夕暮れのキッチンと、静かすぎるリビング。私の「スマホ育児」元年。
(文字数:約3000文字)
海外で子育てを頑張っていらっしゃる皆さん、こんにちは!
日本はすっかり秋めいて、夕方の5時ともなれば、もう外は薄暗いです。
今、私はキッチンのコンロの前に立っています。
トントントン…と小気味よい音を立てて、今夜のメインディッシュ、肉じゃが用のニンジンを切っているところ。隣のコンロでは、お味噌汁用のカツオ出汁(だし)が、ふわりと優しい香りを漂わせています。
日本では、この「お出汁の香り」がすると、「あぁ、家に帰ってきたな」と感じる人が多いんですよ。
皆さんの国では、どんな香りが「おふくろの味」や「家庭の香り」を連想させますか?
さて。
トントントン…。コトコトコト…。
キッチンには、私がお料理をする音だけが響いています。
…あれ?
静かすぎる。
そう、いつもなら、この時間、私の足元には3歳になる息子の「たっくん」がまとわりついているはずなんです。
「ママ、見て!」「ママ、これ!」「ママ、だっこ!」
夕飯の支度は、毎日が時間との戦い。特に日本では、保育園のお迎えから帰ってきて、お風呂に入れて、ご飯を食べさせて、寝かしつけるまで、まるで嵐のような数時間が待っています。
これを、日本では俗に「ワンオペ育児」なんて呼んだりします。
そう、「ワン・オペレーション」。
夫の帰りは、今日も残業で遅い。一人で、すべてを回さなきゃいけない。
火を使っているときに足元に来られると危ないし、かといって放っておけば、今度はイタズラが始まって、結局、料理が中断してしまう…。
そんな私にとって、今のこの「静けさ」は、本来なら、とてもありがたい時間のはず。
じゃあ、なぜ、私の胸はこんなに「ザワザワ」するんでしょう。
そっとリビングを覗いてみます。
いました。
小さなソファの上で、たっくんがちょこんと座っています。
彼の小さな手には、私の数年落ちのタブレット。
画面には、カラフルな電車のアニメーションが流れています。
彼の小さな顔は、その青白い光に照らされて、真剣そのもの。
集中、しています。
私という存在が、今、彼の中から消えているみたいに。
これが、私の「今」です。
俗にいう、「スマホ育児」。あるいは「タブレット育児」。
海外の皆さんの周りでは、どうですか?
日本でも、この「スマホ育児」については、本当に賛否両論なんです。
カフェや電車の中で、ぐずる子供にスマホを渡している親御さんを見ると、「あぁ、楽してる」「子供がかわいそう」なんていう、冷たい視線を感じることも…(もちろん、直接言われるわけではないですが、空気で分かるんです)。
私も、ほんの数年前まで、どちらかといえば「アンチ」派でした。
「子供には、自然の中で、五感をフルに使って遊んでほしい」
「あんな小さな画面をずっと見せていたら、目が悪くなる」
「一方的な情報のシャワーなんて、思考力が育たない」
そう、思っていました。
理想の母親像、みたいなものが、私の中にもガチガチにあったんです。
でも、現実はどうでしょう。
あの日。
たっくんが1歳半を過ぎて、イヤイヤ期が本格化した日。
私は、インフルエンザで高熱を出していました。体温は39度。
でも、夫は大事な会議で休めない。近くに両親も住んでいない。
薬で朦朧(もうろう)としながら、たっくんのお昼ごはんを作ろうとするけれど、彼は「それじゃない!」と泣き叫び、お皿をひっくり返す。
もう、本当に、文字通り「万策尽きた」と思いました。
その時、わらにもすがる思いで、YouTubeで「赤ちゃん 喜ぶ 歌」と検索して、彼にタブレットを渡したんです。
ピタッ。
泣き声が、止みました。
さっきまで「鬼」のようだった息子が、画面の中のカラフルなキャラクターに、釘付けになっている。
その「静寂」の間に、私はなんとか自分の分のゼリーを流し込み、薬を飲み、床を拭くことができた。
あの時のタブレットは、間違いなく、私にとって「救世主」でした。
それから、です。
最初は「緊急事態のときだけ」と決めていたルールが、少しずつ、曖昧になっていったのは。
「お料理の間だけ、30分ね」
「ママが洗い物する間だけ、1本ね」
その「だけ」が、少しずつ私の日常を侵食していきました。
これが、フックで言うところの「サイレント・アディクション(静かなる依存)」なんだと思います。
怖いのは、子供が依存すること、だけじゃない。
親である私が、スマホやタブレットが生み出す「静かな時間」に、依存してしまうこと。
だって、楽なんです。
彼が画面に集中してくれている間、私は家事を猛スピードで片付けられる。
それだけじゃありません。
彼が静かな間に、私も、自分のスマホを手に取る。
LINEの返信、保育園からの連絡アプリのチェック、そして…インスタグラム。
(この「親自身の繋がりへのプレッシャー」については、また「承」で詳しくお話ししたい!)
