我が家の「デジタル憲法」制定前夜。~「ダメ!」が空回りする夕暮れ~
「あー、もう!またその動画!?そろそろご飯だからやめなさーい!」
夕暮れ時のキッチン。味噌汁の出汁のいい香りが漂う中、私の声だけがトゲトゲしく響きます。海外に住む皆さん、こんにちは!日本(東京のちょっと郊外)で、夫とわんぱくな6歳息子と暮らしている主婦、アキです。
今、私の目の前では、リビングのローテーブルに肘をついた息子が、タブレットに釘付けになっています。画面の中では、カラフルなキャラクターがけたたましい効果音と共によくわからないダンスを踊っている…。
「ママ、いま、いいところなんだから!」
ほら来た。そのセリフ、今日だけで何回目でしょう?(笑)
海外にお住まいのみなさんのご家庭では、どうですか?「子供とスマホ・タブレット」の距離感って、本当に悩ましくないですか?
この間、ドイツに住む大学時代の友人と久しぶりにビデオ通話したんです。彼女も私と同じくらいの年の娘さんがいるんですが、「もう、YouTubeとゲームばっかり!公園に誘っても『家がいい』って言う日もあって…」と、私とまったく同じため息をついていました。世界中どこだって、親の悩みは一緒なんだなーって、変なところで安心してしまいました。
便利さと罪悪感のシーソーゲーム
正直に告白します。私が夕飯の支度をしているこの時間、息子がタブレットを見ていてくれると、めちゃくちゃ助かるんです。
日本の主婦の夕方って、本当にマルチタスクの嵐なんですよ。保育園のお迎えから帰ってきて、洗濯物を取り込んで、お風呂掃除をサッと済ませて、それから夕飯の支度。メインと副菜と…あ、味噌汁の具がない!なんて日も。そんな時、静かに動画を見て集中していてくれると、料理がスムーズに進むのは事実。
でも、ふと我に返るんです。
リビングから聞こえてくる、やたらハイテンションなYouTuberの声。それに応えるように、時折「ヒャッヒャッ!」と笑う息子の声。
(…私、今、「スマホ育児」してるよな…)
胸がチクッと痛む。まるで、自分がすごく「手抜き」をしているダメな母親みたいで。
日本って、「こうあるべき」という理想の母親像が、結構根強く残っている気がするんです。「子供が小さい時は、母親はできるだけ子供と向き合い、手作りのもので、丁寧な暮らしを…」みたいな。もちろん、そんなの幻想だって頭ではわかってるんですよ!わかってるんですけど、スーパーで見るお弁当の冷凍食品コーナーの充実ぶりとは裏腹に、心のどこかで「手抜き=罪」みたいな意識が拭えない。
だから、タブレットに子守りをさせている自分に、うっすらと罪悪感を抱いてしまう。
「禁止」が一番簡単。でも…
そんなモヤモヤを抱えているから、いざ「やめなさい!」って言う時、私の声には必要以上にイライラが乗っかっちゃうんですよね。
「もう!いい加減にしなさい!そんなの見てたら目も悪くなるし、頭も悪くなるよ!」
はい、出ました。親の常套句(笑)。
これ、息子の心に響いてると思います?…ぜーんぜん、響いてないですよね。
息子からすれば、「さっきまで何も言わなかったくせに、なんで急に怒るの?」って感じでしょう。
実際、「なんでダメなの?」と聞かれた時、私、ちゃんと答えられてないんです。
「目が悪くなるから」
「(よくわからない動画を見て)頭が悪くなりそうだから」
「依存症になったら怖いから」
全部、漠然とした「不安」や「恐れ」からくる言葉。
「〇〇ちゃん(近所の子)は、もう九九覚えてるのに、あんたは動画ばっかり…」なんて、他人と比べる最悪な言葉が喉元まで出かかって、慌てて飲み込む日もあります。
日本って、「周りと足並みを揃える」ことを良しとする空気が、良くも悪くも強い場所だと思うんです。だから、「うちの子だけが、何か『悪い』習慣に染まって、みんなから遅れてしまったらどうしよう」という不安が、他の国で暮らすより強いのかもしれません。
でも、こんな風に親の不安や世間体をベースにした「禁止」って、一体なんの意味があるんだろう。
息子はただ、不満そうな顔で「ちぇっ」と舌打ち(生意気!)しながらタブレットを消すだけ。
私の中には、罪悪感とイライラが煮詰まったような、後味の悪い感情だけが残る。
息子がタブレットを消した後、リビングには気まずい沈黙が流れます。
キッチンタイマーの「ピピピッ」という無機質な音だけが、やけに大きく響く。
これって、私が望んでる家族の姿だっけ…?
