「合わせる」という美学と、カメレオンのような私
日本の窓の外では今、季節がゆっくりとその色を変えようとしています。
こんにちは、皆さん。日本に住む一人の主婦として、今日は少し深い、でもとても身近な「愛」と「自分自身」の話をさせてください。
皆さんは、「自分」という言葉の日本語の語源をご存知でしょうか? 「自分(Jibun)」は、「自らの分(part of oneself)」と書きます。これは、全体(社会や自然)の中の「一部分」であるというニュアンスが含まれていると言われています。西洋的な「Individual(これ以上分けられない個)」という感覚とは少し違い、日本の私たちが感じる「自分」は、周囲との関係性の中で形を変える、水のような性質を持っているのかもしれません。
恋愛において、この「関係性の中で形を変える」というプロセスは、時に私たちを混乱させ、時に驚くべき発見をもたらしてくれます。今日は、私が夫と出会い、そして多くの出会いと別れを経験する中で感じた、「愛を通じた自己発見」の物語の始まりをお話しします。
「合わせる」文化が生む、恋愛初期のカメレオン現象
日本には「合わせる(Awase)」という美しい文化があります。
着物の色合わせ、茶道における道具の取り合わせ、そして和歌における季節との合わせ。相手や環境、その場の空気に自らを調和させることは、日本社会において美徳とされ、一種の知恵として生活に根付いています。
この「合わせる」感覚は、恋愛の初期段階において、非常に強く発動します。
皆さんも経験があるのではないでしょうか? 好きになった相手の趣味に合わせてみたり、相手が好むファッションを試してみたり、今まで聞いたこともなかったジャンルの音楽を聴き始めたりすること。
これを「自分がない」「流されている」とネガティブに捉える人もいるかもしれません。でも、日本の主婦としての今の視点から振り返ると、これは決して悪いことではないと思うのです。むしろ、これは「新しいバージョンの自分」を試着(Try on)している期間なのだと。
私の若い頃の話をしましょう。
まだ夫と出会う前、私はある男性とお付き合いをしていました。彼はとても活動的で、週末になればキャンプや登山に出かけるような人でした。当時の私は、どちらかと言えばインドア派。休日は縁側で読書をしたり、静かに料理を作ったりするのが好きなタイプでした。
でも、彼への好意から、私は一生懸命「アウトドアな自分」になろうとしました。高価なトレッキングシューズを買い、泥だらけになりながら山を登り、焚き火の前で淹れたコーヒーの美味しさに感動するフリをしました(実際、美味しいとも思いましたが、虫への恐怖の方が勝っていました笑)。
また、別の時期にお付き合いした彼は、現代アートやジャズに造詣が深い人でした。私は美術館に通い詰め、難解なアートの前で腕を組み、「なるほど、この構図がね」なんて分かったような顔をしていました。ジャズバーの薄暗いカウンターで、慣れないウイスキーを傾けたこともあります。
当時の私を友人たちが見たら、「無理してるね」「本当のあなたじゃないよ」と言ったでしょう。実際、私自身もどこかで疲れを感じていました。まるで、サイズの合わない着物を無理やり着付けられているような、そんな息苦しさがあったのも事実です。
しかし、この「カメレオンのような時期」こそが、私のアイデンティティを浮き彫りにするための、必要不可欠なプロセスだったのです。
相手という鏡に映る、見たことのない自分
日本には「人の振り見て我が振り直せ」ということわざがありますが、恋愛においては「相手を通して我が輪郭を知る」という側面があるように思います。
異なる「バージョン」の自分を演じてみることは、自分の可能性の境界線を探る旅です。
山登りをしていた時の私。確かに虫は怖かったし、体力もありませんでした。でも、頂上で見た朝日の美しさに涙したのも、紛れもない「私」でした。「私って、自然の雄大さにこんなにも心を動かされる人間だったんだ」という発見は、その彼に合わせて山に登らなければ、一生気づかなかったかもしれません。