でも、ふと我に返る。
さっきまで、あんなに「ママ、ママ」と私を呼んでいた息子が、今は画面に夢中で、私のことなんて見向きもしない。
私は、この「静けさ」を手に入れるために、いったい何を「対価」として支払っているんだろう?
フックにあった「喜びを盗む」という言葉が、胸に刺さります。
もちろん、今の時代、デジタル機器をすべて排除して生きるなんて不可能です。
それは日本でも、皆さんが住む国でも同じはず。
「ダメ、絶対!」と禁止するのは簡単。でも、それって、現実的じゃない。
特に、日本は良くも悪くも「他人に迷惑をかけない」ことを美徳とする文化が根強いです。
公共の場で子供が騒げば、親の「しつけ」が問われる。
そんな時、小さな画面が「お守り」になることも、事実なんです。
でも、このままでいいんだろうか。
息子の健やかな成長(フックの言う「子供の発達への影響」)と、
日々の家事育児を回すための「効率」。
そして、私自身の「心の平穏」。
このすべてを天秤にかけた時、私たちはどこに「ちょうどいい」着地点を見つければいいのか。
これは、日本で子育てをする一人の主婦の、とても個人的で、でも、きっと世界中の多くの親御さんが共感してくれるであろう、「葛藤」の記録です。
便利なテクノロジーと、失いたくない親子の時間。
その狭間で揺れ動く、私の実体験ベースの「人生術」探し。
よろしければ、もう少し、私のこの長い独り言にお付き合いいただけますか?
ワンオペの「救世主」か、親子の「時間泥棒」か。揺れ動く罪悪感の正体。
(文字数:約3100文字)
「起」の記事では、私が体調不良とワンオペ育児の極限状態から、息子のたっくんにタブレットを渡すようになった「スマホ育児元年」のお話をしました。
夕暮れのキッチンで、お料理に集中できる「静かな時間」。
でも、その静けさの中で、私の心はザワザワしっぱなしだ、と。
今日は、その「ザワザワ」の正体について、もう少し深く、正直にお話ししたいと思います。
覚悟してください、たぶん、皆さんも「あ、私と同じだ…」って、ドキッとしちゃうかもしれませんから。
例の、夕飯の支度の時間。
リビングでたっくんが、タブレットで電車の動画に夢中になっている。
私はキッチンでニンジンを切りながら、ふと、自分の手元を見てハッとするんです。
私、自分のスマホ、握りしめてる。
いや、正確に言えば、さっきまで見ていました。
肉じゃがの火加減を「弱火」にして、フタをして、コトコト煮込み始めた、その10分の間。
たっくんがタブレットに集中している、その「隙」に、私も自分のスマホで「休憩」していたんです。
何をしていたか?