「ルール」の前に、「価値観」を話そう
そんなある日、ネットで海外の子育てに関するコラムを読んでいたら、こんな言葉に出会ったんです。
“Setting the Foundation: Values Over Restrictions”
(土台を築こう:制限よりも、価値観を)
ガツン、と頭を殴られたような衝撃でした。
私が今までやろうとしていたのは、「Restrictions(制限)」ばっかりだったな、と。
「1日1時間まで」「ご飯中はダメ」「寝る前は見ない」
そういうルール(制限)を作って、守らせることばかり考えていました。
でも、そのコラムが言っていたのは、
「ルールを作る前に、まず家族の『Values(価値観)』、つまり『我が家は何を大切にしたいのか』という土台をしっかりさせようよ」
ということだったんです。
「なぜ、我が家はデジタル機器とこういう付き合い方をしたいのか?」
「テクノロジーを使って、家族でどんな楽しいことをしたい?」
「逆に、テクノロジーによって失いたくない、大切な時間は何?」
そういう、家族としての「デジタル・フィロソフィー(哲学)」みたいなものを、まず話し合う。
そして、その「価値観」を守るために、みんなで納得できる「ルール」を作っていく。
フック(きっかけ)として紹介されていたのは、まさにこの考え方でした。
「The ‘Why’ behind the ‘No’」
(「ダメ」の裏にある「なぜ」を説明すること)
私、説明できてなかったな…。「目が悪くなるから」じゃなくて、もっと根本的な「なぜ」を。
例えば、
「ママは、ご飯の時は、今日保育園であった楽しい話とか、息子くんが今ハマってる虫の話とか、そういうのを、ちゃんと目を見て聞きたいから。タブレットを見ながらだと、それができないから寂しいんだ」
とか。
「寝る前に動画を見ると、頭が興奮しちゃって、いい夢が見られなくなるかもしれないよ。ママは、息子くんにぐっすり寝て、明日も元気に遊んでほしいから、夜は静かに絵本を読みたいんだ」
とか。
そういうことだったんだ、って。
我が家の「デジタル憲法」前夜
この「制限より価値観」という考え方。
これって、すごく日本的な感覚とも繋がるんじゃないかな、と私は思ったんです。
例えば、日本には「もったいない」という言葉がありますよね。これは単なる節約じゃなくて、モノに宿る命や、作ってくれた人への感謝を大切にする「価値観」です。
あるいは、食事の「腹八分目」。満腹まで食べるんじゃなくて、少し余裕を残すのが健康にいいという「知恵」であり「価値観」です。
デジタルとの付き合い方も、それと同じなんじゃないかな。
「禁止」や「我慢」といったネガティブな言葉で縛るんじゃなくて、「本当に大切な時間」や「心地いい暮らし」というポジティブな「価値観」を家族で共有する。
そのために、デジタル機器という便利な道具と、どう「ちょうどよく」付き合っていくか。
それはまるで、家族の「憲法」を作るみたいだな、と思ったんです。
一番大事な、根本的な理念。
今の我が家は、まだその「憲法」を持っていません。
だから、私(親)のその日の気分や不安で、言うことがコロコロ変わる。
息子も、どこまでOKでどこからがNGなのかわからず、親の顔色をうかがったり、反発したりする。
キッチンで一人、冷めかけたほうじ茶をすすりながら、私は決意しました。
「制限」で息子を縛るのも、罪悪感で自分を縛るのも、もうやめよう。
まずは、夫と、そして息子とも、ちゃんと話をしてみよう。
「我が家は、何を大切にしたい?」って。
これが、我が家の「デジタル憲法」制定前夜の、長くてモヤモヤした、でもちょっとだけ光が見えた夜のお話です。
週末の「家族会議」と、6歳児に伝えたかった「心の余白」の話。
「起」で、「制限(Restrictions)より価値観(Values)だ!」なんて、一人で熱く決意表明した私。
…とはいえ、ですよ。
海外にお住まいのみなさんも、もしかしたら「あるある!」って思ってくれるかもしれないんですけど、こういう「家族の仕組みを変えよう!」みたいな提案って、夫に切り出すのが地味に一番ハードル高くないですか?(笑)
うちの夫(会社員・ユウくん)は、良くも悪くも現実主義。「なんかスピリチュアルなこと言い出したぞ?」みたいな顔されるのがオチかも…なんて。
