「ありがとう」の魔法:日本の片隅で気づいた、世界を変える小さな習慣

夏祭りの憂鬱と「当たり前」の壁

皆さん、日本の「自治会(じちかい)」や「PTA」という言葉を聞いたことがありますか?

これは、その地域や学校に住む人たちが、自分たちの生活をより良くするために(あるいは、半ば強制的に)参加するコミュニティ活動のことです。清掃活動をしたり、安全のためにパトロールをしたり、そして…季節のイベントを運営したり。

そう、あれは去年の夏。ジリジリとアスファルトが焼ける、うだるような暑さが続く7月のことでした。

私は、その年、見事に「当たりくじ」を引いてしまい、自治会の「イベント担当役員」になっていました。メインイベントは、地域の一大行事「夏祭り」です。

夏祭り、と聞けば、海外の皆さんは「浴衣」や「屋台」「盆踊り」といった、華やかでエキサイティングな光景を思い浮かべるかもしれません。

でも、その裏側で、私たち役員が何をしているか。

古い公民館の、エアコンの効きが悪い和室に集まり、夜な夜な続く会議。

「焼きそばの屋台は、何食分発注するか?」「かき氷のシロップはイチゴとメロン、どっちを多く?」「地元の有力者への挨拶状の文面は、これで失礼がないか?」

そんな、華やかさとは無縁の、地道で、退屈で、押し付け合いになるような作業の山。

私はその中で「会計」という、一番面倒な役割を担っていました。

集会所の隅で、古い電卓を叩きながら、業者への発注書とにらめっこする日々。

正直、気持ちはどんよりと曇っていました。「なんで私が、貴重な夏の週末を、こんなことに使わなきゃいけないの?」と。

私たちのチームは、私を含めて5人。

でも、その中に一人、私が密かに「壁」を感じている人がいました。

田中さん(仮名)です。

彼女は、いつも会議に少しだけ遅れてきて、一番出入り口に近い席にそっと座ります。

そして、「すみませーん、ちょっと子どもが熱出しちゃって…」とか「ごめんなさい、主人の帰りが遅くて」とか、何かしらの理由をつけて、一番大変な作業が決まる頃合いになると、そそくさと帰ってしまうのです。