まず、保育園の連絡アプリをチェック。
次に、ママ友たちとのLINEグループ。「週末、公園どうする?」という連絡に、「行くー!」とスタンプ一つで返信。
そして…魔のインスタグラム。
開くつもりはなかったんです。本当に。
ただ、指が勝手に、あのカラフルなアイコンをタップしてしまう。
そこには、私と同じように子育てをしているはずの「誰か」の、キラッキラした日常が溢れていました。
素敵な木のおもちゃで子供と遊ぶ横顔。
栄養バランスが完璧で、彩り豊かな「幼児食プレート」。
「#丁寧な暮らし」というタグがついた、塵(ちり)一つない、モデルルームのようなリビング。
私、今、何してるんだっけ?
片や、ニンジンと玉ねぎがゴロゴロ入った、茶色い「肉じゃが」。
片や、タブレットの青白い光を浴びている、3歳の息子。
そして、そんな息子を放置して、他人の「理想の暮らし」を眺めては、勝手に落ち込んでいる、私。
これが、「罪悪感」の正体の一つ目。
フックにあった、「繋がっていたいプレッシャー(pressure to connect)」が、私の場合、ちょっと歪(ゆが)んだ形で現れているんです。
海外に住んでいらっしゃる皆さんも、孤独を感じることはありませんか?
特に、慣れない土地での子育て。言葉の壁、文化の違い。
「ちょっと子供、見ててくれる?」と気軽に頼める実家も、近くにない。
日本では、都市部での「核家族化」が当たり前になって久しいです。
私のように、夫は激務で「ワンオペ育A児」が常態化している家庭は、本当に多い。
私たちは、孤立しています。
社会から、切り離されているような感覚。
「お母さん」という役割に閉じ込められて、かつての「自分」が、どんどん薄くなっていくような焦り。
そんな時、手のひらにあるこの小さな「窓」、スマホが、唯一、社会と繋がれる「命綱」のように感じてしまうんです。
誰かの「いいね!」が欲しくなる。
LINEの通知が来ていないと、不安になる。
「私、忘れられてないよね?」と、確認したくなる。
そう、私たちは「繋がっていたい」んです。
でも、皮肉ですよね。
社会や「誰か」と繋がろうとしてスマホを覗けば覗くほど、目の前にいる、一番繋がるべき「我が子」との時間が、おろそかになっていく。
息子がタブレットを見ている「静かな時間」は、私にとっては家事をする時間であると同時に、私が「私」を取り戻すための(と、思い込んでいる)時間でもある。
でも、その結果、何が起きているか。
リビングでは、息子が画面の中のカラフルな電車に夢中。
キッチンでは、私が画面の中の他人の「幸せ」に夢中。
同じ空間にいるのに、お互いが、まったく別の世界を見ている。
この「静かな分断」に気づいた時、背筋が凍るような感覚がしました。
息子にタブレットを与えている私を「ダメな母親だ」と責める資格なんて、私にはない。
だって、私自身が、スマホに依存している「ダメな大人」そのものだから。
そして、もう一つの、もっと根深い「罪悪感」。
それは、私がスマホやタブレットを、「救世主」として使っていること、そのものへの後ろめたさです。
日本には、「手間ひまをかけること」を美徳とする文化が、今でも強く残っている気がします。
例えば、お料理。
冷凍食品やレトルトは「手抜き」で、ちゃんと「お出汁」から取って、手の込んだものを作るのが「良いお母さん」。
(だから、私はせめてもの抵抗で、お味噌汁の出汁だけは、ちゃんとカツオから取ろうと頑張っちゃうわけですが…)
育児だって、そうです。
「子供の目を見て、しっかり向き合おう」
「絵本をたくさん読んであげよう」
「手作りの知育玩具で、五感を刺激しよう」
育児雑誌やネットには、そういう「理想の母親像」が、溢れかえっています。
そんな「理想」から見れば、タブレットをポチッと押して、子供を「黙らせる」私は、どう見えるでしょう?