ジャズバーにいた時の私。お酒は苦手だったけれど、複雑なリズムの中に潜む即興演奏(インプロビゼーション)のスリルに、心が躍る自分を発見しました。「計画通りに進まないことの面白さ」を、音楽を通じて知ったのです。これは、几帳面すぎた私の性格に、少しの「あそび(余裕)」をもたらしてくれました。
私たちは一人で部屋に閉じこもっていても、「本当の自分」を見つけることはできません。
他者、特に深く関わろうとする「愛する人」という強烈な鏡があって初めて、自分の知らなかった側面が照らし出されるのです。
「郷に入っては郷に従え」という言葉通り、相手の世界(郷)に入り込み、そのルールに従ってみる。そうすることで、自分の魂が何に共鳴し、何に拒絶反応を示すのかが、痛いほど鮮明になります。
「和」を保ちながら感じる、心地よい違和感
日本社会では「和(Wa)」、つまりハーモニーが何より重んじられます。
しかし、恋愛における「和」は、単なる同調ではありません。初期の恋愛で私たちが陥りがちな「相手に完全に染まる」という行為は、一見「和」のように見えて、実は「自己の埋没」である危険性を孕んでいます。
私が夫と出会ったとき、彼は私とは全く異なるバックグラウンドを持っていました。
彼は論理的で、効率を愛する人。私は感覚的で、情緒を大切にするタイプ。
最初のデートで、私はいつものように「彼に合わせよう」としました。彼の話す難しい経済の話に相槌を打ち、効率的なデートコースに感心し、「私もそういうのが好き」という顔をしました。
でも、ふとした瞬間に違和感を覚えました。
それは、美しい紅葉を見たときです。彼は「今の時期、紅葉のピークは気温の変化から計算して…」と語り始めましたが、私はただ「散りゆく赤色のなんと切ないことか」と感じていました。
その時、私の中で小さな、でも確かな声が聞こえたのです。
「あ、ここは譲れないな」と。
今までなら、その声を無視して彼に合わせていたかもしれません。でも、数々の「試着」を繰り返してきた私には分かりました。この違和感こそが、私のアイデンティティの核(Core)なのだと。
自分とは違う誰かと深く関わろうとするとき、私たちは必ず「違い」に直面します。
最初は、その違いを埋めようと必死になります。相手の色に染まろうとします。それは、愛されたいという本能的な欲求であり、相手を理解したいという純粋な好奇心でもあります。
しかし、どんなに優れた役者でも、自分以外の人間を演じ続けることはできません。
「合わせる」ことの限界を知ったとき、初めて私たちは「自分」というものの輪郭に触れることができるのです。
序章の終わりに:絡まり合う糸の行方
日本の伝統工芸に「組紐(Kumihimo)」というものがあります。
複数の糸を組み合わせて、一本の丈夫で美しい紐を作る技術です。恋愛も、この組紐に似ているかもしれません。
最初は、自分の糸の色も、相手の糸の色も、よく分からないまま絡まり合います。
相手の糸の色に染まってみたり、自分の糸を隠してみたり。そうやって試行錯誤しながら、「違うバージョンの自分」を演じる中で、私たちは少しずつ気づいていきます。
「私の糸は、本当はこんな色をしていたんだ」
「この強さで引っ張ると、千切れてしまうんだ」
「この素材とは、相性が良いけれど、あの素材とは反発し合うんだ」
愛における自己発見とは、静かな瞑想の中で得られる悟りとは違います。
もっと泥臭く、もっと感情的で、時には痛みを伴うものです。相手色に染まろうとして失敗し、恥をかき、傷つき、それでも誰かと関わろうとするプロセスそのものが、私たちのアイデンティティを研磨していきます。
私がこれまでの経験、そして今の夫との生活の中で学んだ最大の教訓。
それは、「自分を探すために旅に出る必要はない。ただ、目の前の人と本気で向き合い、その中で揺れ動く自分の心を丁寧に見つめればいい」ということです。
さて、相手に合わせようとして「カメレオン」になっていた私が、どのようにしてその「着ぐるみ」を脱ぎ捨て、自分自身の足で立ち、そして本当の意味でパートナーと向き合うようになったのか。
