると、アプリを開くまでに「フォルダを開く→スワイプする→アプリをタップする」という、**3ステップの「物理的な間」**が生まれます。
たったこれだけ?と思うでしょ?
これが、効くんです。
無意識にスマホを手に取っても、「あ、開くの面倒くさいな」と理性が働く。そのコンマ数秒の「間」が、「あれ、私、今、本当にこれ見たいんだっけ?」と自分に問いかける「心のブレーキ」になってくれました。
<実体験②:「あえて途中でやめる」勇気>
もう一つは、「無限スクロール」との戦いです。
SNSのフィードって、どこまで行っても「終わり」がないですよね。だから、ダラダラと見続けてしまう。
そこで、「時計を見る」ことを徹底しました。
「よし、今から5分だけ」と決め、タイマーをセット。
そして、5分経ったら、どんなに「いいところ」でも、あえて途中でアプリを閉じる!
「あ、友達の投稿にコメント返したかったのに!」
「この動画のオチ、気になる!」
…という未練を、あえて「残す」んです。
これ、「全部見なきゃ」「全部知らなきゃ」という強迫観念から抜け出す、すごくいい訓練になりました。
情報なんて、全部追えるわけがない。
「見逃しても、死なない」(笑)。
そうやって、情報に対して「腹八分目」を覚えることで、心に「間(=余裕)」が戻ってきたんです。
この「間」ができてから、面白い変化がありました。
電車の待ち時間、スマホを見る代わりに、ぼーっとホームの向かい側を眺めるようになったんです。
(海外だったら、街並みや、通りかかる人々を眺める感じですね)
「あ、あの人のカバン可愛いな」
「雲が流れるの、早いな」
…どうでもいいことです(笑)。
でも、この「どうでもいいことをぼーっと考える時間」こそが、情報でパンパンだった私の脳を、クールダウンさせてくれる「最高の『間』」だったんだと気づきました。
【私のデジタル禅③:「森林浴(Shinrin-yoku)」で強制リセット】
「間」をつくる訓練は、うまくいきました。
でも、家にいると、やっぱりダメなんです。
「島流し」にしたフォルダも、場所を覚えちゃえば、結局、無意識に開いちゃう。
意志が弱い私…。
そんな重症な自分に、最後の「荒療治」として処方したのが、
**「デバイスの森林浴(Shinrin-yoku)」**です。
「森林浴」って、日本で生まれた言葉だそうですね。
森の中に入って、木々の香りや新鮮な空気を浴びて、心身ともにリフレッシュすること。
これを、デジタル生活に応用する。
つまり、「定期的に、完全に、デジタル機器から『オフライン』になる」こと。
私流に言えば、「スマホ、家に置いて出かけてみよう」大作戦です。
これ、海外で暮らす皆さんにとっては、一番ハードルが高いかもしれません。
言葉も不安だし、道に迷ったらどうしよう。緊急連絡は?マップアプリがないと不安!
私も、最初はめちゃくちゃ怖かったです。
夫も子供もいるし、日本からの連絡が万が一あったら…。
だから、無理はしませんでした。
最初は、家から徒歩5分のコンビニに行くだけ。
次は、子供と近所の公園に30分だけ。
慣れてきたら、車で10分のスーパーへの買い出し。
「スマホ、家に置いていくね!」と夫に宣言し、いざ、出陣。
ポケットにスマホが入っていない。…軽い!
手が、自由!
でも、やっぱり不安で、最初の5分はソワソワしっぱなし。
信号待ちで、無意識にポケットに手が行く(笑)。「あ、ないんだった」
でも、10分もすると、慣れてくるんです。
そして、気づきました。
「五感」が、めちゃくちゃ研ぎ澄まされる…!