「楽をしている」
「育児を放棄している」
「愛情が足りない」
そう、私の中の「こうあるべき」という呪い(のろい)が、私自身を責め立てるんです。
「あなたは、母親として、一番大事なことから逃げている」と。
でも、本当にそうでしょうか?
「起」でも書いたように、私がインフルエンザで倒れたあの日。
タブレットがなかったら、私と息子は、どうなっていたでしょう。
泣き叫ぶ息子を前に、高熱の私もパニックになって、二人で泣きながら、救急車を呼んでいたかもしれない。
ワンオペ育児の現場は、そんな「理想論」では乗り切れない、ギリギリの瞬間の連続なんです。
タブレットは、私にとっては「救世主」でした。
今だって、そうです。
火を使っている数分間、たっくんに「安全」でいてもらうための、最善策かもしれない。
私が怒鳴り散らして、自己嫌悪に陥る前に、お互いの「心の平穏」を保つための、緩衝材(かんしょうざい)かもしれない。
そうやって、頭では「必要悪」なんだと、自分に言い聞かせるんです。
「これは、私とたっくんが、笑顔でいるために必要なコストなの」と。
でも、心が、納得してくれない。
だって、気がついちゃったんです。
フックにあった「家族の力学(family dynamics)への影響」が、我が家でも、確実に起きていることに。
「救世主」だと思って頼っていたはずのタブレットが、いつの間にか、私たち親子の間に割り込んで、会話を奪う「時間泥棒」になっているんじゃないか?
息子は、最近、私に話しかける時、こう言うんです。
「ママ、これ終わったら、見てね」
タブレットの、電車の動画が「終わったら」、私に用事がある、と。
「ママ、見て!」と、今、この瞬間の感動を共有してくれていたはずの息子の優先順位が、私よりも「画面」になってしまっている…?
そして、私。
息子が公園で「ママ、シーソー乗ろう!」と誘ってくれても、「あ、ちょっと待って、今LINE返すから」と、スマホを優先してしまうことは…なかったでしょうか。
お互いが、お互いを「待たせる」存在になっている。
待っている間、何をするか?
もちろん、「画面」を見るんです。
これって、とても、とても、恐ろしいことじゃないですか?
私たちは、常に「接続」している(Constant Connectivity)ようで、実は、一番身近な家族と「切断」されている。
「ワンオペの救世主」だと思っていたものは、実は、親子の絆を静かに食い荒らす「時間泥棒」だったのかもしれない。
その「真のコスト(The true cost)」は、息子の「今、見て!」という、二度と戻らない瞬間を、私が取りこぼしている、ということなんじゃないか。
そんなモヤモヤとした罪悪感と焦りが、私の中で雪だるま式に大きくなっていた、ある日のこと。
その「モヤモヤ」が、明確な「危機感」に変わる、決定的な出来事が起こったんです。
息子の「見て」が聞こえなかった日。デジタルデトックスと「もったいない」精神。
(文字数:約3100文字)
「承」の記事で、私は、スマホやタブレットが「ワンオペ育児の救世主」であると同時に、親子の会話を奪う「時間泥棒」なんじゃないか、というモヤモヤした罪悪感について書きました。
頭では「必要だ」と分かっていても、心が「このままじゃダメだ」と叫んでいる。
そんな宙ぶらりんな状態だった私に、ある日、決定的な「事件」が起こりました。
それは、ドラマみたいに特別な日じゃありません。