それは、心地よい「同調」から、少し痛みを伴う「分化」へと進む物語です。
「みんな一緒」が心地よいとされる日本社会で、あえて「違い」を主張することの難しさと大切さ。
次章(承)では、その葛藤と、そこから生まれる本当の絆について、深く掘り下げていきたいと思います。そこには、和菓子のような甘さだけではない、抹茶のようなほろ苦い人生の味わいがあるのです。
違和感という名のギフトー境界線が引かれるとき
(The Gift of Discomfort: When Boundaries are Drawn)
魔法が解けたあとの「静寂」と「重み」
季節が変わり、桜の季節の高揚感が過ぎ去ると、やがて梅雨が訪れるように、恋愛にも「しっとりとした重み」を感じる時期がやってきます。
「起」でお話ししたように、私は夫との出会いの当初、彼の好む「効率的で論理的な世界」に身を浸していました。彼の選ぶモダンなインテリアに頷き、彼の好むニュース番組を一緒に見ることが、愛の証だと思っていたのです。
しかし、「合わせる(Awase)」という行為は、短距離走なら可能でも、人生という長距離マラソンでは続きません。無理に履いていた靴が、じわじわと足の皮を剥き始めるように、心の中に小さな痛みー「違和感」が生まれ始めました。
日本には「以心伝心(Ishin-Denshin)」という言葉があります。
言葉にしなくても心が通じ合う、という理想的な関係性を指す言葉です。しかし、これは裏を返せば「言わなくても分かってほしい」「察してほしい」という甘えやプレッシャーにもなり得ます。
私は無意識のうちに、この「察してちゃん」になっていました。
「私がこれだけあなたに合わせて、あなたの好きな世界を大切にしているのだから、あなたも私の本当の好みを察してくれてもいいじゃない」
そんな身勝手な期待が、言葉にならない「澱(おり)」として心に溜まっていったのです。
「本音と建前」の迷宮入り
日本社会を語る上で欠かせないのが「本音(Honne)」と「建前(Tatemae)」です。
「建前」は社会的な調和を保つための表向きの方針、「本音」は心の奥底にある真実の声。私たちは子供の頃から、この二つを使い分けることで人間関係の摩擦を避けるよう教育されます。
恋愛においても、私は完璧な「建前」の砦を築いていました。
「いい奥さん(あるいは彼女)でありたい」「物分かりの良いパートナーでありたい」。
そう思うあまり、私は自分の「本音」を、開かずの蔵に押し込めて鍵をかけてしまったのです。
ある休日の出来事です。
夫(当時はまだ恋人でしたが)が、良かれと思って私のためにサプライズを用意してくれました。それは、最新のガジェットやデジタルツールが集まる展示会へのチケットでした。彼は目を輝かせて「君もこういう最先端の技術、好きだったよね?」と言いました。
私は凍りつきました。
「好きだったよね?」と言われても、それは私が彼に合わせるために「演じていた私」が好きだったフリをしていただけ。本当の私は、冷たい金属や光る画面よりも、土の匂いや古い紙の手触りが好きな人間なのです。
でも、その時の私は言えませんでした。
「うわあ、すごい! 楽しみ!」
口から出たのは、完璧な「建前」でした。そしてその瞬間、私は自分自身に対して猛烈な嫌悪感を抱きました。
相手を騙している罪悪感。そして何より、自分自身を裏切り続けている悲しみ。
鏡の中の自分を見ても、誰だか分からない。
「私って、何が好きだったっけ?」「私って、本当はどう感じているんだっけ?」
相手の色に染まりすぎたあまり、自分本来の色(Original Color)を見失ってしまった恐怖。それはまるで、深い霧の中に一人取り残されたような孤独感でした。
「空気を読む」ことをやめる勇気
日本には「空気を読む(Reading the Air)」という独特の文化があります。
その場の雰囲気(空気)を壊さないように、あえて異論を唱えないこと。それは「和」を保つための知恵ですが、パートナーシップにおいて、時にそれは猛毒となります。