焼きそばの鉄板を運ぶ力仕事も、業者との面倒な電話交渉も、夜遅くまでの会計チェックも、彼女が引き受けることはありませんでした。

私の心の中は、もう、モヤモヤ、いや、イライラでいっぱいです。

「…まただ」

「私たちだって、家事も育児も仕事もあるのに」

「どうせ、やる気がないだけでしょ。こういう大変なことは、誰か『やってくれる人』がやるのが『当たり前』だと思ってるんだ」

私の心の中に、「田中さん=コミュニティ活動から逃げる人」という「偏見」が、コンクリートのように固まっていくのが分かりました。

これが、私の日常にあった「分断」です。

彼女が会議室のドアを開けるたび、私はわざと目をそらし、会計の書類に没頭するフリをしました。

彼女が「お先に失礼します」と言うと、私は(そして、たぶん他の役員の何人かも)「はーい、お疲れ様でーす」と、温度のない声で返事をする。

そこには、目に見えないけれど、確実な「壁」がありました。

彼女も、私たちのその冷たい空気を察知していたはずです。

彼女はいつも、申し訳なさそうに、でもどこか諦めたような、疲れた顔をしていました。

私は、彼女が私たちの「貢献」を認めていない、感謝していない、と感じていました。

私たちが汗水たらして準備しているこの時間を、彼女は「当たり前」のものとして消費している。

この「当たり前」という感覚こそが、「感謝」の対極にあるものです。

そして、この「当たり前」が積み重なると、人の間には「誤解」と「偏見」という名の分断が生まれます。

「彼女の背景(バックグラウンド)がどうであれ、貢献していない事実は同じだ」

私はそう自分に言い聞かせ、電卓を叩く指に力を込めました。

夏祭りまで、あと1週間。

公民館の和室の空気は、熱気と、私たちの間の見えない緊張感で、よどみきっていました。

田中さんの「ごめんなさい」と見えない事情

夏祭り本番、前日。

その日は、まさに「天王山」でした。

日本の真夏、気温35度。アスファルトからの照り返しで、立っているだけでめまいがしそうな午後。

私たちは、公民館の倉庫に眠っていた、あの、とんでもなく重い「夏祭りの備品」たちを、会場となる広場まで運び出す作業にてんてこ舞いしていました。

何十年使われているか分からない、サビだらけの鉄パイプで組むテント。

焼きそば用の、大人が二人で抱えても腰が抜けそうになる巨大な鉄板。

プロパンガスのボンベ、長机、ビールケース、かき氷機…。

「せーのっ!」

「あ、ちょっと待って、そっち引っかかってる!」

役員の男性陣(と言っても、定年退職されたシニア世代が中心ですが)と、私たち主婦役員が、汗だくで怒鳴り合うようにして作業を進めていました。Tシャツはとっくに汗で肌に張り付き、メイクなんてものは、開始5分でドロドロに溶け落ちています。

私のイライラも、この気温と湿気、そして重労働によって最高潮に達していました。

「なんで私が…」という不満が、もはや隠しようもなく顔に出ていたと思います。

そんな地獄絵図の中に、田中さんが、いつものように少し遅れて現れました。

彼女は、私たちとは対照的に、まだ涼しげな顔をしています。

「すみません、遅くなりました…!」

彼女はそう言うと、一番軽そうだった「紙皿と割り箸が入った段ボール箱」を一つ、ちょこんと抱えました。

私は、重い長机の片側を、同じ役員の鈴木さん(仮名・私の母ぐらいの年齢のベテラン主婦です)と二人でヒーヒー言いながら運んでいる真っ最中。

田中さんのその姿が目に入った瞬間、私の心の中の何かが、プツンと切れました。

(…それだけ?)

(こっちは、腰が砕けそうな思いで、この鉄板運んでるのに)

(一番軽いの一個持って、それで終わり?)

私の視線が、ナイフのように冷たくなっていたのを、彼女も感じたかもしれません。

まさにその時。

田中さんのポケットで、携帯電話が鳴りました。

彼女はビクッと肩をすくめ、慌てて電話に出ます。

そして、その顔が、さっきまでの涼しげな表情から一転、サッと青ざめていくのが分かりました。

「えっ…!? はい…はい、すぐ行きます! すぐ!」

電話を切った彼女は、文字通り、私たちのもとへ「飛んで」きました。

そして、今にも泣き出しそうな、切羽詰まった顔で、私と鈴木さんに頭を下げたのです。

「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」

いつもの、あの「申し訳なさそうだけど、どこか諦めている」ような表情とは、まるで違いました。

必死の形相、でした。

「娘が…! 娘がまた、病院で…! すぐ行かないと…! 本当にごめんなさい!」

そう言うと、彼女は抱えていた紙皿の箱を地面に置き、文字通り、走って広場から去っていきました。

その背中は、見ているこちらが不安になるほど、切迫していました。

あっけにとられる、私と鈴木さん。

そして、他の役員たち。

一瞬の静寂の後、ある男性役員が、ポツリと吐き捨てました。

「…またかよ。いよいよ本番だって時に、一番使えねえな」

その言葉に、他の役員たちも「ほんと、困るよね」「こっちの身にもなってほしいわ」と、溜まっていた不満を口々にし始めました。

私も、正直なところ、心の7割ぐらいは、その意見に「そうよ!そうよ!」と同意していました。

(いくらなんでも、大事な前日に、また子ども?)

(どれだけ大変な思いで、こっちが準備してると思ってるの?)

(彼女は、私たちのこの貢献を、何だと思ってるんだ)

「偏見」は、もはや「確信」に変わっていました。

彼女は、私たちの「当たり前」の犠牲の上に、平気で立っている人だ、と。

その時でした。

一緒に長机を運んでいた、ベテラン主婦の鈴木さんが、私の腕をツンツン、と突きました。

そして、周りには聞こえないような小さな声で、私にこう言ったのです。

「Hitomiさん…あのね、大きな声じゃ言えないんだけど」

「うん?」

「田中さんとこの娘さんね、たぶん、ただの『熱』じゃないのよ」

「え…?」

鈴木さんは、声をさらに潜めました。

「私、この前、市民病院の『小児難病センター』で見かけたの。田中さんと、娘さん」

「…難病…センター…?」

「うん。私の知り合いの看護師さんにも、こっそり聞いちゃったんだけど…どうも、ずっと入退院を繰り返してるみたい。いつ容態が急変するか分からない、重い病気なんだって」