よく晴れた、土曜日の午後。
夫は休日出勤(日本で働くパパあるあるです…)で、私はたっくん(3歳)を連れて、近所の公園に来ていました。
日差しは暖かいけれど、風はちょっと冷たい。
たっくんは、お気に入りの砂場セットで、一心不乱に「カレーライス」を作っています。
「ママ! おおもりカレーできたよ!」
「わー、美味しそう! いただきまーす!」
そんなやり取りを、最初は、ちゃんと笑顔で楽しんでいました。
でも、砂場遊びって、エンドレスなんです。
5分、10分…。
たっくんが一人で集中し始めたのを見て、私は、つい、ポケットのスマホに手を伸ばしてしまいました。
いつもの、あの「魔の引力」です。
ベンチに座り、最初は「たっくんが変なところに行かないか、見守りながら」のつもりでした。
チェックしたのは、天気予報。週末の特売情報。
…気づけば、私は、どうでもいい芸能ニュースのまとめサイトを、真剣な顔で読みふけっていました。
どれくらい時間が経ったでしょう。
突然、服のすそを、くいくいっと引っ張られました。
「ママ」
「んー?」
「ママ、みて」
「んー? なあに?」
私、最低なことに、その時まだ、画面から目を離していませんでした。
「今、この記事だけ読んだら…」と。
「ママ! みてってば!」
いつもより、少しだけ強い声。
そこでハッとして、ようやく、たっくんに視線を移しました。
彼の手のひらには、小さな、丸い、黒いものが乗っていました。
ダンゴムシです。
しかも、彼が言うには「あかちゃんのダンゴムシ」。
たっくんにとっては、世紀の大発見だったんです。
「…あー、うん、すごいねー。ダンゴムシだねー」
私は、そう言いました。
声のトーンは、自分でも分かるくらい、低くて、感情がこもっていませんでした。
そして、また、スマホの画面に目を落とそうと…した、その瞬間。
たっくんが、私の顔をじーっと見つめていました。
怒っているのでも、泣いているのでもありません。
ただ、なんというか…諦めたような、悲しいような、でも、何かを必死にこらえているような…。
言葉にするのが難しい、とても静かな表情でした。
彼は、何も言いませんでした。
ただ、私を数秒見つめた後、くるりと背中を向けて、またトボトボと砂場に戻っていきました。
その小さな背中が、砂場に着くまでの、わずか5メートルほどの距離。
私には、それが永遠のように長く感じられました。
ドクン。
心臓が、大きく、嫌な音を立てました。
「あ」
「私、いま、何した?」
スマホの画面なんて、もうどうでもいい。
ネットニュースの続きなんて、1ミリも頭に入ってこない。
さっきまでの「集中」がウソのように、頭が真っ白になりました。
全身の血の気が引いていく、あの感覚。
「やってしまった」
「承」の記事で書いた、モヤモヤした罪悪感。
あれは、まだ「かもしれない」という「疑い」でした。
でも、今のは違う。
明確な「後悔」です。
息子の、あんな顔。
私、初めて見ました。
いつもなら、「ママ見てくれない!」ってもっと騒いだり、怒ったりするはずなのに。
あの「静かな諦め」は、何?
もしかして、これが初めてじゃなかった…?
私が気づかないうちに、たっくんは、何度も何度も「ママ、見て」とサインを送っていたんじゃないか?
そして、何度も何度も、スマホ画面の向こう側にいる私に、そのサインを無視され続けて…ついに、諦めることを、覚え始めてしまった…?