私がその毒に侵されていることに気づいたのは、体調を崩したことがきっかけでした。
原因不明の頭痛とめまい。医師には「ストレスですね」と片付けられましたが、私は直感的に分かりました。これは「窒息」だと。
「彼好みの私」という狭い着ぐるみの中で、本当の私が呼吸困難に陥っていたのです。
そこで私は、人生で初めて、意図的に「空気を読まない」という選択をしました。
それは、とある夕食の席でのこと。些細な話題でした。リビングに飾る絵について話していた時、彼はいつものように「シンプルで幾何学的なポスターがいいんじゃないか」と提案しました。
いつもなら「そうだね、スタイリッシュでいいね」と言う場面です。
心臓が早鐘を打ちました。喉が渇きました。でも、私は震える声でこう言ったのです。
「私は……私は、もっと温かみのある、手描きの油絵がいい。泥臭くて、ちょっと不格好でもいいから、人の体温を感じるような絵が飾りたいの」
一瞬、時が止まりました。
日本で言う「間(Ma)」が、永遠のように感じられました。
彼はきょとんとしていました。「え? そうなの? 君はモダンなのが好きだと思っていた」
その言葉を聞いたとき、私は涙が止まらなくなりました。
彼が悪いのではありません。私が、彼に誤った地図を渡し続けていただけなのです。
「違うの。今まで言えなかったけど、私は本当は、古いものが好きなの。不便でも、手のかかるものが好きなの」
それは、美しくラッピングされた「建前」を破り捨て、ごつごつとした「本音」という石ころを相手に投げつけるような行為でした。
心地よかった同調(Harmony)が崩れ、不協和音(Dissonance)が響く瞬間。
でも、不思議なことに、その不協和音は、私にとって初めての「私の音」でした。
摩擦(Friction)こそが、存在の証明
この出来事をきっかけに、私たちは何度もぶつかるようになりました。
「合わせる」ことをやめた途端、そこには明確な「違い」が現れました。
時間の使い方、お金の価値観、休日に対する考え方。
それまでは水と水のように混ざり合っていた(ように見せていた)二人が、実は油と水であったかのように分離し始めたのです。
これはとても苦しいプロセスです。
「相性が悪かったんじゃないか」「別れた方がいいんじゃないか」と悩んだ夜も数え切れません。
日本では、対立を避けることが美徳とされます。「雨降って地固まる」ということわざもありますが、雨が降っている最中は、ただただ冷たく、心細いものです。
しかし、この「摩擦」こそが、実は自己発見のための重要なステップだったのです。
物理学でもそうですが、摩擦がなければ熱は生まれません。二つの異なる物体が触れ合い、擦れ合うからこそ、そこにエネルギーが発生します。
私が「私はこう思う」「私はこれが嫌だ」と主張するたびに、彼という硬い壁にぶつかります。その跳ね返り(Feedback)によって、私は自分の輪郭を確認することができました。
「ああ、私はここまでが自分で、ここからは彼なんだ」
「私は、ここだけは絶対に譲れない価値観を持っているんだ」
相手との違いに直面し、不快感や苛立ちを感じること。それは、決して愛が冷めたからではありません。
それは、二人が「融合したひとつの塊」から、「自立した二つの個」へと脱皮しようとしている成長痛なのです。
境界線(Boundaries)を引くということ
欧米の文化では「バウンダリー(境界線)」という概念が一般的ですが、日本の主婦にとって、特に家庭内において境界線を引くことは非常に難しい課題です。家族は一体であり、母や妻は家族のために全てを捧げるのが美徳とされる風潮がまだ残っているからです。
でも、私はあえて線を引きました。
「ここから先は、私の領域(Space)。あなたが入ってこられない場所」
それは物理的な部屋ではなく、心の領域の話です。
週末の数時間、私は一人でカフェに行き、好きな本を読む時間を作りました。彼が理解できなくても、私が好きな骨董品を少しずつ部屋に置くようにしました。
彼にとっては「急に冷たくなった」「わがままになった」と映ったかもしれません。