私は、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けました。

「それにね」と鈴木さんは続けます。

「ご主人。いつも『帰りが遅い』って言ってたでしょ。あれ、本当なのよ。

でもね、好きで遅いんじゃないの。会社が、今すごく大変みたいで…いつ倒産してもおかしくないって。だから、旦…さんは、必死で夜も土日も働いて、なんとか会社を立て直そうとしてるんだって」

「……」

私は、言葉を失いました。

「だからね、田中さん、本当はこんな役員やってる場合じゃないのよ。

娘さんの看病と、いつ失業するか分からないご主人の不安と…たぶん、一人で全部抱えて、パンク寸前なんだと思うわ。

それでも『自治会の役員』っていう『義務』があるから、無理して、会議に30分だけでも顔を出して、『すみません』『ごめんなさい』って頭を下げて…。たぶん、彼女が今できる、ギリギリの『貢献』なのよ、あれが」

私は、さっきまで田中さんが抱えていた、あの「紙皿の段ボール箱」が置かれた場所を、ぼんやりと見つめていました。

軽い、紙皿の箱。

私は、あの箱の軽さを「やる気のなさ」の象徴だと、あんなに軽蔑していた。

でも、違った。

あの時、彼女が必死の形相で繰り返した「ごめんなさい」。

あれは、作業をサボることへの謝罪じゃなかった。

重い病気の娘さんを、今、この瞬間も病院で看病してあげられないことへの「ごめんなさい」。

そして、経済的な不安を抱えるご主人を、支えてあげられないことへの「ごめんなさい」。

そして、地域の一員としての役割を、こんな風にしか果たせないことへの「ごめんなさい」。

いろんな「ごめんなさい」が、あの切羽詰まった一言に、凝縮されていたのです。

私は、彼女の背景(バックグラウンド)を、何も知らなかった。

いや、知ろうともしなかった。

「私だって大変なんだから、あの人も同じはずだ」

「私がこれだけ貢献してるんだから、あの人も同じだけ貢献するのが『当たり前』だ」

そう、フック(テーマ)にあった「偏見」と「誤解」。

それを作り出していたのは、他の誰でもない、私自身でした。

自分が「貢献している」という自負が、いつの間にか「貢献できない人」への不寛容と偏見にすり替わっていたのです。

「…Hitomiさん? 大丈夫? 机、運ぶわよ」

鈴木さんの声で、私はハッと我に返りました。

「あ、はい…!すみません!」

私は慌てて長机を持ち上げました。

さっきまで、あんなに重く、忌々しく感じていた長机が、なぜだか、少しだけ軽く感じられました。

私の心の中にあった、田中さんに対する氷のような「壁」。

それはまだ溶けてはいませんでしたが、鈴木さんのあの一言で、確実に、大きなヒビが入った音がしたのでした。

小さな「お裾分け」が溶かした氷

夏祭り当日は、皮肉なほどの快晴でした。

朝の8時から、私たちは灼熱の広場にいました。

最後のテントを設営し、焼きそばの屋台ではキャベツを刻む音とソースの焦げる匂いが立ち込め、かき氷機がガーガーと音を立てて氷を削り始める。

夕方、提灯に明かりが灯る頃には、広場は浴衣姿の子どもたちや、ビール片手の上機嫌な大人たちで、ごった返していました。

ワッショイ、ワッショイというお神輿の掛け声。

スピーカーから流れる、大音量の盆踊りの音楽。

私は、本部テントの長机で、ひたすら「会計」の仕事に追われていました。

「Hitomiさん、ビール2ケース追加! 領収書!」

「すみません、金庫の100円玉が足りましたせん!」

「かき氷の売上、中間報告です!」

飛び交う怒号のような報告と、汗で湿るお札。

私は、アドレナリン全開で、電卓を叩き、売上金を数え、指示を飛ばしていました。

もちろん、そこに田中さんの姿はありません。

「承知の上」でした。

彼女は今、このお祭りの喧騒とはまるで別世界の、静かな病院の一室で、娘さんの手を握っているんだろう。

そう思うと、昨日までの、あの刺々しい「イライラ」は、もう私の心にはありませんでした。

代わりにあったのは…なんでしょう、一種の「罪悪感」と、自分の「健康な日常」に対する、後ろめたさのようなものでした。

(私たちは、こんな風に、お祭りではしゃいだり、忙しさに文句を言ったりできている)

