「こんにちは」の距離感:それって「丁寧」なのか「他人行儀」なのか?
(文字数:約2900文字)
やっほー! こんにちは!
海外でこのブログを読んでくれている皆さん、お元気ですか? そちらの天気はどうでしょう? 日本は、ようやく過ごしやすい季節になってきました。
さて、突然ですが、皆さんが住んでいる国で、毎日交わす「挨拶」って、どんな感じですか?
きっと、ご近所さんや友人とはハグや握手、お店のレジでも「Have a nice day!」なんて、笑顔で気軽に声を掛け合うのが「当たり前」だったりするのかな、と想像しています。テレビで見る海外ドラマなんかだと、みんな本当にフレンドリーですよね!
ひるがえって、ここ日本。
もちろん、私たちも挨拶はします。朝は「おはようございます」、昼は「こんにちは」、夜は「こんばんは」。これは世界共通、ですよね。
でも、日本の「挨拶」って、なんだか独特の「空気感」がありませんか?
特に、私が「あぁ、これぞ日本だ…」と日々感じているのが、言葉にならない「挨拶」の数々。
そう、例えば「会釈(えしゃく)」です。
今朝もね、ありましたよ。
朝のゴミ出し、コンマ数秒を争う戦場です(笑)。寝癖もそのまま、顔も洗ってないようなスッピンで、スウェット姿で「誰にも会いませんように!」って祈りながらゴミ袋を抱えてダッシュ!
こういう時に限って、会うんですよね。
お隣の、いつもピシッとした格好でワンちゃんのお散歩をしている奥様と、バッタリ。
「あ…」
時が止まります。
奥様は、私のようなだらしない格好とは対照的に、今日も完璧。
私はもう、穴があったら入りたい。今すぐ透明人間になりたい。
でも、奥様は、私をジロジロ見るでもなく、かといって無視するでもなく、ただ、すれ違いざまに**「ペコッ」**と、ほんの少しだけ、首を傾ける。
私も慌てて、ゴミ袋を抱えたまま、ぎこちなく**「ペコッ」**と返す。
会話、ゼロ。
笑顔、ほぼゼロ。
(もしかしたらマスクの下では笑ってたかもしれないけど、目元は真顔)
これ、海外の皆さんから見たら、どう映るんでしょう?
「え、何あの二人。ケンカしてるの?」
「なんか冷たくない? お隣さんなんでしょ?」
って思われるかもしれませんよね。
でもね、不思議なことに、私、この「ペコッ」に、ちっとも「冷たさ」を感じなかったんですよ。むしろ、そこにはものすごーくたくさんの情報が詰まっていた気がするんです。
奥様の「ペコッ」は、
「あら、おはよう。朝はバタバタよね」
「スウェット? 全然気にしてないわよ、私もそういう日あるし」
「お互い、今日も一日、平穏にやりましょうね」
…なんていう、無言のメッセージ。
そして、私の「ペコッ」は、
「うわー! こんな格好でスミマセン!」
「いつもワンちゃん可愛いですね(って言う余裕もないけど!)」
「いつもお世話になってます! 今日もよろしくお願いします!」
…っていう、感謝と恐縮の嵐(笑)。
言葉にしたら、たぶん3分はかかります。
でも、私たちはそれを、わずか0.5秒の「ペコッ」で、やり取り(した気になっている)んです。
これって、日本独特の「察する文化」の最たるものだなぁ、と。
あえて言葉にしない。あえて踏み込まない。
相手の状況や気持ちを「察して」、最適な距離感を保つ。
これが、日本の、特に都市部でのご近所付き合いにおける「生活の知恵」なのかもしれません。
私たちは、お互いの名前も、家族構成も、どんな仕事をしているのかも、詳しくは知りません。でも、「同じ地域に住む、顔見知りの人」として、最低限の「敵意はありませんよ」「あなたの存在を認識していますよ」というサインを、この「ペコッ」で送り合っている。
深い関係にはならないけれど、かといって完全に無関心でもない。
この絶妙な「距離感」こそが、多様な人が密集して暮らす日本社会で、無用な摩擦を避けて「和を以て貴しとなす」を実践するための、洗練された「人生術」なんじゃないか。