しかし、この「分離」の作業を経なければ、私たちは互いに依存し合い、やがて共倒れになっていたでしょう。
「承」の段階とは、夢から覚め、現実の厳しさを知る段階です。
しかし、現実の相手、そして現実の自分と向き合うことは、幻想の中で生きるよりもずっと尊いことです。
私が「NO」と言えるようになったとき、初めて私たちの関係に対等な対話が生まれました。
同調圧力に屈せず、空気を読まず、自分の色を主張する。
それは日本の社会では「角が立つ(Kado ga tatsu – creating conflict/sharp edges)」と言われる行為です。でも、その角こそが、私の個性であり、私が私であるための錨(Anchor)なのです。
自分と他者を切り分ける痛み。
それは、傷口に塩を塗るようなヒリヒリとした感覚かもしれません。
しかし、その痛みの先には、誰も演じる必要のない、風通しの良い場所が待っています。
さて、こうして互いの違いを認め、バラバラになってしまったかのように見えた私たち。
「和」を尊ぶ日本の精神は、この「個の対立」をどのように包み込み、昇華させていくのでしょうか。
次章「転」では、確立された個同士が、どのようにお互いを尊重しながら、新しい形の調和を見つけ出していくのか。
「孤高でありながら、共に在る」という、日本的な精神性の深淵についてお話ししたいと思います。
「個」の確立ー和を尊びながら孤高であること
(Establishing the Individual: Being Solitary while Honoring Harmony)
壊れたからこそ、美しくなれるー「金継ぎ」の哲学
「承」でお話ししたように、私が「本音」という石を投げ込んだことで、私たちの関係にはヒビが入りました。家の中には重苦しい沈黙が流れ、かつてのような表面的な穏やかさは消え失せました。
西洋的な感覚であれば、壊れたものは「失敗(Failure)」であり、捨てて新しいものを探すか、元通りに見えるように完璧に修理するかの二択かもしれません。しかし、日本には**「金継ぎ(Kintsugi)」**という独自の修復技法があります。
割れてしまった陶器を漆で継ぎ、その継ぎ目を金粉で装飾する。
傷を隠すのではなく、傷を「歴史」として受け入れ、金で彩ることで、元の器よりも芸術的で価値のあるものへと昇華させるのです。
私は、冷戦状態が続くリビングで、ふとこの金継ぎの精神を思い出しました。
「私たちがぶつかり合ったこの傷跡は、隠すべき恥ずかしいことなのだろうか?」
いいえ、違います。これは、私たちが初めてお互いの「個(Ko)」をさらけ出した証。私たちが別人格であることを証明した、記念すべきヒビ割れなのです。
そう気づいた瞬間、私の視界がガラリと変わりました(これが「転」です)。
無理に仲直りしようとするのをやめました。無理に元の「仲良しカップル」に戻ろうとするのもやめました。
代わりに、私は私という器の「割れ目」を、自分自身の金粉で埋める作業に没頭することにしたのです。
「間(Ma)」ー愛を育むための空白
日本文化において、最も重要で、かつ説明が難しい概念の一つに**「間(Ma)」**があります。
音楽における無音の時間、絵画における余白、建築における空間。
何もない場所は「空っぽ」なのではなく、想像力を掻き立て、響きを生み出すための豊かな「間」なのです。
私は、夫との関係に意識的に「間」を作ることにしました。
それまでは、「休日は一緒に過ごすべき」「夕食は共に食べるべき」という固定観念(これも一種の同調圧力です)に縛られていました。しかし、一度境界線を引いた私たちは、お互いのテリトリーを侵さない「空白」を必要としていました。
具体的には、週末の過ごし方を変えました。
彼は彼の好きな効率的なショッピングへ。私は私の好きな静かな古書店へ。
最初は「夫婦なのに別行動なんて、寂しくない?」という世間の声(あるいは自分の中の不安)が聞こえました。
しかし、不思議なことが起きました。
別々の時間を過ごし、夕方、家に帰ってきた時。