第一関門:夫(ユウくん)とのすり合わせ
決戦の(というと大げさですが)土曜日の朝。
息子(ハル・6歳)はEテレ(日本の教育テレビ)のアニメに夢中。その隙に、私はキッチンでコーヒーを淹れながら、切り出すタイミングを計らっていました。
「ねえ、ユウくん。ちょっと相談があるんだけど」
「んー?なにー?」(←スマホでニュースチェック中。すでにデジタルに夢中)
ほら、これですよ(笑)。
「あのさ、最近のハルのタブレット時間のことなんだけど。なんか私、毎日ガミガミ怒ってるだけで、嫌になっちゃって」
「ああ…。まあ、確かに。でも、あれのおかげで俺らがゆっくりできる時間もあるわけだし、難しいよな」
意外。思ったより、ちゃんと「難しい問題だよね」と認識してくれていました。
私は、昨夜出会った「制限より価値観」という言葉がいかに衝撃的だったか、そして、私たちが「禁止」ばかりしてきて、「なぜダメなのか」の根本を説明してこなかったんじゃないか、という話を一気にまくしたてました。
「…でね、思うんだけど、『我が家は、何を大切にしたいか』っていう『デジタル憲法』みたいなのを、まず私たち大人が決めない?」
「デジタルけんぽう…?」
ユウくんは、マグカップを持ったままキョトンとしています。
そりゃそうだ。
私は慌てて、近くにあった子供のお絵描き帳の裏紙とペンを持ってきました。
「例えばさ、『我が家が失いたくない時間』って何かな?それを書き出してみない?」
ユウくんは、少し面白がってくれたのか、スマホを置いてペンを取りました。
「失いたくない時間か…。そりゃあ、『家族でご飯食べてる時の会話』とか?」
「あ、いいね!私もそれ書こうと思ってた!」
私が「① ごはん中の会話」と書くと、ユウくんが続けます。
「あと、俺がやる『寝る前の読み聞かせ』。あれは俺も楽しみにしてるから、動画のせいで時間が押すのは嫌だな」
「わかる!じゃあ、『② 寝る前の絵本タイム』」
「あと、休みの日に公園で思いっきり体動かす時間とか。家にこもってずっとタブレットは、さすがにな」
「『③ 週末のそとあそび』ね!」
こうして書き出してみると、案外スラスラ出てくるものです。
私たち夫婦が、知らず知らずのうちに「これは守りたい」と思っていた、ささやかな日常の風景。
「結局さ」とユウくんが言いました。
「俺たちは、デジタル機器を排除したいわけじゃない。便利なのは知ってる。ただ、**『デジタルに、家族団らんを邪魔されたくない』**ってことだよな」
それだ!!!
「そうそう!それ!『邪魔されたくない』!私たちが守りたいのは『家族の時間』っていう価値観であって、『タブレット禁止』っていうルールじゃないんだ!」
まさに、”Values Over Restrictions” です。
ユウくんという現実主義者を通すことで、私のフワフワした「価値観」という言葉が、「家族団らんを邪魔されたくない」という、すごく具体的でシンプルな「我が家の理念」に翻訳された瞬間でした。
「よし。じゃあ、この『理念』を、どうやってハルに伝えるか…それが第二関門だな」
ユウくんは、ちょっと楽しそうに笑いました。
第一関門、無事突破です。
第二関門:「憲法」を6歳児に伝えるということ
その日の午後。
近所の和菓子屋さんで買ってきた、出来立てのみたらし団子を三人で囲んで、「おやつ会議」の始まりです。(「会議」と名付けると、息子ハルも「なになに?」とちょっと乗り気になるのが、日本の子供っぽいところでしょうか?笑)
「ハル。ハルはさ、タブレットで見る動画、楽しい?」
「うん!めっちゃたのしい!あのね、きのうみたやつはね…」
案の定、目をキラキラさせて動画の面白さを語り出すハル。
私たちは、それを「はいはい、わかったから」と遮らずに、まずは「うんうん、そんなに面白いのね」と、全部聞くことにしました。
海外の子育てでは「まず共感(Validate)」ってよく言いますけど、日本人の親って、つい「でも(But)」って遮りがち。ここをグッとこらえて、彼の「楽しい!」という気持ちを、まず私たちが「認める」こと。これが大事なんだな、と。
一通り話し終えて満足げなハルに、ユアくんが切り出しました。
「ハルの『楽しい!』って気持ちは、パパもママもよーくわかった。パパもさ、スマホで野球の動画見るの、めっちゃ楽しいもん」