(でも彼女は、そんな「当たり前」の日常すら、奪われているんだ)

会計の仕事の合間に、ふと、あの「紙皿と割り箸」の段ボールが目に入りました。

彼女が、あの必死の形相になる直前に、そっと抱えていた箱です。

あの日、私たちが運んだ重い鉄板やテントに比べれば、それは羽のように軽いものでした。

でも、鈴木さんの話を聞いた今、私には、あの段ボール箱が、とてつもなく重い「貢献」の塊のように見えていました。

…夜9時。

祭りは終わりました。

あれほど響き渡っていた音楽は止み、広場には、夢の後のような静けさと、生ゴミの匂い、そして役員たちの「骨の髄まで染み込んだ疲労」だけが残っていました。

最後のゴミ袋をトラックに積み込み、テントを畳み、会計報告の数字がピタリと合った時。

私たちは、広場の真ん中で、文字通り、へたり込みました。

「…終わった…」

「疲れたなんてもんじゃない…死ぬ…」

みんな、Tシャツは汗と焼きそばのソースで汚れ、顔には疲労が貼り付いています。

その時、また、あの男性役員が言いました。

「はーあ。結局、田中さん、来なかったな。まあ、最初から5人じゃなくて、4人だと思ってたけどよ」

空気が、一瞬、凍りました。

昨日、鈴木さんから話を聞いたのは、私だけ。

他の役員たちは、今も田中さんを「夏祭りから逃げた人」だと思っています。

私は、言い返そうと思いました。

「違うんです! 彼女は…!」

でも、できませんでした。

鈴木さんと「内緒よ」と約束した手前、彼女のデリケートな家庭の事情を、こんな疲労困憊の場所で、噂話のように大声で暴露するなんて、できなかった。

私の心の中に、再び「分断」が生まれそうになりました。

「事情を知っている私」と、「事情を知らずに彼女を責める他の役員たち」。

どうしよう。

このままじゃ、田中さんは、この地域で「役立たず」のレッテルを貼られたままになってしまう。

その時、私たちは、残った焼きそばやフランクフルトを「お疲れ様」と分け合っていました。

いわゆる「お裾分け」です。

私は、自分の家族の分とは別に、もう一袋、焼きそばと唐揚げ、そして子どもが好きそうな綿あめを、こっそりと確保しました。

そして、解散の号令がかかると、私は夫と子どもに「ごめん、ちょっとだけ寄るところがあるから、先に帰ってて!」と鍵を渡し、一人、車に乗り込みました。

カーナビが示した、田中さんの家。

私たちが住むエリアから、少しだけ離れた、細い路地の奥にあるアパートでした。

夜10時。

こんな時間に、役員仲間(それも、一番冷たい態度をとっていた私)が押しかけるなんて、迷惑極まりない。

そう思いながらも、私は、どうしても、今、行かなければいけない気がしました。

アパートの2階。

「田中」という表札のかかった部屋の前に立ち、インターホンを押す指が震えます。

…ガチャリ。

ドアが開いて、現れたのは、田中さん本人でした。

彼女は、昨日とまったく同じ服のまま、そこに立っていました。

顔色は紙のように白く、目は泣きはらしたのか真っ赤で、髪もボサボサ。

病院から、今、帰ってきたばかり、という姿でした。

彼女は、私(会計担当の私)の顔を見た瞬間、ビクッ!と、怯えたように体をこわばらせました。

「あ…! Hitomiさん…!」

彼女の声は、か細く、震えていました。

「ご、ごめんなさい! 今日、お祭り…! 本当に、行けなくて…! あの、会計、大丈夫でしたか…? 私、私の分の仕事が…!」

彼女は、また謝っている。

自分が「貢献」できなかったこと、役目を果たせなかったことを、こんなにボロボロの状態で、私に謝っている。

フックにあった「誤解」と「偏見」。

その壁を作っていたのは、他の誰でもない、私の「当たり前」の物差しでした。

私は、持っていたビニール袋を、彼女の前に、そっと差し出しました。

「…田中さん」

「…はい」