「今日はどんな本を見つけたの?」と彼が聞いてきたのです。
以前なら、私が無理して彼について行ったので、会話は「疲れたね」「混んでたね」で終わっていました。
でも今は違います。私は目を輝かせて、古書店の匂いや、見つけた美しい言葉について語ることができます。彼はそれを、まるで異国の話を聞くように興味深そうに聞いてくれるのです。
「離れている時間(間)」こそが、二人の引力を強くする。
生け花(Ikebana)でも、花と花の間隔を詰めすぎると、互いの美しさを殺してしまい、息苦しくなります。適度な距離があってこそ、それぞれの花の生命力が際立ち、全体としての調和(ハーモニー)が生まれるのです。
私たちは、べったりとくっついた「お餅」のような関係から、適切な距離を保って並び立つ「二本の木」へと変化し始めました。
「自立」と「孤高」ー自分をご機嫌にする責任
「転」の段階で私が手に入れた最大の宝物は、**「自分の機嫌は自分で取る」**という覚悟です。
かつての私は、自分の幸福を彼に委ねていました。
「彼が優しくしてくれたら幸せ」「彼が分かってくれなかったら不幸せ」。
これは依存であり、相手にとっては重荷以外の何物でもありません。
日本の武道や芸道には「独り(Hitori)」を尊ぶ精神があります。
弓道でも茶道でも、最終的には自分自身との対話です。誰かに助けてもらうことはできません。その「孤高」の厳しさと向き合った者だけが、本当の意味で他者と交わることができるのです。
私は、彼に理解してもらうことを一度諦めました(良い意味で)。
「私の好きな『侘び寂び(Wabi-Sabi)』の世界なんて、彼には一生分からないかもしれない。でも、それでいい。私が分かっていれば、それでいい」
私が私自身の世界を心から楽しみ、一人で勝手に幸せそうに笑っていると、家の空気が明るくなります。
夫は、そんな私を見て安心したようでした。
「君が楽しそうだと、僕も嬉しいよ」
彼が言ったその言葉は、無理に合わせていた頃の「君も好きだよね?」という確認の言葉よりも、ずっと温かく、私の胸に響きました。
自立(Jiritsu)なくして、真の和(Wa)なし。
個としてしっかりと立ち、自分の足で歩ける人間同士が手を繋ぐからこそ、その手は温かい。寄りかかり合って倒れないように支え合う関係は、どちらかが崩れれば共倒れです。
私は、日本の主婦として「家庭を守る」という役割の中に、「自分を守る」という新しい任務を加えました。それは、自分のための趣味を持ち、自分のための時間を確保し、自分自身を愛することです。
違いを「味わう」という境地
関係が変化してから、私たちは互いの「違い」を、争いの種ではなく、味わい深い「肴(Sakana – appetizer for drinks)」として楽しめるようになりました。
ある夜、私たちは月を見ていました。
彼は「月までの距離と、反射率について」語りました。
私は「月にかかる雲の風情と、かぐや姫の物語について」語りました。
以前なら「ムードがない人!」と怒っていたでしょう。
でもその時は、「へえ、あなたの目には月がそんな風に映っているのね。面白い生き物だわ」と心から思えました。
彼もまた、「君の頭の中はファンタジーだなあ」と苦笑いしながらも、その表情は穏やかでした。
「和して同ぜず(Washite Dozezu)」
これは孔子の言葉ですが、日本人が大切にしている精神です。「人と協調はするが、むやみに雷同(同調)はしない」という意味です。
私たちはようやく、この境地に足を踏み入れた気がしました。
全く違う二人が一緒にいる意味。
それは、自分一人では決して見ることのできなかった「別の視点(Angle)」を、相手というレンズを通して覗き見ることができるからです。
彼のおかげで、私は少しだけ論理的な思考の便利さを知りました。
私のおかげで、彼は少しだけ非効率な時間の贅沢さを知りました。
相手を変えようとする戦いは終わりました。
そこにあるのは、諦めではなく、深い「受容(Acceptance)」です。