「え、そうなの?」
「そうだよー。でもな、パパは、ハルとお話しするのも、同じくらい楽しいんだ」
ここで、私たちがさっき作った「理念」の登場です。
「だから、パパとママ、ハルと『相談』したいことがあります」
「そうだん?」
「うん。『禁止』とか『命令』じゃなくて、『相談』」
私は、ハルの目をまっすぐ見て言いました。
「ハルはさ、ご飯食べてる時、保育園のお話とか、虫のお話とか、いーっぱいしてくれるよね。ママ、あのお話聞く時間、世界で一番好きなんだ」
「えへへ…」
「でもね、もしハルがご飯の時もタブレットを見てたら、そのお話、聞けなくなっちゃう。それは、ママ、すっごく寂しい」
これが、私たちが伝えたかった「The “Why” behind the “No”」(「ダメ」の裏にある「なぜ」)です。
「目が悪くなるから」じゃない。「ママが、寂しいから」。
「それから、これ(みたらし団子)美味しいね。この『美味しいね』って気持ちも、もし動画見てたら、あんまり感じなくなっちゃうかも」
「えー、やだ!」
「でしょ?だから、ご飯の時と、おやつの時は、タブレットさんにはちょっと『お休み』してもらって、『美味しいね』とか『楽しいね』のお話タイムにしない?」
ハルは、まだ少し残っている団子のタレを舐めながら、じーっと私とユウくんの顔を交互に見ています。
頭の中で、彼なりに一生懸命考えているのが伝わってきました。
日本の知恵:「腹八分目」と「心の余白」
ここで私、ふと「起」でも思い出した、日本の「知恵」のことを思い出しました。
「ねえ、ハル。ご飯ってさ、『お腹いっぱい!もう食べられなーい!』ってなるまで食べるのと、『あー美味しかった!』って、ちょっとだけ余裕があるの(=腹八分目)と、どっちが気持ちいい?」
「うーん…」とハルは悩みます。
「いーっぱい食べるのも好きだけど、苦しくなったら、そのあと走れないからやだ」
「だよね!それと一緒かも!」
私は思わず膝を打ちました。
「動画もさ、すっごく楽しい『心の栄養』なんだけど、それを『もう苦しい!』ってなるまでお腹いっぱい食べちゃうと…」
「どうなると思う?」とユウくんが続けます。
「…わかんない」
「例えば、ブロックで遊ぼうかな、とか、絵本読みたいな、とか、そういう『他の遊び』が入ってくる場所が、心の中になくなっちゃうかも」
そう。私たちが伝えたかったのは、これでした。
**「心の余白」**の話です。
ボーッとする時間。
何もせずに、窓の外の雲が流れるのを眺める時間。
そういう、一見「無駄」に見える「余白」の時間にこそ、子供は自分で遊びを考え出したり、新しい発見をしたりする。
デジタル機器の刺激的な楽しさは、その「余白」を、あっという間に全部埋め尽くしてしまう力がある。
日本には、「侘び寂び(わびさび)」とか「間(ま)」とか、あえて「満たさない」ことの豊かさを良しとする文化がありますよね。完璧に作り込むんじゃなくて、少し隙間(余白)を残しておく美学。
「腹八分目」も、そういう「余白の知恵」の一つです。
「動画も、ずーっと見続けて『心の満腹』になっちゃうと、ハルが自分で『あれしたい!』って思いつく隙間がなくなっちゃう。それって、ママはすごく『もったいない』と思うんだ」
「もったいない」という言葉も、日本の大切な価値観です。
才能や時間を、最大限に活かしてほしい。
「だからさ、『腹八分目』みたいに、動画も『あー楽しかった!』ってところで一旦やめて、『心の余白』をちゃんと残しておくのはどうかな?」
「…心の、よはく?」
ハルは、初めて聞く言葉を、一生懸命反復しています。
6歳児には、まだちょっと難しかったかもしれません。
でも、ユウくんが笑って付け足しました。
「要するに、『楽しい!』でやめとけば、次もまた『見たい!』ってワクワクできるだろ?『もう見飽きた…』ってなるより、その方が良くない?」
「あ、それ、わかるかも!」
よかった。こっちの理屈(?)は響いたみたいです(笑)。
小さな、でも確実な一歩
もちろん、この「おやつ会議」一回で、ハルが「わかった!今日から動画は1日30分にする!」なんて言うはずもありません。
彼は、まだキョトンとした顔で、最後のみたらし団子を頬張っていました。
「…じゃあ、ご飯の時は、タブレットさん、『ねんね』させる?」
「そう!そうそう!そうしてくれると嬉しい!」