ゴミ袋を抱えながら、私はそんな哲学的なことを考えていました。
でもね、この「挨拶」観、私が「母」になってから、ガラッと変わる出来事があったんです。
独身時代や、夫婦二人だけの時は、正直、ご近所付き合いなんて「ペコッ」だけで十分。むしろ、それ以上踏み込まれるのはちょっと…と思っていました。
でも、子どもが生まれて。
初めての育児。社会から切り離されたような孤独感。
旦那は仕事で帰りも遅いし、話し相手は、まだ言葉も通じない我が子だけ。
そんな時、私を救ってくれたのも、また「挨拶」だったんです。
ベビーカーを押して、近所の公園に行く。
そこは、私と同じように、ちょっとお疲れ気味のママさんたちが、集う場所。
でも、みんな最初はよそよそしい。
(あ、あの人も同じくらいの月齢かな…)
(話しかけたいけど、迷惑かな…)
お互い、そう思ってるのがヒシヒシと伝わってきます。
私も例にもれず、人見知りを発動。
公園の隅っこで、子どもと二人、砂遊び。
そんな時、一人のママさんが、帰りがけに私に向かって、
「こんにちは。いつもこの時間ですか?」
って、声をかけてくれたんです。
「あ、はい! こんにちは! 大体、お昼寝の前に…」
しどろもどろに答える私。
「そっか。うちはもうすぐお昼寝の時間だから帰るけど、よかったら、また」
たったそれだけ。
でも、その「こんにちは」が、どれだけ嬉しかったことか!
「私、ここにいてもいいんだ」「私、一人じゃないんだ」
まるで、分厚い氷が溶けていくような感覚でした。
それから、私は勇気を出して、自分から「こんにちは」と言うようになりました。
公園で会うママさんたちに。
保育園の送り迎えですれ違うパパさんたちに。
スーパーで、子どもがジッと見つめている先のおばあちゃんに。
そうするとね、世界が変わったんです。
「こんにちは」と返してくれる。
「今日は暑いですね」と、天気の会話が始まる。
「うちの子も、そのおもちゃ好きだったわよ」と、先輩ママさんがアドバイスをくれる。
あんなに恐れていた「他人の領域」に一歩踏み出す「こんにちは」が、私を「孤立」から救い出し、「社会」ともう一度つなぎ直してくれたんです。
ゴミ出しの時の「ペコッ」が、**「摩擦を避けるため」の消極的な挨拶だとしたら。
育児中に交わした「こんにちは」は、「つながりを求めるため」**の積極的な挨拶でした。
同じ「挨拶」なのに、状況や自分の立場によって、その意味や重さが全然違う。
日本人は、これを無意識に使い分けている。
一見、丁寧で穏やかに見えるけど、実はすごく複雑で、分かりにくい。
「ペコッ」と会釈で「察して」ほしい時もあれば、「こんにちは」と声をかけて、孤独から救い出してほしい時もある。
なんとも、面倒くさい(笑)!
でも、この「面倒くささ」の裏に、日本人が大切にしてきた「相手を思いやる心」や「調和を保つ知恵」が隠されている気がして、私はすごく興味があるんです。
ただ、最近はコロナ禍でのマスク生活もあって、お互いの表情が読み取れず、この「察する」文化も、ちょっと機能不全を起こしている気もします。
「ペコッ」も「こんにちは」も、目元だけで伝えなきゃいけないから、難易度高すぎですよね(笑)。
「挨拶」って、本当はもっとシンプルに、「あなたと繋がりたい」「あなたの存在を認めているよ」っていう、温かいサインのはず。
このブログでは、そんな日本の「挨拶」という日常のワンシーンを切り口に、私たちが生きやすくなるための「人生観」や「人生術」みたいなものを、私自身の失敗談やドタバタな日常も交えながら、探っていけたらなと思っています。
さて、次回は、この「分かりにくい日本の挨拶」が引き起こした、私が(勝手に)大恥をかいた「ある事件」について、お話ししようと思います。
お楽しみに!