ぞっとしました。
フックにあった「家族の力学(family dynamics)への影響」や「子供の発達への影響」って、こういうことなんだ。
学術的な論文の話じゃない。
今、目の前で、私のせいで、起きている現実なんだ。
私は、あの時、たっくんの「世紀の大発見」の瞬間を、共有できませんでした。
彼が「一番にママに伝えたかった」であろう、あのキラキラした興奮を、私は、どうでもいい芸能ニュースと引き換えにしてしまった。
あの時、もし私がスマホを見ていなくて、
「え! 赤ちゃん!? どこどこ!?」
と、一緒になって膝をついて、その小さなダンゴムシを覗き込んでいたら。
たっくんは、どんなに嬉しそうな顔をしただろう。
私たちは、どんな会話ができただろう。
二度と、戻らない。
あの瞬間の、たっくんの「見て!」は、もう、永遠に過去のもの。
ここで、私の頭に浮かんだのが、日本人が古くから大切にしてきた、ある「人生観」でした。
「もったいない(Mottainai)」
海外にお住まいの皆さんも、この言葉、聞いたことがあるかもしれません。
ノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさんが、この日本語を世界に広めてくれたことでも有名ですよね。
多くの人は、「ご飯粒を残しちゃダメ」「資源の無駄遣い」という意味で捉えていると思います。
もちろん、それも大正解。
でも、日本の「もったいない」という感覚は、単なる「エコ」や「節約」よりも、もう少し深いところにある、と私は思っています。
それは、仏教的な「すべてのものには価値(命)が宿っている」という考え方にも通じる、あらゆる「恵み」への感謝と畏敬(いけい)の念です。
物だけじゃありません。
「時間」も、そう。
「人とのご縁」も、そう。
その価値を最大限に生かせず、無駄にしてしまうこと。
それこそが、最大の「もったいない」なんです。
私は、あの日、何を「もったいない」ことにしてしまったんでしょう。
スマホの通信料? バッテリー?
違いますよね。
私は、息子の「今、この瞬間」という、お金では絶対に買えない、二度と取り戻せない「時間」を、無駄にした。
息子の「ママ、分かって!」という、親子の「ご縁」を深める最高のチャンスを、ドブに捨てた。
これ以上の「もったいない」が、この世にあるでしょうか。
「スマホは時間泥棒」だなんて、生ぬるい。
あれは、人生そのものを盗んでいく「人生泥棒」だ。
私から「母親である喜び」を盗み、
息子から「親に愛されている実感」を盗んでいく。
そのことに、あの小さな背中が、私に教えてくれました。
もう、見て見ぬふりはできない。
ワンオペだから、仕方ない?
夫が非協力的だから、仕方ない?
社会がそうだから、仕方ない?
ぜんぶ、言い訳だ。
私と息子の「今」を守れるのは、私しかいない。
これが、我が家の「デジタルデトックス」の本当の始まりでした。
「子供からスマホを取り上げる」んじゃない。
「私が、スマホから人生を取り戻す」戦いの始まりです。
でも、いきなり「スマホ禁止!」なんて、無理なのは分かっています。
(「起」で書いたように、緊急時の「救世主」としての役割も、まだ必要だから)
だから、私は「ゼロか100か」の極論ではなく、この「もったいない精神」を「生活の知恵」として使うことにしたんです。
まず、決めたこと。
「食事中」と「寝る前1時間」は、絶対にスマホを触らない。
いや、「触らない」という精神論では、私は弱いから負けてしまう。
だから、「物理的に」離すことにしました。
キッチンにある、充電器。
そこを「スマホのおうち」と決めたんです。
「ただいまー」と家に帰ったら、スマホも「おうち」に帰す。
食事の時も、たっくんと遊ぶ時も、スマホはキッチンから動かさない。
(もちろん、緊急の電話がかかってきたら、出ますよ!)