「あと、寝る前は、絵本がいい」
「うん!パパ、いっぱい読むよ!」
これが、この日の「会議」で決まった、たった二つの「ルール」です。
時間(何分)で縛る「制限」ではなく、「この時間は、これを大切にする」という「価値観」に基づいた、我が家だけの約束。
リビングの壁に、「デジタル憲法」なんて大げさな紙を貼り出したわけじゃありません。
でも、あの夕暮れの気まずい「ダメ!」の応酬ではなく、私たちは初めて、家族みんなが(一応)納得できる「共通の言葉」を持てた気がしました。
すぐには変わらないだろうな、と。
明日になったら、また「もっと見たい!」ってダダをこねるんだろうな、と。
そう覚悟はしていました。
でも、この小さな約束が、思った以上に大きな「転」を我が家にもたらすことになるなんて…。
この時の私は、まだ知る由もなかったのです。
梅雨空と「憲法」の揺らぎ。~それは「道具」か「悪者」か~
「承」で、あんなに熱く「デジタル憲法、制定だ!」と息巻いていた私。
みたらし団子を囲んで、「ご飯の時は、お話タイム!」「寝る前は、絵本!」という、我が家の小さな「理念」も決まりました。
…ええ、そうなんです。
海外にお住まいのみなさんも、きっとご経験あると思うんですが、
「ルールなんて、作った直後が、一番守られる」
んですよね(笑)。
あの「おやつ会議」の後の数日間は、本当に平和でした。
「あ、ご飯だから、タブレットさん、ねんねだ!」
息子ハル(6歳)が、自らタブレットを裏返しにして、ニコッと笑う。
「ハル、えらい!じゃあ、今日は保育園で何して遊んだか、教えてくれる?」
「あのね!きょうね…」
夫(ユウくん)とも「なんか、いい感じじゃない?」「『ダメ!』って言わないだけで、こんなに夕飯が美味しいとは…」なんて、顔を見合わせてニンマリしていました。
ああ、我が家にも、ついに「価値観で育児する」という、意識の高い(?)ステージが訪れたのだ、と。
梅雨入りと、憲法の「穴」
しかし。
そんな理想の家族像は、日本列島を覆い始めた「梅雨前線」と共に、あっけなく崩れ去ります。
そう、梅雨です。
日本(特に本州)の6月は、本当に雨、雨、雨。
ジメジメ、シトシト、時々ザーザー。洗濯物は乾かないし、湿気で床はベタつくし、何より…
外で遊べない!!
あの「デジタル憲法」の理念の一つ、「③ 週末のそとあび」。
これが、2週連続で雨によって封じられました。
「パパー!ママ―!どこか行こーよー!」
「いや、行こーよーって言われても、この雨じゃ公園も無理だって…」
リビングの窓に、雨粒が叩きつける土曜日の午後。
家の中のありとあらゆるオモチャ(ブロック、粘土、戦隊モノのフィギュア)に飽きた息子は、最終的にこう言いました。
「…じゃあ、タブレット、みていい?」
キターーー。
私とユウくんは、顔を見合わせました。
「えーっと…でも、昨日も結構見たしな…」
「だって、つまんないんだもん!!!」
ギャーーーン!と、ついに泣き出す息子。
ああ、もう、うるさい!こっちは雨で偏頭痛もしてるのに!
…ダメだ、ダメだ。イライラしたら、「起」の私に逆戻りだ。「価値観」「心の余白」…。
「ハ、ハル。『心の余白』、なくなっちゃうかもよ?」
「よはくってなにー!わかんない!つまんないのがやだー!」
ダメだ。6歳児に、理論(価値観)は通用しない。
いや、違う。6歳児の「今、この瞬間の退屈」という巨大なエネルギーの前では、大人が数日前に決めた「理念」なんて、あまりにも無力でした。
結局、「…じゃあ、30分だけね」と、一番やりたくなかった「時間による制限(Restrictions)」で、その場を収めてしまったのです。
息子は「やったー!」と歓声を上げ、私たちは(またしても)静かになったリビングで、ほうじ茶をすするのでした。
これが、一度目の「敗北」です。
二度目の「敗北」は、もっとあっけなく訪れました。
平日の夜、私が高熱を出してダウンした日です。
海外でのワンオペ育児も大変だと思いますが、日本の、夫の帰りが遅い家庭(我が家!)のワンオペも、なかなかのものです。
熱でガンガンする頭でキッチンに立ち、レトルトのお粥を温め、「ごめん、今日ママこれしか作れない…」と息子に出した時。
「えー!やだー!カレーがよかったー!」
(…知らんがな!こっちは40度近いんじゃ!)