その「ペコッ」は拒絶じゃない? スーパーで固まった「公園デビュー」の洗礼
(文字数:約3000文字)
いやー、こんにちは!
前回の「起」では、私が育児中の孤独から「こんにちは!」っていう積極的な挨拶で救われた、って話をしましたよね。
「ペコッ」っていう「察して」文化も大事だけど、やっぱり言葉にして、笑顔で「こんにちは!」って言うの、最高じゃん!
私はもう、すっかり「積極的挨拶」の魅力に取り憑かれていました。
子どもを連れて公園に行けば、「こんにちは!」
児童館に行けば、「こんにちは!」
もうね、「こんにちはおばさん」ですよ(笑)。
そうやって勇気を出しているうちに、公園でいつも会う、何人かのママさんたちと「顔見知り」から「おしゃべりする仲」になれたんです。
「今日は寒いですねー」「あ、そのお菓子、うちの子も好きです!」「夜、寝てくれます?」「寝ません!!(涙)」
みたいな、他愛もない、でも、あの頃の私にとっては命綱のような「会話」ができる仲間。
その中でも、特にAさんとは、子どもの月齢も近くて、よく話す仲になっていました。
公園で会えば、子どもの悩みから、近所のスーパーの特売情報、旦d…いや、まあ、色々な話をして(笑)。
私はすっかり、Aさんとは「友達」だと思っていたんです。
そう、「あの日」までは。
事件は、近所のスーパーで起こりました。
その日、私は一人でした。子どもは旦那に預けて、束の間の「お一人様」タイム!
(といっても、買い出しですけどね。トイレットペーパーとか、牛乳とか、生活感丸出しです)
ルンルン気分でカートを押しながら、野菜売り場に差し掛かった時。
見覚えのある後ろ姿を見つけたんですよ。
「あ、Aさんだ!」
Aさんは、一人じゃありませんでした。
たぶん、Aさんのお姑さんかな? と思われるご婦人と、もう一人、私が見たこともない、ピシッとした雰囲気のママさん。なんだか、Aさんがいつもより「よそゆき」の顔をしている気がしました。
でも、私は「積極的挨拶」モード。
孤独から救ってくれた「こんにちは」の魔法を信じていましたから。
それに、大好きなAさんです。
私は、カートをガラガラと押しながら、満面の笑みで、いつも公園で話すのと同じトーンで、なんならちょっと大きめの声で、言ったんです。
「あ! Aさーん! こんにちはー! 今日は一緒じゃないんですね!」
その瞬間。
時が、止まりました。
いや、正確には、Aさんの動きが一瞬、カクン、と固まった。
そして、私の方を振り向いたAさん。
でも、その顔は、私が知っている公園のAさんじゃなかったんです。
笑顔、ゼロ。
「あ…」と小さく口を開けたまま、私を「見知らぬ人」を見るような目で見つめ。
そして、次の瞬間。
「ペコッ」
そう。あの、私がゴミ出しの時に喰らったやつより、さらに角度の浅い、0.1秒で終わるかのような、高速「ペコッ」を、私にしたんです。
そして、そのまま、スッ…と、お姑さんたちとの会話に戻ってしまいました。
え?
私は、差し出した手(と声)を、どうしていいか分からず、宙に浮かせたまま、その場に立ち尽くしました。
(え?)
(いま、私、無視された?)
(いや、ペコッはされた)
(でも、あのペコッ、知ってる。「敵意はありませんが、これ以上近づかないでください」のペコッだ)
(なんで!? 私、Aさんと仲良かったよね!?)
(あ、もしかして、あのピシッとしたママさん、Aさんの「ボスママ」!?)
(私が馴れ馴れしく話しかけたから、Aさんの立場が悪くなった!?)
(うわーーーーー! 私、とんでもないことしたかもーーーー!)