「お祭り、無事に終わりました。これ、残り物だけど、焼きそばと、あと綿あめ。娘さんに…と思って」

田中さんは、真っ赤な目で、ビニール袋と私の顔を、キョトンと、信じられないもののように交互に見つめています。

「え…? あ…でも…私、何も…お手伝い、できなかったのに…」

私は、首を横に振りました。

そして、ずっと言えなかった、あの一言を、やっと口にしたのです。

「ううん。田中さん、準備、大変な中、会議、一回も休まなかったですよね」

「え…」

「昨日だって、あの紙皿の箱、運んでくれた。ギリギリまで、やろうとしてくれてた」

私は、彼女の目をまっすぐ見て、言いました。

「鈴木さんたちも、みんな、田中さんのこと心配してましたよ。…娘さん、大変なんですね」

(「みんな心配してた」というのは、半分、ウソでした。でも、今はそう言うべきだと思った)

そして、続けます。

「私たち、田中さんが会議に来てくれるだけで、すごく助かってました。

本当に、ありがとう。そして、何より…お疲れ様でした」

「貢献を認める」

「感謝を伝える」

ただ、それだけでした。

その瞬間。

ずっと、申し訳なさそうな、諦めたような、疲れたような表情で固まっていた田中さんの顔が、クシャッと、歪みました。

そして、次の瞬間、彼女は、子どものように、その場にしゃがみ込み、声を押し殺して、泣き始めたのです。

「…うっ…ううっ…!」

「…ごめんなさい…ありがとう…ごめんなさい…」

「私…ずっと、みんなに迷惑かけてるって…役立たずだって…思ってて…!」

彼女の背中をさすりながら、私は、ただ「うん、うん」と頷くことしかできませんでした。

冷え切って、固まっていた、私と彼女の間の「分断」の壁。

それは、大義名分や、正しさや、義務感ではなかった。

たった一袋の、冷めた焼きそばと。

たった一言の、「ありがとう」という感謝の言葉。

その、日常にある、本当に小さな「お裾分け」が、あの分厚い氷を、あっけなく溶かしてしまったのです。

感謝のバトンを世界へ

あの夜、田中さんは、泣きながら、ぽつりぽつりと話してくれました。

娘さんの病状が、今、あまり良くないこと。

ご主人の会社が本当に危なくて、毎晩、帰宅が夜中になること。

本当は、役員なんて引き受けている精神状態ではなかったけれど、「地域の一員として、断ったら、もうここに住めなくなる」という恐怖心があったこと。

そして、会議でみんなの「どうせサボってるんでしょ」という冷たい視線を感じるたび、「ごめんなさい」と謝りながら、心がすり減っていたこと。

私は、彼女の話を聞きながら、自分がどれほど傲慢だったかを思い知らされました。

私は「自分だって大変だ」という物差しでしか、物事を見ていなかった。

会計という面倒な仕事を押し付けられた「被害者」のつもりでいた。

そして、「私と同じだけ貢献しない人間は、不公平だ」という、自分勝手な「正義」を振りかざしていました。

でも、違ったんです。

私たちが「面倒だ」と文句を言いながらやっていたお祭りの準備は、健康な家族がいて、安定した生活があるからこそできる、「贅沢な悩み」だったのかもしれない。

田中さんが、あの会議の場に、遅れてでも、途中で帰ると分かっていても、足を運び続けたこと。

あの炎天下の前日準備で、紙皿の箱を一つでも運ぼうとしたこと。

それは、私たちが重い鉄板を運んだ「貢献」とは、比べ物にならないほど、重い、重い「貢献」だったのです。

彼女は、自分の人生が壊れそうなギリギリの瀬戸際で、それでも「地域との繋がり」を失うまいと、必死に、か細い糸を手繰り寄せようとしていた。

今回のフック(テーマ)にあった言葉を、思い出します。

「The power of acknowledging another’s contribution, no matter their background.」

(その人の背景がどうであれ、その人の貢献を認める力)