とは、さすがに言えませんが、もう限界でした。
私は、壁に貼った「理念」など思い出す余裕もなく、這うようにしてリビングの棚からタブレットを取り、息子に差し出しました。
「…ハル、これ、見てていいから。静かに、お粥、食べて」
「え!?いいの!?やったーー!!!」
息子の嬉々とした声を聞きながら、私は寝室に倒れ込みました。
キッチンからは、息子が大好きな動画の、けたたましい効果音が鳴り響いています。
ああ、ダメだ。
「価値観」とか「理念」とか、そんな綺麗なもの、親に「時間と体力の余裕」がある時しか守れないじゃないか。
結局、私は「デジタル憲法」を守ることよりも、目の前の「静けさ」と「休息」を選んでしまった。
まるで、自分が一番「心の余白」を失っていたのは、私自身だったと突きつけられたようでした。
自己嫌悪で、熱のせいか、情けなさのせいか、涙がこぼれました。
「転」:それは「消費」か、「創造」か
そんな風に、作っては破れ、自己嫌悪に陥ってはまたタブレットに頼る…という、なんとも情けない「憲法違反」を繰り返していた、ある日のことです。
その日も雨でした。
私はリビングの隅で、生乾きの洗濯物を相手に、ため息をついていました。
息子は、例のごとくタブレットに夢中です。「またあの動画か…」と、私が諦め半分に息子の手元を覗き込んだ、その時。
「…あれ?」
息子が見ていたのは、いつものハイテンションな動画ではありませんでした。
画面に映っていたのは、彼が保育園で描いてきた、「恐竜(らしきもの)」の絵。
「ハル?それ、どうしたの?」
「あ、ママ!みて!これ、カッコよくしてるの!」
息子は、タブレットに元々入っていた「お絵描きアプリ」を、いつの間にか自分で起動していたのです。
そして、保育園で描いた自分の絵を、タブレットのカメラで(曲がりなりにも)取り込み、その上から、アプリの「キラキラ☆スタンプ」や「炎のペン」で、ものすごい装飾を施していました。
「ここからね、火がブワーッてでるの!」
「こっちはね、ピカピカのウロコ!」
彼は、私が見せたこともない機能を使いこなし、目をキラキラさせながら、自分の「作品」を「アップデート」していました。
ガツン。
また、頭を殴られたような衝撃でした。
私が今まで「ダメだ」と思っていたのは、「動画を一方的に『見る』こと」でした。
それは、彼にとって「消費」の時間。
私は、その「消費」の時間が、「心の余白」を奪うと信じ込んでいました。
でも、今、彼がやっているこれは?
これは、「消費」じゃない。まぎれもなく「創造」です。
彼は、デジタルという「道具」を使って、自分のアイデアを「表現」しようとしている。
「型」と「型破り」の狭間で
日本には、書道でも、茶道でも、武道でも、まずは師の言う通りに「型」を徹底的に学ぶ文化があります。
私たち家族が作った「ご飯の時はやめる」「寝る前は絵本」というのは、いわばデジタルとの付き合い方の「型」を作ろうとする試みだったんだと思います。
でも、ハルは、その決められた「型」の中で、私たちが想像もしなかった「使い方」を編み出した。
それは、私たちが決めた「型」を、いい意味で「破ろう」とする「型破り」の兆候なのかもしれない。
私は、慌ててユウくんに(LINEで)この興奮を伝えました。
「大変!ハルが、タブレットで絵を描いてる!これって、『心の余白』、どう思う!?」
私たちが「デジタル憲法」で守りたかった「価値観」って、何だったっけ?
「家族団らんを『邪魔されたくない』」
「『心の余白』を大切にしたい」
じゃあ、もし、デジタルが「邪魔」するんじゃなくて、家族団らんの「ネタ」を提供してくれたら?
(事実、私はハルの絵を見て「すごいじゃん!」と会話が弾んだ)
もし、デジタルが「余白を奪う」んじゃなくて、子供の「創造性を引き出す」道具になったとしたら?
私たちが「憲法」で縛ろうとしていた「デジタル」って、もしかして「動画(YouTube)」という、デジタルの中のほんの一部だけを見て、「悪者」だって決めつけていただけなんじゃないか…?