スマホという「情報フィルター」を一枚外しただけで、世界が、突然、鮮明になったんです。
いつもはイヤホンで音楽を聴きながら歩いていた道。
(あ、こんなところで鳥が鳴いてたんだ)
(風が吹くと、キンモクセイの香りがする)
(すれ違ったおばあちゃん、私にちょっと微笑んでくれたな)
子供と公園に行っても、いつもはベンチでスマホを見ながら「見守り」していた私。
スマホがないから、子供と一緒に砂場に座り込むしかない。
「ママ、見て! おだんご!」
「わー、上手! こっちはお山作ろうか」
子供の顔を、久しぶりに、こんなにちゃんと見た気がしました。
砂の冷たい感触、子供の笑い声、空の青さ…。
これだ、と思いました。
これこそが「森林浴」だ、と。
情報を「遮断」する(デトックスする)っていうのは、単に「我慢する」ことじゃなかった。
それは、情報の「インプット先」を、「デジタルの画面」から、「リアルな世界」に切り替える作業だったんです。
海外での生活って、それ自体が「リアルな情報」の宝庫のはず。
日本とは違う街並み、違う言葉、違う匂い、違う文化。
それを体験したくて、私たちは海を渡ったんじゃなかったっけ?
なのに、せっかく海外にいるのに、日本のスマホ画面ばっかり見てたら…
それって、日本で玉ねぎ焦がしてた私と、何も変わらない。
最高に「もったいない」!
「簡素(Kanso)」で、余計な音を消した。
「間(Ma)」で、心のスキマに「ぼーっとする豊かさ」を取り戻した。
そして、「森林浴(Shinrin-yoku)」で、リアルな世界の「解像度」を上げた。
この3つのステップを経て、私の「スマホ疲れ」は、劇的に改善しました。
デジタルは、もう「私を支配するラスボス」じゃなくなった。
「私が選んで使う、便利な道具」という、本来あるべき関係性に、やっと戻れた気がします。
じゃあ、この「デジタル禅」をマスターした(?)私は、
最終的に、どんな「豊かな時間」を手に入れることができたのか?
そして、海外で頑張る皆さんに、この経験から一番伝えたいメッセージは何なのか?
次回、いよいよ最終回。「結」の章で、私なりの「人生観」を、まとめたいと思います。
デジタルと「うまく付き合う」。海外で見つける、私らしい豊かな時間
(ここから「結」の本文です)
あの日、キッチンで焦げた玉ねぎを前に立ちすくんでいた私。
「ピロン!」という音に支配され、「私、今日いったい何してたんだっけ…」と、得体の知れない「疲れ」にため息をついていた私。
あれから数ヶ月。
「簡素(Kanso)」の教えにならって、嵐のように鳴り響いていた通知をバッサリと「間引き」しました。(「承」)
「間(Ma)」の美意識を取り入れて、SNSアプリを「島流し」にし、あえて「ぼーっとする」時間を取り戻しました。(「転」)
そして、「森林浴(Shinrin-yoku)」と称して、スマホを家に置いて出かけ、リアルな世界の「解像度」を上げる体験をしました。(「転」)
我ながら、よくやった(笑)。
じゃあ、今の私はどうなったか。
スマホを一切触らない、仙人のような「デジタル禅マスター」になれたのか?
…まさか!