これこそが、全ての答えでした。

私は、彼女の「背景(バックグラウンド)」を知ろうともせず、目に見える「貢献(=作業量)」だけで彼女を断罪し、「偏見」という壁を作っていた。

でも、あの夜、私が「ありがとう」と言った時。

それは「焼きそばを運んでくれてありがとう」という意味ではありません。

「あなたの、そのギリギリの状況の中で、私たちと繋がろうとしてくれた、その『姿勢』と『努力』に、ありがとう」

という意味でした。

その「貢献」を、私が(半分ウソだとしても)「みんなも認めているよ」と伝えた瞬間、彼女を縛り付けていた「自分は役立たずだ」という呪いと、「地域から孤立する」という恐怖から、ほんの少しだけ、解放されたのでしょう。

「分断を乗り越える」

「紛争を解決する」

そんな壮大なテーマは、国と国の間だけの話じゃない。

それは、私たちの一番身近な、日常にこそ転がっている。

自治会やPTA、会社の同僚、ママ友、そして夫婦。

私たちは、相手の「目に見える部分」だけを見て、あまりにも簡単に「あの人はダメだ」「あの人はズルい」と決めつけてしまう。

でも、水面下には、私たちには見えない、その人だけの「事情」という名の氷山が、必ず隠れています。

その氷山に気づかず、「正しさ」や「公平さ」という名の船を、全速力でぶつけてしまうから、関係性は難破し、「分断」が生まれる。

あの日、私があのまま「正しさ」を振りかざし、田中さんを責めていたら?

「あなたは役員なのに、何もしなかったじゃないですか!」

もし、そう言っていたら、彼女は心を閉ざし、この地域で、完全に「孤立」していたかもしれません。

それは、小さな、でも確実な「紛争」の始まりです。

それを止めたのは、たった一言の「ありがとう」でした。

これは、私が日本の片隅で学んだ、最大の「人生術」です。

誰かに対して「なんで、あの人だけ」という黒い感情が湧いてきた時。

それは、自分が「相手の氷山」を見失っているサイン。

一度、立ち止まる。

そして、その人の「目に見える、たった一つの小さな貢献」を探してみる。

「いつも会議に遅れてくるけど、必ず『おはようございます』と挨拶はしてくれるな」

「仕事は遅いけど、コピー機のトナーは誰よりも早く補充してくれるな」

その、当たり前すぎて見落としてしまうような小さな「貢献」を見つけ出し、声に出して「ありがとう」と伝えてみる。

それは、相手を甘やかすこととは違います。

それは、相手の「存在」を認める、ということ。

あなたのことを見ていますよ、と伝えるメッセージです。

「感謝」は、相手の「貢献」を認めた瞬間に生まれる、双方向のエネルギーです。

あのお祭りの後。

田中さんは、結局、その翌年に遠くへ引っ越していきました。娘さんの病気の、より専門的な治療ができる病院の近くへ行く、と。

最後に、彼女は私に、小さなクッキーの詰め合わせと、一枚の手紙をくれました。

そこには、拙いけれど、丁寧な字で、こう書かれていました。

「Hitomiさんへ

あの時の、焼きそばの味、一生忘れません。

本当に、ありがとうございました。

私も、新しい場所で、誰かに『ありがとう』を渡せる人になります」

これこそが、「Gratitude’s Global Impact(感謝の世界的な影響)」の正体だ、と私は思いました。

国境を越えるとか、紛争を止めるとか、そういう大きな話じゃなくていい。

私が、あの夏の夜、田中さんに渡した小さな「ありがとう」というバトン。

そのバトンを、今度は田中さんが、引っ越した先で、また別の人に渡そうとしてくれている。

そうやって、「ありがとう」のバトンが、人から人へ、地域から地域へ、そして海を越えて、世界中にリレーされていく。

その小さなバトンの連鎖こそが、いつか、大きな「分断」の壁を溶かし、「誤解」や「偏見」を乗り越える、唯一の方法なんじゃないか。

私は、そう信じています。

海外で暮らす皆さんも、きっと日々、いろんな「壁」にぶつかっていると思います。

でも、そんな時こそ、思い出してみてください。

あなたの周りにいる人の、「見えない氷山」と、「小さな貢献」を。

日本の片隅より、皆さんの日常に、たくさんの「ありがとう」が溢れることを願って。

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