「タブレットさんには『お休み』してもらう」
そう言っていた私。
でも、その「道具」は、使い方次第で、息子の「好き」を爆発させる「魔法のキャンバス」にもなる。
雨の日の薄暗いリビングで、タブレットの画面だけが、やけに明るく輝いて見えました。
私たちが作った「憲法」は、この新しい「使い方」を、まったく想定していませんでした。
「デジタル憲法」、大幅な「改正」が必要かもしれない。
私たちの「転」は、息子の意外な「創造性」によって、突然もたらされたのです。
我が家の憲法は「改正」し続ける。~「禁止」の向こう側に見えたもの~
「転」で、息子ハル(6歳)がタブレットを「消費」するのではなく、「創造」の道具として使い始めたことに、私は頭をガツンとやられました。
ジメジメした梅雨空の下で、生乾きの洗濯物みたいに重かった私の心に、なんだか一筋の光が差したような気分でした。
海外にお住まいのみなさんも、こんにちは。東京の片隅で、今日もバタバタと生きている主婦のアキです。
私が「デジタル=動画=悪者!」と、すごく狭い視野で決めつけていたこと。
そして、高熱の日にあっけなく憲法違反(?)を犯した自分に、心底ガッカリしたこと。
そのすべてを、夫のユウくん(帰宅後)にブワーッと話しました。
「…ってことがあって。私、もう『禁止』とか『制限』とかで考えるの、疲れた。でも、野放しにするのも違う気がするし…」
洗い物をする私の背後で、黙って聞いていたユウくんが、静かに言いました。
「それさ、『禁止』か『野放し』かのゼロヒャクじゃなくて、いいとこ取りはできないの?」
「いいとこ取り?」
「ハルが絵を描いてたのは、純粋に『すごい』って思ったんだろ?じゃあ、『そういう使い方は、いいね!』って応援して、『動画をダラダラ見るのは、やっぱり腹八分目にしとこうか』って、ルールを『改正』すればいいんじゃない?」
「憲法改正」
その言葉に、ハッとしました。
そうか、一度決めた「憲法」だって、完璧じゃない。
特に、相手は日々ものすごいスピードで成長する6歳児で、テクノロジーはもっと早いスピードで進化している。
私たちが「これで完璧!」なんて思って作ったルール(理念)が、たった数週間で古くなるなんて、当たり前のことだったんです。
日本って、「一度決めたことを変えない」ことを美徳とするような、ちょっと頑固なところがある気がします。「三日坊主」なんて言葉があるくらい、コロコロ変えるのは「良くないこと」とされがち。
でも、子育てや暮らしって、もっと柔軟でいいはず。
「あ、こっちのほうがいいかも」
「ごめん、前のルール、やっぱり無理だった!」
そうやって、日々マイナーチェンジを繰り返していくことこそ、生活の「知恵」なんじゃないか。
第二次おやつ会議と、「道具」としての付き合い方
そして週末。
梅雨の晴れ間、今度は「かき氷(市販のシロップ)」を囲んで、第二次おやつ会議、開催です(笑)。
「ハル。この前の、恐竜の絵、すごかったね!ママ、びっくりした!」
「えへへ。あのね、炎のペンが最強なんだよ」
「そうなんだ!あのさ、ママ、思ったんだけど。タブレットって、動画を『見る』だけじゃなくて、ハルみたいに絵を『描く』こともできるんだね」
「うん!あとね、しりとりゲームもできるよ!」
(それも知ってる…!)
「あのさ、ハル。この前の会議で、『ご飯の時と寝る前は、お話と絵本タイムにしよう』って決めたじゃん?あれはさ、ママとパパ、今も『すごく大事』って思ってるんだ」
ハルは、青いシロップ(ブルーハワイ味)で舌を真っ青にしながら、コクンと頷きます。
「うん。ハルも、パパの絵本、すき」
「ありがとう。だから、そこは『改正なし』。これからも、大事にしよう」
「でもね」と、今度はユウくんが切り出しました。
「タブレットで、絵を描いたり、ゲーム(※この時は知育系のパズルゲームを指していました)をしたり、『つくる』とか『考える』ために使うのは、パパ、すごく『いいこと』だと思うんだ」
「いいこと?」
「そう。だから、『そういう使い方』は、どんどんやってみよう。その代わり、ただ『ぼーっと見る』だけの動画は、やっぱり『腹八分目』にしない?」
「心の余白」という難しい言葉の代わりに、私たちが選んだ「腹八分目」という言葉。
これは、ハルにも少し響いていたようでした。
「おなかいっぱいになったら、おいしくないもんね」
「そうそう!それ!動画も、お腹いっぱい(見飽きる)まで見ちゃうより、『あー楽しかった!』でやめて、残りの時間でブロックしたり、さっきの恐竜の絵を描いたりしたほうが、一日がもっと楽しくならない?」