最初は、まぁ、落ち着かなかったです。
LINEの通知音が聞こえた気がする(幻聴)。
何か、大事な連絡を見逃しているんじゃないかとソワソワする。
たっくんも、私がスマホをいじっていないものだから、手持ち無沙汰になって「タブレット、みたい」と言い出す。
その、気まずい「沈黙」。
でも、私、気づいたんです。
この「気まずい沈黙」や「手持ち無沙汰な時間」こそが、スタートラインなんだ、と。
今までは、この「沈黙」が怖くて、お互いに「画面」に逃げ込んでいた。
でも、これからは違う。
この「もったいない時間」を、どうやって「価値ある時間」に変えていくか。
ここからが、私の「人生術」の、本当の腕の見せ所です。
画面の向こう側じゃなく、「今、ここ」を生きる。我が家の「ちょうどいい」デジタルとの付き合い方。
(文字数:約3000文字)
「転」の記事で、私はついに「スマホはキッチンに置く」という、小さな、でも我が家にとっては大きな「ルール」を決めました。
公園での「ダンゴムシ事件」が教えてくれた、息子の「今」を無駄遣いしているという、強烈な「もったいない」感覚。
その後悔から、私は「人生を取り戻す」戦いを始めたわけです。
さて。
その戦いの火蓋(ひぶた)が切って落とされた、最初の夜。
「ただいまー」と保育園から帰り、宣言通り、私はスマホをキッチンの充電器に「おうち、ただいま」と置きました。
「転」でも書きましたが、リビングに訪れたのは、なんとも気まずい「沈黙」でした。
いつもなら、息子はタブレットの電車、私はスマホのSNS、という「静かな分断」の時間。
それが、ない。
「ママ、タブレットは?」
来ました。息子からの、当然のリクエスト。
「んー、タブレットさんね、今お休み中」
「えー、なんでー」
口を尖らせる、たっくん。
私も、ソワソワしていました。
(あぁ、LINEの通知が鳴った気がする…)
(夕飯の献立、あのレシピサイトでもう一回確認したかったな…)
正直、私がスマホを触りたくて、ウズウズしていたんです。
でも、ここで負けたら、またあの「後悔」を繰り返す。
「ねえ、たっくん。今日、保育園で何したの?」
「……えっとね、ブロック」
「おー、ブロック! 何作った?」
「……ひみつ」
会話が、続かない(笑)。
気まずい。
手持ち無沙汰になったたっくんは、ソファでゴロゴロし始めました。
私も、とりあえず夕飯の支度を始めなきゃと、キッチンに立ちます。
「ママ、ひまー」
背中越しに、息子の声がします。
「ママもひまー」と返してみますが、お互い、どうしていいか分からない。
この「手持ち無沙汰な時間」。
これこそが、私たちがスマホやタブレットに逃げ込む「原因」だったんだと、痛感しました。
この「間(ま)」が、怖い。
何かで埋めなきゃ、と焦ってしまう。
でも、その時です。
ソファでゴロゴロしていたたっくんが、おもむろに立ち上がり、私のもとへトコトコやってきました。
そして、私の足元にある、野菜ストッカーを指差しました。
「たっくんも、やる」
「え?」
「にんじん、あらう」
それは、私が「起」の記事で書いていた、あの「肉じゃが」用のニンジンでした。
「えー、危ないよー」
そう言いかけた私を、たっくんは、あの公園の時と同じ、じーっとした目で見つめます。
(あ、違う)
(ここで断ったら、ダンゴムシの二の舞だ)
「…やる? よーし、じゃあ、運んでくれる?」
私は、彼に泥だらけのニンジンを1本、渡しました。
彼は、それを両手で大事そうに抱え、キッチンの流しまで運びます。
私が踏み台をセットすると、彼は喜んで乗り上げました。
水を細く出して、二人でゴシゴシ、ニンジンを洗う。
冷たい水が、彼の小さな手に跳ねます。
「わ、つめた!」
「あはは、ほんとだ、冷たいね!」
「ママ、みて! ピカピカなった!」
「うわー、すごい! ニンジンさん、喜んでるよ!」
ただ、ニンジンを、洗っているだけ。
たったそれだけのこと。
でも、私は、泣きそうになっていました。
私、スマホを見ていた時には、気づかなかった。
この子が、こんなに「お手伝い」をしたかったなんて。
この子が、こんなに目をキラキラさせて、水しぶきを感じていたなんて。
私、この子の「今」を、どれだけ見逃してきたんだろう。
「もったいない」
心の底から、また、あの言葉が湧き上がってきました。