そんなわけ、ありません(笑)。
今も、普通にスマホ、使ってます。
ママ友とのLINEグループも(通知はオフのままですが)ちゃんとチェックするし、Instagramで可愛いインテリアや美味しそうな料理の写真を見て「いいなー」ってうっとりもするし、YouTubeで子供と一緒にダンス動画を見て大笑いもしています。
でも。
あの日とは、決定的に、何かが違うんです。
それは、**スマホとの「関係性」**が変わったこと。
あの日までの私は、スマホが「ご主人様」で、私が「しもべ」でした。
「ピロン!」と鳴れば、家事の途中でも、子供との会話の途中でも、「はい!」と飛んでいく。
「手持ち無沙汰」になれば、「ご主人様、何か面白い情報はありませんか」と、自分からお伺いを立てにいく。
でも、今は違います。
「私」が、ご主人様。
スマホは、あくまで私の人生を「サポート」してくれる、「便利な道具」です。
この関係性を取り戻せたこと。
それこそが、私がこの「デジタル禅」の実践で手に入れた、一番大きな「宝物」でした。
この記事を読んでくださっている、海外で頑張る主婦の皆さん。
前にも書きましたが、皆さんにとって、スマホやPCは、日本に住む私なんかよりも、ずっとずっと「命綱」だと思います。
日本の家族と顔を見て話すための、大切な窓。
時差がある中、緊急連絡を受け取るための、アンテナ。
慣れない土地で、道を調べ、言葉を翻訳し、地域の情報を得るための、辞書であり、地図です。
だから、「スマホなんて、見ない時間を増やしましょう」なんて、私は無責任なことは言えません。
むしろ、逆です。
それだけ「命綱」として大切だからこそ、「どう付き合うか」という「哲学」が、誰よりも必要なんです。
せっかくの、海外生活。
皆さんは、私には体験できない、本当にエキサイティングで「リアルな情報」のど真ん中にいます。
窓から見える、日本とは違うかたちの雲。
スーパーで聞こえてくる、知らない言葉の響き。
パン屋さんから漂ってくる、嗅いだことのないスパイスの香り。
すれ違う人々の、豊かな表情。
それ、全部、スマホの画面からは得られない、「生の体験」です。
「森林浴」の話をしましたが、皆さんにとっては、住んでいるその街そのものが、未知の刺激に満ちた「森」みたいなもの。
その「森」を散歩しているのに、ずっと手の中の「スマホ」という小さな箱庭ばかり見ていたら…。
それって、日本で玉ねぎを焦がしていた私と、結局、同じ。
最高に「もったいない」!
「デジタル禅」って、スマホを断ち切って、我慢して、ストイックになることじゃありませんでした。
それは、
「『今、ここ』にある、かけがえのない瞬間を、スマホなんかに邪魔させないぞ」
という、自分の人生に対する「愛情」であり、「決意」みたいなものだったんです。
「簡素」「間」「森林浴」。
これら日本の知恵が教えてくれたのは、結局、**「情報に『振り回される』んじゃなく、自分が『情報を選ぶ』」**という、シンプルな覚悟でした。
今の私は、スマホを使う時は、意識的に使います。
「よし、今から15分、集中してSNSのコメントを返すぞ!」
「この料理のレシピを調べるぞ!」
って、ちゃんと「目的」を持って、道具として使いこなす。
そして、料理をしている時は、スマホはリビングに置いたまま。
ちゃんと玉ねぎが炒まる甘い匂いをかぎ、
「ママ、今日ねー」
と、学校であったことを報告してくれる娘の顔を、ちゃんと見て、
「へえ、それで?」
と、心から相槌を打つ。
子供の話を聞きながら、「(あ、さっきのLINE、返さなきゃ)」なんて、もう考えない。
私にとっては、これこそが、あの「ピロン!」に奪われていた、何よりも「豊かな時間」なんです。
海外生活は、日本にいるよりも、きっと情報戦だし、孤独を感じる瞬間もあると思います。
だから、無理にデジタルから離れる必要なんて、まったくありません。
ゼロか100か、じゃなくていいんです。
まずは、
「食事中は、スマホをテーブルに置かない」
それだけでも、いい。
「寝室には持ち込まない」
それだけでも、素晴らしい「デジタル禅」です。
自分にとって、心地いい「距離感」や、ちょうどいい「間(Ma)」を見つけること。
それが、異国の地で頑張る皆さんの毎日を、もっともっとリアルに、深く、豊かにしてくれる「人生術」になるんじゃないかな、と、日本の片隅から、心から応援しています。
あ、今日も玉ねぎ、いい感じに炒まりました!
今夜は美味しいカレーライスになりそうです(笑)。

コメント