これが、我が家の「憲法改正」の瞬間でした。
禁止(Restrictions)ではなく、価値観(Values)へ。
そして、その価値観は、
「① 家族の団らん(会話)の時間は、何よりも守る」
「② デジタルは『悪者』ではなく『道具』である」
「③ 『消費(見る)』は腹八分目に、『創造(つくる・考える)』は、どんどん挑戦!」
という、三つの柱になりました。
「道具」と「道」、そして「まぁ、いっか」の精神
この「道具」という考え方。
これって、すごく日本的なんじゃないかな、と私は最近思うんです。
海外から見ると不思議かもしれませんが、日本には「道(どう)」がつくものがたくさんあります。「茶道」「華道」「書道」「剣道」…。
これって、単なるテクニックじゃなくて、お茶を点てる「道具」、花を切る「道具」、筆という「道具」との付き合い方を通して、自分の心を整えたり、相手を思いやったりする「精神性」を学ぶ文化だと思うんです。
もちろん、タブレットが筆や竹刀と同じだなんて言うつもりはありません(笑)。
でも、デジタルという現代の最強の「道具」に、私たちが「振り回される」んじゃなくて、私たちが「使いこなす」。
そして、その使い方を通して、「何を大切にしたいか」を家族で考える。
それって、すごく「道」の精神に近いんじゃないかなって。
だから、あの「転」で、私が高熱でタブレットに頼ってしまったこと。
あれも、「憲法違反だ!」って自己嫌悪に陥る必要、全然なかったんです。
あれは、「親の休息」という、その瞬間の最優先事項(価値観)のために、「タブレット」という道具を「適切に使った」だけ。
それでいいじゃん、って。
日本には「完璧を目指さない」美学もあります。「侘び寂び」や、あえて完璧じゃないところに美しさを見出す「余白の美学」。
育児も、暮らしも、デジタルとの付き合い方も、完璧なんて目指さなくていい。
10回中3回くらい理念を守れたら、「私、えらい!」って思うくらいで(笑)。
残りの7回は、「まぁ、いっか!人間だもの!」って笑い飛ばす。
この「まぁ、いっか」という適当さ、ゆるさこそ、海外で日本人が「丁寧な暮らし」をしていると思われがちなイメージとは裏腹の、リアルな日本の主婦の「生活の知恵」であり、「人生術」なんだと思います。
【結】終着駅のない、家族という名の旅
今、この記事を書いている平日の午後。
保育園から帰ってきたハルは、リビングでタブレットを見ています。
今日は、あのお絵描きアプリではなく、彼が大好きな電車の動画です。
もちろん、「消費」の時間ですね(笑)。
でも、私の心は、以前のようにザワザワしていません。
なぜなら、夕飯の時間になったら、「ハル、ご飯だよ!タブレットさん、ねんねの時間!」と私が声をかけ、「はーい!」(と、すんなり消してくれる時もあれば、「あとこれだけ!」と抵抗される時もある)という「我が家の型(ルール)」が、一応できているから。
そして、抵抗された時も、「ダメって言ったでしょ!」と怒鳴るのではなく、「お、なかなか面白そうなとこだね。じゃあ、それが終わったらキッチリおしまいね。ママ、お腹空いてハルと早く『いただきます』したいから!」と、私たちの「価値観(=一緒にご飯を食べたい)」に立ち返って話せるようになったから。
結局、「デジタル憲法」とは言ったものの、それは「一度作ったら終わり」の立派な法律なんかじゃありませんでした。
それはむしろ、「変わり続けること」を前提とした、家族の「旅のしおり」みたいなもの。
子供が成長すれば、「創造」の中身だって変わってくるでしょう。
お絵描きが、プログラミングになり、友達とのチャットになるかもしれない。
その度に、私たちはきっとまた「第二次、第三次おやつ会議」を開くんです。
「最近、LINEばっかりじゃない?」
「いや、これは『消費』じゃなくて、友達との『コミュニケーション』っていう『創造』だから!」
そんな言い合いを、反抗期の息子とできる日が来るのも、それはそれで楽しみだな、なんて。
海外で暮らすみなさんのご家庭では、どんな「旅のしおり」を作っていますか?
「禁止」の向こう側に、みなさんのお家だけの「価値観(Values)」は、見つかりそうですか?
国が違っても、言葉が違っても、悩みの本質はきっと同じ。
私たち東京の片隅の家族も、みなさんと同じように、悩み、失敗し、時々「まぁ、いっか!」と笑いながら、「我が家の答え」を探し続けています。
終着駅のない、このバタバタと愛おしい旅路を、私たちは今日も家族で歩いています。

コメント