もう、頭の中、大パニック。
野菜が安いとか、トイレットペーパーがどうとか、全部吹っ飛びました。
顔から火が出るって、このこと。
周りの買い物客全員が、私を見て「あの人、馴れ馴れしく話しかけて無視されてる、イタい人…」って笑っているような気さえしました。(※被害妄想)
私は、そそくさとカートの向きを変え、Aさんたちがいる野菜売り場から、一番遠い、冷凍食品コーナーへと逃げました。
もう、その日はショックで。
家に帰ってからも、旦那に「なんかあった?」って聞かれるくらい、落ち込んで。
「私、もう公園デビュー失敗だ…」「日本社会、怖い…」「もうAさんの顔、見られない…」
って、本気で泣きそうでした。
これ、海外の皆さんだったら、どう思います?
「Aさん、ひどくない!?」
「なんで挨拶返してくれないの?」
「友達だと思ってたのに、裏切られた!」
って、思いますよね? 私も、その夜はそう思ってました。
でも。
数日後。
恐る恐る、公園に行ったんです。
(Aさんがいたらどうしよう…気まずい…)
ビクビクしながら砂場に向かうと…
Aさんが、いたんです。
Aさんは、私を見つけると、
「あ! こんにちはー! この前の週末、旦那さん見ててくれたんですね、いいなー! うちは全然で!」
……え?
そう。
Aさんは、いつものAさんだったんです。
あのスーパーでの「高速ペコッ」など、まるでなかったかのように、満面の笑みで、いつもの「積極的」な挨拶をしてくれたんです。
キョトンとする私。
「あ、あ、こんにちは…」
その時、私は、ようやく「日本社会の仕組み」を、肌で理解したんです。
Aさんは、私を「拒絶」したんじゃなかった。
あのスーパーでの「ペコッ」は、私への「嫌い」サインじゃ、全くなかったんです。
あれは、Aさんなりの「人生術」であり、「生活の知恵」。
あの時のAさんは、「お姑さん」と「初めて会う(かもしれない)ピシッとしたママさん」という、非常に「気を遣う」人間関係の中にいました。
あの場所は、公園のような「ママ同士がフラットに愚痴を言い合える」場所ではなく、
「嫁」として、あるいは「(そのコミュニティの)一員」として、**完璧な「建前(タテマエ)」**を求められる「戦場」だったんです。
そこに、私という「公園のノリ(=ホンネ)」を丸出しにした人間が、突撃しちゃった。
もしあの時、Aさんが私に、いつもの公園のノリで
「あー! こんにちは! 旦那に預けてきたの、ズルいー!」
なんて返事をしたら。
お姑さんは(え? 旦那に預けてズルいって、どういうこと?)
ピシッとしたママさんは(あら、この方、随分と馴れ馴れしいお友達がいらっしゃるのね)
と、Aさんの「評価」が、下がってしまったかもしれない。
Aさんは、私を「無視」したのではなく、
「ごめん! 今、私『嫁』モードなの! 『公園仲間』モードじゃないの! 察して!」
という、SOSを、あの0.1秒の「ペコッ」に込めていたんです。
そして、Aさんの偉大さは、それを公園に引きずらないこと。
スーパーはスーパー(=建前)。
公園は公園(=ホンネ)。
この「切り替え」こそが、日本社会で「和」を保ちながら、しなやかに生きていくための、最強の「人生術」なんだと。
私は、自分の「積極的挨拶」が、いかにTPOをわきまえていなかったか、深く反省しました。
「こんにちは」という言葉自体は間違っていない。
でも、その「言い方」「トーン」「距離感」、そして何より「空気を読む」こと。
日本の「挨拶」は、ただの「Hello」じゃない。
その場のTPOに合わせて、自分の「モード(役割)」を瞬時に切り替え、相手に「私は今、どのモードの人間ですよ」と伝える、高度なコミュニケーション・ツールだったんです。
この「スーパーでの洗礼」は、私にとって、日本社会の「建前と本音」という、めちゃくちゃ重要な人生観を学ぶ、とてつもなく大きな「気づき」となりました。
「空気を読む」の、その先は? 我が子に教わった「最強の挨拶」
(文字数:約2900文字)
いやー、こんにちは!