でも、今度は「後悔」の響きじゃありません。
「あぁ、この瞬間を味わえて、よかった」という、「取り戻せた」喜びとしての「もったいない(=無駄にしなくてよかった)」でした。
それから、我が家は、少しずつですが、確実に変わっていきました。
スマホがリビングにない「沈黙」の時間は、イコール「退屈」な時間ではなくなりました。
それは、「次、なにする?」と相談する「作戦タイム」になったんです。
「ママ、ひまー」という息子の声は、私への「SOS」ではなく、「遊ぼうよ!」という「お誘い」の言葉に変わりました。
もちろん、毎日がそんなにキラキラしているわけじゃありません。
粘土遊びをすれば床はベトベトになるし、絵本を5冊連続で「読んで!」と言われれば、正直「もう勘弁して…」と思う日もあります。
でも、そんな「面倒くさい」と感じる時間こそが、「家族の力学(family dynamics)」を再構築してくれていたんです。
スマホが提供してくれていた「効率」と引き換えに、私が手に入れたのは、「非効率だけど、温かい、面倒くさい日常」でした。
そして、一番変わったのは、私自身かもしれません。
私は、「完璧な母親」になることを、やめました。
今でも、本当に疲れて、もう1ミリも動きたくない時。
あるいは、絶対に焦がせない、大事な調理をしている時。
私は、息子に「伝家の宝刀」として、タブレットを渡すことがあります。
「ごめん、たっくん。今、ママ、本当にピンチだから、30分だけ、電車さん(タブレットのこと)に助けてもらおう!」
そう言って、ちゃんと「お願い」するんです。
息子も、それが「いつも」じゃないことを分かっているから、「いいよー!」と快く引き受けてくれます。
タブレットは、「時間泥棒」でも「育児放棄」でもなく、我が家にとっては、今度こそ本当に「救世主(ピンチヒッター)」になりました。
私、気づいたんです。
問題は、スマホやタブレットという「道具」そのものじゃなかった。
それに「依存」し、それに「意識の主導権」を明け渡してしまっていた、私自身の「心の持ちよう」だったんです。
フックにあった「サイレント・アディクション(静かなる依存)」から抜け出すために必要なのは、道具を捨てることじゃありません。
道具との「距離感」を、自分で決めること。
我が家の「ちょうどいい」距離感。
それは、
- スマホのおうちは、キッチンの充電器。リビングには、なるべく持ち込まない。
- 息子が「ママ、見て」と言ったら、何をしていても、まずスマホ(あるいは家事)から目を離し、「なあに?」と息子の目を見る。
- どうしても必要な時は、「道具」として、罪悪感なく、堂々と頼る。
この3つです。
とてもシンプルですが、このルールが、あの「ダンゴムシ事件」のような「取り返しのつかない後悔」から、私を守ってくれています。
この記事を読んでくださっている、海外で子育てを頑張る、日本の主婦の皆さん。
あるいは、日本に興味を持ってくださっている、海外の皆さん。
私たちは、便利な時代に生きています。
でも、便利すぎて、一番大切な「今、ここ」にある幸せを、見失いがちです。
画面の向こう側にある、誰かの「いいね」や、どうでもいい情報に気を取られて、目の前で、あなたに「見て!」と言っている、大切な人の「人生の宝物」のような瞬間を、「もったいない」ことにしてしまっていませんか?
これは、日本という国の片隅で暮らす、一人の主婦の実体験です。
これが、唯一の「正解」だとは思いません。
きっと、ご家庭の数だけ、「ちょうどいい」距離感があるはずです。
だから、もし今、私と同じように「罪悪感」や「焦り」で胸がザワザワしている方がいたら、伝えたい。
完璧な親になんて、ならなくていいんです。
ただ、ほんの少しだけ、スマホから顔を上げて、目の前の「今」を見つめてみてください。
そこには、画面の中なんかより、ずっと面白くて、愛おしくて、面倒くさくて…そして、かけがえのない「人生」が、転がっているはずですから。
さあ、私も、そろそろパソコンを閉じます。
リビングから、「ママ、今日のカレーライス、ニンジンいれる?」と、たっくんの呼ぶ声がしますから。

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