金継ぎされた器が、元の器よりも強度を増すように、一度壊れて、距離を置き、個として確立した私たちの絆は、以前よりもずっと強靭で、しなやかなものになっていました。
「転」とは、物事がひっくり返る場面です。
「愛するために自分を捨てる」と思っていた私が、「愛するためにこそ、自分を確立する」という真実にたどり着いたのです。
自分探し(Self-discovery)の旅は、遠くへ行くことではありませんでした。
一番近くにいる、自分とは全く異なる「他者」との摩擦の中で、自分自身の輪郭を削り出し、磨き上げることだったのです。
さあ、物語は最終章へ向かいます。
個として確立した二人が、その違いを持ち寄ったとき、どんな新しい景色(錦)が織りなされるのか。
それは単なる「復縁」や「和解」を超えた、創造的なパートナーシップの形です。
次章「結」では、この旅の終着点として、私たちが辿り着いた「二つの糸が織りなす唯一無二の布」について、そしてこれから愛を育む皆さんへのメッセージをお伝えします。
二つの糸が織りなす、唯一無二の錦
(The Unique Brocade Woven by Two Threads)
縦糸と横糸ー違いがあるからこそ「織物」になる
みなさん、ここまで私の長い「自分探しの旅」にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
日本の季節は巡り、また新しい春が来ようとしています。かつて、自分を押し殺して相手に合わせていた私も、今では「私は私、あなたはあなた」と胸を張って言えるようになりました。
でも、ここで一つの疑問が浮かぶかもしれません。
「互いに自立し、別々の時間を楽しみ、違う価値観を持っているなら、なぜ一緒にいるの?」と。
その答えを、私は日本の伝統的な織物の中に・見つけました。
日本には、中島みゆきさんという歌手が歌った「糸」という、国民的に愛されている歌があります。「縦の糸はあなた、横の糸は私」という歌詞が出てきます。
織物(Fabric)は、全ての糸が同じ方向を向いていては成立しません。
ピンと張られた揺るぎない「縦糸」があり、その間を縫うように自由に行き来する「横糸」があるからこそ、布として織りあがることができるのです。
私たち夫婦の関係も、まさにこれでした。
もし私たちが、恋愛初期のように無理をして「同じ方向(同じ趣味、同じ考え)」を向こうとしていたら、それはただの糸の束でしかありません。絡まり合い、解けなくなり、やがて脆く切れてしまっていたでしょう。
彼という「論理的で頑固な縦糸」に対し、私という「感覚的で柔軟な横糸」が交差する。
直角にぶつかり合う(Cross)からこそ、そこに結び目(Knot)ができ、強度が生まれ、模様が浮かび上がるのです。
今、私は夫との「違い」を愛おしく思います。
彼が効率を重視して選んでくれた最新家電のおかげで、私の家事は楽になりました。
私が季節感を重視して活けた花のおかげで、彼の殺風景だった書斎は安らぎの場になりました。
私たちは、自分にないものを持っている相手を「補完者」としてリスペクトできるようになったのです。
「結び(Musubi)」の精神ー創造的なエネルギー
日本語の「結び(Musubi)」という言葉には、単に紐を結ぶという意味以上に、深い精神的な意味が込められています。「産霊(Musuhi)」とも通じ、「新しいものを生み出す霊的な力」を指す言葉でもあります。
神社で引くおみくじを結ぶのも、ご祝儀袋の水引を結ぶのも、すべては「願いを形にする」「関係性を固定する」という祈りの行為です。
私たちが辿り着いたパートナーシップの形は、まさにこの「結び」でした。
ただ隣にいるだけの同居人(Roommate)ではなく、二人の異なるエネルギーを結び合わせて、新しい価値を生み出すクリエイティブなチーム。
例えば、週末の料理。
以前は「彼の好きなもの」を作っていました。今は「コラボレーション」を楽しみます。
彼が得意なスパイスカレーを作り(論理的な配合が活きます)、私がそれに合う和風のピクルスや副菜を作る(彩りのセンスが活きます)。