「スーパーでの洗礼」(詳しくは【承】を読んでね!笑)を受けて以来、私は「TPO」と「空気」を読むことに、全神経を集中させていました。
この人は今、「ペコッ」モードを求めているな。
あ、このママ友グループは、今「当たり障りのない天気の話」という「建前」で回っているな。
よし、私も「公園モード」から「当たり障りないモード」に切り替え!
…なんて。
我ながら、面倒くさい人間に進化したな、と思います(笑)。
でも、それが「和」を乱さず、穏便に生きていくための「知恵」なんだ、と信じていました。
Aさんとの一件で学んだ、「ホンネと建前を使い分ける」という高度な人生術。
これで、私も立派な(?)日本社会の一員だって。
そう、あの親子が、私たちの「聖域」である、あの公園に、現れるまでは。
その日も、私は娘といつもの公園で砂遊びをしていました。
周りには、いつもの「公園ママ」の面々。
「昨日の夜、2時間おきに起こされて…」
「うちなんか、旦那が飲み会でさ…」
なんて、「ホンネ」全開のトークが繰り広げられる、平和な午後。
そこに、ふらりと入ってきた、一組の親子。
明らかに、日本人ではなかった。
金色の髪をポニーテールにしたママと、くるくるの髪が可愛い、同じくらいの年齢の男の子。
その瞬間。
あれだけ賑やかだった公園の「空気」が、ピタッ…と凍りついたんです。
さっきまで旦那の愚痴で盛り上がっていたママたちの声が、スッと小さくなる。
みんな、チラッ、と新しい親子を見て、
そして、サッ…と目をそらし、
何事もなかったかのように、自分の子どもとの砂遊びに「集中」し始める。
…出た。
これぞ、日本の「察して」文化の、最強奥義「見て見ぬフリ」。
(いや、悪意があるわけじゃないのは知ってるんです。でも、あれはもう「壁」ですよね)
私も、固まっていました。
だって、わからなかったんです。
「この場合の『正解の挨拶』って、何!?」
「こんにちは」?
…でも、日本語、通じるの?
いや、それ以前に、彼女は今、話しかけてほしいムードなの?
異国の地で、一人で子育てして、きっと不安だよね。
でも、もし「そっとしておいてほしい」モードだったら?
私があのスーパーでAさんにしたみたいに、「TPO」を間違えた「馴れ馴れしい人」になっちゃったら?
「ペコッ」?
…いやいや、通じないでしょ!
いきなりアジア人に無言で頭下げられたら、怖いでしょ!
(むしろ、それは「敵意」だと思われるかも…)
「Hello」?
…うっ…。(冷や汗)
私の、中学1年生レベルの「ハロー、ア、アイム、ア、ペン」みたいな英語で?
何を話せばいいの?
「How are you?」って聞いたら、「I’m fine, thank you. And you?」の先、どうすんの!?
もう、頭の中、ぐるぐるぐるぐる。
「TPO」「空気」「建前」「ホンネ」「英語力」…
私がこの数年で学んだ「日本社会の人生術」のすべてが、目の前の「文化の壁」の前で、ガラガラと音を立てて崩れていく。
私が「人生術」だと思っていたものは、結局、「日本人同士」という、「同じルール(空気を読む)の上で戦う」という暗黙の了解があって初めて成り立つ、めちゃくちゃ「ローカル」な知恵でしかなかった。
私がスーパーでAさんに「ペコッ」されて学んだ「使い分け」は、この「ルール外」の人が現れた瞬間、何の役にも立たないどころか、むしろ「排他」の道具になってしまう。
だって、そうこうしているうちに、公園にいた日本人ママさんたちは、誰一人、その新しいママさんに声をかけないまま。
その親子は、公園の、一番隅っこで、二人きりで、ポツンと砂遊びを始めたんです。
あぁ、ダメだ。
これじゃ、私が育児中に「孤独」を感じていた時に、一番やられて「悲しかった」ことと、同じじゃないか。
私、何やってるんだろ。
「挨拶に救われた」とかブログで書こうとしてるくせに、今、目の前で「挨拶」を求めている(かもしれない)人に、何もできないなんて。
「TPO」とか「建前」とか、そういう「大人の事情」が、ぐるぐる頭を回って、一歩も動けない。
…その時、でした。
「あ!」
私の隣で砂遊びをしていた、当時2歳の娘。
言葉もまだ、たどたどしい娘が、
いきなり立ち上がって、
テクテクテク…
と、その金髪の男の子のところへ、まっすぐ歩いて行ったんです。
え、ちょ、まっ…!
私が声をかけるより早く。
娘は、男の子の目の前に、仁王立ち。
そして。
「…どーじょ!」
自分が一番お気に入りで、さっきまで大事そうに握りしめていた、アンパンマンの砂遊び用の「型」を、その男の子に、グイッ、と差し出したんです。
男の子は、キョトン。
隅っこでそれを見ていた、金髪のママさんも、キョトン。
そして、私の娘は、ニコォーッ!と笑って、もう一度、
「どーじょ!!」
男の子は、おそるおそる、それを受け取りました。
アンパンマンの型。
その瞬間。
金髪のママさんが、
「Oh, sweetie!」
って、顔をくしゃくしゃにして笑って、私の方を見たんです。
そして、言いました。
たぶん、日本語はわからなかったんでしょうね。
でも、世界中の誰もが、100%、理解できる「挨拶」で。
満面の「笑顔」。
その笑顔は、ゴミ出しの時の「ペコッ」でもなければ、
スーパーでのAさんの「建前ペコッ」でもなければ、
公園ママたちの「ホンネの苦笑い」でもない。
ただただ、「ありがとう」「嬉しい」「あなたと、繋がりたい」
っていう、
むき出しの「人間」の、温かい感情。
私は、もう、TPOとか、空気とか、英語力とか、全部どうでもよくなって。
ただ、そのママさんに向かって、
「こんにちはー!」
って、満面の笑みで、手を振っていました。
あぁ、そうか。
「人生術」とか「知恵」とか、難しく考えてたけど。
「ペコッ」も「こんにちは」も、「建前」も「ホンネ」も、
全部、この「繋がりたい」っていう気持ちを伝えるための、「道具」でしかなかったんだ。
TPOを読みすぎて、「道具」の使い方にばかり気を取られて、
一番大事な「目的」を、私、見失ってた。
日本社会の「ルール」を覚えることは、もちろん大事。
それで救われる「和」もある。
でも、その「ルール」が、目の前の「人」と繋がることを「邪魔」し始めたら。
そしたら、もう、そんなルール、うちの2歳の娘みたいに、
「えいやっ!」
って、飛び越えちゃって、いいんじゃないか。
アンパンマンの「どーじょ!」
これこそが、国境も、文化も、TPOも全部超える、
私が娘から教わった、「最強の挨拶」でした。
「ペコッ」も「どーじょ!」も、あなたと「繋がりたい」というサイン
(文字数:約2800文字)
いやー、こんにちは!