食卓に並んだ料理は、和洋折衷で、少し奇妙かもしれませんが、私たち二人にしか出せない「家庭の味」です。
「合わせる」のではなく「結び合う」。
合わせると一方が消えますが、結べば両方の存在感が残ります。
この感覚を手に入れたとき、私は初めて「結婚生活」というものが、我慢比べではなく、終わりのない創作活動のように思えてきました。
日常に潜む「一期一会」ー今日という日は二度と来ない
茶道の言葉に**「一期一会(Ichi-go Ichi-e)」**があります。
「この出会いは一生に一度きりのもの。だからこの瞬間を最大限に大切にしなさい」という教えです。
長く一緒にいるパートナーに対して、私たちはついこの精神を忘れがちです。「明日もいるだろう」「言わなくても分かるだろう」と甘えてしまいます。
しかし、自分というアイデンティティを確立し、「個」として立った私たちは、逆説的ですが、相手の存在の「有り難さ(Arigata-sa – difficult to exist, hence precious)」を痛感するようになりました。
私は私一人でも生きていける。経済的にも精神的にも自立した。
それでもなお、今日この人が私の隣にいて、一緒にご飯を食べてくれている。
それは「義務」ではなく、彼が自身の自由な意志(Free Will)で、私を選んでくれているということです。
そう思うと、何気ない朝の「おはよう」が、奇跡のように輝いて見えます。
自立した人間同士が選ぶ「一緒にいること」の重み。それは、依存し合っていた頃の「一緒にいなければならない不安」とは比べ物にならないほど、純度が高く、尊いものです。
私は今、夫にお茶を淹れるとき、以前よりも丁寧にお湯を注ぎます。
それは「妻としての務め」だからではありません。
「違う世界を見せてくれる、愛すべき他者」である彼への、敬意(Respect)の表現です。
彼もまた、私が一人で出かけようとするとき、「楽しんでおいで」と心から送り出してくれます。それは私という人間が、彼の所有物ではないことを理解してくれているからです。
旅の終わりに:自分を知るための、愛という鏡
さて、ここまで読んでくださった皆さん。
「Identity Interwoven(織りなされるアイデンティティ)」というテーマでお話ししてきましたが、結論として私はこう伝えたいと思います。
本当の自分を見つけるために、誰かを愛することは、最も近道であり、最も険しい道である。
私たちは一人では、自分の背中を見ることができません。
パートナーは、時に残酷なまでに鮮明に、私たちの姿を映し出す鏡です。
その鏡に映った自分ー嫉妬深い自分、依存したい自分、わがままな自分、そして愛に溢れた自分ーから目を逸らさないでください。
日本には**「おかげさまで(Okagesama-de)」**という美しい言葉があります。
「今の私があるのは、陰で支えてくれた様々なもののおかげです」という意味です。
私のアイデンティティの確立は、私一人の力で成し遂げたものではありません。
私を受け止め、時に反発し、壁となり、鏡となってくれた夫という存在の「おかげ」です。
今、恋愛や夫婦関係で悩んでいる方がいれば、私は日本からエールを送ります。
その摩擦(Friction)を恐れないでください。
「彼に合わせられない私」を責めないでください。
その違和感こそが、あなたの「本当の自分」が産声を上げようとしているサインなのです。
カメレオンの着ぐるみを脱ぎ捨て、傷ついた器を金継ぎで繕い、自分だけの色を纏って立ってください。
そして、恐れずに相手という異質な糸と絡まり合ってください。
そこにはきっと、あなた一人では決して織り上げることのできなかった、世界で一番美しい錦(Brocade)が広がるはずです。
窓の外では、梅の蕾がほころび始めています。
冬の寒さに耐えたからこそ、春の花は美しく咲くのです。
私たちの人生も、愛も、また同じ。
日本という小さな島国から、海を越えて皆さんの心に、この「和」の精神と、ささやかな勇気が届くことを願っています。
あなたの愛の旅路が、彩り豊かでありますように。

コメント