長いこと、私の「挨拶」をめぐるドタバタな冒険にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
ゴミ出しでの、無言の「ペコッ」。
孤独な育児中に救われた、勇気ある「こんにちは」。
スーパーで大恥をかきながら学んだ、「TPO」と「建前」という名の「高速ペコッ」。
そして、すべてのルールを飛び越えた、娘の「どーじょ!」。
こうやって振り返ると、日本の「挨拶」って、なんて面倒くさくて、なんて複雑なんでしょうね(笑)。
「使い分け、難易度高すぎ!」って、海外の皆さんからツッコミが入るのが聞こえてきそうです。
私自身、娘が「どーじょ!」で国境の壁を(勝手に)ぶち壊してくれるまでは、
「日本の『和』を守るためには、空気を読み、TPOをわきまえ、正しく『ペコッ』と『こんにちは』を使い分けることこそが、大人の『人生術』だ!」
って、本気で思い込んでいました。
でも、あの【転】での一件以来、私は、もう一度、あの「ペコッ」について考え直してみたんです。
あの朝、ゴミ出しで会った、ピシッとした奥様の「ペコッ」。
私はあれを、当初「摩擦を避けるため」の「消極的な」挨拶だと思っていました。
「あなたに興味はありません」っていう、冷たい壁だと。
でも、今ならわかる。
あれは、「冷たい壁」なんかじゃなかった。
あれは、奥様からの「あなたと、穏やかな関係を続けたいです」という、
静かだけど、確実な「繋がり」のサインだったんじゃないか、と。
「スウェット姿? 気にしてないわよ」
「お互い、同じマンション(地域)の住人として、敵意なく、平和にやっていきましょうね」
「だから、あえて深入りはしないでおくわね」
そう。
「深入りしない」という「距離感の調整」こそが、奥様なりの「最大の思いやり」であり、「あなたとの関係を良好に保つ」ための、洗練された「人生術」だった。
それは、まるで「盆栽」みたいだ、と思うんです。
西洋のガーデニングが、花を咲かせて「足し算」で美しさを表現するのに対し、
日本の盆栽は、余計な枝を「引き算」していくことで、その木の持つ本来の美しさや「わびさび」を表現する。
あの「ペコッ」は、まさに「引き算」の挨拶。
言葉や笑顔を「足す」のではなく、「あえて引く」ことで、お互いのテリトリーを守り、平穏という「和」を保つ。
あれは、日本社会が何百年もかけて培ってきた、「持続可能なご近所付き合い術」だったんです。
じゃあ、あのスーパーでのAさんの「高速ペコッ」はどうでしょう?
あれも、私を「拒絶」したんじゃなかった。
「ごめん! 今、『嫁』モードなの!」
「あなたとの『公園』での関係は、私にとってすごく大事!」
「だから、この『嫁』モードの世界が、その大事な関係を壊さないように、今は『ペコッ』でやり過ごさせて!」
ほら。
やっぱり、あれも「私との繋がりを、守りたかった」からこその、苦肉の策。
その場のTPOに合わせて「距離感」を必死に調整する、Aさんなりの「人生術」だったんです。
そう、結局。
ゴミ出しの「ペコッ」も。
公園の「こんにちは」も。
スーパーの「建前ペコッ」も。
そして、娘の「どーじょ!」も。
形や、使う道具(言葉か、お辞儀か、おもちゃか)が違うだけで、
その根っこにある「核」の部分は、全部、同じだったんです。
それは、
「私は、あなたと、繋がりたい」
「私は、あなたと、より良い関係を築きたい」
という、人間が本能的に持っている、温かい「願い」。
これぞ、国や文化が違っても、私たち全員が持っている「ユニバーサル・ハロー(世界共通の挨拶)」の正体なんじゃないかな、と思います。
日本社会は、その「繋がりたい」という願いを、
「和」を乱さないように、
「相手に恥をかかせないように」と、
めちゃくちゃ繊細に、時に(面倒なほど)複雑に、調整しようとする文化。
だから、もし皆さんが日本で暮らしていて、
「ペコッ」とされて、「え、冷たい…」って、心がキュッとなることがあったら。
「あ、あの人、今『盆栽』モードなんだな」
「私との関係を『引き算』で守ろうとしてくれてる、不器用な優しさなのかも」
って、思ってもらえたら…ちょっと、気が楽になりませんか?(笑)
そして、もし、その「盆栽」的距離感が、もどかしくて、
「もっと繋がりたいのに!」って思ったら。
その時は、もう、ルールなんて関係ない。
TPOとか、空気とか、建前とか、
そういう「大人の事情」は、いったん、ポイッと横に置いて。
私たちの娘や息子たちが、いつもそうしているように。
自分の一番大事にしている「アンパンマンの型(=あなたの笑顔や優しさ)」を、
ただ、まっすぐに、
「どーじょ!」
って、差し出してみませんか?
きっと、言葉が通じなくても、
最高の「笑顔」という「こんにちは」が、返ってくるはずですから。

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